北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

観光立国への誓い

2007-02-28 23:18:45 | Weblog
 ちらほらとときどき雪が降る一日。寒い日が続きます。

【観光関連施策合同説明会】
 観光に関する法律のお話です。

 我が国の観光に関する法律は、東京オリンピックの前年である昭和38年6月に議員立法によって観光基本法が作られました。

 しかしその後は特にこれが見直されることもなく来たのですが、小泉首相になって俄然観光が政府を挙げての課題として脚光を浴びるようになりました。

 その背景は、海外へ行く人の数と国内を訪れてくれる外国人の数に著しい差があって、外に出る人の数の方が圧倒的に多いアンバランスがあるということです。

 2005年の数を比べてみても、日本人の海外旅行者数は1740万人であるのに対して、訪日外国人旅行者数は過去最高を更新したのですが673万人にとどまっています。

 そのため、既に一昨年からビジット・ジャパン・キャンペーンという施策が始められてはいましたが、国レベルで国際的な競争力のある魅力的な観光地づくりや、人材育成、観光旅行促進のための環境の整備など、国際観光の振興を行うことで観光立国を実現しようという気運が高まり、昨年から観光に関する新しい法律作りが始まったのでした。

 その法律が観光立国推進基本法というもので、昨年12月に成立し、今年の1月1日から施行されています。

 キャッチフレーズは「住んでよし、訪れてよしの国づくり」です。どこかで聞いたことがあることでしょう。 

 幸いにして、最近の東アジアの経済発展に伴って中国、韓国からの訪日観光客が年々伸びており、年間訪日外国人の数は伸びています。昨年2006年の速報値では733万人という数字が報告されていて、対前年比では9.0%の伸びを示しています。

 現在は2010年に年間1千万人を目指す、ということを国を挙げて数値目標として掲げていることから、まずはこれを達成しようと、各種の施策が展開されてくることでしょう。

 国の観光の魅力を支えるのは、そのまま地域の観光の魅力とその連携の総和ですので、地域でも頑張らなくては行けません。だれかが頑張ったおこぼれを頂戴しようなどという弱い気持ちではいけないのです。

    *   *   *   * 

 そんなわけで、今日は国土交通本省から観光政策課長が札幌へ来て、こうしたことをお話しするとともに、併せて各省庁の観光関係の施策についての説明会を行ったのでした。

 北海道開発局の観光担当は私、というわけで開発局の施策に関して、シーニックバイウェイ北海道などを中心にして説明をいたしました。

 シーニックバイウェイのポイントは、ドライブルートをブランド化することと、それを地域の人たちの連携活動が支えるというところです。

 そのために我々も、人間の姿が見える形で積極的にこの地域活動に関わって行くという実践が我々の側のシーニックバイウェイ活動でもあるのです。

 地域と我々の側の人間力を持ち寄りながら、道内各所で魅力ある地域ブランドを支えて行きたいものです。

    *   *   *   * 

 さて、私は明日道内観光では一番優位な立場にいながら案外頑張っていないと言われる札幌市の皆さんを相手にして、開拓と開発の歴史のものがたりを語ることにしています。

 幕末から明治初期にかけて北海道を開拓しなくてはならなかった背景は何か?ということを考えると、北方におけるロシアの動きを見なくてはなりません。

 それまで和人達が知らなかった蝦夷地をめぐる覇権争い。そして、当時はまだほとんど未開の蝦夷地、千島、樺太などを冒険して歩き、現場をとしての危機感をその目で見た近藤重三、松浦武四郎などの冒険家、探検家達の献策があったればこその北海道開拓でした。

 明日は、札幌シティガイド検定合格者の皆さんへの事業説明と言うことですが、辺境の地の防衛のために人間が住むということが大事だったという時代背景を観ることから、北海道の開拓と開発の歴史を語ろうと思います。

 大友亀太郎がなぜ北海道へ来なくてはならなかったのかについても、その背景が分かりますよ。

 しかし、資料づくりが間に合わない…、うーむ。
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観光のロングテール戦略

