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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

小生産者の疎外

2012-02-26 16:49:42 | 行為
 こんにちは。東京地方の2月は曇り続き。ひたすら春が待たれます。

 さて本日は辛気臭く「経哲」の話。
 といって分かる人は私より1歳下までのはず。
 マルクス、経済学・哲学草稿、たとえば岩波文庫 城塚・田中訳のことで、わかんない言葉を使ったのはそういう昔話の類だからですが。
 昔話といっても1,2年前長谷川宏(という世間では評価されている、はっきりいってこの時代でしか評価されない取るに足らない哲学者)の新訳が出てはいます。

 この本を簡単に紹介すると、「疎外」という言葉を有名にしたごく若いマルクスの著作、というわけで、1960年代に日本で流行りまして、私などは高校1年の春休み、クラスで行った高校改革学習菅平旅行(ナンじゃそりゃ、みたいなもんですね。活動家の合宿のようですが、それにしてはクラスの3割が行きました)に、上田行きの急行列車内で読みふけったものです(読んだのは疎外の節ではなくて、ヘーゲル法哲学批判の章でしたが)。

 で、何をいまさら、というところですが、要するにケチ付けでして。
 いえ、虚心に読めば第1章、出だしからくだらないことは分かるはずですが、不思議なことに良心的に見える人ほどこの本を褒める。
 まあ良心的といっても見えるだけで、ほんとうはどうだか怪しいもんですが(ほんと評論家(的学者)には騙されつづけて数十年)。
 あげくは、疎外革命論といいまして、労働者は自己疎外を克服するために革命をする、という話まで出ます。つまり、資本主義社会では資本家と労働者も疎外されますが、資本家の疎外はたいしたことがなく労働者の疎外は救われないので労働者は革命を起こして社会を変えるしかない。ところで、この革命は疎外の根源である資本主義社会を変えて自由な社会主義社会にするものだから資本家を含んだ人類一般の解放の革命である。これを遂行する歴史的役割を負った者がプロレタリアートである。かくて労働者は決起せよ。という筋書きです。 これは一見論理的ですが、中身を伴っていないので、どうにでも変えられる話で。要するにこの筋立ては「マルクスの言う疎外」でなくていいんですね。資本主義社会が悪く社会主義社会が良ければ、すべての社会構成素について成り立つ論理で。たとえば「疎外」を「貧乏」という言葉に代えてもこのストーリーは成り立つ。更にいうと、私は「貧乏」という言葉に代えたストーリーのほうが好きです。「ぬくぬく暮らしやがって何が「疎外」だ」、という気がしますから。
 
 などというと、疎外革命論者からは「疎外され切った哀れな男よ」なんていわれるでしょう。
 アホかいな。
 
 隈の読者はご存知なように、本来「疎外」とはそんな「貧乏」と取り替えられるような概念ではあってはなりません。「疎外」とは、人間行為が達成できない、という状況を表現した言葉です。したがって、資本主義がなくなったところで、行為の十全な実現が確保されるわけではない。
 マルクスとマルクス主義者の労働疎外論などというものが想定しているものは、幻想の原始共産制にすぎません。
 私たちの社会が原始共産制社会に戻ればいいかどうかなど、戦前生まれならいざ知らず、共同体的紐帯(=束縛的きずな)から離れたことがある私たちには問題にする必要もないことでしょう。
 私たちは、自分の行為の達成のために「共同体権力さえない時代」に戻る必要がある。あるいは、それでは状況のイメージがつかめなければ言い換えて、われわれ一人一人が階級社会の最高階級まで達する必要があるのです。 それが本当の人間の「自由」であり、「解放」なのです。

 でも今日は、その話が本体ではなく、小市民階級の疎外について、で。
 
 旧社会主義モザンビークで、魚の安定供給に、一律「重さ」で価格を決めて漁師から魚を買い取ったら、漁師が苦労してうまい魚を捕るのをやめた、という話(どんな魚でも同じカネになるならわざわざ苦労はしない)を読んで。
 
 昔から社会主義の悪口に使われますが、小生産者というのはこういうものなんですよね。
 「疎外」というものは、マルクスやマルクス主義者がなんといおうが、本来、私有財産にも共有制にも関係がない。行為にはその結果が必要なのに、その結果がついてこない、ということ、これが本来の疎外状況です。
 苦労した結果が同じなら、それは行為の疎外です。
 
 小生産者というのは、分業生産者(労働者)のように自分の行為結果を組織上で得ざるをえない人々、ではない生産者(労働者)のことを指します。自分の手で行為結果を入手できる人々ですね。といっても商品経済社会ではそれをいったんカネに変えるわけですが。

 もちろん、行為の結果がカネにしかならないことは、(ヘーゲルがすでに言った気がしますが、まあマルクスがいってもよく) それはそれでそれ自体疎外状況ではあります。
 ただし、その状況の中では、カネを媒介として行為と行為結果とは2次的に直結(?)しているのです。つまり、労働行為の結果の売上金の多さは、妻のドレスを生み、子供の学費を生む。
 どんな体制であろうと、結果と直結しない労働は、娯楽的労働以外には、行為の意義がない。
 遊んで仕事ができるなら、それはそれでいいですけどね。
 
 で、じゃあどうするんだ、って。
 行為の「結果」の意義を変えるんですね。
 
 生産物の交換が必要な社会では、生理性の側面上、生産物の量(ばかり)ではなく、質に意義を持たせるようにする。 生協の世界ですな。
 あるいは、賞賛や優越の側面上、生産することにまつわる賞賛や優越に意義を持たせる。 野球、サッカー、将棋指し、ボランティアの世界ですな。
 いずれも、生産力の裏づけが必要ですが。
 
 
 本稿での問題は、現実にどうこうするということではなく(どうせ資本主義社会ですからあーだこーだいうのも無駄でして)、人間というのはそういうものだ、ということを認識しなければならない、ということでした。
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戦後主体性論と経済

2011-07-09 22:16:44 | 行為
 こんばんは。もう夏本番。
 ここのところこの場は悪口ばかりでちょっと自分でもイヤけ。

 そこで本日は、ちょっとお客様の対象を絞りまして

 黒田寛一「宇野経済学方法論批判」を読んで。

 う~~ん、二人とも知らないですか。でしょうね。
 私もネットで検索してみましたが、ほとんどゼロ検索に等しかったですから。

 黒田という人は、昔の新左翼理論の、よい点と悪い点を一人で体現していた、ある意味、稀有な人です。「よい理論点なんかない」という旧・新左翼も少数いそうですが、それは理論のない左翼といわれても仕方のないところ。赤軍派みたいなとこですね。まあ、ここはここで(連合赤軍ではありませんよ)よい行動派には思えますが。(この辺の「よい」は、「良い」でも「善い」でもない意味合いではありますが)

 宇野という人は、世界ではじめてマルクス経済学を庶民にもわかるように整理してくれた人。
 べつに左翼理論ではないので、共産党からは批判者として嫌われるわ、弟子達は右翼になってしまうわ、で、現在、せっかくの業績も埃りをかぶっています。
 ま、それも時節の問題でね。私の理論と同じ。時がくれば甦ざるをえない真理なので、べつに時代を超えてアホにウケ続けなければならないということでもありません。

