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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

プチブル的思考(その2)

2008-08-30 22:14:39 | 行為
 前回の続きです。
 前回の趣旨は、人間が生きるということについて、「生きるとは息をするということだ」以上に認知を持っていない人々の、特徴的な思考方法の現れについてでした。

 なんですが、とりあえず、2人の本の著者のただの悪口にしか見えないところでしょうね。
 いったってしょうがないことですが、後者については、朝日新聞の書評にも出てこれから買う人も出るかもしれないところで、 あほんだら、といっておかないといけないこともありまして。

 で、今回は、少し一般論。
 行為の数式的表現について。

 なんとも突然。
 でもさ、本質はいくつもないの。
 数式処理の長所というのもあるわけで、統計処理はほとんどメリットといっていい。けど、社会科学で一番問題なのは、ゲームの理論とそれらに親和性のある数的処理。
 ゲームの理論は生産性がないのがばれているんでわざわざいちゃもんをつけるほどのことはないけど、その他数的処理には若い人たちは魅力があるでしょうねえ。
 でもだめ。
 それら数的処理には式の途中でマイナス項がでる。だけどね、人間の行為にはマイナスは出ないの。
 マイナスにするぐらいなら、そこで態度を変えるの。変えなけりゃ心身症で死んでしまうの。
 そうでしょ、御同僚。
 そこで突然数式の項の定義が、まだ計算式の途中だというのに、変わっちまうんだよ。そうでしょ、数式定立者さん。
 計算不能。
 とゆうことが、生きていないとわからない。人間が「生きる」ことで、息をしているだけなのは、あなただけなのですよ。

 行為のマイナスは量れない。
 これは私が言ってんじゃない。数式を作ったあなたが言うはずの言葉です。

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プチブル的思考(その1)

2008-08-30 22:13:48 | 行為
 私どものような、70年闘争に引っかかってるまでの人間は、「プチブル」というイメージを持ってまして、若い人は知らなくて当然なんですけど、でもいつの時代でも存在する、「他人ごと」派のことで、「評論家」に近い人たち。ただ、評論家は文章を売って生活している苦労人ですが、プチブルというのは、嫌になったらすぐ別の話に切り替えることができる気楽な稼業の人たちをいいます。

 で、最近見たのが、「下層人民は、自分は下層階級だなどと思う必要はない。下層階級に満足することが階級社会を変える。ブルデュー(というフランスの有名社会学者)もそういっている」というH教授の論。

 あらあらまあまあ。

 この前、昼休みの時間つぶしに本屋で手にとった”なんだかの構造主義”とゆう、U教授の売れてる新書にも、「給料の安いのを気にすると、そのことがカネ社会を肯定することになるぞ」とかいう脅し文句がありましたっけ。おじさんたち、いいかげんにせいよ、みたいなところで。
 貧乏人はおめえらのようにガセ吐いてカネ貰える生活なんかしてねえんだよ! って誰か教えてやってくださいな。
 評論家のほうがまだましだぜ。彼らは雑文が売れなきゃコンビニ泥でもするしかないと分かってるからね。

 まず、お伝えしなければいけないことは、
 第1に、評論家的には、誰もが満足してしまったら、誰も何も変えはしない。喜ぶのは、権力者だけだ、ということ。権力者の配下は、自分ではできないけど、誰か社会を変えてくれよ、と思いますから。
 第2に、プチブル者が何を言おうと、我慢できないところで下層人民は生きていっているんだ、ということ生きて「いって」というのが重要なところ。このUという教授はエリートの卵時代に貧乏生活をしたのが自慢のようですが、カネがないことだけが問題ではないのはブルデュウおじさんの言うとおりなの。今日疲れて寝て朝起きればもうまた同じ明日がきちゃうんだよ。違う明日があるエリートじゃないんだよ。
 第3に、下層のうちでも上層の人民には、別の満足の仕方を探すことが、全地球的に、幸せに近づく一歩を築くことになることを思い出して欲しい、と、私=隈から伝えたい、ということ。過激派的にいえば「うちのセクトには入れよ」 みたいなもんですね。

 それにしても恥知らずな諸君が大学教授をする時代になりましたねえ。
 自分が触れたこともない世界のことに、中立のフリして、あるいはそれ以上におためごかしで、口出しして欲しくないですよねえ。


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科学の表現と感情

2008-07-20 21:22:48 | 行為
 以下は一種、前回の続きでして、実証により得た社会科学上の結論について、あるものの正否をいうとき、どのような仕方で正しい、あるいは間違っている、というかどうか。

