昨日までの荒天が嘘のような快晴の一日、今日は「石川啄木離釧の地」のモニュメント除幕式が行われました。
石川啄木は明治41年1月21日、雪降る寒い夜に今の釧路市役所のすぐ近くにあった、当時の釧路駅に降り立ちました。
さいはての 駅に下り立ち 雪あかり
さびしき町に あゆみ入りにき
これが、彼が釧路駅に降り立った時に詠んだ歌。彼が友人にあてた手紙には、「雪が五寸ほど積もっていた」のだそう。今よりもずっと寒かったことでしょう。
ここで少しだけ石川啄木の北海道、そして釧路での足跡をたどっておくことにします。
※ ※ ※ ※ ※
啄木は全部で三度北海道へ来たことがありましたが、前二回はお金の無心などでの短期の訪問で、三度目こそ約一年にわたる、いわゆる北海道放浪時代でした。
彼は明治40年5月5日に函館に着き、当初は雑誌の編集や代用教員などをし、8月に『函館日日新聞』の遊軍記者となります。
ところがすぐその後(8月25日)に起きた函館大火のために紹介を受けて札幌へ転出することを決意。
9月には札幌に到着しますが、すぐに半月程で『小樽日報』へと移ってしまいます。
しかしながら小樽でも周りの人間関係がうまくいかず、『小樽日報』の社長でありながら、『釧路新聞』の社長でもあった白石義郎の誘いによって、釧路新聞の主筆という形で釧路へと赴任したのでした。
そして冒頭でも書いたように、明治41年1月21日夜に啄木は釧路駅に降り立ちました。
※ ※ ※ ※ ※
釧路新聞での彼の立場は主筆という、今でいうところの編集長てきな役回りであり、当時の主筆の月給25円は、22歳の若者にしては破格の待遇であり、社長白石義郎の彼への期待が大きかったことが想像されます。
また自分の文章の発表の場を釧路新聞紙上に得て、彼は時事評論、随筆、論文、詩、短歌と多岐にわたってその文学才能を開花させることになりました。
彼の才能を一気に花開かせた地がここ釧路であることはだれも否定できないことであり、単に女遊びばかりしていたという評価が彼のほんの一面でしかないのは明らかです。
しかしながら彼の喜びあふれる日々は短いものでした。
3月末に、彼の身に釧路での生活に絶望する出来事が降りかかり、釧路を離れることを考えるようになります。
その理由については諸説ありますがここではそこには触れずにおきましょう。
ひとたび彼が釧路を離れる決意をした後の彼の日記は、きわめて淡々と書かれていて、放浪癖が身についた彼の転身術はそれなりに見事、とさえいう人がいます。
※ ※ ※ ※ ※
啄木は、釧路を去る決意を固めたものの旅賃の工面ができませんでした。
結果、頼んでおいた金が知人から届いた4月2日に新聞の情報によって、その日の夜六時に酒田川丸という船が釧路から出帆するということを知って、その船に乗り込もうとします。
ところが船の都合で出帆がなかなかなされず、4日に啄木が乗り込んだ酒田川丸が釧路を離れたのは結局、翌5日の朝7時半のこと。啄木の釧路在住期間は76日でした。
※ ※ ※ ※ ※
さて、このように釧路に風のようにやってきて嵐のように去った啄木ですが、釧路市民は彼の事を非常に愛し、彼が釧路にいたことを大変誇りに思っています。
今日行われたのは、「石川啄木が釧路を離れた地」という碑の除幕式。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/13/d0cdc9cc2b50158151290724d6287c37.jpg)
この碑は地元の濱谷建設㈱さんの敷地の中に建てられたのですが、実は啄木が酒田川丸に向かう筏に乗り込んだのはこのあたりのかつての砂浜だったのだそう。
北畠先生はじめ啄木会の方が古地図をもって濱谷建設さんを訪問して、「実はかつてここが…」とお話をしたところ、濱谷社長さんの「じゃあうちで作りましょう」という鶴の一声が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/90/8c01221a0620bfcbf68d8250b5626d9f.jpg)
【盤面には啄木の釧路の思い出がいっぱい】
こうして今日のこの日が迎えられることと相成った次第。釧路28基目の啄木の記念碑ができました。何しろ今日は、その啄木が釧路を離れてから104年目の記念日。また今年は啄木の没後百年に当たります。
除幕式のあいさつで北畠先生からは、「釧路にどうしてこんなに啄木の碑が多いのか、とよく訊かれるのですが、それは丹波節郎さん、鳥居省三さん、と先輩がご苦労をされてきたからです。これもまた釧路の歴史です」というご紹介がありました。
今年の1月21日には、『石川啄木 釧路第一泊目の地 記念碑』が建てられましたが、これで76日間にわたる啄木の釧路在住期間の最初と最後を飾るモニュメントができました。
石川啄木の事績を活かして、釧路観光がさらに充実するよう願うばかりです。
ちなみに、啄木研究家であり釧路啄木研究会会長である北畠立朴先生の調査によれば、啄木に関する記念碑は東北・北海道を中心に数多くあります。
自治体別でみると、平成24年1月21日現在で出身地を合併した盛岡市が70基とダントツで多いのですが、2位が何と釧路の27基、3位は岩手県西根町の8基ということになるのだそう。釧路もすごいですね。
濱谷建設様、啄木会の皆様、その他関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/e4/463b1f290ba867b42b0e34f2787e69b4.jpg)
【関係者で記念写真です】
