北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

湘南海岸から江ノ島へ

2008-09-28 21:16:59 | 東京探検
 昨日の三浦半島~湘南のポタリングの続きです。

 鎌倉では鶴岡八幡宮はもちろんですが、なかなか行けずにいた源頼朝のお墓へもお詣り。歴史上有名な人物の割にはこぢんまりとしたお墓です。

 

 頼朝のお墓は八幡宮からすぐ近くなのですが、有名どころの観光中心だとなかなか足が伸びないところですので良い機会になりました。

 ところで、源頼朝には歴史上の謎を含めて話題が多いのですが、教科書で見慣れた源頼朝の肖像画が、実は足利義直だったのではないか、という論争が起きているのだそうです。

こちら → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%83%8F

 将来の教科書は記述が変わるかも知れませんね。

    ※    ※    ※    ※

 自転車は、鎌倉に別れを告げて、逗子・葉山方面へ向かいます。坂を越えトンネルを抜けると、正面に皇室の葉山御用邸が見えてきました。

 御用邸が見えてきたと言っても、見えるのは正面の門と警察だけですが。

 葉山の御用邸からは海岸線の道路をひた走ります。このあたりは地形的に、浜辺と岩場が交互に出てきて、浜辺は逗子海水浴場、材木座海水浴場、由比ヶ浜海水浴場などに別れます。

 海岸通りは車の交通が多くてひどい渋滞。自転車の方が遙かに早く海辺を走ることが出来てちょっと優越感に浸ることが出来ました。

 そしてサザンオールスターズの桑田佳祐が監督をした映画「稲村ジェーン」の舞台がここ稲村ヶ崎。ここから先は七里ヶ浜海岸です。

 

 稲村ヶ崎は、新田義貞が鎌倉を攻めるときにこの岬の海側をわたったと太平記に書かれていますが、これは今のように切り通しの道路がなかったためここを陸路で越えることが出来なかったから。昔の地形が分からないと歴史物語も伝わりませんね。

    ※    ※    ※    ※

 稲村ヶ崎から目を転じると、七里ヶ浜の遥か先に江ノ島が見えます。渋滞の車列を抜き去りながら海岸通りをひた走り、江ノ島大橋を渡るとすぐに江島神社の門前町が始まります。

 

 

 賑やかなお店に囲まれた参道を行くと、正面に大きな鳥居。急な坂を登り切って江島神社へ参拝も出来ました。

 海ではまだまだサーフィンやボートセーリングを楽しむ人たちが多く、のどかな秋の一日でした。

 
 
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青山の表参道ヒルズ

2007-09-29 23:22:38 | 東京探検
 朝からときどき霧雨が降る天気。気温も昨日から比べるとぐっと下がって、20℃の前半。気温の急激な変化で体調を崩さないように注意が必要です。


 今日は雨なので自転車をあきらめて、地下鉄の一日乗車券で都内を巡ってきました。営団地下鉄の一日乗り放題券は710円。元が取れますかどうか。

 まずは表参道駅で降りて表参道ヒルズという再開発ビルを見学。今まで名前だけは聞いていたものの、ちゃんと中を見ていなかったのです。

  

 再開発と聞いていたのに高さはわずか三階建てという低さ。しかも近くへ寄ってみると古くさいビルを一部利用しています。この古いビルをよくよく見ると「同潤会」と書かれています。
 なるほど、かつて関東大震災の後に集合住宅の走りとしてここ南青山に建てられた同潤会アパートのビルを一部に活かした作りになっているのですね。

  

 玄関なんかも昔を意識して残していますが、それぞれの部屋はブティックとして利用されています。レトロとファッションがマッチしてとてもオシャレです。うーむ。

 この建物と一体化されて横長の建物は近代建築による建て替え分ですが、今度は中へ入ってびっくり。中は地下三階になっているのです。
 表から見ると三階建てのビルが、中は地下三階に地上三階で6階建てのビルの容積をもっています。

