道路特定財源の復活が衆議院で再可決されました。
この特定財源の上乗せ分はこの一ヶ月間法律が切れてしまったために、暫定税率として約25円~30円ほど安くなっていたのですが、明日からはまたこれが復活。
おかげで安売りの間の購入を目指すドライバーたちやガソリンスタンドの人たちはてんやわんやです。まさに政治に翻弄された一ヶ月間でした。
道路特定財源については、いまさらまだ道路を造るのか、という必要論から、マッサージチェアやグローブなどの福利厚生費への支出問題、さらにはタクシー代の妥当性など、その使途を巡って国民の批判的な意見も多く、道路特定財源に対するシンパシーを失いかけているようです。
しかし、物事はミクロで見るときには同時に大きく大局的にも捕らえないとバランスが悪くなるものです。細かい使途でおかしなことがあればそれは修正をすればよいのですが、「木を見て森を見ず」や「角を矯めて牛を殺す」というようなことがあるとこれまた困ってしまいます。
この一ヶ月の議論では、大きな視点からの議論がほとんどされずに一方的な意見の言いっぱなしで終始してしまったという印象です。どうして議論ができなくなってしまっているのか。そういう自体こそが深刻のような気がしますが。
※ ※ ※ ※
細かいことに神経を使いすぎて大局を見失いかけていると思われるのが地域医療の問題です。
最近は医療過誤に対する被害者や遺族からの声を受けて、医療事故の追究を最初から警察の手に委ねる事案が増えています。特にそれが顕著なのが産婦人科です。
福島県大野病院というところでの医師の帝王切開処置による事故死に対して去る平成20年3月25日に検察は禁固1年を求刑しました。
そしてまだ判決は下されていませんが、このことで全国の産婦人科医から、「あの条件下での医師としては適切な範囲の対応が裁判沙汰になるのであれば、とてもリスクが大きくてこれ以上産婦人科医は続けられない」という声が上がり、全国的に産婦人科医が逃げ出しているというのが現在の日本の医療問題です。
ここには、なにか事故が起きたあとに、我々はどのように対応すべきか、という、社会のありように対する大きな二つの考え方がぶつかっていると言えます。
医療問題に関する様々な意見交換の場となっている、mricという医療関係者によるブログがありますが、ここに虎ノ門病院の小松秀樹さんという方が、「無理な規範は何をもたらすか?」という視点で文章を書かれています。
文章はこちら → http://mric.tanaka.md/2008/04/26/_vol_51_1.html#more
【以下、一部抜粋】
世界で医療事故の報告制度について、どのように考えられているのか。1999年のアメリカ医学研究所の「人は誰でも間違える」の出版は、医療安全におけるパラダイムシフトをもたらした。医療事故調をめぐる意見は、これ受け入れるかどうかで、大きく分かれる。樋口委員の発言は下記のどちらの立場に立つのかという質問でもある。
旧思考:
「過失により人に傷害を与えたり死に至らせたりすることは、個人の罪であり、個人への応報はそれ自体が価値である。また、処罰により事故が防止され、社会の安全が向上する」
新思考:
「人間は間違いを犯しやすい性質を持っており、その性質を変えることはできない。人間の間違えやすいという性質を受け入れて、間違いが起こることを前提に、間違いを起こせない、あるいは、間違いがあってもどこかで修正できるようにシステムを構築する。そのためには、広く事故情報を収集して過去の失敗に学ぶ必要がある」
旧思考は、法律、行政、メディアに親和性が強い。
例えば、刑法学は、応報そのものに価値を見出す。犯罪の抑制効果も刑罰を正当化する論拠になっているが、刑罰とその決定までの過程に思考がとどまり、刑罰が社会全体にどのような影響を与えるのかについて、関心を持っていない。影響を計測するための方法を発達させていないし、実績も限定的である。旧思考には、過去の失敗を収集して学ぼうとする考え方はなかった。あるいは希薄だった。
これに対し、新思考は、現実を受け入れて適応しようとするものである。医療、航空運輸、原子力発電などの現場に広く浸透している。
*******【以下略 引用終わり】*******
つまり、失敗から何かを学び、次に備えて活かす、という前向きな視点で社会を運営して行く思考と、失敗したものに罰を下して失敗をさせないという視点で社会を運営して行く思考のぶつかり合いです。
ある意味で現代社会は恐怖政治に似てきました。一度の失敗がすぐに裁判に直結し、これまで積み上げたものを打ち砕くような社会では人は萎縮し、ただ失敗しないだけの生き方を選択します。人はリスクを取る前向きな生き方をしなくなることでしょう。
今の日本はどこか被害者感情に満ち満ちて、当事者を断罪する傾向にありますが、冷静な議論を尽くして、問題からどう解決策を見いだしてゆくのかという皆が参加する建設的な思考が求められます。
医療も国の財政も、一時の感情に溺れるのではなく、大局観をもって眺めて議論を尽くし、社会全体の価値が高まるような判断をしたいものです。
ところでうちの奥さん、今日ガソリン入れてくれたかなぁ?