 ある社会的な現象が存在する理由を述べるとき、存在する限りはそれは必ずなんらかの有用性を持つわけですが、その有用性をどのように有用だというか、ということは書く者に任されています。
 あるものが存在する理由に即して表現すれば、最大限の賛辞をかけることができます。
 ただその場合、変革期以外で存在するものは体制的なものだけです。なので、そうした表現が意味するのは単に体制賛歌ということになりはします。

 昨日、図書館でふと手にとった本。
 昔マルキストで、今はマルクス批判者に変わった大学教授のW,K.っていうおじさんがいまして、まあ名前を書けばその筋の方は知ってる人ですが、名前をあげるときちんと本を読まないといけないんで、そんな礼儀は時間の無駄のためやめます。
 で、立ち読みによるとその人が、寄生地主制度の弁護かなんかしてんですよね。「あれは、かえって小作人にいいんだ、とにかく資本主義の発展で当然だ」みたいな。
 当然はよござんすけど、かえす刀でマルクスレーニンを批判する。
 日本の寄生地主がいいとかどうかとかの類の論議に、マルクスもレーニンも関係ないんじゃねえかなあ、だから転向者ってみにくくてやだよねえ、って思いもしつつ。

【寄生地主制とは:いつもお世話になるウィキペディア】
「明治時代に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により寄生地主制が進展した。地租改正により土地所有者は金銭によって税金を払う義務が課せられることになったが、貧しい農民には重い負担であり裕福な者に土地を売り渡し小作人になっていった。
寄生地主の中には質屋などの金融業を兼業し、小作人を中心に金銭の貸付を行っていたものも少なくなかった。これにより、農村内での貧富の差は一層拡大された。こうして獲得した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換していった者もいる。」

 こうゆうのを、いいとか悪いとかいう資格があるのは部外者や大学教授じゃなくて、そのときに生きていた人間だけなんですよねえ。

 国家官僚というのは、昔も今も、そのときの安寧秩序を守るために諸政策を打ってくる。その施策に国家としての合理性があることはわかりきっていることです。だから、その当時は、当事者以外は批判しない。
 だからって、100年も経った時期にあえてこれを肯定する挙にでる、ということは、それは国家イデオローグ=国家権力の代弁者といわれてもしょうがないことです。
 その時分であれば政策にはいくらでも選択肢があったのに、あんたは何の権利があってそれを肯定する?
 生きているのは今の人間じゃない。そのときに飢えて死んでいった人間、そのときに女衒に娘を売っていった人間、そのときに女衒に売られて強姦同様に死んでいった娘です。
 お前はなんでそんな人間の代弁が出来るんだ???
 国家の役人はそれは仕事だ。どこかの評論家や大学教授と違って同郷の娘が女衒に売られていくのを伝聞で聞きながら歯を食いしばって耐えた人間だっていたんだ。死んだ同郷の者のために毎日、仏壇に線香を上げてた官僚だっていただろう。それをよくへろへろと「よいことだった」などといえるな。なにが倫理経済学者だ。笑っちまうぜ。(違った、経済学部の倫理学者?)

 と、までは理論的にわかるんですが、過去マルキストだった人のくせになんで黙ってないんですかねえ、、、そこが分からない。私はマルキストではないですし、彼らはどうせ嘘つきですから恥とかは関係ないんでしょうが、では羞恥心とかはないんでしょうかね。

 じゃなくて今回のテーマです。実証というのはシンプルなものなのです。そうだった、あるいはそうでなかった。それだけのことです。これを権力の尻馬に乗った発言に翻訳して有名になるか、じっと我慢して、最低限の未来ガイダンスを与えていくか。
 皆様は「社会学者なんて地味で何もしないし」、とお思いでしょうが、私が90%の実証社会学者を信ずるのは、後者の点からです。


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実証社会学のアドバンテージ

2008-07-19 11:21:42 | 行為
 ここのところ、1日数時間話すことが多く、今日も朝はノドがざらざらしてます。ふとなんで教師になろうとしなかったか思い出しました。
 すぐ声がかすれるんですよね。
 人と話すだけでかすれるのに、一方的にしゃべったらすぐアウト。
 飲み会なんかだと翌日ガラガラ声だし。
 最近のマイクは性能がよいので、大会場でしゃべるのは嫌いじゃありませんが、院生のときは2ヶ月くらいノド用に抗生物質を飲まして、保険適用ですがこんなにカネ払ってたら生活できないみたいのもあって。
 ふつう、こういう理由はないんでしょうねえ。
 まあ、世の中いろいろです。

