こんにちは。東京地方、昨日は強い南風で桜の花びらが蝶のように舞ってました。風の音が怖いのが難。まだ花が強いので、今日も十分残っています。今年は小学校の卒業式と中学校の入学式は、両方とも桜で飾られたことに気づきました。
さて、ひさびさにためになるブログ。ちょっと余裕を戻してきました。
隈のお料理ポイント。「ごはんに合う」とは何か。
御想像のとおり、旨みと塩。しかし、これがなかなか具体的には理解されていない、だろう、と。
たとえば、カレー。みなさまは本格インドカレーレシピではライスと食べないはずです。いや、俺は食べる、って、これは理屈ね。インドカレーレシピには塩など入っていないはず。しかし、ナンやチャパティと違い水っぽく容積の大きいライスは、塩なしでは到底食えません。ご家庭でスパイスから作る本格インドカレーが不味い理由です。いやうちのは美味い、って、だから理屈。ココイチのは入れすぎですが、カレーには塩。高血圧用の日本カレーなど存在してはいけない。それでも食べるならご飯の代わりにスーパー販売の塩入りナンで。なのでこわいのがカレーうどん。これ、塩分最悪。
同様に、注意したいのが麻婆豆腐。こちらは本物の豆板醤やら甜麺醤やらを入れて作ればよろしいのですが、瓶詰めの豆板醤エキスにしろ味噌を混ぜればよいだろう、と思ったりすると間違い。中国味噌は塩分が白味噌の2倍以上あるから米にあうのであって、白味噌と豆板醤エキスでは到底ご飯用には足りません。いくら唐辛子や花椒を追加しようがダメ。
塩の威力は大きいのであります。
というわけで、今日は終了。
本日は明日で、桜花は十分あるけど、もう世間は花見というより新緑の候。以下は、柄の悪いお客様用。
さて、興味は無いのですが、いちおう、元号が令和だって? みんなほめそやして、平和だねえ。「どうせお前なんか使わないだろうからどうでもいいだろう」というとそうでもない。税金と病院の書類では使うんだね、これが。でも使いそうな市役所系は使わずにすみます。進歩だね。まあどうでもいいのですが、みんなどうやって年の換算をするんだろうねえ、スマホなしで。
で、生意気じゃございませんか、「「令」の字形、下の部分「マ」でもOK」(毎日)だとか。平和部族が。なにがOKだ、余計なお世話だ。日本人が日本語を使うのに許可がいるのか。(ま、ここは「欧米人」でもいいが)
まあせいぜい安倍配下は「和シム」がいい。何がビューティフルだ。令はオーセティックだよ。「お墨付きの」というのが正しい訳だ、権力によるお墨付きの和。漢学者はよく教えてやってくれたまえ。
ああ、悪口言い飽きた。
それで本日が明日なのは、いろいろと仕事ができたのはそれとして、下記の文でテーマ設定に揺れたせいです。
そもそもはしばらくぶりにひっくり返した副島種典の「社会主義経済学研究」。副島氏は今の柄の悪い人は知らないかもしれないが、まあ良心的な社会主義経済学者。その人が「広義の経済学」論でエンゲルスを批判している。まあこれまでは関係ないのでスルーした箇所だけれども、現段階で見ると「それ違うじゃないか」と思って。思ってエンゲルスの原文に戻ると、「あれこっちも違うじゃないか」と。で、皆様のためには物事を整理したほうがよろしいと思ったわけです。
A) 世の中には「もっとも広い意味では」という経済学規定がありまして、特に旧来のマルクス主義者の間で昔から論議になっております。エンゲルスが反デューリング論で展開した”昔から今までの社会の発展段階を研究する学問が経済学”という論で、これをマルクス主義者は未来まで引っ張ろうとするのです。この結果彼らの間では、「経済社会構成体」とかいう、ただの現象用語が一人歩きする。現象用語なのだが響きがカッコよすぎるから素人はなにか深遠な意味がある学術用語だと思ってしまう。で、素人はそのまま政治活動家になってしまうからいつまでもその誤解が続く、という事態が生じました。これは、「ウクラード」がただの制度組織という現象用語なのに、歴史家はなにか意義のある本質規定だと思ってしまうのと一緒です。といって、両者とも何の規定性も持っていないものなので、既に死語ではありますが。
