北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

日本的なるものからの訣別

2007-01-31 23:09:26 | まちづくり
 朝からどしゃ降りの雨。1月になってから四度目の雨なのだそうですが、この時期に雨に降られるとせっかく固まっていた道路の雪が融けだして大変です。

 雪まつりも来週からだというのに…。

【日本的なるものからの訣別】
 昨日の夜に、北海道観光に関わる産官学のメンバーが集まって会合を行いました。

 大学の先生の観光論を聴いていて、北海道のこれからのテーマを考えていたのですが、先生の「飛行機で新千歳空港に降り立つときに、『ここは日本とちゃうなぁ』と思ったんですよ」という言葉にひらめいたものがありました。

 そこで講演の後の質疑応答の時間に次の質問をしてみました。

「先生、うすぼんやりと考えていたことなのですが、北海道はもう【日本的なるもの】と訣別をして、異国を自覚するという生き方の選択をしてはどうか、と思うのですが、いかがでしょうか」

 【日本的なるものとの訣別】とは穏やかではありませんが、ときどき登場する『北海道が国として独立する』という事とは違います。

 つまり、北海道は気候が亜寒帯に属していて植生がまず内地の温帯とは違います。本州の平地には見られないような植物や樹木が北海道を特徴づけています。

 また、農業で言えば、確かにお米も作ってはいますが、寒冷地に適した小麦や野菜、それに牧畜が盛んで、乳製品は安心で美味しいブランドです。

 寒冷地故に茅葺き屋根に囲炉裏ではとても過ごすことはできません。北海道独特の住宅技術によって瓦屋根が懐かしい、内地の都市には似ても似つかない土地柄です。

 どこまでも続く真っ直ぐな道は、どこにでも人家のある内地とは景観を異にしています。

 漁業も本州とは違って、新鮮で脂ののった豊かな産物が獲れ、北海道の食を支えています。

 そして何よりも、北海道の本格的な開拓の歴史を彩るのはお雇い外国人による技術であったり、函館、小樽の異国情緒です。

 こうして改めて北海道のアイデンティティを眺めてみると、やはり北海道と言うところは、温帯で細々と米を作り、茅葺き屋根や瓦屋根に暑い夏を過ごす内地とは全く異なる土地、異なる島なのです。

 美瑛の丘と、美馬牛小学校を見て、実に美しい風景だと感動するのは、そこに日本的なるものではない異国の風情を感じるからではないでしょうか。

 こうなったら、北海道を大和民族の歴史の延長にある日本とは思わず、日本的なるものの延長を探るのはやめにしてはどうでしょうか。

 北海道内中の酪農家がこぞってご当地チーズを造り、チーズの種類と味を競い合いましょう。

 斜面があればブドウを植えてご当地ワインを造り、これまた大いに競い合いましょう。内地の人に飲ませることはありません、自分たちの楽しみにしてしまいましょう。

 北海道の建築を考えましょう。日本の法律に渋々従っても、北海道の風景にあう北海道様式のデザインや素材を真剣に考えましょう。レンガや札幌軟石が最高です。

 温泉宿は和風旅館をやめて、ドイツのバーデンバーデンを参考にしましょう。ローマ人も楽しんだ、西洋風スパリゾートです。

 …とまあ、こんな想像をどんどん膨らませて、北海道から日本的なるものを放逐して、北海道のオリジナルな歴史と文化を思いきり追求してはどうでしょうか。

 決して道内一斉に行う必要はありません。「うちがやる!」という志に燃えた小さな町の方がやりやすいかも知れません。

 そして思いきり変わった場所を作れないものでしょうか。

    *   *   *   * 

 とはいえ、日本という国の一部ですから、どうしたって全く縁を切ることはできるはずもありません。そこは大いにしたたかに生きるという術も必要です。

 お米はやっぱり効率的に、美味しく安くつくって外貨を稼ぎましょう。小麦や乳製品、チーズに水産品もしかりです。

 そしてある時は日本の一員として、あるときは日本ではない異国という両面を併せ持ちながら、これを使い分けてええとこ取りをするような生き方を、覚悟を決めて模索してはいかがでしょうか?