2007-02-27 23:23:28 | Weblog
 寒い寒い。気温が低い日が続きます。

【Web2.0による北海道観光ロングテール戦略】
 今日は北海道運輸局が主催する、「Web2.0時代の観光情報発信に関する研究会」に出席。

 インターネット環境が進化した新しい時代を迎えて、これをどう観光の振興に活かすか、ということが話題の会合なのです。

 最近のインターネットの進化した現代を「Web2.0時代」という言い方をしますが、それがなんだか実はよく分からないのです。。

 どうやら、今までのような、誰かが作ったホームページを観ることができるという時代を、誰もそんな風に言ったことはないのですが「Web1.0(Web時代のバージョン1という意味?)」と考えて、現代はそれが進化しているということを言いたいらしくてそういう表現をしているよう。

 その進化を支える一番の出来事は、誰でもが参加することができるようになったことです。

 観るだけだった情報から、自分が情報を発信出来るようになること。また、誰かが作ったソフトを使うしかなかった時代から、自分自身がソフトづくりに参加することができるようになったこと。

 誰でもが参加出来るソフトづくりのシステムを、オープンソースといいますが、この名付け親であるTim O'Reillyという人は、Web2.0の要素を7つ挙げています。
 それは、
①リッチなコンテンツではなく、リッチな体験に
②誰もが情報ボランティアに
③情報発信ではなく、情報への参加
④分散化ネットワーク
⑤ユーザーによる分類:タグ付け
⑥80:20の法則の崩壊
⑦ユーザーを信頼する、という7つだそう。

 これらの中でも特に、ブログという形は、情報発信ではなく情報への参加と位置づけられるのです。

 また、80:20の法則とは、店の品物の中で8割の売り上げを稼ぐのは、品数全体の2割でしかない、という法則です。

 だから売り場面積の狭いお店では、とにかく売れ筋の商品だけを置くことで、商品の回転を挙げて売り上げを稼ごうと思うわけ。

 ところが、インターネットによるビジネスでは、自分で品物を在庫する必要がないので、ごくごく稀にしか売れない商品でもそれがどこにあるかという情報さえあれば商売にすることができるのです。

 そしてこの売れないくせに品数の種類がやたらに多くなることをグラフで描いたときに、これが恐竜のしっぽのように見えることからロングテールと表現するようになったもの。

 情報の管理が進めば進むほど、売れ筋ではないけれども欲しい商品にたどりつくことができるようになり、これがまた「ちりも積もれば山となる」というわけです。
 なるほど、狭い店がますます売れなくなるわけですねえ。

    *   *   *   * 

 さて、今日の勉強会ではこのロングテール理論を観光地にも結びつけようというものです。

 つまり、誰もが知っていて行きたくなるメジャーな観光地はいわゆる売れ筋として、あまり知られていない、ほとんど知られていないという観光地の情報を、たくさんの人の参加によって集め、どんなにマイナーな観光地の要求にも応えられる情報基盤を作れないか、というアイディアなのです。

 そのためには、少ない数の取材担当者が走り回るのではなく、地域にいる人たちにブロガーになってもらい、情報をたくさん届けてもらう事が必要です。

 いよいよ地域のブロガー達が観光を支えるという時代になってきたようです。

 とにかく、家や職場の近くにある観光資源を徹底的に掘り起こして、写真を撮り文章で紹介や感想を述べるということの積み重ねを行って、北海道の中のありとあらゆる観光情報をまとめてみようではありませんか。

 このプロジェクトは、この春にいよいよ大学の先生達からなる観光情報学会が始めるそうです。

 さて、少しずつでも参加を広げることで、ネット上の百科事典であるWikipediaのような、北海道観光百科事典が出来上がるでしょうか。

 楽しみにしたいものですね。
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豊平川の物語~志村鐵一と吉田茂八

2007-02-26 23:29:47 | Weblog
 穏やかだけど気温の低い一日でした。道路の氷も融けずにツルツル状態が続いています。

【豊平川ものがたり】
 週末の観光講演のために、豊平川物語を改めて勉強中。1時間話をしようと思うと、知識だけでは3時間くらい話すだけの分量が最低必要なのです。

 3時間の分量を身につけるにはさらにその数倍の時間を要するのですが、付け焼き刃で終わらせないためには、歴史という背骨が通っていないといけません。

 江戸末期から明治、大正、そして昭和にいたる歴史を川を眺めながらもう一度勉強しているようなものです。

    *   *   *   * 

 改めて札幌の歴史をひもといていると、札幌に初めて住み着いた和人として志村鐵一(鐵市とも言われる)という名前が出てきました。

 幕府は安政4(1857)年に、松浦武四郎などの献策を入れて、銭函から札幌~島松~千歳に至る札幌越新道を開削することにしました。もっとも実際の施工はアイヌの人たちとの商売を一手引き受けしていた場所請負人と呼ばれた商人達の私費によったものでしたが。