ともかく、この広義の経済学なるものの存在が、ただの過渡期であるはずのソ連邦経済体制が「社会主義体制」として研究者からお目こぼしとなる事情の、重要な基礎となるわけです。
B) これに対して狭義の経済学が「資本論」で、宇野学派の副島氏は資本論を原理とし、社会主義経済は別に主体的に切り開くものだ、というわけです。エンゲルスは狭義と広義を一緒くたにしている、と宇野経済学らしく不満を述べております。実際、ソ連邦経済体制を非難できたのは宇野派(とその影響下の新左翼)くらいなのだからしょうがない。
C) しかし、本来、諸規定は過去の経済事象からも汲まなければ資本主義の歴史的規定が一般的真理になってしまうわけで、そんな馬鹿な話はありません。この点エンゲルスは原理的には正しいのです。
D) のではありますが、しかし、本来は、デューリング氏が原理的には正しいから話が込み入ってくる。氏いわく「奴隷制や賃金隷属制のような制度は、ふたごの兄弟として暴力による所有をともなうものであって」と正しく指摘しているのに、資本論に誤魔化されたエンゲルスは、「暴力は搾取を保護するだけのもので、その原因ではない」「(搾取の土台である資本と賃労働との関係は)純経済的な仕方で、まったく暴力によらずにできあがったものだ」などとのたまう。困ったものだ。もっともそのくらい入れ込んでないと資本論第3巻などできようも無いのだから、禍福はあざなえる縄の如し。
とまあ、ここまでが整理。結局4つともみんな悪い。って、隈がE)になってるだけではありますが。しかしここで「 E)」を叙述すると、到底終わらないし、ここでは必要がない。
これらの4つの議論というのは、まだ見ぬ先の未来の体制をどう規定するか、ということに集約されるのです。デューリング氏は「暴力さえあれば可能だ」と言うし、エンゲルスは「いやこれは経済的必然だ」と言う。スターリニストは「現在出現している現実の社会主義国家を尊重せよ」と言うし、宇野派は「いや、それはこれから主体的に苦闘して作り出していくものだ」と言う。まあ、困ったものだ。現実はどれも自分のいいようには動かないし、経済的必然として動くわけでもない。どう動くかは隈は既に三部作で述べたのでそっちを見ていただくとして、ここでは過渡期体制と見まがうものがどうしてできたか、その最後の瞬間について述べておこうかと。それでこれらの4つの議論は空しく散るので。まず何もかもなくさないと、未練がましく言い続ける人たちもいるでしょう。
というわけで本日の題、『「国家所有」という巨大な虚偽意識』。
もちろん国家所有は法制度だから、上部構造とはいえ虚偽意識ではありません。が、この概念を使用し言語伝達する人々にとって、この概念によって頭脳構成されるものは「国家所有」という国家の派生観念に他なりません。
それでいいじゃないかって? だめです。国家所有というイデオロギーが、現実での発現以前にその当事者たちに伝えたのは、権力者たち、すなわち国家と地域の武力権力者と、国家権力者によって私有権を付与された資本家と、農業的共同体権力者という、それぞれの私的所有者の権力と権限を自己の物とする、という巨大な私的所有の変換作業だ、という認識です。もちろんそれは、武力性がゆらぎ、国家範囲の一部とはいえ権力者の統治地域における圧倒的人民が統一しうる場面においては、可能です。
この連続性により、「革命」という社会の転覆が、スムーズに歴史上実現したのです。
すなわち、革命に参加した当事者は、自己のやることと、将来に現れる制度が、明確に自己認知されていたのです。革命や新世界の青写真などは要らない。これまでの権力者の姿に、自己を投影すればよい。これが未来の姿へのなんの議論も無く、その手順だけ意思統一すればよかったボルシェビキの勝利の根幹なのです。これはもちろん、経済過程だけの問題ではない。といって政治家の意図の問題でもない。さらにこれだけの結果で社会主義体制となるはずもない。そして残念すぎることに、政策当事者の苦闘的努力でどうなるものでもない。圧倒的人民の質の問題なのです。