 さて、この本自体は50年前の本ですが、20年前に増補版が出たので、首都圏でしたらまだ図書館に残っております。(最近の首都圏の図書館はどこか他の館にあれば取り寄せてくれます)
 50年前などと驚かれるな。だいたい、戦後40年の社会科学の歴史の中で(残りの20数年は言説という名の文学エッセイの世界)(いや、文学エッセイも本物はバカにしたもんではなくって、最近読んだ辻井喬のはなかなか)、 進歩など(歴史学以外)一つもない。 
 
 で、黒田氏という人は宇野がなぜか好きで、本書も宇野の賛辞の書。
 さっき私がしたネット検索では、大藪龍介(という政治学者。経済学者ではない)が「宇野経済学方法論と学問的に対決したなかでの最良の書、黒田寛一『宇野経済学方法論批判」などと持ち上げております。
 一瞬、ポカン。その後、大藪が、昔、黒田氏の関係セクトにいたことは思い出しましたが、要するに、そういう誤解やひいきがでるような評価は世間に存在するわけで、これがなんなのか、この30年、ぜんぜんわからなかったところです。
 だってさ、関係者がご覧になると分かりますが、宇野を賛辞しながら、肝心の宇野理論については全面否定、こういうのをボロクソというんだろう、みたいなもんで。共産党の宇野批判書物と何も違わない無理解の本。まあ、ばかばかしいレベルの話。
 これで何が 「宇野弘蔵の業績は「日本マルクス主義経済学における最高の一成果(黒田)」 なんなのかわかりゃしない、というものです。しかし、黒田氏、どの面下げて、としか思えませんが、それで宇野に書簡かなんかで賛辞を送ったりして、宇野が困ってたのを思い出します。
 
 話を元に戻します。
 
 話とは、当該書物の黒田氏の意図がわからない、ということで、今回それに絞って見直しました、ところようやくわかった、という喜びのブログ記事です。
 
 結局、黒田的には、「生きている人間の労働力が資本主義に絡め取られていることこそ資本主義の悪さであり根本矛盾だ」 という根本足場を、宇野が経済学の重鎮として話してくれたの(だけ)が偉いと思ったのですね。宇野弘蔵、昭和24年現在、東京大学社会科学研究所所長ですから。御年52歳、って私以下ですな、ま、ガキとはいいませんが、そんなもんです。
 
 その偉さがほんとに分かってたら黒田氏も偉いものですが、その辺は知りません。
 しかし、お若い皆様、実際、生きている人間にとって偉いところとは、そんなわずかなところなんですよ。
 私などはマルクスの次に宇野が偉いと思ってますが、それを受け継いだ弟子が、それ以上やることがなくなって右翼に走ったとしてもそれはそれでしょうがないし、それを見た子ども達(という40歳以下日本人)が、宇野など読みもせずに「宇野とるに足らず」と思っても、それは相手をするだけバカですね、子どもらはどうせ状況が変わればついてくるものですから。
 
 どうも論旨が飛びますが、元に戻って、
 で、黒田氏は、「そうであれば、その線を押し通して、経済原論を書いて欲しい、私には書けはしないが、私の役目は、宇野を批判して、『その線での資本論』を誰かに明らかにさせたい、そう叱咤激励することだ」、と考えたことのようです。
 
 へえ、、、と自分の物分りのよさに感心。
 まことに余談ですが、人間疲れていると、他人に優しくなるものです。
 でも、こんなに優しく解釈してくれた人は身内のセクトにもいなかったしこれからもいないと思うな。
 
 元に戻ります。
 しかし、そんな内容の経済原論作成などできようはずがない。
 マルキストは、世の中広義の意味での経済で動く、とにかく、他律的にはそう動く。 それに、カツを入れるのがレーニン主義者たるわれわれだ、と思ってます。
 しかし、それはウソだ。
 わざわざウソというまでもないことですが、このブログで「ウソ」というのはそれだけで存在意義がない、という意味です。
 いくらマルクスが偉かろうが、資本論で革命への道など説けはしない。それは実践家であればあるほど分かりきっているはずのことだ。
 それを分かっていて、「経済原論」に期待するというところが、いつの時代にもシャーマンの存在意義がある、というところですね。
 
 というわけで、ずいぶん長くなりましたが、理論家隈の決意表明。
 
 おじさんがやってあげるよ、そんなこと。
 そんなことは経済学じゃないんだ。社会学という社会科学の理論なんだ。しかも、黒田氏や日本共産党が何を言おうが、普通の人宛ての原理論ではそんなものは出せはしないんだよ (応用理論だよ、ということ)。
 その証拠に黒田本人も後継者も共産党の党員も、誰一人作ってないだろ?
 できゃしないのさ (これは応用理論でも基礎理論でも、そのカケラもできない、ということ) 何でも。
 
 ほんと、ぐずぐず人の悪口ばかり言うやつは嫌いだ、ってどうせ元から嫌いなのですが。
 悪口をいうなら自分でやってみたらいい。努力の一つもしないで人の悪口、いいたい放題。てめえでやれ。なんか言い訳でもあるのか。
 
 はい、隈の応用理論、期待してください。
 
 
     しかし、基礎理論も出版されないことには、、、、ったく。デジタルパブリッシングサービス様。もう7月も中旬ですが。
 
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あの人も同じという周知

2010-10-03 16:58:39 | 行為
 こんにちは。ようやく過ごしやすい季節に入りました。何であれ仕事のかき入れ時で大事にしなければならないこの3ヶ月、まだ体調不良でざんねんですが。

 さて、ここんとこなぜか訪問の方が増えていて、趣旨がよくわからないのでちょっと堅いことを書いてみようかと。
 
 以前にちらっと触れた朝日新聞夕刊連載の渡辺周さんの記事が、まじめなまま終了しました。男女の感覚が逆になってしまう人たちのテーマ。
 ご存知のように私には関西人に偏見がありますので、ほお、という感じ。彼氏は名古屋辺りの人なのでしょう。あの辺の人はまじめだから。(なんて、訪問の方も増えたということは、この偏見は隠そうかしら)

 それはそれとして、こうしたテーマは、つまらなくとも真面目に終わらなければ意味がないのです。
 面白ければ読者も増えるでしょうがそんな記事はないほうが良い。

 こうゆう記事とは、一種差別されている人の、差別を解消する方向を書き手が期待している記事。

 つまり、こういう一方通行の情報(注1)による差別の解消では(注2)、行為共同性を認識させることがポイントであるにもかかわらず、面白いということ自体で、優越的自由の満足にすり替わってしまう、ということで。

 はい解説。
 社会的な人間行為の(選択の)原則は、自分の一瞬先の将来に、
 1 生理的必須条件の解決
 2 (主に抽象的な)賞賛を(心的内部で)受ける予想
 3 (自己の行為の自由の確保のため育成された)優越の感情を満足させる予想
 を見ることによってなされます。
 こうした行為は、実現される限り、人間行為者にとって「面白い」ことです。
 
 しかし、個人内部における差別の解消はそれとは違う。
 個人内部の差別とは、自己と違う認知です。それが外部環境での(下位を示す)評価によって「馬鹿にすること」を許されている状態が個人にとっての差別です。
 