 そうなると一番の難所は当時はまだ暴れ川であった豊平川をどう渡るか、ということで、幕府は今の国道36号線に当たるところで川の渡し守として志村鐵一に通行屋の役目を申しつけたのでした。

 この札幌越新道が開削されたことで、日本海から太平洋への道が通じ、連絡と物流の流れができたことは北海道開拓にとっても重要な出来事と言えるでしょう。

 そしてここで志村鐵一は、豊平川の右岸に住み、対岸までコクワの蔓を渡し丸木船で旅人を渡す仕事をしたのです。

 やがて対岸の左岸側には吉田茂八という人物がやはり渡し守として任命を受け、この二人で豊平川の守をすることになりました。

 志村鐵一は信州生まれの剣客だったようで、泊まり客の中には泊まり賃を踏み倒そうという不埒な者もいたなかで、刀をふりかざす乱暴者に対して薪を手にして戦って勝った、という逸話も伝えられています。

 吉田茂八の方は、猟師でもありその後大友亀太郎が元村に入ったときにはこの道案内をし、やがてその地に入植したとも伝えられています。

 札幌の歴史を語る上では、アイヌの人たちが住んでいた土地に初めて定住した和人として志村鐵一と吉田茂八の名前を忘れることはできないでしょう。

 志村鐵一の碑は豊平川の下流に今も残っているそうです。一度行ってみなくては。

 これもまた、新たな出会いになるでしょうか。
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おやじの会のバスケットボール対決

2007-02-25 23:05:31 | おやじの会
 穏やかな一日です。今日はおやじの会による男子バスケット対決です。

 スポーツ対決シリーズの中では、これが一番辛い種目なのです。

【おやじの会の男子バスケット対決】
 朝9時に中学校の体育館に集合です。今日はおやじの会の活動の一つ、スポーツ対決シリーズの中から、男子バスケットクラブとの対決です。

 現在わが琴似中学校の男子バスケットクラブは全市でも実力あるチームとして力をつけているのだそう。

 それに対しておやじチームの方は、メンバーを集めるのだけでも汲々としています。責任を感じている役員からはそれなりに来るのですが、「僕は応援だけだからね」という応援メンバーばかりが集結。誰が走るんじゃー!

 それでもなんとか選手として10名が集まりました。バスケ部の子のおやじさんなど、一応の経験者も4人はいます。練習でももうだいぶ息が上がっていますが、何とか頑張ってみましょう。

    *   *   *   * 

 対決は試合形式で、8分試合→2分休憩→8分試合→10分休憩→8分試合→2分休憩→8分試合、という本格的な形です。

 もちろんボールを支配して30秒以内にシュートを打たなければならない30秒ルールも適用されます。

 もっとも、おやじチームは「タイムアウトと選手交代は無限回」というハンデをもらっています。これくらいはもらわないと、とても体力的に無理なのです。

 相手は3年生のいない1、2年生チームです。子供達チームも最初は1年生主体のチームで対戦。さすがに身長差に分があるうえに、まだ最初のうちはおやじチームにもスタミナがあって、6点差をつけてリード。幸先良いスタートです。

 第2ピリオドになって、次のレギュラークラスが登場。たちまち追い上げられてしまいますが、ここでもなんとか4点差のリードを保つことに成功。

 第3ピリオドは再び1年生主体チームが登場して、再び6点差と突き放しにかかるおやじチーム。しかしあと8分がなんとも長い時間です。

 おやじチームは選手交代を頻繁に繰り返してスタミナ回復と戦力維持を図りますが、いかんせん、休んでもスタミナが回復しないところまで追い込まれているのです。

 ついに残り時間が2分というところで、逆転を許し1点差をつけられてしまいました。しかし逆転のゴールを放って逃げ切れればまだチャンスはある状況です。

 ところがもう足がついていかないおやじチーム、パスカットを許し、試合を決める3点ゴールまで決められ、万事休す。結局33対39という得点で負けたのでした。残念。

    *   *   *   * 

 試合を終えての感想は、「汗をかくけど、いい汗じゃないよね」というもの。50メートルダッシュを頻繁に繰り返すバスケットボールは、もう持久力がなくてはテクニックで補うことのできないスポーツです。
 子供達の体力に脱帽です。