 でも、最近の若い人はかわいそうだなあ、という気がします。
 私の時も不景気でしたけどね、入社さえできれば、昔はそれなりに人情というものが重んじられてましてですね、就職のコネは当たり前ですが、入社後も「なあなあ」、って多かったと思いますよ。私の勤め先もそうだし、途中入社の人もそういってたし、学生のときアルバイトしてた2社なんて、よくつぶれないなあ、と感心したくらい。うち一つは少し経って合併したようだけど。なので特殊事情でもないようです。勤務時間は今より多く残業も長かったと思いますし、会社の幹部候補生が風呂敷残業してたのも今より多かったんじゃないかと思いますが、それでも労務管理は相対的に人情があったはずです。って統計データは知りませんけど、今よりそういうクチコミ系の情報も新聞等に載って多かったです。
 最近じゃ使い捨てが当たり前、頼みの外野は、若い人たちでさえ、働け、儲けろ、のろまは辞めろと仲間割れの極致(以上新聞・ネット情報)。人情なんてありはしない。権力の尻馬に乗って他人の批判をするだけ。ひとに悪口をいうのはかまいませんが、基準が人間じゃなくてキマリなんですよね、権力者の決めたキマリ。まあ、自業自得だなとも思いますが、ただ、そういうのを育てたのは団塊の諸君だから。まあ、団塊の諸君も、若い人が反乱を起こして年金でもでなくなればそれも自業自得ですけどね。
 とにかく、そんな会社ばかりで、まず、初めの一歩で、就職する気によくなるなあ、と思います。そこが最近の若い人はかわいそうだ、ということで。

 で、ところで、すべてこの世は自業自得、であれば、自業として世の中も変えられるはず。そうでなければ「自業」ではないですから。となれば、私も社会科学者のはしくれ、そんな社会をどうにかして変えていきましょう、と続くのですが、残念ながら基礎理論家で、若い衆の本当の実態はどうなのか、ぜんぜん知らない。年寄りはわかるんですが。
 私の論の前提にあるように、行為の基礎理論は、他の境遇にある者の批判修正によらなければ完成しないのは当然。なので、私が論を組み立てている分野は、すでにデータが入手できる領域に限定しています。

 そうした状況を打開できるのが、社会調査系の実証社会学です。「メディア報道じゃなくて、ほんとは若い人たちはどういう状況認識をしているのか」それすら、はたから眺めてだけではわからない。
 基礎理論は実証に基づかなければ妄想に過ぎない。実証社会学など科学ではない、と私は一度も言っていないのですが、書き方のニュアンスに軽侮の気持ちが出てるかもしれませんので、あえて強調しておきます。
 まあ、軽侮の気持ちはあるんですよね。エセ実証者ほど「理論」化して名前が売れあたかも社会学者のように見られるので、そういうのはバカにしておかないとみなさんたぶらかされますから。でもこれは書いたことがありますが、社会学者の90%はまじめな実証科学に従事されております。
 わたしも大学には「社会調査」を学びにはいったんですよ。ウソみたいだけどそのときの大学新聞新入生特集号に発言が残っていて実証されますし。ろくな学生じゃなかったですけどね。


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宗教とは(おまけ)

2008-05-25 14:30:14 | 行為
 「神道」が抜けてましたんでおまけです。

 私が使っている「本当の宗教」っていうのは、「民間信仰」というものの基礎のことを言います。
 この民間信仰が、支配者とくっつきますと、まず「民族宗教」と呼ばれるものとなりまして、これは、部族の酋長みたいな人が、「わしは神の子孫だぞ」とえばりかえる状態を指します。これが爛熟すると、伊勢神宮成立以前の最古代の天皇と神道みたいなものになります。
 武力で一番なんだから神の子孫でなくてよさそうなのですが、残念ながらいくら武力をもっていても自然にはかなわない。武力などいくらあっても作物も取れないし狩の獲物も逃げていく。果ては病気にかかっても誰も治してくれない、という世界では、神さんが一番えらい。
 そうすると支配者は2番目には偉くないといけない。それには神様の縁者である必要があるわけです。
 「権威付け」っていいますかね。
 「権威」というのは、「その人間のいうことが、事実であってもなくても、事実と同様に行為の将来に適用するのが自分にとって最善の方法である」という認識を指します。
 神様のいうことは聞かないと、飢えたり洪水に遭ったりして死んでしまうわけです。
 この場合、酋長なり巫女なりの言葉は、規範イデオロギーとは異なり具体的な行為の指示となります。ですから、前提として、酋長と庶民は同じ具体的な状況にあらなければならない。それでは、状況の異なる諸地方を支配するには言葉が足りない。
 かくして神道が国家神道になるためには、資本主義社会という同一の生産関係を前提として、天皇を取り込んだ国家法の存在を待たなければならなかったわけです。