 この解消は、『それらは自分とは違う』という認知の否定、つまり行為共同性の一致になければなりません。
 行為共同性とは、個人にとって、その他人が、自分の持つ行為の将来と同一の将来があるという認知です。自分が陥らない奴隷階層の奴隷は、人間ではない。一方、小学校の同級生が昨日落ち込んだ奴隷階層の奴隷は、没落した人間だ、という認識です。前者には差別があり、後者には差別ではなく、当人の性格が相当悪くてもせいぜい眼をそむけて道を歩くという感情があるだけです。
 
 で、行為共同性。あの人はこんなに苦労したんだ。そりゃあ大変だろう、俺だって別のことだが、こうゆう時には苦労したもんな。「がんばれよ」、あるいは「つまんない話だけどわかったよ」。そういう現実を記事において表現し終えることが、大事なのです。たかだか個人の心の動きですが、このテーマの場合、始めから個人が持つそういう人への差別のようなものは大した社会的根拠があるわけじゃないので、そんな個人的なことでも社会的に相当程度の影響をもたらすのです。
 
 これを笑いもの記事にしてしまえば、『バカにしていいやつらが世間にはたくさんいるんだ』、という一般の認識強化か、笑いものにしたやつへの怒りによる極少数者の行動喚起しかもたらさない(いまどきそんな気の利いた人間は極少数もいないいだろうけど)。

 で、渡辺周さんは偉かったという。

 お疲れさまです。
 当行為の理論の詳細は、隈のHPにてご覧ください。
 

(注1)ささいな話ですが、両方向の情報なんて本来ないのですが、文学的にそう表現したがられるようなコミュニケーション局面では、また少し違うということで。
 違うといっても社会科学的に意味のある違いがあるわけではないのですが、社会心理学的には違いが出てしまう、そのことを学者の方が勘違いされても、という注で。なんてささいな。

(注2)もちろん差別の大部分は、心だけで解消に前進するようなもんじゃございませんが。
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カネで買えないものがあるか

2010-02-27 11:15:14 | 行為
 とゆうわけで、同日ですが、これが本題。
 次回配本を推敲しててもはみ出るものがあるんですよね、こういうのは社会学ではなさそうな、 みたいな。
 削るのももったいないからこっちへ書いておこうかというところ。

 カネがあれば何でも買えると思いませんか?
 昔、堀江だか堀井だか、そんな人も言ってましたね。
 だいたい、昔の私のように貧乏な人間は、そりゃなんだって買えるだろう、とヒネて思いつつ、それも悔しいから堀某が監獄に入れられれば、ざまあみろ、国家権力は買えなかったか、なんて思う。思うだけで、そりゃカネが足りなかっただけだな、とは考える。愛だって買える。90歳までは命だって買える。

 たとえばマルクスなんて見てみると、彼にとって、貨幣とは「人類の外化された能力」なんだそうです。
「私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがってわたしのあらゆる個人的な本質的諸力がなしえないこと、それを私は貨幣によってなしうる。」
マルクス「経済学・哲学草稿」城塚登・田中吉六訳、岩波書店、1964。
(悪口を言うのにわざわざ文献を表示するのは下品でいやですけどね。疑うやつもいるし。)

 悪口? はいはい、インテリ的寄生収入と前近代的共同関係の中で育ったマルクスにとって、個人の行為など頭の先にもない、ってことです。。
「人間は類として何かを行う。」
「人間は、食事を作ることではなく、出された食事を食べられれば、生産者と同じに人間的に生きていることになる。」
 この2点を疑ったことなどそれまでなかった、あるいは疑うこともないまま(人のカネをあてに暮らして)晩年も迎えた、ことでしょうね。
 しかし、本当は違う。貨幣で得られるのは、夢だけです。他人と同じであるかのごとき夢。
 カネでは、人間の行為は買えない。

 行為がカネを媒介とすることには何の疎外もない。あるいは疎外の一部ではあっても全部ではない。そうではなくて、カネとはただの「選択」だ、ということです。選択は行為ではない。行為しなければならないときに、人はカネを媒介とすることで、選択すれば済む。
 そんな行為は人間にはない。
 あるのは、財布からゼニを出して、他者の前に置く、という行為だけだ。
 
 実存主義者がプチブルだというのは、(って、そういう文言は知らないですかね、でしょうね) 彼らは選択しかしない生き方しかしていない、ということだ。(もう実存主義者なんてみんな死んじゃったか、社長をしてるか、だから、「していなかった」ですね)

 本来は、人間は実現するために行為をするのだ。人間は金がなければオリンピックフィギュアスケートの舞台に立つことはできない。しかし、カネがあろうがなかろうが、スケートを滑る、この1点が人間なのだ。
  当たり前ですな。当たり前のこともわからぬ、昔から今までの人々。
  特に、マルクス。文学的影響力がありすぎ。ま、平凡な人間は面白くなきゃついていかないし。
 
   それに、貧乏な人にとっては、カネがなきゃ買えないもんがありすぎるんですよね。
 
 
 さて、私儀、本の推敲を3月末までに終わらせようと思っております。
 理由はありませんけど、納期がないと何もできない私。かくて、更新も少なく。
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行為という本質

2010-01-17 16:55:16 | 行為
 こんにちは。
 昨日は他愛もない話で。
 なんですが、どうもお客様がかなりいらした感じで、理由は不明ながら、少し「らしい」ことを書いておかないと誤解されても面倒で、みたいなところ。
 そこで、なんか「らしい」ものは、とネットサーフィンしたら、某派のサイトに、若い人向けの学習ページがきちんとあるのを発見しました。
 おう、すごいじゃん、とデバガメで覗いてみましたが、まあ、そこそこなもので感心しました。
 正しいとかじゃなくてね、必要なものを必要なかたちで、というかね。
 で、感心はしたんですが、そうだよなあ、若い人たち相手に、正しいことをいったところで、しょうがないよなあ、みたいな感想も持ってしまいました。
 そういうとこの情報が間違ってたって、教えてあげる気にならないもんね。結局、それがなんだというのだ、みたいなことになって。無意味だよね。ふ~~ん、、、そうか、、、

 やっぱ、読者対象の方々の想定って難しいなあ、、、

 活動家にはマルクスの神格化が必要なんだろうけど、私などにはそんな気はさらさらないし。
 経済学哲学草稿なんて、プチ・ブールジョワの若いマルクスが、ヘーゲルなりアダムスミスなりに学校で習い覚えた反論を述べただけだし。いわく、「人間の本質である労働が疎外されている」。両先達を頭に置いて「これはちょうどいい、これこそ逆立ちした弁証法だ」、という子供の喜びが感じられませんかね?
 