 また、改めて「10番が上手だね、とか4番もいいね」という風な子供達の顔が見えてきます。

「うちの中学校はいい学校ですよ」というセリフに実感を込めるためには、こうした現場を生で観ることがなくてはいけません。この目で子供達を見てあげることこそ、愛情をそそぐ第一歩なのです。

 とにかく怪我をせずに終えられて良かった。やっぱり若いおやじさんにもっと出てきてもらわないともちません。ひー、しんどかった!
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開拓と開発の歴史

2007-02-24 23:33:33 | Weblog
 日増しに日差しが強くなって行くのを感じます。
 昨年苫東で行った氷づくりの実験では、もうこの時期からは夜の寒さで氷が張っても、日中の日差しで融けてしまい、プラスマイナスゼロという結果が出ました。
 太陽の力は偉大なのです。

【開拓と開発の歴史】
 苗穂でのまちづくり講演会を終え、今度は来週の3月2日に行われる札幌シティガイド検定合格者への講演準備です。

 わが開発局では出前講座と称して、さまざまな分野で担当職員を派遣して私たちの仕事のなかで皆さんに役立つ情報をおしらせすることにしています。

 偶然私はそのなかの観光分野でお話をするという役回りを引き受けていましたので、それをしった商工会議所の担当者が訪ねてきたというわけです。

 商工会議所では札幌シティガイド検定を行っていて、札幌というまちに詳しくてボランティアで案内ができるような方達を養成しているのですが、合格者に対してもさまざまなサービスを行っており、その一つとして活動の役に立つようなセミナーを開催しているというのだそうです。

 なるほど!それは良いことです。しかし、そうなるともともと考えていたような、開発局が行っている観光施策についてぐだぐだと説明をしても仕方がなさそうです。

 観光のお話として、ガイドをする上でも役に立つような興味深いお話をしなくては、聞きに来てくれた方もつまらないことでしょう。

 そこで、そういうことであれば、我々が行ってきた開拓と開発の歴史の中から興味深いようなネタを拾って、それをご紹介しようということにしました。

 ただしエリアは札幌近郊が対象なので、これまた厳しい制約条件です。うーむ、面白い話ねえ。

    *   *   *   * 

 そこで知り合いをたどって、何か面白いネタはないものか、と探してみたところ、あった!ありました。

 ひとつには、札幌市にとっての母なる川でありながら氾濫を何度も繰り返し、そのたびにそこから立ち直ってきた札幌市民とが織りなす豊平川の物語と、開拓の礎となった大友堀の話がよいネタになりそうです。

 また道路部隊からは、通称弾丸道路と呼ばれた国道36号線と、札幌と洞爺を結ぶ国道230号線の建設物語を土木資産としてまとめた、この冬できたてのDVDが届けられました。

 特にこのDVDには、国道36号線がなぜ「弾丸道路」と呼ばれるようになったのかという物語と、国道230号線では「道路は公園のように」という理想を掲げて、地滑り地帯に橋やトンネルを連続させて造られた苦労の物語が非常に分かりやすく映像として描かれています。

 映像の方は流行の「プロジェクトX」風であるのですが、まあ面白く観られることでしょう。

 これらの材料を駆使して、札幌の観光を開拓と開発の歴史の面からお話ししてみようと思います。

 何もないところにものを作って、後世の人たちがそれを当たり前に思うことほど技術者の喜びに優るものはありません。

 そんな心根が上手に伝えられると良いのですが。
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見える遺産と見えない遺産

2007-02-23 23:38:53 | Weblog
 今日は日中雨と吹雪。天気予報ではもっと荒れそうでしたが、ほどほどでおさまったよう。でも道路は滑ります。