    *   *   *   * 

 これが私の言う、日本的なるものからの訣別の趣旨です。

 突然の質問を受けた先生は一瞬目を白黒させていましたが、私としては面白いテーマであるように思うのです。

 そういう覚悟でまちづくりをするような町は現れないものでしょうか。小さいほど小回りが効いてやりやすいでしょう。

 本格的な独立論を語る前に、精神的な独立に挑戦してみる値はありそうに思うのですが。 

 
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宮本常一 水仙忌

2007-01-30 23:50:00 | 本の感想
 「もし宮本君の足跡を日本の白地図に赤インクで印したら、全体真っ赤になるほどだろう」(渋沢敬三・民俗学者)

 「宮本常一は、ふつう民俗学者として紹介されている。しかし、宮本が日本列島の上に印したおびただしい業績を展望すれば、そんな狭苦しいくくりだけでは到底おさまりきれない男だったということがすぐにわかる」(佐野眞一・ノンフィクション作家)

 今日ご紹介するのは佐野眞一責任編集、河出書房新社「道の手帳 宮本常一~旅する民俗学者~」(1500円)です。

 今日のこの本は、今また静かに読まれるようになっている宮本常一氏の人となりを、周辺の人物によるエッセイ、彼自身の未収録のエッセイ、昔の雑誌の中で彼に触れた原稿などを集めて紹介するものです。

    ※    ※    ※    ※

 宮本常一氏は明治40(1907)年山口県周防大島に生まれました。

 小学校を経てしばらくは大阪の郵便局で働き、やがて天王寺師範学校を卒業し、小学校教員となりました。
 
 教員としても優秀で名が通ったのですが、その頃から民俗学、文学、歴史に詳しかったといいます。

 昭和十四年、三十歳になった宮本は、満州の建国大学創立にあたって大陸に渡りたい、と渋沢敬三氏に相談したが、「身体も丈夫でない君が今から二つの外国語を習得するのは容易ではない。それよりも、君は瀬戸内海に生まれ、瀬戸内海が詳しいのだから、それを一生のテーマとして取り組んではどうか」と諭され、と同時に、「瀬戸内海を知るには日本全国を歩いてみなくてはならないだろう。旅はいくらしても良いから私のところに来てはどうか」と言われ、それから22年間もの間、渋沢家の食客となったのだそうです。
 食客を招くという風がまだ生きていた古き良き時代の話ですね。

 それから先の彼は、とにかく日本中を歩いて、土地の古老から上手に話を引き出し、ひたすらそれを原稿にするという毎日だったといいます。

 そうして、まだ明治の人がかろうじて生き残っていた戦中戦後を通じて、それまでにはなかった底辺の人達の生き様から日本という国の民族の有りさまを探し求め続けたと言えるでしょう。

    ※    ※    ※    ※

 民俗学の先駆的な立場に、その当時から柳田國男がいました。

 柳田國男は東京帝国大学を卒業して農商務省に入り、最後には法制局参事官、宮内省書記官を勤めあげ、官僚としては檜舞台を歩いた人でした。

 田舎を旅するときに柳田の姿は、紋付き袴に白足袋という出で立ちで、旅姿というものではなかった、という話が伝わっています。

 人は白足袋の柳田、地下足袋の宮本と言います。

    *   *   *   * 

 民俗学の赤坂憲雄さんという方が、「風景を作る思想をもとめて」というエッセイを寄せています。

 宮本氏の著作集『自然と日本人』の中にある「日本人にとって自然とは」というエッセイを赤坂さんは紹介しています。
『日本人は自然を愛し、自然を大事にしたというけれど、それは日本でも上流社会に属する一部の、自然に対して責任を持たぬ人たちの甘えではなかったかと思う。自然の中に生きた者は自然と格闘しつつ第二次的自然を作り上げていった』

 このテーゼこそ、宮本の風景論の核にあったものだ、と赤坂氏は断じます。

『もともと、その地に住む者にとって風景のよいというのは重荷であった。そういうところは真直ぐな道も平坦な道も少なく、生活を立てるには、その山坂をのぼりおりして働かねばならなかった。だから風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった』

『……地元の人にとっては、そこにある自然が、そこに住む人に豊かな生活を立てさせてくれるものがよい自然なのである。しかもその自然から奪いつづけなければ生きてゆけない人生があった。生活をたてるために造りだした第二次的自然すらが、風景をたのしむようなものではなかった』