 おかげさまで、こちら(真理としての社会科学)は大迷惑です。

 隈の読者はご存知のように(と、さりげなく宣伝)残念ながらそれは違う。
 人間の本質は行為にあるのであって、行為の1変種にすぎない「労働」にあるのではない。
 シンプルに先の図式に反駁しましょうか? マルクス等の趣旨は資本主義社会の労働における疎外です。じゃあ、奴隷労働はどうなんだ? 奴隷労働は疎外されていないのか。(すいません、この図式がわかるのは、ある種のオタク的専門学者に限られてますんで初学者の方は、「何いってんの?」で収めてください。)

 人間が労働が好きだったら、どうしてみな工事現場で働かないんだ?
 あるいはどうして電話の口先一つでばあさんやら世間知らずから大枚をふんだくろうとするんだ。地下道を掘って銀行の壁を破るとか、もっと体を動かすのが本来だろ? それとも泥棒労働も疎外されているのか?
 余りにも反証が多すぎやしませんか。
 隈に言わせればそうではない。
 私は、無責任な評論家と違い、人間だから、自分について本当のことをいえる。
 私は適度に体を動かすのは好きだが、熱天下で体から塩を噴きながら働くのは、1年に一度でいい。もちろん、私は年寄りをだましてカネを儲けるのは嫌いだ。

 結局、人間は、したくもない労働をさせられているのです。奴隷であれ、労働者であれ。
 
 人間の行為の本来性は、人との交渉の中で、個人行為の成就を確定してくれる関係にあるのです。なにそれ? 典型例で、趣味の成就が行為の成就です。
 労働労働って、そんなものが楽しいわけないじゃないですか。
 家族に何か採って帰らなきゃならない、でも何も採れない。魚もウサギもライオンも。そんな胃が痛むような境遇が楽しいか。寒い吹きっさらしの工事現場で現場監督に怒鳴られて昨日の監督の指示と違う配置に追いやられるのが楽しいか。
 
 しかし、人間の本質は行為です。
 魚が採れずあきらめかけた最後の竿の一投げで、なんとかサバでも釣れたらその喜びはどんなか。吹きっさらしの工事現場でもなんとかガラスの外壁をはめ込まれたらそれはそれで「やったぜ」と思う。
 それは労働が本質だからではない。行為の成就が本質だからです。
 趣味の成就。すなわち、行為の生理的な制約を超えたところで行為が成就されること、行為の原則が成就されることが人間としての幸せなのです(行為の原則については、隈のホームページの「今回のトピック」ページへ)。

 前からの読者の方には、ちょっとくどかったですかね。
 
 でね、こんなこと書いても、運動の足しにはならないって。そうなんだけどね。
 でも運動の間違った指導を制限する役には立つの。って若い人に言っても、やっぱしょうがないねえ、、、
 
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間宏先生

2009-12-05 15:03:04 | 行為
 喪中欠礼の御葉書で間宏先生が8月に亡くなられたことを知りました。
 私の学部、大学院の指導教官です。
 専攻:経営社会学
 
 文系学問の世界というのは、大学院ともなりますと半分就職のようなもので、お金はもらえませんが、(というより、授業料を払って)そこで仕事のノウハウを学ぶ、という徒弟制度です。なので、初めての就職先の社長さんのような方です。
 
 とゆうと、なんでお前が経営社会学? ということになりますが、経営社会学というのは最近の呼称で、その前は産業社会学といい、更にその前は労働社会学といいました。と、ここまでくるとちょっと関連がわかるでしょ。
 (こうゆうのを時代の変化というのですが、当事者たちはそうは思わないのが人々の常ではあります)
 
 のうえに、この先生の本当の学問視角は、個人としての人間の生き方が経済にどう関わっているか、ということなのです。それは思春期以降亡くなられるまで変わらなかったはずのことです。先生は誠実な方ですから、生き方とは、衣食住の生活のことではなく、個人の信念・思想のことでもあるわけです。
 と、ここまで来ると、なるほど相当ダブってるな、と思われるかと。
 実は、ダブっているんではなくて、私が先生の学部1年のゼミからそういう視角を受け継いだので、要するに弟子なのですね。
 (とゆうと、本当のお弟子さんたちから、お前なんか途中でドロップアウトして学会にも入いらなかったくせに、よくもまあそんな知ったかぶりを、と言われるでしょうが、ぜんぜん気にしません。これは間違っているはずがない。)

 でもまあ、いくらダブっていても、学者経済というのはそうはできておりません。具体的にいうと、経営学にシフトしないと就職ができない、ということですが。
 行為理論その他の理論をやりたかったら、そういう先生について、そういう先生のノウハウの下に活動をする必要がある。ところで、そういう方が先生だと、まずはその先生の理論を通過しなきゃいけない。ところが私は、その頃から独善的で、要は、間先生の寛容な精神を持って初めて受け入れられた、といいますか、「就職できないんですか。しょうがないですね」、ってわけです。
 
 ふんふん、昔話。
 結局、この先生が好きでしてね。誠実だから。弟子の最後のしっぽであることに誇りを感ずるところでもあります。
 (ネットをみてましたら学園紛争時に学生に糾弾されて体を壊したなどと根拠のない話が載っていますが、仮に間先生が糾弾されたら社会学専攻学生全員は挙教室一致して反糾弾したことでしょう)

 わたくしなどの箸にも棒にもかかりそうもない長い理論形成活動をぶつぶついいながら見守ってくださったことを感謝しつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。
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そう思う、ということ

2009-11-29 17:18:29 | 行為
 こんばんは。まだ5時ですが。
 いつの間にか秋ですね、と書こうとして書かなかったことを忘れないうちにいつの間にかイチョウまで真っ黄色、いつの間にか冬ですね。
 まことに健康によい季節でした。良すぎてあまり勤勉になれませんでしたが。(わたしは睡眠を必要以上にとるので、風邪が怖くありません。たぶん、実はもう何回も罹ってるのでは?)。
 
 前回は当り散らしましたので、この辺で、ためになるブログ、「人の悪口は気にしないように」論。
 
 たとえば、美しくない人がいて、
 けんかをしたある日、ボーイフレンドに「なんだブス!」といわれた。
 
 本人、翌日、友達に「ひどいの、あいつ あたしに 『ブス!』 なんていうのよ」
 友達A:「ひどいわねえ、でも、けんかだしね」
 友達B:「でも、思ってないことは口にできないわよね」
 本人:「そうよね! え!? 、、、そうよね、、、そう思ってるのよね」
 
 なんて話。ありません? ま、なくてもいいけど、仮にあるとすれば納得しませんか? 「そう思ってたのよね」
 
 さて、思ってないことは口にできないか、というところで。
 そんなことはない。
 人の言葉というのはそういうものではない。
 ボーイフレンドは、別にブスなんて思っていない。単に美しくはないな、と思ってるだけ。
 同じだ?
 同じではない。
 そこには何も人を貶める気などない。「美しくないから、それがどうした、彼女は私のガールフレンドだ」ということです。そういうことを疑ってはならない。
 「ブス」というのはケンカ言葉です。分かりやすい例だと人をバカというのと同じだ。
 Cという人間をバカといえば、いつもCをバカと思っているのか、といえばそんなことはない。人間そんなヒマじゃないし。
 先の場合、「そう思っている」=「貶している」ということだが、ボーイフレンドは、彼女を貶したいなどと「思っていない」。
 人への賞賛や反賞賛を含む言葉は、表現する瞬間に形作られるものです。
 人間は生きているときに他人に対してそれらを抱えては生きていない。
 抱えているのは自分への賞賛だけ。
 だから、社会運動がありうる。
 適切な時期に、タダの客観的な状態に賞賛言葉を付け加え繰り出していけば、そのときに人が乗ってくる。人は今まで思っていなかったけれどもその賞賛や反賞賛の言葉を聞いて、新しい(たとえば支配者をバカにしてもよい、という)世界を得ていくわけです。
 
 とゆうわけで、悪口というのはばかばかしいものです。
 人は相手を貶そうとしているだけで、それを思っているわけではない。
 例えば、前回の例では、天声人語の説が間違っている態度から繰り出されたことを知ってもらえばいいんで、コラム者など死のうが生きようが勲章を貰おうが私には何の興味もないわけです。私はそんなヒマではない。
 あ、気にしてもらうならそれはそれでかまいませんけどね。
 
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フランス的全体主義

2009-08-23 21:07:26 | 行為
 こんばんは。今日は本式の更新。って、おんなじように酔っ払ってたりして。

「第2次世界大戦、フランスは早々にナチスドイツの占領下におかれ、ナチスドイツの圧制にレジスタンスを組織して戦った」

 と、思ってる人は、いますか?
 
