今日も雨なし。裏日本に属する地域は、少々雨が降らなくても雪解け水のおかげで渇水になる事は少ないのだ。雪様々である。
一方西日本では空梅雨でかなりひどい渇水状態になっている。このときのためにダムがあるのだが、底辺で物事を支えている事柄というのは、危機になってみて始めてその活躍ぶりが分かる。
そのありがたみが分かるという事は危機という事。ありがたみなど分からない方が良いのかも知れないし、やっぱりたまには分かってくれた方が良いのかも知れない。
さて今日は、
■残り人生のスケール感 の1本です。
【残り人生のスケール感】
お昼に知人から声がかかり、「小松さん、小松さん、この本をあげますよ」と言う。何かと思えば司馬遼太郎さんの「風塵抄」という随想集である。
もちろん、司馬さんの本なので歴史はもちろん、日本文化や自分の子供の頃の思い出など多彩な題材を独特の文体で面白く読ませてくれる。
「いいんですか?」と訊くと「いいですよ。古本屋で100円足す消費税の105円で買ったんだから」と言う。
「この本が105円というのは安いですねえ」
「そう、気が向いたら古本屋に行く事にしているのですが、最新刊を読まなくちゃ、という呪縛から解き放たれさえすれば、昔読みたかった本や今でもその価値を失わない本がたくさんありますよ。それが100円コーナーにはごろごろあって、十冊まとめて買っても1050円というわけですよ」
「なあるほど。趣味として読書はやはり安いですね」
「最近小松さんのブログを見ていると、ネタがないのか読書感想文が多いような気がして、これもネタに使ってください」
「はあ…」
「これで来週から少しは文章が上手になりますかねえ…フフフ」
確かに司馬遼太郎さんの文体には独特のものがあって、ともすると雰囲気くらい真似をしたくなるところがあるけれど、所詮それは真似なのであって、自分のオリジナルではないからやがてメッキは剥げてしまうに違いない。
所詮地金が問題なのである。
この知人からは以前も津本陽さんの「上杉鷹山」をもらっていて、今読んでいるところなのだが、この方は大事だと思うところにエンピツで線を引きながら読む癖がある。
だから読んだときにどこの表現に惹かれたのか、ということが分かって楽しいのだが、同時に本というのはそれくらい自分のものにしないと、結局ひとときの快楽で終わってしまうものでもある。
一冊の本を読むからには、何か一言でも諳んじて言える一節くらい心に残るようであった方が良いと思う。
残りの人生を考えてみてごらんなさい。残り人生30年として、一週間で一冊の本を読むとして一年で50冊。普通はそれほどは読まないだろうけれど33冊とすれば1000冊である
要するに自分の人生でひたすら読書三昧の生活を送ったとしても、あとせいぜい1000冊の本にしか出会えないということである。
そういう風に考えて行くと、自分は後死ぬまでに何人の人と会えるのだろうか。ギターを弾いていて、あと死ぬまでに何曲覚える事ができるのだろうか。
死ぬまでに何回蕎麦が打てるだろうか。
そしてそれらの経験はいったいどれくらい、これからの社会に対して役に立って行くのだろうか。
小市民的に「沈香も焚かず屁もひらず」で、可もなく不可もないほどほどの人生を歩む生き方を否定するつもりもないけれど、ほんの少しでも自分の余力を世の中に差し出す生き方を大勢がすれば、自分の事は自分でするという人がもう少し増えれば、世の中はもっと安上がりで済むはずである。
一人一人の依存心を「社会化する」などという言葉に置き換えて、行政ニーズに転化するのではない、強い生き方をリーダーも裁判所もマスコミも行政も、支持しなくてはならず、決して「単純な弱者救済」精神ではない姿勢が求められるのに、と思うのだ。
* * * *
自分の余ったものを差し出せば安上がりになる。
私が本をもらえたのもその方の余った本をもらって私の本代が浮いた、というわけなのだが、それは正しい例ではないので、念のため。
