北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

【おまけ】釧路新聞『巷論』 ~ 父の思い伝わらず

2012-04-02 23:29:59 | Weblog
 平成24年3月31日付の釧路新聞「巷論」欄に、私の投稿が掲載されました。

 タイトルは「父の思い伝わらず~あの日言えなかった一言」

 以前書いたブログのリライトですが、記録として掲載しておきます。





 ではまた。
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成長と生長~クリエイティブに行こう

2012-04-02 23:04:26 | Weblog
 今日から事実上の新年度が始まりました。

 新しい特別職や新規採用者への辞令交付式と市長からの年度当初の訓示など、年度の始めならではの用務に改めて気が引き締まる思いです。

 新規採用の諸君はいかにも初々しくかつ緊張も露わですが、わが身を振り返ると、自分が新規採用されたのはもう四半世紀以上も前の事。

 新人の彼らと自分との違いは何か、この間自分はどう成長したのか、少しは社会に貢献できたのかと、過ぎた時の流れに改めて感慨とわが身を省みる心が沸き起こります。


   ※    ※    ※    ※    ※


 生き物が育つことを表すのには、「成長」と書くときと「生長」と書くときがあります。

 私がかつて習ったときは、哺乳類など生育を重ねて大人としての姿が決まっているものがその姿になった時のことを「成長」と言い、植物など生育を重ねれば重ねるほど巨大になり最終の大きさが定まらないものについては「生長」と言う、とされていました。

 だから人間であれば成長と言い、植物や魚などについては生長と言うのだと。

 辞書を引くと、いまは「成長」に統一されていてどちらでも良くなっていて、植物などが育ってゆくときの「生長」は旧学術用語であって、今はあまり使わないとされている説明もあるようです。

 こうした細かい意味の違いを現代はあまり区別しなくなっていて、ある意味使うのには便利な反面、言葉の持つ微妙なニュアンスの違いを大切にしないのは寂しくもあります。

 人間としての私は、見かけ上は成長したというのかもしれませんが、その中身になるととても覚束なくて未熟な限り。まだまだ勉強が足りません。

 見た目の成長は達成されても、経験と勉強の積み重ねで生きている限り心は生長を続けられるようにと願うばかりです。

 
    ※    ※    ※    ※    ※


 【クリエイティブに行こう】

 

 さて自分自身はここ数年、「生涯学習の実践」ということをテーマに日々を過ごしていて、少しでも前向きに生きようと心掛けています。

 我が心の師匠の元掛川市長榛村純一さんは、生涯学習の5つの目的として、以下の五項目を掲げました。

1 教育改革としての生涯学習
   (学歴社会からの脱皮、大器晩成社会)
2 楽しむ・たしなむ生涯学習
   (自己実現と多様に豊かな生活を目指す生き方)
3 勉強を求められる生涯学習
   (高度情報化、地球環境問題など今日を生きる術)
4 高齢化に対する生涯学習
   (社会的コストをかけずに死ぬための自己規律)
5 まちづくりへの生涯学習
   (周辺や子孫に尊敬される舞台としての地域)


 最近これを見ていて、自分自身の自己修練としての生涯学習はこれで良いのでしょうが、「生涯学習」とはどこかただ内面に取り込む勉強という印象が強いと思うようになってきました。

 人が生涯学習をしてその成果は、物事をただ学んで内に取り込むだけではなく、それを自分の中で化学反応を起こさせて創造性として外に発するとよりよくなるのではないでしょうか。

 つまりそれは物を自分の中から生み出す創造性であり芸術性ということになるのではないか。

 取り入れたことを活かして、もっと創造性にあふれた物事や情報を発信する生き方を志向するとさらに前向きな生き方ができそうです。

 自分でなくてはなしえない、自分自身のオリジナリティを、自分自身の中から生み出されるものを大切にしてはどうでしょう。

 ブログなども日々文章を捜索するという意味では確かにクリエイティブでやらないよりはマシですが、さらなる飛躍を考えるとどうなるものか。

 自分がこの時代を生きている証とはなにか。

 今年度のテーマとして掲げておきたいと思います。

 日々を創造的に生きて参りましょう。


 
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