この特定財源の上乗せ分はこの一ヶ月間法律が切れてしまったために、暫定税率として約25円~30円ほど安くなっていたのですが、明日からはまたこれが復活。
おかげで安売りの間の購入を目指すドライバーたちやガソリンスタンドの人たちはてんやわんやです。まさに政治に翻弄された一ヶ月間でした。
道路特定財源については、いまさらまだ道路を造るのか、という必要論から、マッサージチェアやグローブなどの福利厚生費への支出問題、さらにはタクシー代の妥当性など、その使途を巡って国民の批判的な意見も多く、道路特定財源に対するシンパシーを失いかけているようです。
しかし、物事はミクロで見るときには同時に大きく大局的にも捕らえないとバランスが悪くなるものです。細かい使途でおかしなことがあればそれは修正をすればよいのですが、「木を見て森を見ず」や「角を矯めて牛を殺す」というようなことがあるとこれまた困ってしまいます。
この一ヶ月の議論では、大きな視点からの議論がほとんどされずに一方的な意見の言いっぱなしで終始してしまったという印象です。どうして議論ができなくなってしまっているのか。そういう自体こそが深刻のような気がしますが。
※ ※ ※ ※
細かいことに神経を使いすぎて大局を見失いかけていると思われるのが地域医療の問題です。
最近は医療過誤に対する被害者や遺族からの声を受けて、医療事故の追究を最初から警察の手に委ねる事案が増えています。特にそれが顕著なのが産婦人科です。
福島県大野病院というところでの医師の帝王切開処置による事故死に対して去る平成20年3月25日に検察は禁固1年を求刑しました。
そしてまだ判決は下されていませんが、このことで全国の産婦人科医から、「あの条件下での医師としては適切な範囲の対応が裁判沙汰になるのであれば、とてもリスクが大きくてこれ以上産婦人科医は続けられない」という声が上がり、全国的に産婦人科医が逃げ出しているというのが現在の日本の医療問題です。
ここには、なにか事故が起きたあとに、我々はどのように対応すべきか、という、社会のありように対する大きな二つの考え方がぶつかっていると言えます。
医療問題に関する様々な意見交換の場となっている、mricという医療関係者によるブログがありますが、ここに虎ノ門病院の小松秀樹さんという方が、「無理な規範は何をもたらすか?」という視点で文章を書かれています。
文章はこちら → http://mric.tanaka.md/2008/04/26/_vol_51_1.html#more
【以下、一部抜粋】
世界で医療事故の報告制度について、どのように考えられているのか。1999年のアメリカ医学研究所の「人は誰でも間違える」の出版は、医療安全におけるパラダイムシフトをもたらした。医療事故調をめぐる意見は、これ受け入れるかどうかで、大きく分かれる。樋口委員の発言は下記のどちらの立場に立つのかという質問でもある。
旧思考:
「過失により人に傷害を与えたり死に至らせたりすることは、個人の罪であり、個人への応報はそれ自体が価値である。また、処罰により事故が防止され、社会の安全が向上する」
新思考:
「人間は間違いを犯しやすい性質を持っており、その性質を変えることはできない。人間の間違えやすいという性質を受け入れて、間違いが起こることを前提に、間違いを起こせない、あるいは、間違いがあってもどこかで修正できるようにシステムを構築する。そのためには、広く事故情報を収集して過去の失敗に学ぶ必要がある」
旧思考は、法律、行政、メディアに親和性が強い。
例えば、刑法学は、応報そのものに価値を見出す。犯罪の抑制効果も刑罰を正当化する論拠になっているが、刑罰とその決定までの過程に思考がとどまり、刑罰が社会全体にどのような影響を与えるのかについて、関心を持っていない。影響を計測するための方法を発達させていないし、実績も限定的である。旧思考には、過去の失敗を収集して学ぼうとする考え方はなかった。あるいは希薄だった。
これに対し、新思考は、現実を受け入れて適応しようとするものである。医療、航空運輸、原子力発電などの現場に広く浸透している。
*******【以下略 引用終わり】*******
つまり、失敗から何かを学び、次に備えて活かす、という前向きな視点で社会を運営して行く思考と、失敗したものに罰を下して失敗をさせないという視点で社会を運営して行く思考のぶつかり合いです。
ある意味で現代社会は恐怖政治に似てきました。一度の失敗がすぐに裁判に直結し、これまで積み上げたものを打ち砕くような社会では人は萎縮し、ただ失敗しないだけの生き方を選択します。人はリスクを取る前向きな生き方をしなくなることでしょう。
今の日本はどこか被害者感情に満ち満ちて、当事者を断罪する傾向にありますが、冷静な議論を尽くして、問題からどう解決策を見いだしてゆくのかという皆が参加する建設的な思考が求められます。
医療も国の財政も、一時の感情に溺れるのではなく、大局観をもって眺めて議論を尽くし、社会全体の価値が高まるような判断をしたいものです。
ところでうちの奥さん、今日ガソリン入れてくれたかなぁ?