 「コンバット」(知らない?)で育った私はとりあえずそう思いますけどね。
 さらに大きくなっても、フランスなんてサルトルたち以外知らない、という青春でさあ。当たり前じゃんと、まずは思います。
 で、2拍くらいおいて、「しかし、ペタン(首相)なんてのもいたな」 という歴史本の知識がやっと出てくる。ペタン首相というのは、「ナチスドイツへの協力政権」、てwikiに出てます。wikiもいい加減だけどね。
 
 で、ですね、「これは巨大な嘘だ」とフランス人に言われたとしましょう。そうすると、あ、そうなの。って感じになりまして。
 それが、このたび流し読みした『フランス・イデオロギー』、ベルナール=アンリ・レヴィ著。国文社。
 いやはや、ボロクソ。
 なんでも、大戦時フランスも日本と同じ全体主義国家だったそうな。もちろん、ナチスと同じといってもいいんだけど、なんか読んでて、日本で大正自由主義から戦争体制へなだれ込んだ過程を2年でやっちまったようで、まるで日本のようだね、と思わせます。
 といっても、本書は歴史記述ではなくて、フランスにこんなに人間がいたっけ、と思わせるほどに、フランスの政治家、知識人、文学者の名前を次から次へと挙げて糾弾しております。
 
 面白かった。
 当人ユダヤ人てゆうか、そんなフランス人なんで、(大戦中のユダヤ人虐殺を思い)気が入ってるんだろうけど、これじゃ全フランスを敵に回したろう、と思われます。あいつら、少なくとも偏執的愛国主義者だからね。
 
 本書の結論自体は、意味ないんですけどね。
 「フランスじゃ昔からそんな考え方が綿々と続いていた、我々を含め、フランス人は、これを自覚して脱却せよ」、みたいなもんでね。
 彼氏本人は、ただの記号主義者。
   バカなことはいわんといてよ。イデオロギーは、状況が作り出すものです。そのみかけは、フランス的だろうけれど。
   と、こんなこと1行いってもしょうがないけどね。
 
 でも、若い人は、こんな事実を覚えておいてください。フランスも日本も同じ全体主義国家だった。でも、評論家は西欧は日本みたいじゃないって言ってるよ? さあ、そこはご自身で考えるとしまして、
 
 本日のためになる知識
 
  彼氏の結語に「あるイデオロギーに真に対抗しうるのは別のイデオロギーだけだ」というのがありましてね。
  これは「イデオロギー」が、「理論体系」を指すのであれば誤りです。
  事実認識としてのイデオロギーには、確かに別の事実認識で対抗する必要がある。
  イデオロギーが運ぶものは、ターゲットになっている行為者の将来だからです。
  これに対抗するには、その行為者の未来を別のものに変える事実体系が必要です。
     しかし、それは政治イデオロギーである必要もなく、記号体系である必要もない。
     行動自体を含み、行為者の将来を見せる全てのものが、イデオロギーに対抗しうるのです。
    
      とゆうよりも、敵もそうやって来るのだから。
      要するに、イデオロギーに見えるものと闘うのは、文化と文化の総力戦だよ。
      
 
 話は変わりますが、本の訳者が、以前に私が悪口を書いた内田樹でね。これがうまいの。感心してしまった。なるほど、こんな訳者的才能があるんだね、という感じ。
 難しいんだよね、インテリのフランス語って。飾り言葉を長々と使ってダラダラと書くのがフランスインテリのお約束だから。
 私では1ページも見ないで放り出すような原文であることが訳文からありありと分かりますが、これを本物の日本語に移している。分厚いんだよね、本。えらい。いやなやつでも褒めるところは褒めないと。(でも全部ひとりで訳したのかなあ)

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知識の倫理的敗北

2009-06-07 22:21:37 | 行為
 こんばんは。1週間余計に経ってしまいましたね。ここんとこ給料を貰って体を動かす幸運に感謝しているところでありますが、体がなまってもおりまして、気づかない疲れもちょっと溜まっているようです。

 今日も本来忙しかったところですが、昨日はもっと気疲れで。
 3つ4つあった気疲れの原因の最大が、カラスの子供。
 勤め先が都内とはいえ田舎で、気づいたら近くにカラスなんかがおりまして、その巣からヒナが落ちた。ヒナったってでかいやつで飛び損なって落ちたまんまウギャーウギャーと甘えた声を出しながらわずかに歩くんですが、親が2匹、どうしようもなく隣りの建物にとまって、近づく人間に上空から襲い掛かるんですね。
 そいつが私の勤務先の直下なんで、敷地の管理人はいるんですが、関係ないとばかり勝手なことを言うだけ。私んとこは、お客やら第三者やらが突っつかれたらこっちのせいにされるんで、はてさてどうしよう、なんて状況。
 なんとか排除しろ、清掃事務所が持ってってくれる、とかいうやつは言うんですが、そんなことしたらヒナが死んじゃうじゃんかよ。
 とはいえ、子供でも突っつかれて血でも出されたらネットで会社が散々にいわれるかもしれない。
 とりあえず注意の貼り紙を幾つもプリントして雨ん中貼り出したりしつつ清掃事務所でなきゃ保健所だ、区役所だ、都庁だ、っていろいろ説はありながら、お願いしたところは消防署。
 消防署のみなさんは、いい人たちで、ほんと、救命に生きる人たちなんでしょうね、改めて感心したところですが、だからといってどうしようもなく、ウロウロしてお客のいるほうへいかせないように大きなダンボールの上部だけ開けたのに隔離してとりあえずの終了としました。
 運がよければ飛び立つし、まあふつうはそのまま死んでしまうのか、とは思いますが。さてどうなりましたか。

 ま、ここまではコーヒーブレイク。
 
 問題は、知識的には落ちたヒナには肉でもやればいいものなのに、隔離して人間に害なくさせるところが私に講ぜられる方途だった、ということです。
 つまり私的には利害関係的に敗北すること。まあいつもですから平気ですけどね。
 
 平気ではありますが最大のストレスでもあります。
 私はカラスなんか大嫌いですけどね。
 どのくらい嫌いかというと出勤前ゴミ捨て場に寄ってくるカラスをいつも威嚇するもんだから、カラスに頭を蹴られるくらい嫌い。蹴られる前から嫌いです。
 だけど、相手は赤ちゃんだし、また、赤ちゃんの親ですからね。親も大変ですよ。人間のガキが、やめろって貼り紙出したのに、ちょっかい出そうとするし。そのたびばたばた羽を鳴らしながら排除しようと、って、何時間もやってられないよね。

 でさ、そんなかわいそうなカラスに同情してるのは私だけかよ、みたいな状況。
 さすがにどうしてもゴミ回収にこだわるやつはいなかったし、消防署を選んだ社員は良心的だったからだと思うけどね。
 