【苗穂まちづくり講演会】
 今夜は苗穂地区のまちづくり協議会からお招きをいただいて、まちづくりのお話をしてきました。

 苗穂地区のまちづくり協議会は、もう17年もの間地区の人たちが集まって、自分たちのまちはどうあるべきか、ということを考える会で、最近では札幌駅の東側で大型ショッピングセンターが作られる際にも地元の話し合いの受け皿として活動をし、地域と折り合いのついたショッピングセンターができあがりました。

 苗穂地区はJR鉄道を挟んで東区と中央区に分断された形になっていますが、良く連携が取れていて、言いたいことを言い合う一方で、最後には折り合いがつけられるという大人の対応のできる皆さんが集まっています。

 今夜は「近代遺産を活かしたまちづくり」というタイトルにして、副題を「見える遺産、見えない遺産」としました。

 会場はJRの研修センターで、早めに行って様子を見ていたところ、受付にお年を召した協議会のメンバーが続々と集まってきます。

 会が始まる頃には会場が狭いこともあって、約百名くらいの方達が集まって、ぎゅうぎゅう詰めになりました。会場の熱気も、まるで掛川のまちづくりを見ているようです。

 都会と思っていた札幌でこんなに地域に力を尽くす人たちがいるとは驚きです。

    *   *   *   * 

 さて、今夜のお話は東区にゆかりのある大友亀太郎と彼の手による大友堀からです。

 彼の生涯と北海道の関わり、大友堀の果たした役割、そして彼がそれだけ情熱を持って開拓に当たるようになったことの縁として二宮尊徳の報徳の教えについて一時間にわたってお話をしました。

 至誠、勤労、分度、推譲という四つの実践徳目によって、どんなに窮乏した村々も救えるのだ、という二宮尊徳の報徳仕法は、明治期から昭和にかけては全国の多くの土地で受け入れられました。

 明治24年に幸田露伴が「二宮尊徳翁」という著書を著しましたが、そのなかで初めて薪を背負いながら読書をする金次郎少年の挿絵が登場し、これが後々の幼い金次郎の姿を印象づけたのです。

 報徳運動は明治政府の農業振興策と共に政治とも結びついて全国に広まりましたが、お国のためという価値観はやがて大東亜戦争につながり、そのことから敗戦によって道徳基盤を喪失し、また報徳社という組織も満鉄の株券が紙切れになったことで財政的にも大打撃を受けました。

 北海道などでは戦後の混乱期を報徳運動で乗り切ろうという機運が一時盛り上がりましたが、昭和30年を過ぎる頃にはそれも下火になって行きました。

 その最大の原因は社会の成熟であろうと思います。

 かつての日本は、村という単位で一人一人が勤勉で、助け合ってゆかなくては生きて行けなかった農村国家でした。それが、経済の発展と共に社会制度が充実し、社会の制度として国民を守ってくれるシステムができあがった都市国家に変貌してきたのです。

 農業の生産効率も飛躍的に上がりましたし、お金を出しあって助けた「報徳講」という金融制度は信用金庫や銀行などの業務として成立して行きました。

 人々は経済の拡大と共に、報徳に寄らなくても生活が向上する実感を得られたのだと思います。

 しかし今日、その結果として分度を忘れた国家や地方の財政が苦しくなろうとしているとき、これらの分度・推譲の価値が再認識されるべきだろうと思います。

 まちづくりにおいても、祖先の徳によって育まれ残された財産は今の自分たちが自由に使ってしまうのではなく、これを良く保ち子孫に推譲をするというのが正しい道ではないでしょうか。

 今日のものを明日へ、今年の物を来年へ、私たちの世代のものを子孫へと推譲することがまちづくりに取っても重要なのだと思うのです。

 そして、こういうまちづくりの会議に集まることこそ、自分の時間を推譲しているということなんですよ。

 報徳の精神は明治の先人が私たちに残してくれた見えない遺産なのです。
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五悪と五善

2007-02-22 23:16:56 | 古典から
 暖気が入って道路は水浸しです。おまけに雪が厚く積もったところは固まって氷になってツルツル滑るのです。2月にしては早い暖気です。