(P.S.その後、富岡裕が「社会主義経済の原理」(1977) の中で同様に、国家所有という虚偽意識と批判しているのを発見。ちょっと驚きました。そういう時代には、トロキズム関連の教養というのがあったのだろうか、、、)
さて、ひさびさにためになるブログ。ちょっと余裕を戻してきました。
隈のお料理ポイント。「ごはんに合う」とは何か。
御想像のとおり、旨みと塩。しかし、これがなかなか具体的には理解されていない、だろう、と。
たとえば、カレー。みなさまは本格インドカレーレシピではライスと食べないはずです。いや、俺は食べる、って、これは理屈ね。インドカレーレシピには塩など入っていないはず。しかし、ナンやチャパティと違い水っぽく容積の大きいライスは、塩なしでは到底食えません。ご家庭でスパイスから作る本格インドカレーが不味い理由です。いやうちのは美味い、って、だから理屈。ココイチのは入れすぎですが、カレーには塩。高血圧用の日本カレーなど存在してはいけない。それでも食べるならご飯の代わりにスーパー販売の塩入りナンで。なのでこわいのがカレーうどん。これ、塩分最悪。
同様に、注意したいのが麻婆豆腐。こちらは本物の豆板醤やら甜麺醤やらを入れて作ればよろしいのですが、瓶詰めの豆板醤エキスにしろ味噌を混ぜればよいだろう、と思ったりすると間違い。中国味噌は塩分が白味噌の2倍以上あるから米にあうのであって、白味噌と豆板醤エキスでは到底ご飯用には足りません。いくら唐辛子や花椒を追加しようがダメ。
塩の威力は大きいのであります。
というわけで、今日は終了。
本日は明日で、桜花は十分あるけど、もう世間は花見というより新緑の候。以下は、柄の悪いお客様用。
さて、興味は無いのですが、いちおう、元号が令和だって? みんなほめそやして、平和だねえ。「どうせお前なんか使わないだろうからどうでもいいだろう」というとそうでもない。税金と病院の書類では使うんだね、これが。でも使いそうな市役所系は使わずにすみます。進歩だね。まあどうでもいいのですが、みんなどうやって年の換算をするんだろうねえ、スマホなしで。
で、生意気じゃございませんか、「「令」の字形、下の部分「マ」でもOK」(毎日)だとか。平和部族が。なにがOKだ、余計なお世話だ。日本人が日本語を使うのに許可がいるのか。(ま、ここは「欧米人」でもいいが)
まあせいぜい安倍配下は「和シム」がいい。何がビューティフルだ。令はオーセティックだよ。「お墨付きの」というのが正しい訳だ、権力によるお墨付きの和。漢学者はよく教えてやってくれたまえ。
ああ、悪口言い飽きた。
それで本日が明日なのは、いろいろと仕事ができたのはそれとして、下記の文でテーマ設定に揺れたせいです。
そもそもはしばらくぶりにひっくり返した副島種典の「社会主義経済学研究」。副島氏は今の柄の悪い人は知らないかもしれないが、まあ良心的な社会主義経済学者。その人が「広義の経済学」論でエンゲルスを批判している。まあこれまでは関係ないのでスルーした箇所だけれども、現段階で見ると「それ違うじゃないか」と思って。思ってエンゲルスの原文に戻ると、「あれこっちも違うじゃないか」と。で、皆様のためには物事を整理したほうがよろしいと思ったわけです。
A) 世の中には「もっとも広い意味では」という経済学規定がありまして、特に旧来のマルクス主義者の間で昔から論議になっております。エンゲルスが反デューリング論で展開した”昔から今までの社会の発展段階を研究する学問が経済学”という論で、これをマルクス主義者は未来まで引っ張ろうとするのです。この結果彼らの間では、「経済社会構成体」とかいう、ただの現象用語が一人歩きする。現象用語なのだが響きがカッコよすぎるから素人はなにか深遠な意味がある学術用語だと思ってしまう。で、素人はそのまま政治活動家になってしまうからいつまでもその誤解が続く、という事態が生じました。これは、「ウクラード」がただの制度組織という現象用語なのに、歴史家はなにか意義のある本質規定だと思ってしまうのと一緒です。といって、両者とも何の規定性も持っていないものなので、既に死語ではありますが。
ともかく、この広義の経済学なるものの存在が、ただの過渡期であるはずのソ連邦経済体制が「社会主義体制」として研究者からお目こぼしとなる事情の、重要な基礎となるわけです。