一方西日本では空梅雨でかなりひどい渇水状態になっている。このときのためにダムがあるのだが、底辺で物事を支えている事柄というのは、危機になってみて始めてその活躍ぶりが分かる。
そのありがたみが分かるという事は危機という事。ありがたみなど分からない方が良いのかも知れないし、やっぱりたまには分かってくれた方が良いのかも知れない。
さて今日は、
■残り人生のスケール感 の1本です。
【残り人生のスケール感】
お昼に知人から声がかかり、「小松さん、小松さん、この本をあげますよ」と言う。何かと思えば司馬遼太郎さんの「風塵抄」という随想集である。
もちろん、司馬さんの本なので歴史はもちろん、日本文化や自分の子供の頃の思い出など多彩な題材を独特の文体で面白く読ませてくれる。
「いいんですか?」と訊くと「いいですよ。古本屋で100円足す消費税の105円で買ったんだから」と言う。
「この本が105円というのは安いですねえ」
「そう、気が向いたら古本屋に行く事にしているのですが、最新刊を読まなくちゃ、という呪縛から解き放たれさえすれば、昔読みたかった本や今でもその価値を失わない本がたくさんありますよ。それが100円コーナーにはごろごろあって、十冊まとめて買っても1050円というわけですよ」
「なあるほど。趣味として読書はやはり安いですね」
「最近小松さんのブログを見ていると、ネタがないのか読書感想文が多いような気がして、これもネタに使ってください」
「はあ…」
「これで来週から少しは文章が上手になりますかねえ…フフフ」
確かに司馬遼太郎さんの文体には独特のものがあって、ともすると雰囲気くらい真似をしたくなるところがあるけれど、所詮それは真似なのであって、自分のオリジナルではないからやがてメッキは剥げてしまうに違いない。
所詮地金が問題なのである。
この知人からは以前も津本陽さんの「上杉鷹山」をもらっていて、今読んでいるところなのだが、この方は大事だと思うところにエンピツで線を引きながら読む癖がある。
だから読んだときにどこの表現に惹かれたのか、ということが分かって楽しいのだが、同時に本というのはそれくらい自分のものにしないと、結局ひとときの快楽で終わってしまうものでもある。
一冊の本を読むからには、何か一言でも諳んじて言える一節くらい心に残るようであった方が良いと思う。
残りの人生を考えてみてごらんなさい。残り人生30年として、一週間で一冊の本を読むとして一年で50冊。普通はそれほどは読まないだろうけれど33冊とすれば1000冊である
要するに自分の人生でひたすら読書三昧の生活を送ったとしても、あとせいぜい1000冊の本にしか出会えないということである。
そういう風に考えて行くと、自分は後死ぬまでに何人の人と会えるのだろうか。ギターを弾いていて、あと死ぬまでに何曲覚える事ができるのだろうか。
死ぬまでに何回蕎麦が打てるだろうか。
そしてそれらの経験はいったいどれくらい、これからの社会に対して役に立って行くのだろうか。
小市民的に「沈香も焚かず屁もひらず」で、可もなく不可もないほどほどの人生を歩む生き方を否定するつもりもないけれど、ほんの少しでも自分の余力を世の中に差し出す生き方を大勢がすれば、自分の事は自分でするという人がもう少し増えれば、世の中はもっと安上がりで済むはずである。
一人一人の依存心を「社会化する」などという言葉に置き換えて、行政ニーズに転化するのではない、強い生き方をリーダーも裁判所もマスコミも行政も、支持しなくてはならず、決して「単純な弱者救済」精神ではない姿勢が求められるのに、と思うのだ。
* * * *
自分の余ったものを差し出せば安上がりになる。
私が本をもらえたのもその方の余った本をもらって私の本代が浮いた、というわけなのだが、それは正しい例ではないので、念のため。