【五悪と五善】
 馬上、枕上、厠上(ばじょう、ちんじょう、しじょう)は、考え事をするのに良いところと言われていますが、読書にもぴったり。

 私の場合は夜眠気が差すまで本を読みます。くらっと気を失いかけたところで本を閉じて目を閉じると、1~2分で眠りにつくことができます。寝付きがよいのだけは自慢です。

 安岡正篤先生の「一日一言」という本を読んでいたら、「五悪」という言葉が出てきました。

 「荀子」という書物の中にある言葉なのだそうですが、五悪とは、
①仕事が良くできて、心険しいもの
②行が偏向して、しかも頑固なもの
③言うことが実は偽で、しかも口が達者なもの
④くだらぬことばかり覚えて、しかも博識であるもの
⑤悪い勢力について、しかも良く恩を売るもの

 とありました。

 仕事が良くできる、口が達者(弁が立つ)、博識、良く恩を売るなどというのは、一見すると良い評価にもつながりそうなものです。

 しかしそれらは一つに軸のうえで考えるとそう見えるのですが、水平な軸に垂直な軸を加えて別な評価を重ねて眺めてみると、違った様相が見えて来るということなのでしょう。

 仕事ができる~できないという軸を横に引いて、心が優しい~険しいという軸を縦に引いてみると、仕事の軸に心が加わった人間の評価位置が示されます。

 五悪を見て、「いるいる、そういう人が」という風に他人を評価するのではなく、常に我が身を省みて、自分がそうなってはいないかということの判断の基準にしたいものです。

 「一日一言」には「五美」という項目もありました。曰く、
①人を恵んで厭味(いやみ)なく
②労して怨(うら)みず
③欲して貪らず
④泰(ゆたか)で驕(おご)らず
⑤威あって猛からず

 人間できることならこうありたいと願う姿です。
 
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「あの発言」の裏側

2007-02-21 23:11:48 | Weblog
 午前中は10m先が見えないほどの雪が降っていました。まちなかにも少し雪が積もったようですよ。

【榛村語録の続き】
 昨日の榛村さんとの話で出た、エピソードを一つ。

 「産む機械」発言で、世間から随分とバッシングを受けた柳沢厚生労働大臣は、地元が掛川なのです。そこで「柳沢大臣は大変ですね」と訊いてみました。

 すると、「うん、あの発言には僕も少し責任を感じているんですよ」と榛村さん。

「責任…とはどういうことですか?」
「少し前に、柳沢さんと僕とで天竜川の上流のある町に行ったんですよ。そこに11人子供を産んだ女性がいるというので会いに行ったんです」

「11人とはまたすごいですね」
「うん。それで四方山話をずいぶんしたんだけれど、その女性がいうには『私はお産が軽いので楽でした』というんだ。あげくには、昔の農家には米と籾を分けるのに、足で踏んで米をつく米搗きというのがあったんだけど、臨月のときにそれを踏んでいるうちに、産気づいたんだそうだ。それでちょっとそこを離れて子供を産んで、また戻ってきて米搗きをやったというんだよ」

「それはまたすごいことですねえ」
「そうだろう、それで僕がつい戯れ言で『それは随分高性能の機械だなあ』と言っちゃったんだよ。それで、柳沢さんの頭の中にはその言葉があったのかも知れないと思ってね、ちょっと責任を感じているんですよ」

 なんと!世間を騒がせた「産む機械」発言のルーツはもしかしたら榛村さんだった(のかも知れない)のです。

 しかしその言葉は決して女性を見下すような意味ではなく、私などは、その生命力に対するある種の尊敬の念を込めた発言のように感じられました。

 榛村さんはまた、「日本から、おっかさん、おふくろさんが消えかけているのは残念だ」とも言っています。

 私も「おっかさん」や「おふくろさん」という単語には、生き方を貫くある種の品格を感じます。 
 反対語の「おとっつぁん」「おやじさん」というのとは、あきらかに違うニュアンスがあります。

 こういう言葉のニュアンスがだんだん消えかけているのも寂しいことですね。
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これからのまちづくり~村格と都市格

2007-02-20 23:08:29 | Weblog
 小雨降る東京を後にして、午後には新千歳空港に降り立ちました。今夜は榛村さんが札幌に来ることになっているので、夜は最近の話題についてお話を聞くことになっています。