 
 こんな話ばっか、しかも4つめではつまりませんね。
 コーヒーブレイクも、閃かないと書けないんで、ためにならない四方山話ですが。
 自動車を見るのが好きでして、通勤時はそこそこの名のある一般道で主にトラックを眺めて通勤してきたのですが、最近、首都高を眺めたら、なんじゃ、おんなじ車ばっかり通るぞ、ってなもんで、ようするに昼間の首都高って、ミニバンだらけなんですね。エスティマとかじゃなくって、ミニミニバン。といってキューブでもない、座薬みたいなかっこのやつ。
 ミニミニバン、カッコ悪う。昔、よく軽のライトバンに乗せてもらってましたが、あっちのほうがまだかわいい。
 なんで後ろに狭っこくなるフォルムと窓枠ばかりなのかね。それよりも、何でみんな形が一緒なの? まあライトバンも形は一緒だからそんなものと思えばいいのかねえ。でも業務用なら社名も書けばいいじゃん。
 土日だとみかけないミニミニバンなんで、ほんとに流行ってんのかどうかわかんないんだけど。


(注)
 【権威】とは、私がいつもお世話になるウィキペディアでは、
「権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。」
とあります。

 まあ、こういうウィキペディアはどなたかが親切に政治学の教科書から抜き書きしてくださっているんでしょうから悪口をいってはいけませんが、政治学というのは、目に映った現実をそのまま文字にすればオッケーな学問ですので、あまり信じてはいけません。
 そんな催眠術師のような能力なんぞ、誰も持ってはいません。

以下;
「古代ローマの「auctoritas」に由来する語で、助言以上命令以下であり、自発的に同意・服従を促すような能力・関係を一般的に指し示す。ただし、「自発的に」とはいっても「同意・服従」への圧力がかかっているわけで、完全に自由意志で結論を下せるわけではない。」
 (これもねえ。
  私も若いときは、初めて「ああそうだったのか」と物事を教えてもらった特定の学者や評論家には「権威」を感じまして、その人の評論なら正しそうで、寝っ転がりながらも姿勢を正して読みましたが、これに「同意・服従」への圧力があったとは思いがたいですけどね。概念というのは歴史的なものなので、一般規定だよ、という顔をすると、そこでから先は誤謬になっちゃうんですけどね。)

「他者に対して権威的であるためには、その両者がある種の価値体系、規範を共有していることを前提とする。その上で、その価値体系、規範における上位の人・地位・組織などが権威を帯びることになる。」

(これも、そんなこともありませんで、見ず知らずの人でも、旅先で道に迷ったとき、身なりもよく、眼光炯炯、いかにも自信ありげな人に、「こっちですよ」といわれたらそっちへ行きませんか? こういうのは権威だと思いますが、こんなもん価値体系・規範の共有といわれても困りますね。そりゃあ拡大解釈すればなんでも当てはまりますが、それでは発言の意味が消えます。)
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宗教とは(その3)

2008-05-22 22:16:05 | 行為
 今日は仕事がそこそこめまぐるしく、といって、いまいち必死に、というところもなく、早く地に足の着いた本社に帰りたいな、というところで。今は、まあ、出向みたいなもんなんですね。別にどこで働いてもおんなじなんですが、そこは相対的にどう、という感情がありまして。人間、生死以外は全部相対的なものなんでしょう。
 そうこうしまして家に帰って、ふと目に付いて、棚にあるアサヒペンタックスSPにかぶった埃を落とすと、すでに仕事のことは忘れてしまいました。先に、このブログでニコンFのことを褒めましたけど、ペンタックスはニコンに劣りません。(けど、バッグに入れとくとシャッターが落ちちゃうのが致命的。半日で3枚は空打ちです)
 
 それはそれ。今日もコーヒーブレイクではなく。

 (その1)で、いわゆる宗教は本来の宗教なんかじゃない、といいました。
 で、(その2)で、いわゆる宗教は、宗教ではなく、ただの政治規範だ、といいました。例としてキリスト教やイスラム教がそうだと。
 で、じゃあ、それ以外は? というところで。
 
 人は将来に行為をイメージします。
 この場合、現在が不幸であれば、生物はいやな環境からは離れたがるものです。生物の母、海の中なら、スーッと泳いで遠のいていってしまうところですね。
 しかし、そうはいっても陸地では離れることはできない場合がある。あるいは離れることはできないという体制イデオローグが、武力を元に思想攻撃を掛けてくる場合がある。坊主のことですけどね。

 かくて、人は死後を夢見る。
 死後の世界とは、不幸の存在とともに、宗教が作るものです。聖徳太子時代から室町時代までの国家仏教のことです。
 でも、ほんとうは生まれ変わった後にどうであっても、人間は幸せになるわけではない。
 人は記憶の中の自分と比べて今の幸せを感ずる。
 でも生まれ変わった自分は前世の自分なんか覚えてはいない。
 さて、今の自分は過去の見知らぬ自分より幸せだからといって幸せだろうか?
 そんなことはない。不幸は不幸。幸せは幸せ。人間はおめでたいから、生きている今がよければいい。
 いずれにせよ、幸せは今の生活の中でつかむしかない。