 さて、かのように、「鳥のヒナ」をめぐる全ての知識は、現実の前に意味をなくすのであります。
 「なくしたのはお前だけだろ。一緒にするな」っていう評価をできる人は本当であれば好きですが、そんなやつはみんな嘘つきでね。やれやしない。
 知識が利害と一緒になるとき、それが未来につながる救いであり、あるいは同様に、その時代での叛乱を押さえる「救い」であるわけです。
 「こうやれば正義が達成できる」ということが、現実に自分が生きることと適合する、ってことですね。それが『歴史と階級意識』という命題です。
 もちろん、その前提は、自分についても同様の利害関係者であるということですね。頼るのはお釈迦様ではない
 ○○でもない、
 と書こうとしたけれど、そんないい人間て釈迦だけなんですね。キリストもマホメッドも、カラスのヒナとは全く無関係の冷酷な存在ですね。どうでもいいけど。
 かつ、釈迦っていっても日本に言い伝えられた釈迦だしね。

 などなど、今日もそれが影響してました。今日は今日でストレスでしたけどね。
 
 で、わずかな救いは、同じビルの、ほとんど顔しか知らない別の社員とトイレで会って、私が当該策に賛成したとは知らないその人から
 「あのカラス死んじゃいますね」
 といわれたことです。私も「そうなんですよね」って答えただけですけどね。
 つまり、カラスの威嚇攻撃だけが話題になっている世間で、こいつにはヒナの話題をフレるな、と思われたことがうれしい。だいたい、それまで周りじゅう「捨てちゃえ」派みたいだったし。
 後で「なんだよ、あいつがやったのかよ。偽善者め」って思われるかもしれませんけどね。

    ふうん、偽善者かもね、そこには興味ないけど。


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自由論者(その2)

2009-01-11 22:51:41 | 行為
 前回の続きです。

 リバータリアン、英語のリベルテール(仏語)みたいなもんですが、には、3つ意味があるようで、一つはアナーキスト穏健派、一つは右翼資本主義者、最後に「自由論者」って訳す、へんな人たちがいます。って、英語の本見てたら訳のわかんない「libertarian」ていう単語が出てて、なんじゃこりゃと思って調べただけですが。今回は、この自由論者にまつわる解説です。

 ロバート・トッド・キャロル様によりますと、下記のようになってまして
 http://www.genpaku.org/skepticj/freewill.html

「伝統的に、自由意志の存在を否定する者は、運命や超自然的な力や、あるいは物質論的な要因を、人間の行動を決定する要因と見なしている。
(つまり、世の中のことは神様が決めているから、人間の入る余地なんかない、ってことです)

自由意志の信奉者は自由論者とよばれることもあるが、
(つまり、この「自由論者」が、第3のリバータリアン)

彼らは人間の行動以外の世界がすべて、外的要因による不可避的な帰結かもしれないが、人間の行動そのものは独自のものであって、行動主体によってのみ決定可能であり、神や星々や自然法則で決定されるものではないと信じている。
(だそうーで)

自由意志にかんする伝統的概念は、モラル行動における人間の責任という形而上学的命題において、西洋哲学の主流になっている。」
(つまり、世の中のことが誰かが決めたことなら、悪いことをしたって、そいつは何も悪くないじゃないか、ということです)

 以上。詳しくは、皆様のお勉強におまかせしまして、とにかく

 この手の話でなにが不愉快って、『運命がなんだって? 人間の行動は独自だって? 余計なお世話だ。関係ねえだろ、おめーらにとやかく言われる筋合いはねーや』ってことです。

 要するに、西洋世界は、ルネッサンスまで、キリスト教に保護された奴隷体制により、お上にたてつくなんて考えられない世界だったわけです。その中では自由などありえなかった。 しかし、技術と産業の発達で社会も変わりそうもいってられない、奴隷でない人間達が現れた。こいつらをなんとか取り込まなければ、国家支配の道具たるキリスト教はお役目不履行になる。
 かくて、とりあえず、運命はあるけど、個人の自由もあるよ、としゃべるように、支配階級のお墨付きが要求された、それが第3のリバータリアンなのです。つまり、自由にしろ、不自由にしろ『いずれにしても、世界はそう決まってるんだよ、私という権威者がいうのだから間違いない。証拠が欲しいだって? 不信心者め。地獄に落ちるぞ。』
 自由などとは片腹痛い。奴隷制度の思想です。

 ただ、批判してるだけだとわかりにくいですよね。
 もう一度、行為者、つまりあなたや私個人に帰るとわかります。
 今、私が自由かどうかは、このブログ原稿をアップロードできるかどうかです。
 アップロードできれば私は自由だ。それが『運命に定まっててほんとは私は不自由だ』ろうがなんだろうが、「勝手にしゃべってろ、バカ」ってもんでしょ? 違いますか?
 アップロードを誰かが妨げれば私は自由でない。『アップロードを妨げられようと、アップロードをしないことを決定したのはお前だから、本質的にお前は自由だ』って? 「勝手にしゃべってろ、バカ」。

 この手の論議が20世紀まで続く。西洋哲学というのは、根本的に奴隷制度の思想なのです。




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自由論者(その1)

2009-01-11 22:46:31 | 行為
 こんばんは。
 正月にはゆっくりしすぎで体調を崩してしまいました。いつもなんですが。
 出勤すると体調が良くなるのはおじさん症状ですねえ。

 ここんとこはろくな情報がありません。派遣やら火事やらイスラエルやら。
 派遣問題は、できないなりに周囲の日本人に助ける気持ちだけはありそうで、まあまあのところはありますが、イスラエルには腹が立ちます。やっぱりユダヤ人て旧約聖書の時代から頭おかしい人種じゃないか、って気が出てきます。当然、ネットでも相当出ますよねえ。私も一般大衆ですので、感覚が違ってなくてうれしい。

 左翼がこんなこといっていいのか、というと、そりゃあよくない。こうゆうことをいってると、吉本隆明みたいにただの資本主義者になってしまいます。私が言っているのは「そう言いたい気がでてくる」ということで、そこに「言われたくないなら虐殺やめろよ」、という根拠があるということです。
 別に日本だって同じですね。日本鬼と呼ばれたくなかったら、ウヨのように悪口で返さないで、そう呼ばれない行いをしたらいい。まず、引き起こされている感情は、お互い知らないといけない。
 そういえば、イスラエルのユダヤ系住民の9割以上が虐殺に賛成だそうです。評判悪いですよねえ、私はこれからアウシュビッツの話を聞くたび、今の事態を思い出すと思いますしね。そういう人が他にもたくさんいるだろうってことですけど。

 ただ、一応左翼のつもりなんで言っておきますと、戦争って、本来、始まってしまえば人民の9割以上が賛成するもんなんですよ、負けないうちは。生理性の極致ですからね。別にイスラエルだからってわけじゃない。私だって始まってしまえば人殺しぐらいするかもしれない。同じ共同性内の罪のない人間が誰か死にますからね、9割以上の人って頭に来ると思いませんか? それが100人対1人だろうと、生身の怒りは理屈じゃないし。自分の生存物資が尽きてそれどころじゃなくなるまでは。
 だからいいとはいってないですよ。戦争は、やめるものではなく、やめさせるものです。アメリカは遊んでんじゃねえよ。
 という意味では、アメリカって戦争したことないともいえます。実態は戦後60年間戦争をし続けているわけですが、第2次大戦後は、ただの下層階級が10万人くらい死んでるだけですしね。1年で2千人死んだだけです。2千人投資すれば済む一大ビジネスですね。そりゃ反対運動も起こせますよ。しかし本当にアメリカが国を挙げて戦争したら、地球にはゴキブリしかいなくなる。核戦争後、美しい青き地球は何色になるんでしょうか?
 まあ、戦争というのは、煽りが生まれる前提を作った奴と、煽った奴と、戦争を決定した奴が責任者です。