【村格と都市格】
 ところが、なんと空港で今夜お話を聞くはずの榛村さんとばったり会いました。どうやら同じ飛行機だったようなのです。

 榛村さんは、明日こちらで開催される、あるまちづくり委員会の委員として札幌まで来て下さったのですが、どうやら今日泊まるホテルを勘違いしていたよう。私の方がどこに泊まるか知っていたので、まずはそこまでお連れしました。

 やはり、ばったり出会うにはそれなりの意味があったようです。あぶないあぶない。

    ※    ※    ※    ※

 夜に市内のある部屋を借りて、こじんまりと勉強会をしました。普段から榛村さんに会いたいという人、私が会わせてみたい人を集めての少人数の勉強会です。

 まずは最近榛村さんが関心を持っていることについて話題を提供して頂きました。今日のお題は「村格・都市格のめざすもの」ということです。

 まずはお得意の数字から。榛村さんは平成の大合併によって、市町村の構造がどう変わったか、ということを言います。まずは下記の表を見て下さい。

総人口に
             数   人口(千人)  対する割合(%)
 特別区         23     8,274      6.5
 政令指定都市        15     22,355     17.6
 中核市 37     16,621 13.1
 特例市+20万人以上の市 60   17,530 13.8
【20万人以上の市の合計】135 64,780 51.0

 5~20万未満の市 426 39,843 31.4
 5万未満の市 241 8,664    6.8
 【20万未満の市の合計】 667 48,507 38.2

 町・村の合計 1,038    13,768     10.8

 【上記の合計】       1,840 127,054 100.0

 【5万未満の市と
   町村の合計】      1,279 22,432 17.6


 つまり、①日本の半分の国民は20万人以上の都市に住むようになったということ、②しかしそれらの自治体の数は135にすぎない、③今日1840という数になった日本の地方自治体のうち、1279が5万人未満の自治体であり、総人口に対する割合は17.6%でしかない、ということなのです。

 そこで榛村さんは、「この5万人未満の自治体がどうなるかで、日本という国が、地方が豊かで幸せな国になるか、そうでないかの分かれ目になる」というのです。

「どうなる可能性がありますか?」と訊いてみました。すると榛村さんの答えは
「可能性は三つある。一つは『籠城』ということで、ひたすら緊縮財政をし続けるというもの。二つ目は『開城』ということで、どうにもやりきれなくなって近隣市からの合併の圧力に屈して合併をしてしまうという道筋だ」

「面白いですね。すると三つ目はなんですか?」
「三つ目は『白兵戦を挑む』というものですよ。これで駄目なら町は潰れる、という覚悟で思い切った手を打って生き残りを図るというものですよ」

 籠城、開城、白兵戦とはいかにも榛村さんらしい面白い表現です。こういうセンスがきらりと光るんですなあ。

    ※    ※    ※    ※

 さて、そこでこうした町や村をなんとかするための方策に話が移りました。榛村さんは最近「村格・都市格」ということを言い出しています。

 昨年は随分と「品格」という単語が流行し、併せて武士道などももてはやされました。私は「村格・都市格」とはそういう品格に便乗した単語なのかと思っていました。しかし榛村さんはそうではない、と言います。

「村格というのはね、柳田國男がそう言っているんですよ。『農地改革で村格は失われる』とね。しかし彼は、だからどうすべきか、という事は言わずに終わってしまったんです」

「そして、都市格の方は大正14(1925)年に、中川望大阪府知事が言っているんだ。『関西の人は皆京都は尊敬するが、大阪は尊敬しない。大阪も尊敬されるような町にならなくてはならない。そのためには都市格だ。都市格とは、知識、道徳、趣味、信仰・信念の四要素だ』とね」

 なるほど、既に「村格・都市格」という言い方をしている方がいたとは。不勉強でした。

    ※    ※    ※    ※

 そこでさらに榛村さんは、そうした村格・都市格を表すための指標についての試論も披露してくれました。

「今は10種類の分類を考えていて、それぞれに、全くない→少しある→ふつう→かなりある→すごくある、という五段階で評価をして、自分の町の立ち位置を押さえるんです。そのうえでウリは伸ばし、足りないところを補うように努力する。そういう指標だけど、どうかな」