 中は吹き抜けで、各階は緩やかなスロープで結ばれています。化粧品のイベントなのか紫の絨毯が目に映えて印象的な空間です。

  

 中は商業テナントがたくさん入っていて格好のデートコースになっているようです。家で調べると設計は安藤忠雄さんと森ビルの共同なのだそう。表参道は明治神宮ができた当時に植えられたケヤキ並木が立派に育っていて有名ですが、その雰囲気にマッチしていて、しかも新しい地域文化を提供しているというところが面白いですね。

  

  

 豊かな発想を、こうして形にして見られるというのは嬉しいですね。

 ちなみに、その後もいろいろ回って、乗り放題券の元は取れました。
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池袋の横丁風景

2007-09-28 23:52:18 | 東京探検
 仕事で同僚と池袋へ行きました。仕事を終えてから池袋でちょいと一杯。

 駅前にはチェーン店が多いので、そういうところは避けて一件飲み屋を探して歩きます。

 「あった、あった!」駅の南側に昔ながらの密集の香りがする屋台街がありました。『美久仁小路』に『人世横丁』、大衆酒場の雰囲気満点です。

  

 その中の一軒に入って席に着くと、次から次からお客さんが入り始めました。さすがは金曜日の夜です。タイミング良く入れて良かった。

 ビールを頼んで料理を頼んで四方山話に花が咲きます。

「ユーミンが、昔不二家の宣伝で『まぶしい草野球』という歌を歌って、最後に『ソフトエクレア~♪』って歌う好きなCMがあったんですよ」
「ふんふん」

「でもユーミンはそれを忘れてたんですよ『なんだったっけ、忘れちゃった』って。俺好きだったんですよ~、そのCM…」はは、もう酔っぱらってます。

    ※    ※    ※    ※

 お酒の種類が一風変わってます。

 焼酎瓶詰 それって一体なんだろう?頼んだら緑の瓶に詰め直した焼酎が出てきました。

  

 「割り方はどうしますか?」とお店の女性。「僕はお湯」「すみませんそういうのないんです~」「お湯がないの~?」
 割るエキスも瓶詰めで売っているのです。「じゃウメ」「僕はホッピー」

 こうして池袋の夜は更けて行く。各駅ごとの横丁の風景も情緒がありますね。
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江戸五色不動尊

2007-09-26 22:47:25 | 東京探検
 今や東京は一大観光都市として日々発展しています。

 しかし物の本を読んでいると、明治大正の頃はまだ名所旧跡というものもあまり確立しておらなくて、いろいろな工夫があったことが伺えます。

 名所旧跡とはいうものの、人がとにかく集まれば「名所」と呼べるが、旧跡の方は古さをどう自慢するかが工夫のしどころ。大正の頃には『江戸以来』などと言って、旧跡を演出するも、三百年続いた江戸の一体どの当たりかということをまあ適当にさらりと流して旧跡らしくふるまったよう。
 そういう曖昧さも日本人らしくていいような。

「江戸時代は寺社をもって装飾とした。泉石花木がそこに集められ、市民四時の遊観は、必ず神詣で・仏参りであったのだ(三田村鳶魚・みたむらえんぎょ著 「江戸の旧跡・江戸の災害」)」

 三田村鳶魚(1870~1952)は江戸時代に関する多くの著作を残し、「江戸学の祖」と呼ばれる江戸文化・風俗の大変な研究家。この人が言うには「渺茫(びょうぼう)たる武蔵野の一角に開かれた江戸市だけに自分を装飾する者は、建築美よりほかにはなかった」とのこと。

 実はその江戸を飾った多くの寺社も何度も襲った火災によって多くが失われているというのは実に残念なお話。今我々が見ているのは本当の江戸に栄えた文化のほんの何パーセントにしか過ぎないのですから。