 かくして鎌倉以後の民衆宗教は、現在を伝道します。
 南無阿弥陀仏と唱えることは往生することであるよりも、親のような神仏の存在の現在という時間での実践的確認行為なのです。
 禅にしても然り。 座することで、神仏を現在に感ずることが要目なのです。
 仏教一般について、以下同様。
 私は仏教理論など知りませんが、共同体日本においてはイデオロギー的にも現在が志向されてきたもようです。

 一方、共同体的な地域を離れたイデオロギー的キリスト教は、日本においても疎外された倫理を受け持った。
 しかして、共同体から離れた資本主義勃興期の日本では、キリスト教が知識人には鏡に映った自分の独り言の相手になったわけです。

 で、新興宗教は、と申しますと、個人の中にはこうした事実認識の残存と、できれば他者と共有したい将来がありますから、現実的に他に面白いことがなければ、誰かが提唱する権力が自己と共有される「宗教」の誘いには、普通にすすんで乗っていくことになります。これが新興宗教です。

 で、密教的政治イデオロギーですね。
 と表現すると「特定の」マルクス主義党派イデオロギーを思い浮かべる人もいると思いますがそうではない。マルクス主義一般の話です。(……一般の話なのか、って、書いた本人が突っ込んでもしょうがない)
 
 宗教とイデオロギーは似ているのではなくて、それは同じ物なのです。
 宗教意識をもってでっち上げたのが宗教であり、不平不満を体系化したのが政治イデオロギーなのです。

 あるいは宗教集団に居心地のよさを見出すのが宗教であり、
 政治行動集団に居心地のよさを見出すのが政治イデオロギー組織なのです。

 どこも違わない。
 ただ、宗教意識は客観的には事実によって否定される場合が多い。このため、いわゆる宗教性=非科学性が特徴となってはいます。
 でも、知らない人は知りませんが、政治的自称レーニン主義も事実によって否定されつくしたわけですが、誰一人こたえちゃいませんわね。こたえたのは所属組織が分解した人だけですわ。
 
 といって、マルクスもレーニン個人も間違っているわけではありませんので、ご注意を。

 なんでもいいんですが、被災地の方々とか思うわけですが、中国やビルマや、じゃなくて、悲惨なのは世界中どこでも同じなんですよね。私もスターリンになりたいな。



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宗教とは(その2)

2008-05-21 22:13:04 | 行為
 おばんです。
 って関西弁だと思っていた私。まあどうでもいいけど。

 さて、前回の続き。いわゆる今生き残っている教団宗教が政治規範だ、という点です。

 今念頭にあがっているのは、本人達は「世界宗教」だと気に入っているらしいキリスト教やイスラム教です。
 それらが世界宗教なのは、すなわち、人間に本来の宗教的意識を蹴散らして平穏な地域社会を侵略できたのは、それが引き継いだ地域宗教の性格による、と、とりあえず想定できます。

 つまり、中東の茫漠とした砂漠様の地域の中では、固定的な地域共同体の宗教とはことなり、固定的な支配体制がない共同性が、しかし、支配権力を振るわざるを得ない。そんなところでは、抽象的な規範を設定するしかなかった、と、とりあえずいえます。

 他方、農村では抽象的な規範は必要ではなく、具体的に、灌漑工事には参加する、祭りへは出る、隣りの者とは助け合う、等の規範を全うすればいいわけです。
 そこには抽象的な規範はいらず、その地域に特化した具体的行動範例が必要なわけです。
 もっとも、軍隊では、毛沢東の軍のように抽象的な規範が必要となりますが。(こういうどうでもいいことを付け加えなければ私の文ももっと読みやすいと思うんですけどね。でもそうすると、後年、エンゲルスのように、いいかげんだと非難されるわけです。
 まあ観客は勝手な評論をするものです。)

「とりあえず」といっているのは、こうしたことは歴史の奥だか果てだかにうずもれて、証明はできないわけで、行為論的にはこうして説明されるということにすぎない、という意味です。
 「すぎない」にすぎないんですけど、こう見ることで次の新しい事象への適切な態度が推定されるわけで。
 つまり、「共同性の小さくなった社会で規範を貫徹するためには、一神教的規範宗教のような規範的イデオロギーが必要となる可能性が高い」みたいな。