 さて、本題です。
 自由の概念について。
 ……前置きとまったく違うし。
 くだらないことをいってしまったので、ただの場なおしです。要するにイスラエルに腹を立てて、ユダヤ教嫌いが出たってとこですね。が、とにかく。
 
 まず、隈理論のおさらいです。自由とは何か。
 「人間は、自己のある行為の完成を求めて行為する。従って、行為の本来は個人の持つ「自由」であり、種々の後発的環境的制限からの解放への志向である。
 もう少し簡単にいえば、人は好き勝手なことをしたい。もっとも、都会の人間が砂漠の真ん中で「さあここならお前は自由である。好き勝手にしろ」といってもふつう楽しくはない。人は、他者の間で、従って他者のために必然的に生ずる種々の制約の中で、自分の認知に沿って思い通りの行為ができたとき、生理的に満足する。」(『変革の規制』より)
 これが自由です。
 
 これを抑えてもらって、項を変えて次にいきます。






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コンピューターと行為

2008-11-14 21:16:57 | 行為
ひいきの渡辺という将棋のタイトル保持者が負けてしまいましたよー。
勝ったのは羽生というおじさん。これで0勝3敗。初めに4勝したほうがタイトル取得。
実力は羽生というおじさんの方が上ですので、もうどうしようもない。

あーーあ。
だからひいきとかすんの嫌いだ。もうしばらく将棋は見ません。

ま、そういうことで、コーヒーブレイクにするにも話題がマイナーすぎるので、ちょっとひねって。

 将棋でも碁でも、コンピューターが発達すれば、必ずコンピューターが負けるか勝つかします。あるいは、負けるのを拒否して時間切れ負けになります。

って、まだ、誰もいってないでしょ? 
何いってんだって? 何もいってないだろ?
見ての通り、コンピューターは必ず勝つわけではない。そんなこと誰もいわないでしょ、ということです。
どうして真剣に考えないのかと思いますが、真剣に考えるのはご法度、という規範が関係者の間にあるのかもしれませんね。

 その1 コンピューターは必ず勝つわけではありません。
 究極的なことをいいます。
 盤上に駒や碁石が並べてあるだけでは誰も勝ちません。
 初めの一手が指されたときに、選択が開始されます。
 将棋だと百や、そこいらでしょうか、碁ですと何百の手を選択する。この瞬間で理論的には勝負の決まる手もある。決まらなければもう一手、次にもう一手。
 すべて相手がどう指すかで決まるから、どちら手番の相手になるか、でコンピューターも負けるのです。

 1 最善手を指せば、もう変更の余地はなく勝ち負けが決まる一瞬が、初めの一手ではないだろうが、しかしどこかにある。
 2 その順番が見越せる状態になったとき、相手は、負けると決まった手を指して負けるか、それを拒否して時間切れ負けを選ぶ。

 だから、コンピューターでも負ける。
 当たり前だけど誰も言わないのは、コロンブス以前的な幻想の世界、魔術の世界にみんながいるわけです。
 それがコンピューターが負ける世界になるには、50年以上かかりそうですしね。
 たまたま、今はコンピューターの相手がアホな人間だから、適当なところで最終選択肢が決定されてしまうだけで、あと10年もすれば、コンピューターのほうが勝つ、というだけで。

さて、ここからは行為論。

 実は人間は勝ち負けなんか気にしていない。

 って、誰もいわないでしょ?
 ほんと、このブログ見つけた人は知らないことばっかり載ってて幸せじゃないかと思うんですが。

 さて、ウソだと思ったら、今日も何万人もの人が将棋を指したはずですが、そんなのあなたに興味ないしょ? 半分の人は負けたはずだけど、くやしい?
 あにいってんだよう、って感じですね。そんな他人の話をするな? だから、ここは学問の世界で。
 さらにさて、私たちが将棋を指すときは、「これをこうやったら相手はこうする、そこでこうやったら勝つじゃん」 、そら当たりイ! 勝った!
 そこが楽しくて指すわけです。
 それが外れりゃ負け。かくてくやしい。隈理論が説く「行為論的将来」が確保されること、ついでに優越的自由と賞賛も得られればいうことなし。
 この行為論的将来が確保されなければ、これは空しい。ボーっとしてて駒を動かしたとして、相手がへぼなら勝ちますわな。それでうれしい? 一応、誰かが褒めてくれりゃあね。でも相手が小学1年生じゃ、優越もないわ、賞賛もないわ、時間の無駄ですな。

 第1、見ている人間にとって
 コンピューターがいくら勝ったところで、人間私に理解されなければそんなもの、夜空の向こう、ケンタウルス座で指してる将棋に過ぎない。
 人間自分の考えが対局者に共感的に示されて、「こうすればいいかな、え? それ何? え? え? へーーー!!! 勝っちゃった」 こうした行為論的過程ナシでは人間と関わる行為にはならない。

 第2に、主体的な人間とは将棋盤上の世界を自分の筋道の中に組み立てるのが、生きる糧なのです。
 武術家でも政治運動家でも、こういう状況にさえなれば、ということを自分の感性で思い描く。
 そしてそのチャンスと思ったときに動く。「え、なに、そんな運動ないでしょ!」 相手はびっくりだけはするが冷静に対処して、大方、夢を見たほうが負ける。
 負けるにせよなんにせよ、行為とはそういうものであり、他人の行為を見る自分はそういうものです。

 で結論。
 ロボットには行為の原理と原則を設定すれば人間に8割がた近づきます。ほとんどの人間は、「彼」をみても、ロボットか人間かを気づくことはない。人間と同じ反応をするのは疑いもない。生理的な問題=腹が空けば食いたがる、お化けを見れば逃げたがる。賞賛=生理的な道筋にある人間から褒められるために動作する。
 わけですが、ロボットが自分の将来を思い描かない限りは、コンピューターはまだ似非ですね。人間は、最後の一瞬に気づくんですよ。こいつ、自分の夢を作っていない、って。自分の夢と他人をつなぐ。さて、コンピューター設計者は、どうつなぎますかね。これが事実認知論の問題です。
 具体的にいえば、事実を扱う歴史の問題です。
 具体的じゃないか。では、どう「誰かも分からない抽象的な」人間に直結した賞賛を、自分の生理性と組み込めるか、ってことですね。ま、長いんで。

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アナーキズムとヒューマニズム

2008-11-06 22:41:01 | 行為
 テレビ番組です。アンビリーバブル。ここんとこ、仕事に余裕があって(こんなの見て)。

 で、その中で
「ベトナム戦争で18歳のアメリカ軍初年兵がベトミン(ベトナム民族解放戦線兵士)と遭遇。出会った初年兵は驚愕して凍りついているが相手は撃たない。気を取り直してM16の引き金を引く。倒れた相手の胸には小さな少女の写真が。なぜボクは撃たれなかったのか、、、以後その写真の少女をめぐって物語が続き、初年兵は、大人になった少女に許される、、、」