    ※    ※    ※    ※

 しかしそれでも寺社仏閣に注目しながら町を巡っているといろいろなものに出会えたりします。

 先日文京区の駒込界隈を自転車で走っていてみかけたのが「目赤不動」という看板。お寺名前は天台宗南国寺。
 『目赤』という表現はなかなか珍しいと思って中を拝見すると、確かに目赤不動尊のお堂がありました。

  

  

 掲げられていた看板によると、もともとはもう少し東の動坂というところにあった『赤目不動』が、三代将軍家光が今の土地を与えて「目赤不動尊とするように」との一言で目赤不動になったのだとか。

 目赤以外にも目黒、目白、目青、目黄という五色の不動尊があって、この五色は東西南北と中央を表すというのが陰陽五行説。

 家光が天下太平を祈願して江戸五色不動尊とした、ということになっていますが、「そう呼ぶようになったのは明治期以降だ」というような説もあるよう。
 火事で不動尊もあちらこちらに移っているので分かりづらくもなっているのでしょうか。

 この中では目黒不動尊が一番有名ですし、地名としては目白も残っていますね。目青不動と目黄不動も一応どこにあるか、ということはわかっているので、こういう曰く因縁をたどって町を巡るのも面白いですね。

 歴史的に著名な権力者が強権を発動することで、かえって名所旧跡ができあがるということはよくある話。顔の見えない民主主義の時代は歴史に名を残す偉大な事業を残すことが難しいかもしれません。

    ※    ※    ※    ※

 ○○長者などと呼ばれて時代の寵児になった人ならその財産を、くだらない見栄に使うのではなく、後世に残る社会の財産として残してくれればよいのにね。 
 
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恩人たちの墓参り

2007-09-23 23:17:58 | 東京探検
 時間が遅くなると雨が降るという天気予報なので早めに行動開始。今日も文京区の春日から出発する自転車旅です。

 今日は近場での北方面に焦点を当てて出発。本郷通りを北へ駒込方面へ向かうと、立派なお寺が見えました。ここが諏訪山吉祥寺。かつては駿河台にあったとのことですが、火事で焼けて今のところへ移ってきたのです。

  

 実はその際に、下のお寺の周辺に住んでいた人たちが移住してできたのが今の武蔵野の吉祥寺というわけ。だから今の吉祥寺には「吉祥寺」というお寺はないのです。

 お寺はやはり立派だったのですが、気になったのは、このお寺の前にあった駒込地区周辺の「文化と歴史の散歩道」を表す地図のほうです。なにげなくこれを見ていると、周辺のお寺に、最上徳内と近藤重蔵の墓があることが分かりました。

 最上徳内は蓮光寺、近藤重蔵は西善寺に墓があるというのです。この二人は当時ロシアが南下を始めた択捉島に渡って、「大日本恵登呂府」という標柱を立てた冒険家です。近世の蝦夷地の対ロシア外交と北方領土開拓に関しては、北海道の恩人とも呼べる人たちです。

 考えてみると今日は彼岸の中日ではありませんか。何の因果なのか…、しかしこれはお詣りして線香の一本も上げなくてはなりますまい。早速お寺を探してみることにしました。

    ※    ※    ※    ※

 最初の最上徳内のお墓のある蓮光寺も今日はお彼岸でお墓参りの人たちでごった返している状態。おずおずと参拝の受付にいた女性に「最上徳内の墓があると聞いたのですが…」と訊いてみると、早速近くまで案内してくれて、「アクリルのケースに囲まれていますから分かりますよ」とのこと。

 行ってみると、本物は小さくてアクリルのケースに覆われていました。早速、受付にて浄罪と引き換えに譲っていただいた線香の束を供え手を合わせました。

  

    ※    ※    ※    ※

 次は近藤重蔵の墓所である西善寺です。こちらは太い道路に面したところが再開発でビルになっている変わったお寺。ビルをくぐってそれほど広くはない墓所の中を探してみると、こちらはちゃんと東京と指定文化財の看板と屋根付きの囲いがついていてわかりやすくなっています。