 まあ、ともかくも、支配権力は、地域の生産活動を乗り越えて支配を貫徹しようとした場合は、抽象的な規範を活用する。そうでなければ、武力の常駐を必要とする。
 といって、抽象的規範の元は具体的文章なので、キリスト後、200年でキリスト教が支配宗教となったとして、その後1千数百年、世間ではこのいにしえのキリスト教の、当てはまるところを針小棒大、無理やりこじつけその時代の支配宗教として機能するべく事実認識的に改ざんせざるを得なかったというわけです。
 その結果が、同じ荒唐無稽な宗教の、目くそ鼻くそを笑う、未開宗教蔑視ですね。
 一方では、道徳の供給源として、支配の事実認識と、賞賛と、優越を、一手引き受けに宗教に頼んだ支配武力は、武力の及ばない未開地域の統治を、宣教師どもに頼んだ、というわけです。
 それもよしあしで、権力の衰退とともに教団教会も衰退する。
 「教団宗教」の衰退は、キリスト教信者の諸学者がいうような「世俗化」現象ではなく、単に、役立たずとなって権力に捨てられただけなのです。
 
 ああ、ふと思えば、いわゆる宗教家でも欧米では学者になれるんですね。欧米では、「科学」なんて価値はないんですよ。おしゃべりたちがえらい国家。
 だからって、別に非難しているわけではないんですが、野蛮な国家群だと思ってもおりますね。

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宗教とは(その1)

2008-05-20 22:16:40 | 行為
 下にも書きましたけど、ガンダダってネットで確認したらカンダタだって。
 (ここのブログは上が新しいので、、わかりにくいですね)
 そういえば観陀多って字も浮かびますが、もともと私の知識はン十年前の若草幼稚園の紙芝居だもんで。
 芥川とかって、紙芝居書いただけでなんで文豪鬼才なんでしょうかね(河童・歯車だけはいいけど)
 
 ところで、私も宗教家と言われることもありますが、宗教の社会学的規定をしておきましょう。
 「宗教とは、人間への全ての自然的影響について、生物として当然にも相互行為する、他の生物によるわれわれ生物への行為、あるいはそれに対応するわれわれ自身の行為、それらの事実認知上の体系化のことを指し、その他の何ものでもない」、というところです。
 この生物の諸行為の認知のなかで、たまたま、「恐れ」が「畏れ」となり、あるいは「恐れ」を権力イデオロギーが「聖」と強弁するだけなのです。
 そんな我々人間の生理的行為が自然に向かって適用されると、アニミズムとなり、また儀礼となるわけです。
 
 解説。
 つまり、宗教の本源は、人間の将来に生ずる不幸の回避なんですね。それ以上のものではないんです。
 人は毎日、こうすればああなる、という行為を積み重ねて生産物を得ているわけです。
 狩猟も然り。作物生産も然り。
 ところが、一生懸命やったのにイノシシには逃げられ、麦は腐り、留守番の妻子も死んでしまう。
 なんで?
 
 自分で解釈しているうちはいいが、歴史の中で首長が(これは良い機会だ)と思って、それはお前が村の決まりを破って遊び狂っているからだ、とか言う。それが体系化される。
 まあ、そんなこんなの過程だ、といっているだけです。
 それがなぜ非合理的?
 そんなことはない。本来の宗教は事実認知なのだから、合理的なのです。
 いったい、人は、「この先は行き止まり」と他人に聞いて、回り道をすることを「宗教」と呼びますか?
 違うでしょ。単に、それは事実と信じただけです。まあ、ウソかもしれないけど、でもとりあえず言うとおりにしよう、っていうかね。
 本来の宗教はそれと同じです。
 上棟式っていうのがあります。家を建てるときはお祭りをしなければ壊れる、と誰かに言われれば、よほど貧乏でなければ、「しょうがない、お祭りをしてもらおう」と思う。それのどこが非合理的な宗教?
 
 もちろん、金目当てに「お祭りをしなさいよ」などとささやく神官が掲げるものは宗教です。しかし、それは人間一般が原初的に持つものではありません。権力とつるんだ「宗教家」の存在形態です。
 「本来の宗教」は、キリスト教その他の支配階級の宗教信者にとっては、すでに神話の世界の話。
 「いわゆる宗教」とは、人間の宗教ではなく、支配のイデオロギー、及びイデオローグの生計の途のことです。
 
 キリスト教、イスラム教は、「政治規範のイデオロギー」なのです。なんら宗教ではない。
 それは、本来、自然全般に適用される擬人、正しくは擬生物の過程を、権力ある「神」なるものだけに適用して、人間的本質を権力に変容させた支配イデオロギーなのです。
 植民地支配時において、よく言われるように宣教師キリスト教は、土着の宗教を取り込んだわけではないのです。
 支配教キリスト教と土着の本来宗教とは、ぜんぜん別個のものであり、支配教キリスト教は政治規範であったため、齟齬なく両立しただけのことです。それはイスラム教でも同じことです。ちょっと違うのは、イスラム教のほうが、対抗権力的支配教だ、というだけ。
 