 その指標とは、下記の10項目です。

①歴史、史跡・名勝、文化財、古戦場、歌枕、名所、名産、名物、伝統行事など
②自然、森林、緑の豊かさづくりとそのプログラムの立派なまち

③食と農の文化を通じ、幸せや徳を追究するプログラムの立派なまち
④清潔・安心、安全・安定性の高い健康長寿のまち

⑤土地利用の秩序と公園、みち、川、池のたたずまいの美しいまち
⑥面白い人間像と一角の人、できた人、徳のある人の大勢いるまち

⑦女性が美しく活躍し、家庭教育も男女共同参画もよく行われているまち
⑧都市の主体性が多様に育ち、住民参加と情報公開が徹底しているまち

⑨自治体の行財政力が優れ、環境・福祉のシンクタンク機能の豊かなまち
⑩極め付きの特記事項があり、あとは美しいコンパクトテーマパークのまち

 榛村門下としては、かなりよく目にする単語が多いのですが、それを村格・都市格の指標として改めて打ち出したところが今回の新味のあるところです。

 皆さんの住んでいる町はどういう評価になるでしょうか?

 皆さんのまちには、村格・都市格と呼ぶような風格があるでしょうか?

 まちを、数字で言い表せない特徴の集まりとしてみる、そんな試みがあっても良いのかも知れませんね。

 話題提供の後の意見交換も随分盛り上がりました。榛村節はまだまだ健在です!
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天の道と人の道

2007-02-19 23:22:26 | 古典から
 今日から明日にかけては東京出張です。そうか、今年になって初めての東京です。暖かいんだろうなあ。

【天道と人道】
 今週末の金曜日に苗穂地区でまちづくりに関する講演をすることになっています。

 苗穂地区といえばやはり大友亀太郎の大友堀に触れなくてはなりませんし、当然「報徳の教え」にも触れることになるでしょう。

 そのため、東京出張の移動時間を利用して改めて二宮尊徳に関する本を読んでいるのです。付け焼き刃といえば付け焼き刃ですが。

    *   *   *   * 

 「二宮翁夜話」というお話の中に「天道と人道」という話が出てきます。

 天の行う道と人の行う道ということで、尊徳先生はこの二つを「天道は自然に行われる道で、人道は人の立てる道だ」と、厳格に区別しています。

 曰く「天道にまかせておけば、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、家は立ち腐れとなる。人道はこれに反して、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、屋根をふいて雨のもらぬようにするのだ」ということです。

 また「天には善悪というものがない。それゆえ稲も雑草も差別せずに、種のあるものはみんな生育させ、生気のあるものはみんな発生させる。人道はその天理に従いながらも、そのうちでそれぞれ区別をして、雑草を悪として米麦を善とするように、全て人の身に便利なものを善として、不便なものを悪とする」とも言っています。

 人が人として社会を築いて暮らしやすいように工夫と努力を重ねて行くことは、漫然としていて天から得られるものではなく、祖先から今に至るまで営々と積み重ねてやってきたおかげなのだ、ということを尊徳翁は強調するのです。
 
「人の卑しむ畜道は天理自然の道である。尊ぶところの人道は、天理に従うのであるが一方また作為の道であって、自然ではない」

 動物の生き方は、雨に濡れ日には照らされ、食べ物があれば飽きるまで食べ、なければ食べずにいるというもので、これはまさに自然の道そのものです。

 それに対して人間の生き方というものは、住まいを作って風雨をしのぎ、蔵を作って米穀を蓄え、衣服を作って寒暑をささえ、四季を通じて米を食べるというものであって、これこそが作為の道というわけです。

 尊徳先生は「自然の道は万古すたれないが、作為の道は怠ればすたれる」と断言します。

「ところが世人は、その人作の道を天理自然の道と思い誤るために、願うことがならず、思うことがかなわず、ついに我が世は憂き世だなどという言うようになるのだ」

 食べたいものを食べたいだけ食べ、したいことをしたいだけし続けることがいかに人の道として誤っているのか。「己に克つ」ことが人の道である、と強調し続けるのです。

 自然に流れるままに身を置くことは、人として許されることではない。自分の中に善悪の分別をつけて、善の方向に向かうように飽くことなく倦むことなく努力し続ける姿こそが人として美しい姿なのです。

 これこそまさに万古不易なり、ですね。   
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