 以前広尾で近藤重蔵が開拓した北海道最初の道路を探し回ったことを思い出しました。なにかと縁がありますねえ。こちらも線香を供えて合掌です。

  

  

    ※    ※    ※    ※

 その後は豊島区の染井霊園へと向かいます。ここは東京都指定の広域避難所になっているので、防災担当としては一度見ておきたかったのです。ここは明治時代に宗教に依らない共同墓地として開設されたもので、都営墓地の中では一番小さいのだそうです。この染井は園芸で栄えた地区で、ここで改良された桜がソメイヨシノというのは有名なお話です。

 さて、近くの本妙寺で明暦大火の供養塔があったのでこちらにも手を合わせてきました。なんといっても火事の多かった江戸時代でも最も大きかった火事が振り袖火事とも呼ばれた明暦の大火。

 このときに江戸城天守閣も燃えて以後再建はされませんでした。このときの死者は3万人から10万人ともいわれています。ですからこの供養塔に手を合わせると、この悲劇を二度と起こさせるわけにはいかないという防災の気持ちも新たになりました。

  

    ※    ※    ※    ※

 さて、染井霊園は古いだけあって著名な人たちのお墓もあるようです。もう帰ろうとして、出口近くの看板を見ていると…、なんとここに松浦武四郎お墓もあるというではありませんか。

 松浦武四郎といえば、伊勢国松坂生まれの探検家。彼は、それ以前の蝦夷地が海岸部しか測量されておらずほとんど様子が分からなかったものを、その内陸をアイヌ人たちとともに探検し、川の様子や多くの地名が書かれた地図を残しました。

 彼の幕府への報告書は、和人たちに虐げられていたアイヌ人たちへの暖かいまなざしと、悪徳商人たちへの憤りと正義感にあふれたものです。また蝦夷地を「北海道」と名付けたのも彼。
 現代の北海道がどれだけ彼の財産の上に成り立っているかと思うと、本当に偉大な北海道の大恩人なのです。その松浦武四郎のお墓ならなんとしてもお詣りをしなくてはなりますまい。

 区画を探してたどり着いてみましたが、看板が出ているわけでもなく静かなたたずまいです。

  

 墓石に掘られた彼の戒名は「教光院釈遍照北海居士」。お線香の香りに包まれながら、北海道に思いを馳せました。 
  
 それにしても、行く先を決めないままに町を巡ってみると不思議に寺や墓所巡りに行き当たり、北海道の恩人の墓を三人もお詣りすることができました。

 今日は彼岸の中日。三人の偉大なる冒険家に招かれた一日でした。
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武蔵野の樹々に感動

2007-09-22 23:10:34 | 東京探検
 今日が暑さのピークでしょうか。それにしても暑い。今日の東京の最高気温は32℃でした、ふー。


 今住んでいる百合ヶ丘からちょいと北へ行けばもうそこは武蔵野。というわけで、今日は武蔵野を訪ねてみました。

 まずはJR南部線に乗って府中本町駅へ。ここでまずは大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)へお詣り。この神社は、武蔵国の総社(そうじゃ)だったのだそうです。

  

 「総社」というのは、いくつかある神社をまとめたお社のこと。律令時代以来、国司が新しい任地へ赴いた場合は国中の神社にお詣りをするのが仕事だったのですが、神社をいくつも集めてしまいそこへ参ることで巡回したことにするようになり、その神社を総社というのです。そんなことが許されていたのですからのどかなものです。

 そういうわけでここ大國魂神社は武蔵の国の総社というわけ。創祀は西暦111年といわれていますから、歴史も長く荘厳な雰囲気が伝わってきます。

 大國魂神社を出たところから始まるケヤキ並木がまたすばらしい。武蔵野の木はとにかく立派なのです。

  

    ※    ※    ※    ※

 そこからはバスで中央線の国分寺駅へ向かい、今度は吉祥寺へ。ここで井の頭公園へ向かいます。ここは神田川の源流部にあたっているのと、水質が良いことから「井(戸)の頭」といわれたのです。