 しかしこのことが、大きな変貌を遂げたのは、観光という第三のテーマが浮上してきたからでした。

 宮本氏は「昔の上流階級の人々の自然観賞的な態度が、一般人の間に広がって、観光開発へと展開していった。昔は個人でこれを鑑賞したが、いまは大勢でおしかける、全ては自然への甘えである」

    *   *   *   * 

 私は赤坂氏が紹介してくれた、「風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった…」という一節を読んだ瞬間に、榛村さんの生涯学習を思い出しました。

 これこそまさに、榛村さんが林業と報徳を通じて形成した生涯学習の第1ページを飾る言葉だったはずです。

 そんな一般には恵まれない境遇を生きて行くための知恵と覚悟を、これからの私たちはどのように伝えてゆくべきでしょうか。

 今日1月30日は、宮本常一さんの命日。彼の命日は周防大島に咲く水仙から水仙忌と言われています。日本人がもっと知るべき人の一人だと思うのです。

 この本を読みながら、よき日本は何かを考えました。      合掌。


【追記】
 ちなみに毎日新聞が水仙忌について触れていました。 こちら → http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070129k0000m070108000c.html
 
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おでん屋さん談義in函館

2007-01-29 23:43:21 | Weblog
 今日は函館に来ております。こっちも雪が少ないですね。

【カーネーション】
 今日は函館に一泊なのですが、現地での仕事を終えてちょいと一杯。行く先は屋台村の大門横丁です。

 5人連れで訪れて、空いているおでん屋さんへ入ると着物を着たおかみさんがいました。

 こちらはてっきり初めてだと思っていたら「お客さん、去年も来られましたよね?」と言われ、よくよく考えてみると、そういえばそんな気もしてきました。

 「ちょうど同じところに座られましたよ」
 客商売の人の記憶ってすごいんだ。

   *     *     *

 そこで話はおかみさんの身の上話に。

「この商売をする前は何をしていたんですか?」
「いえ、私はただの雇われですから。一年前までは農家をしてました」

「農家にもいろいろありますよ」
「うちは花なんです。七飯町でカーネーションをブランド化して売り出したんですけど、だんだん一緒にやる人が集まってきましてね。それを最初からやっていたんですよ」

「へー、儲かりましたか?」
「初めのうちは、いいのかしら?と思うくらいでしたよ。でも最近は中国から安い花が入るようになって、一時のようには行かなくなりました」

「どれくらいの規模でやっているんですか?」
「70mのハウスを45本やっていました。お手伝いにもたくさん来てもらってね」

「花にも流行り廃りがあるでしょう?」
「ええ、でもカーネーションは比較的安定していますよ。でも色ひとつとっても流行があって、どんな色が売れるかが読めませんね」

「赤、白だけじゃないんですね」
「もっといろんな色がありますよ。茶色みたいなへんな色が突然売れたりして、わからないものですね」

 飲み屋さんへ来て、花の話を聞けるとは思いませんでした。おでんも上品で美味しかったのです。

 今度来るときは、今日来たことを覚えておくようにしようっと。


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給食費の実態

2007-01-28 23:32:30 | Weblog
 はらはらと粉雪が舞ってうっすらと積もっています。

 国会も始まって、来年度予算を含め社会のさまざまな問題が議論される季節です。何が社会の問題なのかをしっかりと見つめたいものです。

【給食費の問題】
 日曜の朝のテレビでも、各社が教育改革の問題を取り上げていました。

 全国的に解決をしなくては行けない問題もあれば、都道府県や地域のレベルで解決をしなくてはいけないこともあるはず。

 学校の後輩で、小学校の先生になっている友人のA君がいたのを思いだして、今未払いが問題になっている給食費について訊いてみました。

 給食費を払わなくても平気で、逆に督促に赴いた先生達に対して逆ギレとも思える言動を繰り返す親の姿が報道されるに及んで、社会の関心も高まりつつあります。

 今の常識的なとらえ方は、生活保護を受けるなど真に生活に苦しんでいる家庭は例外として、ごく一般の収入のある家庭が給食費を払わずにいるのはおかしいのではないか、というあたりだとおもいますが、それにしては学校や自治体が催促や督促に及び腰のようにも見えます。

 そこで「小学校での給食費の実態や、もっと強く催促はできないのかねえ?」と訊いてみたのです。


 すると後輩のA君からこんな答えが返ってきました。
「先輩ですね、まずこういう類のお金を『学校徴収金』と言うのですが、これらには、『給食費』『教材費』『PTA会費』『用紙費』等があるんです。それで、今話題になっているのは、このうちの『給食費』ということなんです」
「うん、そこが問題になっているよね」