 人の行為は、将来の設定の仕方に規定されます。
 宗教だとか、実存主義だとか、その他種々の生き方は、これに属することです。
 具体的にいえば、消費物資の入手に追われる時代はその他の観念(活動の所産)は必要ではありません。とくに本来の宗教なんてものは、根源的には消費物資の入手の合間の余暇の将来設定に属するものです。おなかがいっぱいになってふと景色を見たら、死んだ親を思い出した。親にもなんか食べさせたやりたいな。そう思うからお供えをする。それだけのことです。
 このとき賞賛と優越、その他の事情が発生します。
 「俺の親は首長だぜ、お前だって世話になったろ」
 あるいは、生活共同体においては、このヒマさ=将来設定の不確実さの中で、共同体的同一性の確認が生ずることもあります。
 「みんなで酒飲んで騒ごうぜ。今年は豊作だ。作物なんてどうせとっといたって腐っちまうさ。」
 そういう庶民の社会過程を見ながら、支配者は、他にイデオロギー=賞賛も優越もない世界にあって、宗教を巧みに利用し、というよりも自分の賞賛と優越を拡大利用して、ともかくも、こうした原始宗教(本来の宗教)に乗っかって支配の確認を行って来たわけです。

 「いわゆる宗教」の宗派別の教義とは、その時代にあわせた道徳の教義です。
 支配者に絡み取られた宗教は、支配者の賞賛と優越を、娯楽映画のごとく映し出し、その結果、その時代の社会秩序を説明します。
 つまり、「お前の10代前の先祖は神だったぞよ。お前も神にならなくてはな。」
 同じ言葉を民衆に言えば、「お前の王の10代前の先祖は神だったぞよ。お前も神になる王に仕えなくてはな。」
 これが支配イデオロギーの本質です。
 支配者に取り入る、という、私以外の誰だってする行為とは、そのまま論理的に、被支配者を支配する論理なのです。
 
 なぜ、マルキストはこういう事実を広めて批判しないのか。
 被支配者を支配するためには、それは言ってはならないことなのです。前衛主義者の身に返ってくる真理なんでね。

   長くなりますので、ちょっと切ります。
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シジフォスの神話

2008-05-18 22:45:25 | 行為
 カミュという一昔前のフランスの思想家の著作に、「シジフォスの神話」というものがあります。内容はネットで検索してもらうとして、かいつまんで言えば、シジフォスさんが神に岩山の頂上に岩を押し上げる仕事を課されてしまった。神は性の悪いことに岩が上がるとまた蹴落としてしまうんですね(そうは書いてないけど)、でも彼は黙々とその仕事を続ける。神に蹴落とされた石を何万回もただ押し上げる。
 人間なんてそんなものだ、という話です。

 私もその本がはやった時分に思春期だったもので、実に納得したものですが、今考えてみると情けない。
 結局それは、資本主義社会で生産労働から離された学生やサラリーマンの生きる姿を表しただけのことでした。
 米作ってる人に、「その米、できたら食べる前に燃やしちゃうぜ」っていったら殺されて当然ですぜ。

 こういうのは、行為の成果が、個人の身体が「離れた」事態を指すわけで。
 結局、行為っていうのは、関係の中に、埋め込まれている。
 資本主義では、本来の行為の失敗の認識の中で、しかしそれを続けなければならないという強制のなかで、その認識も強制されていく。
 まあ、行為者の視点から主体的にいえば、身体から離れた行為のみを続けることができる根拠を認識の中に定めていく、そんな作業をとっていくわけです。
 それは、人間やその他の生物の自然的過程であれば、イノシシを捕りに行ったが捕れずに、行った先の小川の水を飲むしかなかった。それでも住まいの洞窟の中に溜まったドブ水を飲むよりはましだ。明日もこの地域で狩をするしかない。とすれば、イノシシが捕れなくともキレイな水が飲めれば満足するしかない。
 そんな過程ですね。
 「満足」とは行為の将来の確保だから、「キレイな水飲み」が「イノシシ捕り」に変わって行為の将来となるのは、行為本来の過程なのです。
 が残念ながら、それでは早晩栄養不足で死んでしまう。
 その通りに世界中の人が死んでいます。

 前回のからみとして、今回も前回やめるといった行為の話じゃないかって?
 
