リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

言いたいことと言わないこと

2008-06-15 21:25:08 | その他
実は、私には子供がいまして (驚いたでしょう?? そうですよねえ!! って、、なにを言いたいんだか)

子供がこの春仕事で、当川崎市から600キロ遠方に派遣されたので、母親がああだこうだと電話で子供に言いたがって。
ま、母親なんてそんなもんですがな。
で、ですね、仮に電話を私に代わったら、私もおんなじこというしかないな、と思うんですよね。
私、正直ですし。だから代わんないけど。
で、とりあえず言わない。
でも、言わないからといって、そう思ってないわけじゃない。

世の中そういうものですよね。
言うのは言うで、言葉に出すこと自体にそれなりの重みがある。
それが(男同士の)争闘の世界ってもんさあ、、、もんさあ、か、知りませんが。

同じく、殴りたいことと殴らないこと。
これも同じことです。殴らないかどうかは、そいつがどれだけ将来を探っているか、の問題にすぎない。
男は野蛮というよりも、人間社会はそういうものだから、権力の一端を握った女はそこをわきまえてほしいですね。

口に出すかどうか。
そして口に出して、勧奨(ないし脅迫)するかどうか。ここが大きい。
別に社会科学的には大きくなくて、社会科学の因果連関に関連する場面では、誰かが必ず口に出すので改めて考慮する必要はないんですが。
世間一般では、ままあって。

なんでこんなことをゆうかというと、昨日はさだまさしがミュージックフェアに出まして、なんでもさだまさしの子供が出るというので、なんだ子供なんかいるのか、俗物だな、と思いながらテレビを見てましたところ (私もそれ以上俗物で)、松浦亜弥なんてやつが
「さださんておじいさんみたいだから、隣りにいてすごく安心して」
って、ばかやらう。 だから、B型はなぜB型なの。

もちろん、さだという人は私なんかより何倍も年上ですが、(何倍じゃねえ? そりゃ数学というのは言い訳のマジック。それにしても口の聞き方が。)
さだ様、ご愁傷様です。

  さて、今日の本題は。
  人間に備わっている、言いたい言いたいどうしようもなく言いたい、てなところは、なんらかの社会制度で抑えるしかない。
  正確に言うと、『「それはまずいよ」なんていっても言いたいやつは言うから、言われても問題ないような社会制度を、その発言の手前で確立しないといけない』、というところですね。
  いくら人間の自由とはいえ、残念ながら、それは殴りたい、という刑法の次元と同じものだ、ということです。で、ついでに、それでもまかなえない部分は、規範として「いっちゃだめだよ」と教えるのじゃ仕方がない。  
  
  ときどきこういうアナーキストらしくないことをいうので驚かれますが、私は暇つぶしにアナーキストになっているわけではなくて、最善の世の中を探っているだけなんです。


  ふんふん、今回はずいぶん軽い話で。軽いついでで追加ですが、ここんとこずうっと、エロ・コメントが入らないんですよねえ。(さえ入らないって言うか)。そんなの機械作業かと思ってましたが、案外手作業で見て回ってんのかしら。基本的に嫌いな奴らですが、唯一コメントをくれる人たちなので、せっかく努力して回ってんだったら、なんか、手助けをしてやりたい気もしますね。
  って、無駄もいいとこでしょうけど。


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