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愛読している、人間学を学ぶ雑誌「致知」ですが、11月号に現役ただ一人の横綱白鵬と往年の名横綱大鵬との対談の記事が載っていました。
これを読んで改めて大鵬と白鵬の凄さが分かったような気がします。
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白鵬関はお父さんがモンゴル相撲の偉大な横綱で、年に一度国を挙げて行う「ナーダム」という御祭りの相撲大会でも五連覇を含む六度の優勝、さらに五十二連勝という連勝記録も持っているのだそう。
そういう意味では親譲りの運動能力もあったのでしょうが、本人は子供の時はバスケットをしたりして、ご両親も力士にするつもりはなかったのだそう。
それが良く遊んでいた友達が大相撲の道を選ぶと言って日本へ行ってしまったのだそう。実はそれがいまの日馬富士だったり保志光だったりとこれまたすごいのですが。
そこで周りから勧められたこともあって、二か月間の期限付きで日本へ相撲部屋のスカウトを目的とした稽古ツアーに参加したのですが、あまり相撲取りになるというよりは日本見物的な気持ちが強かったそう。
また当時は新弟子検査に合格するほどの体重もなくて、とうとう帰国の前日までどこからも声がかからなくて帰国準備をしていたんだそう。
それが最後の最後になって、ある知人が宮城野部屋に頼み込んでくれたとかで、親方も本人を見ないままに入門を許したという運命的な出来事があったのだそうです。
今日の成績を誰も見抜けなかったのかと思うと、まさに神様の導きとしか思えませんね。
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その後の活躍と横綱昇進という華々しい成績は言うまでもありませんが、彼が横綱になった時に真っ先にアドバイスをしたのが大鵬だったそう。
「横綱にはなった者にしかわからないことがある」と大鵬は思ったそうで、そのときは「必ず下の者に稽古をつけてやってくれ」と言ったのだそう。下の物を引き上げてやるのが横綱の立場だ、という信念からでした。
一方白鵬の方は、大鵬が二十一歳で横綱になった時に「辞める時のことを考えた」ということを強く印象的に思ったそう。負ければ引退という横綱は、勝ち越せば残れる大関と全く違う地位だということを痛感したそうです。
白鵬の名は、始めは部屋の関係者が往年のライバル柏戸と大鵬が活躍した「柏鵬時代」にあやかって「柏鵬」とつけようとしたのだそうですが、それで活躍できなかったら恥ずかしいということで、木へんを取って「白鵬」としたのだそう。これもまた壮大なエピソードです。
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白鵬はあるとき相撲好きのファンから、「おまえさん、双葉山に似ているね」と言われるようになってから、69連勝という記録を持つ双葉山について勉強するようになったのだそう。
そこで当時の双葉山の取り組み映像を見て愕然としました。双葉山は立ち合いの時も勝負に行くような怖い顔ではなく泰然自若とした姿だったのに驚いたのです。
そして双葉山が得意とした「後の先」についてさらに勉強を重ねて、今ではその立会について意識をしているのだそうです。
「後の先」とは、後から立ったようでも相手を受け止めてそれを制止し、こちらの型に持ち込むというもので、まさに横綱相撲そのものです。
実は双葉山は幼い時に右目を怪我してほとんど見えない状態だったそうで、そこから生まれた立ち合いの方だということですが、片目で大横綱になったというこれまたなんとすごいエピソードでしょう。
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さて、大鵬さんは双葉山が相撲協会の時津風理事長として活躍されていたころに、有名な「木鶏」の話をご本人から直接聞いて、その精神の気高さに身震いがしたと語ります。
「木鶏」とは中国の古典「荘子」に出てくる逸話で、闘鶏の鶏が、木でできたかのように周りの騒ぎに影響されない高みに至ったという物語ですが、双葉山関が69連勝の次の70連勝を阻まれたときに、「ワレイマダ モッケイタリエズ」と安岡正篤先生に電報を打ったというエピソードまで白鵬関は知っていて、相撲に対する深い造詣が感じられます。
11月場所は連勝ができなかったものの立派に幕内総合優勝を果たしました。
外国人横綱と人は言うかもしれませんが、相撲の世界を一身に引き受けて、その世界に恩返ししたいという心は立派な日本人そのものです。
私たちはこういう素晴らしい横綱が日本の精神を支えてくれていることに本当に感謝したいものです。