 公園の中には大きな水面があって、貸しボートで賑わっています。水面まで張り出した桜が満開の頃はさぞきれいなことでしょう。

  

 さて、この公園の南側の一角には宮崎駿さんの三鷹の森ジブリ美術館があります。外から見ると、宮崎アニメに登場するデザインの建物で不思議な空間です。

 でも入場するのは入場予約が必要で、休日の前売り券は早々と売りきれるそうですから飛び込みで行っても入ることはできませんでした。チケットはロー●ンで手にはいるそうですよ。興味のある方は、予約を忘れずに。

  

    ※    ※    ※    ※

 最後は中央線沿いの阿佐ヶ谷駅前の中杉通りというケヤキ並木を見学。ここのケヤキ並木もまた樹高といい樹冠の広がりといい立派なのです。

 街路樹に一見の価値があるというのは品のあるまちづくりです。街路樹をこれだけにするのにかかった時間はどれくらいの価値になるでしょうか。

 それに、道路沿いのお店や住民の皆さんが一生懸命落ち葉などの維持管理をしているのですから、そうしたコミュニティの価値も大きいことでしょう。

 今日は武蔵野の樹木に感心した一日でした。


  
 

 
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東京自転車巡り~小石川・護国寺・雑司ヶ谷・池袋・早稲田

2007-07-22 23:02:18 | 東京探検
 朝方は雨が降っていて、(今日はまち巡りはできないかな)と思ったのですが、9時前に上がり今日も自転車巡りをすることができました。

 考えてみると梅雨の季節を通じて、週末に雨が降ってまち巡りが中止になったということがありませんでした。お天気の神様に見守られているようです。
 自然霊のお稲荷さんにご挨拶をしておくことにいたしましょう。

    ※    ※    ※    ※

 今日も文京区春日の貸し自転車場で電動自転車を借りてまち巡りに出発。よくよく調べてみると、春日という地名は春日局が拝領した土地からきているのだとか。意外なところで歴史にふれることができるものです。

 今日まず見に行ったのは、文京区の播磨坂と呼ばれる延長約500mの区間の道路です。ここは戦災復興時に環状3号線として計画を去れたのですが、ここだけができて桜並木として有名になったものの、その前後が全く整備されていない現状にあります。

  

 「東京都市計画物語」の著者である越澤明先生は「この道路こそ、東京復興計画の挫折を象徴する情けない現実の姿である」と断じています。

 実際に見に行くと桜の木が大きくなり、地域の花見の名所として愛されているということは分かりますが、道路の機能としてはそれは徒花(あだばな)であって、人流や物流をになう都市インフラとしては全く機能していない現実がよく分かるのでした。

 インフラ整備はお金だけではできませんが、現在の東京都のような景気の良いときにこそ子々孫々のための百年の計にたった都市整備が求められることでしょう。
 その象徴をまさにここに見ることができました。

    ※    ※    ※    ※

 続いては東京大学付属植物園である小石川植物園。

  

  

 入り口に「入園券は向かいのタバコヤで買ってください」とあるのが面白い。自ら券売をする手間を省くという意味では近隣のお店と連携するというのは面白い方法です。

 さてこの植物園、遠く歴史をたどるとその事始めは将軍職に就く前の徳川綱吉の白山御殿の跡地に徳川幕府が作った「小石川御薬園」に遡ることができます。

 その後八代将軍徳川吉宗の時代にはここに「養生所(あるいは施療院ともいう)」が設けられ、その井戸の跡が今でも残されています。明治10年からは東京大学付属植物園として管理されていますが、植物学上の幾多の大発見がここでなされているのです。

 関東大震災時にはここへ避難してきた人も多く、最後の居住者が退去して復興がなされたときの記念碑が今でも残されています。探せば災害の痕跡というのはあちらこちらにあるものです。

  
    ※    ※    ※    ※

 そこから池袋方面へ向かって護国寺へ行きました。こういうところも思い立たないと案外行かないものでしょう。

  