「給食費というのは、食材費です。給食を作るためには、人件費、燃料費、施設設備費、修理費等様々な経費がかかりますが、保護者に負担していただいているのは、そのうちの『食材費』だけなのです。ですから、小学校ならば自治体ごとに違うかも知れませんが、一食200円ほどの、とっても安い費用で提供できるというわけです」
「なるほど、それ以外は自治体が負担してくれているんですな」

「そこでお尋ねの件です。最近は新聞紙上でも裁判所に申し立てをする自治体が増えてきたようですね。(例えばこちら → http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/061224/gkk061224000.htm

しかし、この裁判の起きている町を眺めると、いずれも比較的規模の小
さな町や市が多いようです」
「それって何か意味があるの?」

「北海道新聞にこんな記事がありました。私のいる小さな町ではやれるかもしれませんが、komamasaさんのいる札幌ではつらいかもしれませんよ」

 北海道新聞の記事にはこうありました。(以下北海道新聞より引用)

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20070125&j=0019&k=200701251419
給食費未納6500万円 札幌市昨年度 額、率ともに減少  2007/01/25
13:14
 文部科学省が二十四日発表した昨年度の学校給食費徴収状況で、札幌
市は給食費総額六十億円のうち六千五百万円が未納だった。未納率、未
納額ともに減少したが、全体の九割の学校で未納があった。近隣では石
狩市が法的措置を講じているが、市教委は「各校ごとの私会計のため、
市が法的措置をとるのは困難」との立場。徴収の成功事例などを集めた
マニュアルを作成して近く各校に配布し、未納防止に努める方針だ。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

「この記事のどこがポイントになるの?」
「ポイントは、【市教委は「各校ごとの私会計のため、市が法的措置をとるのは困難」との立場。】というところですよ!」

「うーん、わからん」
「つまり、私のいるような小さな自治体では給食費を学校単位で扱いません。つまり水道料金などのように役場が徴収し、役場が八百屋さんなどに材料費を支払っている公会計で扱っているんです」

「ふむふむ」
「しかし札幌市などは、市役所は給食費には一切タッチせず、学校長が集金し、学校長が支払う形で、これを私会計というんです。この場合の学校長は、行政の一部としての学校長ではなく、学校を代表する役に過ぎません。だからそういうところでは、給食費関係の様々な決済の印も全て校長の『私印』で行われていると思いますよ。ですから、もしも訴訟を起こすとすれば、学校長が個人的に起こす、ということになりそうです。これなら校長先生も二の足を踏みますよね」

「へー、そうなの」
「そうです。もっとも、生活保護などの認定を受けた人の分は行政が肩代わりしてきっちり払い込んでくれると思います。問題はそうではない親御さんがなかなか払ってくれないというケースなんです。対応が本当に大変ですよ。札幌市民としてチェックしておいた方が良いのではありませんか?」

    *   *   *   * 

 後輩のA君からのメールには大変そうな様子が伺えました。私も本来は、あまり法律や決まり事を増やすべきではないという立場ですが、このような現実を聞かされると、やはり社会秩序を保つためのルールとその実効性を保たせるような権限が必要なように思えてきました。

 給食費は払わない人がいると、行政が肩代わりしてくれる性格のものではないので、足りない分は全員の給食の品揃えに影響をしてくるのです。献立予定のイチゴがいつの間にかリンゴになっているかも知れません。

 今度は札幌市内の先生にも訊いてみようかな。

 こういうことも訊いてみないと分からないものですねえ。うーむ、深刻だ。

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豊かな友達関係

2007-01-27 23:33:01 | Weblog
 雪は降っても、日中のお日様の熱で道路の雪は融けがち。この時期にこんな状態って、やっぱり暖かいんですね。

【豊かな友達関係】
 知人のAさんに誘われて、とある食べ物研究会の会合に出席してきました。

 今日のテーマは「そば会席料理」ということで、蕎麦ならkomamasaさんということでお誘いがあったものです。

 会場は市内東区のアパートの一室で、この会を主催する大家さんが部屋を提供してくれているのを借りて、月に一度くらいのペースで集まっているのだそうです。

 紹介をしてくれた知人は蕎麦通で、名人高橋邦弘さんのDVDを何度も視たという強者。komamasaさんが蕎麦を打つという話は何度も聞かされたものの、どうやら口で蕎麦を打つだけらしい、という見方もあって、その真実を確かめたかったようです。
 こういう人の前で打つと緊張するなー