 というわけで、番組が成立します。
 こういう番組って、見る人がウヨクでも成立するでしょう?
 (そんなことはないというあなた、あなたはウヨクではないね。ただのヤクザ。なんて決め付けると、上の疑問符の行方が、、、)

 さて、アナーキストにとっては、こんな番組は存在しない。
 そもそも、なりたくもない国家兵士になって戦場に出たのが悪い。
 といっても、現実では行かないとひどい目に合わされたりするし、で、兵士になるのだけれど、それにしても理屈上では、こんな番組はアナーキストには意味はない。「だからずうっと言ってたじゃないか。国家なんて生きている人間個人の敵なのだ。」

 ようだけれど、そうではない。
 ここで、本来のアナーキストの優位が明らかになる。
 アナーキズムはヒューマニズムなのだ。

 第1に、個人が納得しないその個人の行為を確保する思想として。
  人間は、自分がいやだという人殺しを他人に強いられる理由はない。
   (理由はないのに、でも、あるのは、生産関係に縛られてるからですけど)

 第2に、殺されたベトミンの少女は、しかし、その後のコミュニケーションの中で、初年兵を許してゆく。個人が個人として行わざるを得なかった行為は、大人となり生きて道を進む人間には理解可能なのだ。

 第3に、後からテレビで見れば、ヤクザ以外の人間は、その思想を納得する。

 40年昔で言えば、神に成り代わる行為がヒューマニズムだとか、あるいは、とにかく人でも助ければヒューマニズムだろう、とか。
 そんなものはヒューマニズムではありません。個人として生きることをお互いに納得し合える、その限度内で行為し合う、そのことが、人間同士分かり合え、許し合え、次の朝、「おはよう」といえる行為なのです。
 それは他人を減価償却させることしか考えられない資本家にも、国家のことしか考えられないコミュニストにも、自分の行為の影響しか考えられない実存主義者にもできはしない。
 それは、自分のことを環境の中で考え、これを解決する手段を自分の責任で行為するしかないアナーキストにしかできない。
 故に、アナーキズムは、現代の時点では、最高度の思想なのです。


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アナーキストと秩序

2008-11-03 21:39:00 | 行為
 アナーキストとは無政府主義者のことですから、一切の権力というものを認めません。この結果、(神の自由の手に期待する極右反動以外の、昔からの平凡な)アナーキストは、秩序を認めない、ということになっています。

 なんて、のっけから難しいことを。
 ま、ここんとこコーヒーブレイクばかりなので。

 で、元に戻って、
 そんなんでよいのか。秩序がないなどとありえない話をするな、なんてもんですね。
 ここでアナーキストの対応は3通りです。
1.人間はそんな悪いものではない。人間を信じろ。
    トルストイ以来のアナーキストですね。国家主義者の思想史家は、こうゆうのを性善説と呼びます。国家主義者というのは、丸山真男とか、そういった自称左翼の人たちのことですけどね。

2.そんなこと知るか。オレはやりたいようにやるんだ。
    楽したい若者ですね。別に悪いとは言いませんけどね。楽してるのは君だけじゃないし。他の自称自民党や共産党支持者よりも、ちょっとでも考えてるだけまし、ということもできます。
    
 ま、そんなわけで、なんでお前は秩序派なの、という理由をかいつまんで言いますと

3.私などはシンプルですから、人間て、まずは育つんですよ、ということから始めます。なに、秩序って。そんなもん、権力者の言葉じゃないの。頭、腐ってんじゃないの。
 この辺までは普通のアナーキストの言葉。
 でも、お客さんのアナーキストさん、いまどきの骨の髄まで国家教育にさらされた人間はそんなことでは何も理解しないのですよ。さっきいった丸山の類ですね。まあ、ボルシェビキ、でさあ。

 というわけで、次です。
 人間というのは、まず育つんです。人間の中で育つ。
 親がどんな奴でもその中で育つ。そうして自分ができる。このとき、まだ13歳。
 13で何ができるか、って、できなきゃ悪いなら、そりゃあ教育が悪いだけさあ。
 今の日本の教育でよいのなら13では何もできない、しかし、人間はできてるのさあ。

 人間ができた瞬間に、人間個人には秩序ができている。
 ボクは何もできなくてうろうろするしかない。アタイはOK、エロビデオとかあるでしょ。オレなんか、学歴社会から排除されそうで、しょうがねえ、アナーキストになるか。
 そんなもんはいろいろある。
 しかし、真実は一つ、人間は育って、13歳で頭の中にこの世界の秩序を作り上げる。
 ウヨクが好きだったら、10歳まで毎日国旗に頭を下げさせりゃあいいさ。
 ボルシェビキが好きだったら、10歳まで、毎日、人民諸労働共同作業をさせればいいさ。(この10歳という差が微妙なところ)
 そんなことはどうでもいい。アナーキストというのは、生き上がった一人の人間にしか興味がない。
 その生きている行為者個人、DNA35421は、育った段階でDNA35421-Zとなって、それまでの秩序を抱えて、好きなように生きるのです。
 お坊ちゃんトルストイは善人秩序Tを抱えて帝政ロシアを生き、敵を35人殺した戦士Zは、イスラム秩序Zを抱えてアフリカ内、自称共和国を生きるのです。(あとは制度の問題さあ)

   秩序のない人間だって?? アホかよ。
 
     これはどっちかというと身内向けのコトバですね。


     今日は正々堂々と表題を付けられてうれしい。
     てゆうか、それが本来なんでしょうね。
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プチブル的思考のアドバンテージ

2008-08-30 22:15:16 | 行為
 前回の続きです。
 結局さ、苦労して生きていないと人間が生きる社会科学はわからない。東大大学院を出てわずかの就職口に就職競争したぐらいじゃ、「夢のない世界を生きる」意味などわかりはしない。

 でも、それだからといって何も分からないわけじゃない。
 プチブルには善意というものがある。
 生活上自分のことを考えないでいいだけ、他人のことを「考え」られ、「発言」することができる。
 善意の行使とは、自分の個人的な行為目標に、他者を組み込むことをいう。
 そうしてプチブルは世界史上で革命の光明の部分を担ってきた。

 逆に、一般の人たちは、自分の個人的な行為の目標の手段に、他者を組み込みますがな。
 それがいいとか悪いとかいうのではなくて、
 もちろん、それは悪いことなのだけれど(前言ったよね)、だから悪いことをする人が悪い人じゃないわけで、そういう論議は意味がない。
 けど、他者を目標に組み込むことは善い行為なので、それができる人間はだから善い人間というわけではないのだけれど、しかし、善い行為を世界であちらこちらに存在させていくということは、人間が生きるということの救いなのですよ。

 ちょっと若い人にはわからないかねえ。
 人を殺して人肉を食うしか生きられない人がいたとするでしょ。それはしょうがない。しょうがない一方で、生きるのなら、別の顔をして飢えた子供を助けることが必要だ、そしてそれを悪いことだと思うことが、次に続く人間のために必要だ、ということなんですけどね。

 そうして被支配階級は、革命で殺し殺され、はたから見れば「残虐な」歴史を背負ってきた。

 だからといってこれを非難することは、当事者以外にはできはしない。
 ましてや、現行生存中のプチブルになど。

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