 雑司ヶ谷の墓地にも行って、小泉八雲のお墓を探しましたが残念ながら見つけられませんでした。次こそ。

 雑司ヶ谷には庶民の信仰を集めた鬼子母神があります。なんだか神様なのか仏像なのかがよく分からないままに信仰を集めているようすが伺えて、神仏習合時代の有様が想像できました。
 でも今はお寺としてお参りするのが正しいのです。

  

 鬼子母神は、他人の子供を食う恐ろしい鬼でしたがお釈迦様に自分の子供を隠されて、子を失う親の悲しみを知り、それからは子供を守ることを誓ったのだとか。
 そのため、恐ろしい鬼ではないことから「鬼」の漢字から角を取った文字で表されているのだそうですよ。

  

    ※    ※    ※    ※

 あとは池袋~早稲田~大久保~神楽坂などを通って帰ってきました。訳も分からず毎週走り回っていますが、そろそろいろいろな土地が有機的に結びついてきました。
 やはり継続は力なりですね。
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自転車ではないまち巡り~明治に導かれる

2007-06-24 22:52:17 | 東京探検
 朝は曇だったけれど、午後からは雨の予報。今日は早めに帰るつもりで都内巡りです。

 まずは六本木の新スポット、今噂の東京ミッドタウンへ。

 インターネット百科事典のWikipediaで「東京ミッドタウン」を検索すると、こう書かれていました。

『東京ミッドタウン(Tokyo Midtown)は、三井不動産主体の東京都港区六本木の旧防衛庁跡地と港区赤坂9丁目再開発計画により誕生した複合施設及びその地域一帯である』

『シンボルとなるミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mと、六本木ヒルズ森タワーだけでなく、東京都庁舎第一庁舎をも追い抜き、都内で最も高い超高層ビルとなった。なお、東京都庁舎や六本木ヒルズ森タワーと違い、ミッドタウン・タワーには展望台は設けられていない。最上階である54階は機械室など施設の維持・管理のためのスペースとなっていて、一般客は入場する事ができない』

『ホテル、住居、オフィス、商業・文化施設、病院、公園などが近接した複合的開発である。目玉施設としては、ミッドタウン・タワー最上層に位置しているホテル「ザ・リッツ・カールトン東京」や「サントリー美術館」の移転などが挙げられる』

 超高層のタワー部分はそのほとんどがオフィスで、ヤフーを始め超優良企業が入っています。一般の客が楽しめるのはガレリアと呼ばれる地下一階地上4階のショッピング棟のほうだけ。

 見物するだけならお店の飾り付けの見本市みたいなものなので楽しいのですが、それほど大きな店舗面積ではないので商品が限られている印象です。

 それ以上に楽しいのはやはりスイーツやレストランコーナー。高級な和・中・イタリアン・フレンチ・インドなどのお店が多く入っていて楽しみですが、やはりお値段は高め。ケーキ一つが700円って、そんなかんじ。

 それでもお昼頃にはどの店にも長蛇の列ができていて、カップルの格好のデートコースとしてまだまだ人気がつづきそうです。 

    ※    ※    ※    ※

 ここのビルがすごいのは、容積を最大に利用して地上部に大きなオープンスペースを生み出したことです。それもちょこちょこした庭ではなくて、既存の公園と併せて4haもの緑地が広がっています。これには計画段階から東京都からも要請があったと聞いています。

 この4haという面積には大きな意味があって、これだけあると広域避難地として使うことができ都市の防災機能が向上することになるのです。稠密(ちゅうみつ)な土地利用をしている東京にとっては、素晴らしい緑地が生み出されたとわけですね。
 再開発による土地の高度利用には、地上部の利用にとってそういう効果もあるということ。

 なお、この「稠密(=こみあっているということ)」を私はずっと「ちょうみつ」と覚えていて、このブログを書くに当たって調べたところ『「ちゅうみつ」の誤読』と出てきてがっくり。しかし気づいて良かった。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」ですからね。