 私は今日も江丹別産の粉を持参して、1.3kgほどのお蕎麦を打ちました。

 Aさんはデジカメで盛んに打っているところを写してくれましたが、最近のデジカメは動画も綺麗に撮れるので、節目のところは動画で撮影してくれました。

 映した映像はそのままパソコンに取り込むこともできますので、ビデオテープのように一度パソコンの画像として取り込むという作業もいりません。

 しかも記憶するメモリーカードの容量がある限り撮影出来ますし、最近はメモリーカードの値段も下がってきていますから、これならもうビデオはいらない時代になったという気がします。時代は変わるものですね。

 一通り蕎麦打ちを終えて食してもらったところで、Aさんからは「komamasaさんの腕前がどのくらいか分かりました」という評をいただけたので、まあ良しといたしましょう。

    *   *   *   * 

 楽しいひとときを過ごして家路につく途中で、琴似神社のアイスキャンドルが点灯しているところを通りました。

 灯りがたくさんついて、ほのぼのとしました。

 「やっぱおやじで賞」という賞もいただけたようです。 

    *   *   *   * 

 食べ物の研究会といい、おやじの会といい、地域での友人関係を豊かにして、社会に参加していくという活動こそが健全な大人の生き方のように思います。

 職場の先輩後輩の世界にとどまらずに、友人知人を豊かにしたいものですね。
 

 
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風見しんごさんと「六験」

2007-01-26 23:40:24 | 古典から
 今日は一転して快晴。うっすらとした雪が冬らしい朝でした。

【六験】
 最近テレビを観ていて心を痛めたのが、タレントの風見しんごさんの長女で十歳の「えみる」ちゃんが交通事故で亡くなったという話。

 突然愛娘を失った悲しみに暮れながらも、「娘のために加害者を憎まない」と言った彼の姿を立派だと思ったのは私一人ではないはずです。

 悲しみや憎しみ、怨み、妬みなどの負の感情を回りに振りまくことを慎むという美学がいつしか失われ、そんな様子をテレビなどのメディアが平気でばらまく今日、なにが美しく何が尊いのか、という価値観は、よほど自らがしっかりと持っていないと、品格は育たないことでしょう。

 そういう風潮にあって、風見しんごさんの態度を私は本当に美しいと思ったのです。

    *   *   *   * 

 ところで、そのような悲しみにどう立ち向かうべきか、という価値観がどこにあるかと思っていて、またまた安岡正篤先生の「十八史略」(PHP文庫)を思い出しました。

 このなかで『呂覧』の中に『六験』ということが書かれている、という紹介があるのです。

 『六験』の「験」とは「ためす」と読んで、思わぬ出来事にあったときに人がどのように振る舞うかをためす、六種類の人間観察の方法です。

 その1は、『之を喜ばしめて、以てその守を験す』です。
 喜びというものは、我々の最も本能的な快感で、人間は嬉しくなるとついだらしがなくなり、羽目をはずすものです。しかし我々には外してならぬ枠があるのであって、これが守なのです。喜んだときに羽目をはずすかどうかで人間が分かると言うことです。

 その2は『之を楽しましめて、以てその僻を験す』
 喜と楽には違いがあって、喜は本能的な感情で、これに理性が加わったときにこれを楽という。理性が加わるとそこにそれぞれの癖が出てくるもので、これを僻(へき)という。僻する人はいろいろのことに障害が多いものです。

 その3『之を怒らしめて、以てその節を験す』
 怒りというものは、非常に破壊力を持っている。感情の爆発だからそれをこらえる節制力を持っているのかどうか、ということを験す。

 その4『之を懼(おそ)れしめて、以てその特(独)を験す』
 特は独に同じで、絶対性・主体性・独立性を意味する言葉です。単なる多に対する孤独の独ではなく、脅かされておそれおののくと、誰かに頼りたくなるもので、そのときにどう自分自身をしっかりと生きるか、ということが験されます。