B) これに対して狭義の経済学が「資本論」で、宇野学派の副島氏は資本論を原理とし、社会主義経済は別に主体的に切り開くものだ、というわけです。エンゲルスは狭義と広義を一緒くたにしている、と宇野経済学らしく不満を述べております。実際、ソ連邦経済体制を非難できたのは宇野派(とその影響下の新左翼)くらいなのだからしょうがない。
C) しかし、本来、諸規定は過去の経済事象からも汲まなければ資本主義の歴史的規定が一般的真理になってしまうわけで、そんな馬鹿な話はありません。この点エンゲルスは原理的には正しいのです。
D) のではありますが、しかし、本来は、デューリング氏が原理的には正しいから話が込み入ってくる。氏いわく「奴隷制や賃金隷属制のような制度は、ふたごの兄弟として暴力による所有をともなうものであって」と正しく指摘しているのに、資本論に誤魔化されたエンゲルスは、「暴力は搾取を保護するだけのもので、その原因ではない」「(搾取の土台である資本と賃労働との関係は)純経済的な仕方で、まったく暴力によらずにできあがったものだ」などとのたまう。困ったものだ。もっともそのくらい入れ込んでないと資本論第3巻などできようも無いのだから、禍福はあざなえる縄の如し。
とまあ、ここまでが整理。結局4つともみんな悪い。って、隈がE)になってるだけではありますが。しかしここで「 E)」を叙述すると、到底終わらないし、ここでは必要がない。
これらの4つの議論というのは、まだ見ぬ先の未来の体制をどう規定するか、ということに集約されるのです。デューリング氏は「暴力さえあれば可能だ」と言うし、エンゲルスは「いやこれは経済的必然だ」と言う。スターリニストは「現在出現している現実の社会主義国家を尊重せよ」と言うし、宇野派は「いや、それはこれから主体的に苦闘して作り出していくものだ」と言う。まあ、困ったものだ。現実はどれも自分のいいようには動かないし、経済的必然として動くわけでもない。どう動くかは隈は既に三部作で述べたのでそっちを見ていただくとして、ここでは過渡期体制と見まがうものがどうしてできたか、その最後の瞬間について述べておこうかと。それでこれらの4つの議論は空しく散るので。まず何もかもなくさないと、未練がましく言い続ける人たちもいるでしょう。
というわけで本日の題、『「国家所有」という巨大な虚偽意識』。
もちろん国家所有は法制度だから、上部構造とはいえ虚偽意識ではありません。が、この概念を使用し言語伝達する人々にとって、この概念によって頭脳構成されるものは「国家所有」という国家の派生観念に他なりません。
それでいいじゃないかって? だめです。国家所有というイデオロギーが、現実での発現以前にその当事者たちに伝えたのは、権力者たち、すなわち国家と地域の武力権力者と、国家権力者によって私有権を付与された資本家と、農業的共同体権力者という、それぞれの私的所有者の権力と権限を自己の物とする、という巨大な私的所有の変換作業だ、という認識です。もちろんそれは、武力性がゆらぎ、国家範囲の一部とはいえ権力者の統治地域における圧倒的人民が統一しうる場面においては、可能です。
この連続性により、「革命」という社会の転覆が、スムーズに歴史上実現したのです。
すなわち、革命に参加した当事者は、自己のやることと、将来に現れる制度が、明確に自己認知されていたのです。革命や新世界の青写真などは要らない。これまでの権力者の姿に、自己を投影すればよい。これが未来の姿へのなんの議論も無く、その手順だけ意思統一すればよかったボルシェビキの勝利の根幹なのです。これはもちろん、経済過程だけの問題ではない。といって政治家の意図の問題でもない。さらにこれだけの結果で社会主義体制となるはずもない。そして残念すぎることに、政策当事者の苦闘的努力でどうなるものでもない。圧倒的人民の質の問題なのです。
(P.S.その後、富岡裕が「社会主義経済の原理」(1977) の中で同様に、国家所有という虚偽意識と批判しているのを発見。ちょっと驚きました。そういう時代には、トロキズム関連の教養というのがあったのだろうか、、、)