    ※    ※    ※    ※

 ビルの正面にはさりげなく安田侃さんのブロンズによる「妙夢」という作品が置かれていましたよ。道産子としてはちょっと嬉しくなりました。
  
    ※    ※    ※    ※

 続いては、ここまで来たので先日新宿6丁目のところで書いた神宮外苑にある「絵画館」へ行ってみようと思い立ちました。ここからは歩いていけるほどの割と近い距離なのです。

 歩いていると、乃木希典大将の旧乃木邸と乃木神社の近くを通りました。うーん、神社と言われたらご縁を感じずにはいられません。 

 乃木神社でお参りを済ませてからふと見ると、横に「正松(せいしょう)神社」と書かれているのを見つけました。なんだろう、と思って訪ねてみると、なんとここには吉田松陰とその叔父の玉木文之進が祭神として祀られているのでした。
 昨日に続いてまたまた吉田松陰先生の登場です。呼ばれているのかなあ。

    ※    ※    ※    ※

 更に歩みを進めて、いよいよ絵画館前の通りに到着です。絵画館は四列に植えられた銀杏並木の遙か彼方に建っています。なるほど、ここからの眺望が東京を代表する景観ということなのですね。

 せっかくなので絵画館も訪ねてみることにしましたが、神宮外苑は結構広い。秩父宮ラグビー場や、ロッテ対ヤクルト戦目当てで神宮球場に並んでいるファンの列などを横目に見ながらやっとのことで絵画館へ到着。

 この絵画館、正しくは聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)と言います。

 Wikipediaには、
『聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)は、東京都新宿区の明治神宮外苑の一角にある美術館。神宮外苑の中心的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の業績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している。維持管理は明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けていない』と書かれていました。

 ここには、明治天皇の御代の出来事を、40枚の日本画と、同じく40枚の洋画で描いた絵画が展示されているのです。どの絵も百号を超える大きさで、実に見応えのあるものばかり。

 明治がいかにすごい時代だったのか、ということを改めて感じるのと同時に、一丸となってこの難局に立ち向かった指導者層の凛とした姿勢、さらに必死でこれを支えたこの時代の日本人のひたむきさに感慨を覚えました。

 そう言えば昨日買った本の中には吉田松陰の「留魂録」と岡倉天心の「茶の本」がありました。ここ数日はどういうご縁なのか、知らず知らずのうちに明治時代に導かれてきたようです。

 私はあまり下調べをせずに、どこにどんな縁があるのかとまちを巡るのを楽しみにしているので、乃木神社に正松神社があったときには驚きました。私の名前の二文字も入っているんですからね。

 少し目標管理がおろそかになっていたので、「もっとしっかり精進しろ」ということでしょうか。ははあ、畏れ入りました。
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都市再生の現場(6)~新宿

2007-06-21 23:15:27 | 東京探検
 今日も夏のような暑い一日。一体誰が「晴れ男」なのか、梅雨時にもかかわらずとうとう現場見学では晴れが続きました。
 雨が降るよりは余程ありがたいことですが。

 今日の最初は、新宿6丁目にある日テレのゴルフ場跡地の見学。新宿駅から約1kmという至近の距離に約4haの土地があり、これを有効に活用しようというもの。

 イメージは超高層のマンションということのようですが、実はここは景観法に基づく規制がかかっているのだそうです。
「絵画館の規制がね…」「???」

 私も実はよく分からなかったので訊いてみました。「絵画館の規制って何ですか?」すると、「それは東京都の建築規制なのですが、青山にある明治神宮の絵画館のまえには有名な直線の園路があって、そこから見える絵画館の姿を景観的に保全しようと言うことになったのです。そのため、正面のポイントから絵画館を見て、絵画館の上に建物が出ては行けないという規制が行われているんです」http://www.meijijingugaien.jp/seitk/