 今のは行為の原理の話じゃなくて、個別の行為の話なんですね。
 少なくともぼくにとっては、ぼくが生きている、あるいは生きてきた、話です。
 ところが原理には人が出てこない。そんな話を展開しても、それはつまらない。
 つまらないけど、誰かが人知れず従事するしかない、みたいなところです。



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「普遍的に良い」規範

2008-03-22 13:27:42 | 行為
 (これは前回の続きです)

 個人個人の理想として扱われる規範とは、人間界においては、他者の存在価値です。
 つまり、他者の存在を得たいときに、その存在となってくれる、という中身を持った規範が、社会においての理想となります。
 個人が苦しいときに助けてくれる存在、寂しいときに傍にいてくれる存在、悲しいときに癒してくれる存在、それらの他者を作り上げる規範が、どの世界においても良い規範となり、これを体現しようとする態度が賞賛の対象となります。

 そして、この普遍的価値を閉ざすものが、「金儲けに暮れる日々」「生きるためという美名において他者をないがしろにする日々」です。
 これが資本主義の原罪なのです。
 かくて、資本主義の下では、誰がどんな詭弁を使おうと、どんな弁護をしようと、社会の理想は存在しない。存在するのは「そんなこといったって」という子供のような抗弁と、同業者の理想=「金持ちになるのはいいことだよ」だけ。
 ああ、まだあった。支配者の被支配者が持って欲しい理想。「国家のために死ぬのはいいことだよ」
 まあ、迷惑にならないように死んでください。

   
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疎外と資本主義

2008-03-22 13:21:47 | 行為
 先週、すごく久しぶりに、旅行してきました。
 広島市とそのすぐそばの島で1泊。
 焼きガキ、土手鍋、広島お好み焼きと一通り食べてきましたが、実はただのカキフライが一番おいしかったりして。
 よかったのは、人が良かったこと。
 直近では1年前に上海へいったのが旅行の最後で、ひどい人間ばかりだったことで良さがひときわなのか。(西安は人のいいとこです)
 でも、過去、日本30数ヶ都道府県へ行きましたがこんなにいやな人のいなかったところも記憶にない。
 総じて海岸都市っていい人が多い気もするんだけど、どんなものでしょうか。
 
 で、帰れば東京。
 なんで町にいやな奴ばっかり目に付くんだろうかねえ。やっぱ疎外されてんだろうか。
 ってことで、テーマは「疎外」。新しい人は知らない言葉なんでしょうね。
 「疎外」っていう言葉は、自分が行為してもその行為で自分の思ったことが実現できないような状態に使います。「疎外されている」っていう表現は、「人間らしい生活をしていないんで、本来の人間らしい行動ができなくなっている」といいたいときに使います。
 
 このような疎外と呼ばれる現象には、2種類あります、ってことは旧い人も知りません。
 
 まず、行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない「疎外」。
 こっちが人間に普遍的に生ずる本来の「疎外」なんですけど、現実に使われてきたのが次に挙げる「疎外」で、今日はそちらがテーマ。
 
 で、第2として、自分が2つに分裂することにより、観念ではこちらが本物の自分だと思っている将来が獲得できないという疎外。「自己疎外」といいますね。「私は人間だからそれらしい生き方をしたいのだが、この世ではそういうふうには生きられない」って意味合いです。
 戦後、先進諸国ではずいぶん後者の疎外が問題とされてきました。歴史の一時点の問題でしかないといえないこともないんですけどね。
 つまり、それまで共同体からいろいろな規制を受けてきた中で、「理想的な自分」というものも共同体から与えられてきた、そんな生活から、「個人の自由」という生活に移る過渡期に生じた問題です。この過渡期の実体である資本主義の爛熟という生活的基礎の中で、それまでの「良い」規範と、「食うだけの生活、後は娯楽」という生活に矛盾が生じてしまったという事態です。
 そう、ほんとは、これは「疎外」というよりは「矛盾」と呼ぶほうが適切だと思いますけどね。
 資本主義が世界を覆った社会では、すでに共同体的規範がなくなり、「良い」規範は、名残のように残る「人的付き合い」に限定されてしまう。今では、自己疎外など、若干社会に残っっている貴族の末裔のような古典的エリートの思春期からのごくわずかな移行期にしか残っていないようでもあります。

 こういう矛盾を矛盾に思わない?ような状況は、生きている個人としては悩みがなくなったわけで良さそうなものですが、本当に個人にとっていいことかというとそうでもない。人間は単に食べるために生きているわけではない。各種の刺激に適切に対応することが生理的に健全なように生きている。まあ、どうせ短い人生なら、思う存分、力を出し切って生きられたほうが満足だ、ってことですね。
 で、人間の生き方を問題にする場合、問題は、人間には「良い規範」が存在する、ということであり、資本主義的にはそれが実現しない、ということです。

 普遍的に良い規範が存在するというのは、人類史上、宗教家か国家イデオローグしか言えなかったことなので、もったいないので、次の題にしちゃいます。→ 続く


 
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