 その5『之を苦しましめて、以てその志を験す』
 苦しくなると理想や志を投げ出してすぐに妥協してしまうものですが、その志の強さを苦しませることで験すのです。

 そして最後にその6『之を哀しましめて、以てその人を験す』
 悲哀はその人柄全体をよく表すもので、小人には小人なりの悲しみ方があり、大人には大人なりの悲しみ方があるものなのです。

 人生の中の困難や湧き上がる感情に対して、これらの視点で自分自身を常に視るということを普段から行っていれば、自己の修養に必ずや繋がるはずです。

 風見しんごさんの悲しみ方にすぐれた器量を視るのは、こういう価値観があるからなのでしょう。

 こういう価値観を伝えていきたいものですね。
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【特別編】『炉辺夜話』を再度ご紹介します

2007-01-26 23:00:00 | Weblog
 T川さんから、物流と産業の話が面白かったというコメントをいただきました。

 コメントに答える形で、やはり宮本常一さんの『炉辺夜話』という本にあった、宇治茶と信楽焼がもたらした狭山茶と笠間焼の話をご紹介したところです。

 宮本常一さんの『炉辺夜話』(河出書房新社)は、実はかつて私の2006年1月7日付けのブログで紹介をしています。  → http://blog.goo.ne.jp/komamasa24goo/e/2388850aa321ca0dd87562c00c72483b

 この本は、宮本さんの晩年の6つの講演録を集めたもので、民俗学という視点で歴史を眺め、そこから今日に至る日本文化の源流をやさしく教えてくれる本です。

 ほぼ一年前に読んで読後感を書いていたのですが、このときは青森での講演録に感動してその部分を紹介しました。

 それは今から220年ほど前(原著では180年前と書かれている)の東北を菅江真澄という三河生まれの人が、天明の飢饉のさなか、北海道へ渡ろうと思って青森あたりを歩き回ったときの日記が残されていうお話。

 これを読んで宮本先生は「菅江真澄はこの日記の中で、『青森の人たちが時代遅れである』ということはどこにも書いてございません」と言い、なぜ現代の地域社会に住むものが『こんな辺鄙(へんぴ)なところまでよくおいでいただきました』と卑屈にならなければならないのでしょうか」と憤っています。

 この本はもしかしたら榛村さんの生涯学習のネタ本なのではないか、とすら思うのです。

    *   *   *   * 

 宮本常一さんは「離島振興法の父」と言われ、離島に対する国の予算枠を確保して振興しようという運動に力を尽くされた方です。

 しかしそうして予算を確保したものの、予算がとにかくつくということだけでは決して島は良くならないという現実も見ぬいています。

 著書には『…予算がきたから仕事をするのではなくて、自分たちが問題を見つけていってそれが予算化されることによって始めて島が良くなるということを、私は嫌というほど教えられています』と書かれています。

 『私が(佐渡の)相川という町に講演に行きましたときにお年寄りだけが集まってきて、町の幹部だからそれでいいようなものの、この町には若者がいないのだろうか、若者が十人なり、二十人なりこの場に来て話を聞いて欲しいと最初に提言したのですが、それから十回以上も講演に行きながら、一回も若者が話を聞きに来たことがないのです。それでは良くなりようがないのです』

 『つまりそれと同じようなことが島で観光を産業としているところにみられるのです。両津の場合も例外ではないのです。行っても若い者は集まらない。とにかく金にしたい。儲けが増えるようにしたいという人だけが集まってくる。それが観光なら、島の観光はない方がよいのです。その感を深くするのです』 
 
 
 一ページごとに感心と感動を受ける珠玉の言葉の固まりです。

 今生を良く生きようと思うならば、こういう本を読まなくてはなりません。

 改めて『炉辺夜話』をご紹介しておきます。
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おやじの会のアイスキャンドル