石川啄木は明治41年1月21日、雪降る寒い夜に今の釧路市役所のすぐ近くにあった、当時の釧路駅に降り立ちました。
さいはての 駅に下り立ち 雪あかり
さびしき町に あゆみ入りにき
これが、彼が釧路駅に降り立った時に詠んだ歌。彼が友人にあてた手紙には、「雪が五寸ほど積もっていた」のだそう。今よりもずっと寒かったことでしょう。
ここで少しだけ石川啄木の北海道、そして釧路での足跡をたどっておくことにします。
※ ※ ※ ※ ※
啄木は全部で三度北海道へ来たことがありましたが、前二回はお金の無心などでの短期の訪問で、三度目こそ約一年にわたる、いわゆる北海道放浪時代でした。
彼は明治40年5月5日に函館に着き、当初は雑誌の編集や代用教員などをし、8月に『函館日日新聞』の遊軍記者となります。
ところがすぐその後(8月25日)に起きた函館大火のために紹介を受けて札幌へ転出することを決意。
9月には札幌に到着しますが、すぐに半月程で『小樽日報』へと移ってしまいます。
しかしながら小樽でも周りの人間関係がうまくいかず、『小樽日報』の社長でありながら、『釧路新聞』の社長でもあった白石義郎の誘いによって、釧路新聞の主筆という形で釧路へと赴任したのでした。
そして冒頭でも書いたように、明治41年1月21日夜に啄木は釧路駅に降り立ちました。
※ ※ ※ ※ ※
釧路新聞での彼の立場は主筆という、今でいうところの編集長てきな役回りであり、当時の主筆の月給25円は、22歳の若者にしては破格の待遇であり、社長白石義郎の彼への期待が大きかったことが想像されます。
また自分の文章の発表の場を釧路新聞紙上に得て、彼は時事評論、随筆、論文、詩、短歌と多岐にわたってその文学才能を開花させることになりました。
彼の才能を一気に花開かせた地がここ釧路であることはだれも否定できないことであり、単に女遊びばかりしていたという評価が彼のほんの一面でしかないのは明らかです。
しかしながら彼の喜びあふれる日々は短いものでした。
3月末に、彼の身に釧路での生活に絶望する出来事が降りかかり、釧路を離れることを考えるようになります。
その理由については諸説ありますがここではそこには触れずにおきましょう。
ひとたび彼が釧路を離れる決意をした後の彼の日記は、きわめて淡々と書かれていて、放浪癖が身についた彼の転身術はそれなりに見事、とさえいう人がいます。
※ ※ ※ ※ ※
啄木は、釧路を去る決意を固めたものの旅賃の工面ができませんでした。
結果、頼んでおいた金が知人から届いた4月2日に新聞の情報によって、その日の夜六時に酒田川丸という船が釧路から出帆するということを知って、その船に乗り込もうとします。
ところが船の都合で出帆がなかなかなされず、4日に啄木が乗り込んだ酒田川丸が釧路を離れたのは結局、翌5日の朝7時半のこと。啄木の釧路在住期間は76日でした。
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さて、このように釧路に風のようにやってきて嵐のように去った啄木ですが、釧路市民は彼の事を非常に愛し、彼が釧路にいたことを大変誇りに思っています。
今日行われたのは、「石川啄木が釧路を離れた地」という碑の除幕式。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/13/d0cdc9cc2b50158151290724d6287c37.jpg)
この碑は地元の濱谷建設㈱さんの敷地の中に建てられたのですが、実は啄木が酒田川丸に向かう筏に乗り込んだのはこのあたりのかつての砂浜だったのだそう。
北畠先生はじめ啄木会の方が古地図をもって濱谷建設さんを訪問して、「実はかつてここが…」とお話をしたところ、濱谷社長さんの「じゃあうちで作りましょう」という鶴の一声が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/90/8c01221a0620bfcbf68d8250b5626d9f.jpg)
【盤面には啄木の釧路の思い出がいっぱい】
こうして今日のこの日が迎えられることと相成った次第。釧路28基目の啄木の記念碑ができました。何しろ今日は、その啄木が釧路を離れてから104年目の記念日。また今年は啄木の没後百年に当たります。
除幕式のあいさつで北畠先生からは、「釧路にどうしてこんなに啄木の碑が多いのか、とよく訊かれるのですが、それは丹波節郎さん、鳥居省三さん、と先輩がご苦労をされてきたからです。これもまた釧路の歴史です」というご紹介がありました。
今年の1月21日には、『石川啄木 釧路第一泊目の地 記念碑』が建てられましたが、これで76日間にわたる啄木の釧路在住期間の最初と最後を飾るモニュメントができました。
石川啄木の事績を活かして、釧路観光がさらに充実するよう願うばかりです。
ちなみに、啄木研究家であり釧路啄木研究会会長である北畠立朴先生の調査によれば、啄木に関する記念碑は東北・北海道を中心に数多くあります。
自治体別でみると、平成24年1月21日現在で出身地を合併した盛岡市が70基とダントツで多いのですが、2位が何と釧路の27基、3位は岩手県西根町の8基ということになるのだそう。釧路もすごいですね。
濱谷建設様、啄木会の皆様、その他関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/e4/463b1f290ba867b42b0e34f2787e69b4.jpg)
【関係者で記念写真です】