「するとここの高さはどうなりますか?」
「約120mまでしか建てられないことになりますね」

 ネットで調べてみると、日経BPの記事でこんな事が書かれていました。

■ 国会議事堂など三つの歴史的建造物周辺で東京都が建築規制 (2006/03/30) nikkeibp.jp

 東京都は、国会議事堂など三つの歴史的建造物の周辺地域を対象として「眺望の保全に関する景観誘導指針」を策定。4 月1日から運用を開始する。
同指針の対象となるのは国会議事堂のほか、赤坂離宮迎賓館と明治神宮聖徳記念絵画館。これら三つの建物の背後で、(1)高度利用地区(2)特定街区(3)再開発等促進区を定める地区計画(4)総合設計――のいずれかの制度を活用して計画される建物に適用する。
 それぞれの歴史的建造物ごとに正面から見た「眺望地点」を1カ所ずつ設定。眺望地点から歴史的建造物を見たとき、背後に適用建築物が見えない高さにするよう規制する。 (記事終わり)

 特徴的な景観を保存しようとする先進的な取り組みですね。

 
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都市再生の現場(5)~北区と足立区

2007-06-20 23:36:19 | 東京探検
 今日も晴れて暑い一日。バスの車中のお茶が美味しいこと。

 今日の現場は北区と足立区。ここは港区や品川区などのような経済最前線的な活気とはまた違った庶民の活気に満ちています。

 北区でまず見学したのは、東京外語大学の移転跡地に建設中の西ヶ原防災公園。ここでは約4.5haの土地が大学の移転によって空きました。

 そこで北区からの依頼を受けて、当社が土地を取得したあとに、区の要望を聞きながら土地全体の計画を立てて事業を進めているものです。決まった計画では、防災のための避難地となる公園として約2.1ha、福祉施設・特養老人ホームとして0.6ha、民間の住宅事業者に対して住宅のための土地として提供する分として1haなどが決まっています。

 またこの土地の周辺は密集地区で外周道路が大変に細かったので、この土地の周囲を一回り約0.3ha提供して道路拡幅も行われました。こうした種地を開発する際に、周辺の住民や行政と一体となって問題・課題を解決するというのが「まちの再生」の理念ということです。

 その昔を知らない人ができあがった姿を見れば、何の変哲もないただの広い道路のように見えますが、ここに至るために計画を練り、多くの調整を行った縁の下の力持ちがいるのです。

    ※    ※    ※    ※

 続いては東部伊勢崎線の西新井駅西口近くでの大規模な面開発の現場です。ここは日清紡の工場跡地約15haのうち約11.6haの土地を取得しての住宅開発事業です。

 ここでは、我々の事業の外でイトーヨーカドーが約38000㎡のショッピングセンターを建設中で、今年の11月にはこれがオープン予定。ここには10スクリーンからなるシネマコンプレックスも導入されるそうですが、なんと足立区にはこれまでこの手の映画館がなかったのだそうです。

 かつては足立区にないもの三つ、と言われていて、一つ目が大学、二つ目が映画館、三つ目がちゃんとしたホテルだったのだそうです。

 このうち大学は東京芸大がこの地に移転してきたので念願が一つ叶い、今回のシネコンで二つ目の念願も叶いつつあるところ。三つ目のちゃんとしたホテルというのが叶っていないそうですが、東京の特別区でもそんなところがあるとは意外でした。

 北千住駅周辺では、JTの社宅から取得した土地を活かして、駅前広場を作りつつ既存の駅前商店街をできるだけ残すという計画も進められています。都市計画の変更手続きや各種補助事業の投入など、まちづくりの様々な知恵を盛り込みながら、地元にとっても長続きするようなまちづくりが行われなくてはいけません。
 そのあたりが、単なる儲けだけを至上命題とする民間事業者とは違うところですね。

 今日はバスでの移動距離が長く、上記以外にもたくさんの現場をみせてもらいました。港区などとは違った庶民的な活力が伺えましたよ。

 東京は広くて多様ですね。

 
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