2007-01-25 23:56:24 | おやじの会
 朝起きると20センチ以上の積雪。ほう、やっと冬らしくなってきたようです。
 でも除雪は大変。
 
【おやじのアイスキャンドル】
 この週末は、琴似本通り沿いで『第13回アイスキャンドル冬物語』が行われます。

 おやじの会も微力ながらこのイベントに参加を表明して、琴似神社の境内の前に場所をいただいて、ここで氷の造形展示を行うのです。

 氷は、牛乳のパックや100円ショップで買ったプラスチックの小さなゴミ箱などに水を入れて、周囲が凍ったところで水を出して氷のホヤを作ります。

 おやじ達にメールで凍りづくりの協力やら今日~明日の労働力提供を呼びかけていたのですが、今夜は6人が参加してできるところまでをやりました。

 今年は暖冬のために、この一週間でも案外凍りかたが悪くて、失敗する塊が続出。例年にない現象です。

 それでもまあ雪での土台作りと、なんとか形になっている氷を使って灯籠などを作りました。

 氷のホヤの中にはロウソクを立てて火をつけるのですが、そのままでは風を受けて消えてしまいます。

 そこで工夫されたのが、500mlのペットボトルを半分に切って、飲み口のついている上の方を火のついたロウソクにかぶせるという技。これで見事に風から炎が守られるのでした。

 これもまた北国・雪国ならではの生活を遊ぶ工夫ですね。

 琴似本通りのアイスキャンドルは明日から日曜日の夜までです。
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弟子屈町と、松前・上ノ国・江差の観光を支援する

2007-01-24 23:06:31 | Weblog
 今日もちらほら雪が降りました。…といっても例年よりは遙かに少ない積雪量。
 大通りでは雪まつりの雪像のための作業が始まっていますよ。
 
【観光素材で旅行商品を】
 今年度の観光関係の事業として、運輸局と開発局では「観光アドバイザリー会議」というものを作っています。

 これは、観光に関する有識者や旅行業者、それに運輸局と開発局が加わって、道内の市町村や地域に対して地元の観光素材についてレポートを出してもらい、有力なところを対象にして新しい旅行商品を造成して、観光の新しい流れを作って行こうという事業です。

 今年は多くのところから応募がありましたが、当選したのは弟子屈町と、松前・上ノ国・江差による道南の地域の二カ所でした。

 弟子屈町には摩周湖、屈斜路湖、硫黄山、そして強酸性で(実は)有名な川湯温泉という有力な資源があるのですが、なかなかこれが活かされていない、ということから、これを支援しようというもの。

 また松前・上ノ国・江差については、松前のお城や桜、上ノ国の海産物、江差では北海道最古の歴史と伝統を誇る姥神(うばがみ)大神宮渡御祭、江差追分、戊辰戦争と開陽丸、北前船による江差文化、また、トンチ話で有名な繁次郎物語などが有力な素材とする広域観光推進協議会を支援しようというものです。

 今日はそれらの各自治体からも担当の皆さんに出席して頂き、打ち合わせと懇親会を行いました。

 これらの町に通じるものは、飽くなき積極性です。

 弟子屈町の担当課長さんは「最近は道庁へ行っても、『また弟子屈町さんかい!』と言われるんですよ」といたって嬉しそう。

 不景気だ、人口減少だ、とうらぶれた気持ちに陥るだけではなく、このようなあがきもがき続けるような積極的な姿勢がなぜ出せないのか。問題はこのあたりにありそうです。

    *   *   *   * 

 道南の三つの町の広域連携も面白そうです。

 なかでも江差にはやはり北海道という新しい歴史の島にあって、15世紀後半に創立したという言い伝えがある姥神神社は別格の歴史を持っています。

 この神社のお祭りで登場するのが四輪の牛車タイプの山車で、こちらでは山と言うそう。

 お話を伺うと、祭りの間は家々が開放されて、だれがどの家に入り込んでも酒や料理が振る舞われるとのこと。

 聞いていて、掛川と合併をした旧大須賀町のお祭りを思い出しました。まさに内地の祭りそのものの風情が今でも息づいているのです。

 神社フリークの私としては何としてもお参りしたい神社の一つなのです。

 江差にはお寺もたくさんあって、かつて栄えた文化を彷彿とさせてくれるでしょう。

 今年は行けるでしょうか。観光の仕事で、改めて北海道の観光地の素晴らしさを知ることになりました。逆に言えば、よほどこうして関わらないと簡単には地域の良さが分からないと言うことでもあります。

 反省しつつ、これをこれからに活かさなくてはね。

 弟子屈に道南3町の皆さん、待っててね~。 
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物流が産業をつくる、というお話

2007-01-23 23:46:39 | Weblog
 来た来たー!日中高い階から外を見ていると、すぐそこも見えないくらいの雪が降りました。
 そろそろ本格的な雪の到来かも。

【物流が産業を興す話】
 ブログでいろいろなテーマについて書き殴っていると、愛読して下さっている方達からときどき話題を提供してくれることがあります。今日もそんな話題。

