リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会主義レアリズム

2009-09-13 22:12:59 | 断片
 とゆう、前述の怒りはおきまして、
 さて、社会主義レアリズム。

 わたくし儀、社会主義リアリズムというやつは理解の範囲を越えてまして、
 なんでこんな下手くそな絵をわざわざ。
 みたいな。
 その点、社会主義リアリズム写真というのはシンプルでよいですね。そのため、そこから出た人々も立派に生計を立てております。

 さて、今夜は日曜美術館、山下菊二。
 戦争前のそこそこうまい彼の技術が一転、あの下手くそな社会主義レアリズム。
 さてはて。
 
 テレビを聞いていれば、戦争中の自分たちの中国人虐殺から、日本地主共の小作人虐待に怒りを覚えて社会主義リアリズムに走ったという。
 
 そういわれちゃあ、なんとか出口を探したいものです。
 
 リアリズムとは、写実主義ですから、写真ならそのまま。ピントさえ合っていれば、とりあえず、その傘下に加わることが出来ます。
 
 ところで絵画です。
 とくに油絵とゆうやつはそうはいかない。
 油絵が写実であるためには、コローやイギリスならラファエル前派、コンスタブルといった思想が必要です(この人たちが写実派と呼ばれないのは知っておりますよ)。人間? 関係ねえや、って感じですね。
 油絵とは手でこねる絵の具です。人間にとっては手にもてる武器です。武器があればあるだけ直裁的になるのは当然。
 私にも覚えがあります。
 じゃあ、どうするねん、ということです。
 つまり、「人が首吊りになっているさまを表現するのに、どう表現するんだ」
 という問いです。
 
 【情報として】
 その答のその1が、どの国のものであれ、「社会主義レアリズム」です。そのまんま油絵の具をキャンバスに叩きつけて、塗り絵のように首吊り死人の様を筆記する。この時点で模写を通り越さざるを得ない。それが情報としての伝達です。
 虐殺とはこうなんだ、それにこうなんだ、その上こうなんだよ。話したいことは山のようにある。しかし、持ち物は絵の具だけ。
 
 しかし、それは残念ながら残らない。正確には「間歇的にしか」残らない。
 継続的に残るものが立体派です、っていうか、要するにデザインです。
 シンプルに言えば、ピカソも岡本も、不快なものを描かなかった、ということです。
 
 じゃあ社会主義レアリズムは不快なのかって。そんなことは本来ねえよ。
 社会主義リアリズム写真は決して不快ではない。見ていて心が痛いだけ。
 しかし、油絵は見ても心が痛くない。油絵というのは画家の心を通さなければ痛みは通じない。
 
 【人間として】
 なぜ社会主義レアリズムがバカにされるのか。
 そこには人間がないからです。
 死んでいった人間がない。あるのは描いた奴の勝手な思いだけ。
 死ぬには、それだけの人生がいる。
 それを書くのに、死んだ人間にだけ3ヶ月向き合っていれば、ラファエル前派になるでしょ。「死んだ人間」とはそういうものですし、それを見る人間もそういうものです。
 だから、絵画上の社会主義レアリズムは否定されてしまう。しょうがないしょ。だれだって、かけがえのない自分の人生が描かれてなきゃ、政治主義だって言いますわな。見るほうだって同じ、なんじゃこれ、ですよ。
 
   でもね。
   私が画家だったら、そして誰かがともかくも給料をくれていたら、それにもかかわらず、有無を言わせず描き続けたと思いますけどね。
   そのときの描き方は、怒り。浜田知明みたいに、って、この名前忘れてyahooで15分も費やしてしまった。もういい。忙しいのでおしまい。「間歇的」とはそういうことですから。


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