 ときどきこのブログに登場する知人のSさんが、週末にご夫婦で九州旅行をされたのだそうです。

「どの当たりへ行ったのですか?」
「大分の湯布院と、行ったことのない佐賀県を回ってみました」

「九州の印象はどうでしたか?」
「そうですね、都市間の距離が短いのですぐに隣の町についてしまうんですね。ただ見るものが多くてしかも深い。ですからレンタカーを借りての旅行でしたけど、ドライブ時間が短くて、立ち寄ったところでの滞在時間が長かったですね。それに注意してみたけれど、道の駅があまりないんですよ」

「なるほど、長距離ドライブをするときに格好の休憩所が道の駅というわけですね」
「北海道のドライブ環境との違いを実感しましたね。同時に、これでは『九州全島道の駅スタンプラリー』があったとしても、つまんないだろうなあ、と思いましたよ」

 我々北海道に住むものにとっては、都市間距離が長いということは当然のことで、当たり前のことと考えがちですが、本州では全くそうではないということなのです。

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「ホテル・旅館の施設やサービスはどうでしたか?」
「施設はそう差を感じませんでしたが、もてなし心やサービス精神では一枚も二枚も上だなあと感じました。従業員やご主人が去って行く客をいつまでも見送る姿にそういうことを感じました」

 こういうちょっとした差の違和感を大切にしなくてはなりません。どこもしないから他と同じレベルでよい、と考えるのではなく、だからこそ一歩上を行くサービス精神の向上を願い続けたいものです。

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「それでね、陶器の博物館へ行ったら随分面白い話をしてくれたんですよ」
「おや、それはなんでしょう」

「そのご主人が、伊万里やら唐津などここいら一体で作られた焼きものは、独特な梱包をされて、遠くヨーロッパまで船で運ばれた、という話をしてくれたんですよ」
「ほうほう」

「船で運ぶと言えば、こままささんは今雪氷輸送ということで、東京からの荷物を積んだトラックが北海道で帰り荷がないので、そこで氷を運ぼうじゃないか、という調査をやられているでしょう」
「そのとおりです」

「そこでね、あんなに重たい陶器をたくさん積んで船のバランスを安定させて、はるばるアフリカの喜望峰を超えてヨーロッパまで運んだとすると、(それならばヨーロッパからの帰り荷は何だったのだろう?)と思ったんですよ。それで説明をしてくれたご主人に『その陶器を積んだ船は何を帰りに積んで帰ってきたのでしょう?』と訊いてみたんです」
「おお、それは面白い!」

「そうしたらそのご主人が『うむ!そういう鋭い質問をしてくれたのはあなたが初めてだ!』と上機嫌になりましてね。喜んで説明をしてくれたところが、『ヨーロッパからの帰り荷は実は砂糖だったんですよ』ですって。それで長崎あたりでカステラが有名な菓子になったというのは実は焼きものを運んだ物流の裏返しだったということだったんですよ」

 実に興味深いお話しですね。こうした産業振興の陰に物流の流れがあったということはよくよく話を聞かないとわからないものです。

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 私の大好きな歩く民俗学者宮本常一さんの名著に「塩の道」(講談社学術文庫)があるのですが、この中に「樽」の話が載っています。

 樽は今から600年あるいはそれ以上前に、日本に竹による「タガ」の技術が入ってきます。このことで、良質の杉材が手に入り、かつ竹の手にはいるところで桶や樽をつくるようになってきます。

 その有力な産地が吉野杉を背景にした大阪で、堺や西宮地方を中心に酒の醸造が興ってきたのだそうです。

 しかもその酒を樽ごと江戸へ運んでくると、酒を運んで空っぽになった樽を大阪まで持って帰ることはせずに江戸へ置かれます。そこで置かれた樽を利用して、今度は江戸の郊外で漬け物が発達するようになったのだそう。
 練馬を中心にした大根付けや菜っ葉の漬け物はそういう起源があったのです。

 一方、そういう桶や樽を利用して千葉県では醤油の醸造も発達したのだそう。物流が地域の名産品を生み出すというのは、歴史のアヤなのかもしれませんが、これもまた我が国の文化の背景なのです。

 うーん、物流も奥が深い。今度カステラを食べるときは、じっくり噛みしめて味わうことにいたしましょう。
コメント (4)
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