北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

元気が一番

2008-10-31 23:28:48 | Weblog
 北海道のある町の知人の話。

 その町には今度新しい集客施設ができるらしいのですが、そこの管理をどこにしてもらうかがなかなか決まらず困っているのだそう。その町にはまちづくり活動で有名なAさんという方がいるのを思い出したので、「Aさんみたいな方に管理運営をしてもらうといいのではありませんか?」と訊いてみました。

 すると「そうなんですよ。私もAさんにお願い出来ないかなと思っているのですが、管理者の側が、特定の市民団体などにやらせると、既得権益化してしまって、後から変えられなくなるのではないか、と思っているらしくて、それを快く思っていないようなんですよ」とのこと。

「なるほどねえ。問題は、そもそもその施設の目的は何か、ということなのでしょうね。その施設の目的が、たくさんの利用者を集めるとか、産物を売るなどといったことだとして、それを一番考えている熱心な元気のあるところはどこか、というあたりを考えると、だんだんに絞られてくるような気がしますがねえ。大体あなたの町に、元気のありそうな方ってAさんくらいしかいないじゃありませんか」
「お恥ずかしいけれど、そのとおりですね」

「既得権益化することがいやだとか、Aさんだって旨くやれるかどうかわからない、ということであれば、最初からやる人を決めてしまわないことでしょう。たとえば、トライアル期間として1年間をやってみてもらって、その成果を報告書として提出してもらい、その結果を判断材料として続ける抱えるかを決めると言うことをあらかじめ伝えておく、といったやり方もありますね。トライアル期間をやってみて、始めて改善点や効率的なやり方が分かるということだってありますからね」
「はあー、私もそういうやり方を採用して欲しいのですが」

「元気のある人に元気を発揮してもらうことを大切にしなければ、命令やお金だけで人はその気になって動きませんからね」

    ※    ※    ※    ※

 まちづくりでも、地方病院のお医者さんの確保にしても、いまだに「お金を払えばなんとかなる」とか「待遇を良くすれば人材は集まる」と思っている人が多いよう。

 お金で外から来てもらう関係よりも、地元でやる気のある人の心に火をつける方が安く情熱的な仕事をしてもらえるということは良くある話。

 お金の関係では、必要な最低限の義務しかしてもらえないような気がします。やっぱり元気が一番。

    ※    ※    ※    ※

 論語に「これを如何せん、これを如何せんといわざる者は、吾れこれをいかんともするなきのみ」という言葉があります。

 「どうしたら分かるのか、どうしたらいいのか、と常に問いかけてくるような人でなくては、私がいくら教えたところでどうにもなるものではない」という意味です。

 学問を修めさせるには、体内から元気を出させることが一番なのですが、多分それが一番難しいのでしょう。

 元気ですか!元気が一番!(by アントニオ猪木)は真理だーっ!

 私は明日から日光で元気に蕎麦打ちです。 
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マラソンランナーの脳

2008-10-30 23:44:52 | Weblog
 仲間内で一杯やりながら話をしていると、話題がマラソンのことに。

 今日は7人の会合だったのですが、そのうち3人がマラソンを趣味にしていて、シーズンになると各地のマラソン大会に出場をしているのだとか。

 なかには50代になってから始めた、という人までいて、その方に理由を尋ねると「糖尿病の予防です」とのこと。遺伝体質的に糖尿の気があるそうで、数値が上がり始めたのをきっかけに運動をしなくては、と思うようになり、走り始めたのだそうです。

 体型を見ると、確かにマラソンに出るなどという方にはメタボ系の人はいなくてすっきりした体型です。

「走っていると、30km過ぎから足が棒になって、脳がもう走りたがらなくなるという感覚が分かるんですよ」とAさん。
「それはいい加減いやにもなるのでしょうね」と私。

「ところで、そんな状態になったときに元気になる秘訣があるんですよ」
「へえ?それはどういうことです?」

「実はマラソンの沿道には結構女性が見物に来ていて、市民マラソンなどでは手をさしのべてくれることがあって、そういう女性たちとタッチをしながら走ると、これがたちまち元気になって走れるようになるんです」
「脳が辛いこととは別なことを考えるからでしょうかね」

「そうかもしれませんが、女性の力は偉大です。沿道に最初から最後まで手をタッチし続けることが出来れば完走も簡単に出来るのではないか、と思うんですよ」

 マラソンランナーたちが走っている最中の脳は一体どんな状態になっているのでしょうか?
 
 それを知るためにマラソンはとても出来ませんが。
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坂本龍馬と太鼓持ち

2008-10-29 23:17:17 | Weblog
 シンクタンクをしている仲の良いAさんと意見交換の機会がありました。

 彼は今大きな国の調査のプロジェクトマネージャーをしていて、委員会の委員の人選や工程管理、内容の進行などをコントロールするのに奔走しているのです。

 今手がけているのは、低炭素社会の実現に向けたテーマや防災まちづくりなどだそうで、防災はともかく低炭素社会となると、聞いていてもなんだか頭が痛くなりそうです。

「委員の人選といっても大変なんでしょうね」と私。
「お互いに好き嫌いがあったり、自薦他薦もありますからね。なにしろ発注者から『その構成で良いです』と言って頂かなくては行けませんからねえ」

「委員会を上手に運営して結果を出すコツってなんですかね」
「僕は自分自身を『太鼓持ち』だと思っているんですよ。おだてるというと語弊がありますけれど、先生たちの間を取り持って、お互いに良い気分になってもらって、良い意見を出してもらうということです」

「なるほど、それでいて自分はあまり前面には出ない…と」
「もちろんそうです。前面に出るのは委員の先生たちですからね。でも委員会などに限らず、人と人の間を取り持つというのは結構苦労するんですが、太鼓持ちの精神でいるとこれが案外うまく行くんですよ」

「太鼓持ちというと、なんだかお世辞やおべんちゃらを言って人を良い気分にさせてしまうという、ちょっとネガティブなイメージがありますけどねえ」
「そういう商売もありましたからね。でも日本人は一対一の勝負が好きで、二人の意見が合わなくてお互いに話がこじれたりすると、二人だけでは解決出来なくなります。だからそこにそれを取り持つ第三者が必要で、そこに力量があれば、暗礁に乗り上げた問題もお互いの顔を立てながら解決出来るという余地が生まれるんですよ。幕末の土佐に坂本龍馬が出たでしょう?」

「ええ、知っていますよ」
「僕なんか、坂本龍馬こそ天才的な太鼓持ちだったんじゃないかと思うんですよ」

「龍馬が太鼓持ち?」
「そう。だってあれだけ仲の悪かった薩摩と長州の間に入って連合を成し遂げて幕府を倒す原動力になったんですよ。お世辞やおべんちゃらを言ったかどうかは別として、こういう第三者こそ理想の太鼓持ちだと僕は思うんですよ」

 龍馬が太鼓持ちとはまた大胆な表現です。しかし確かに、交渉がこじれたときにはお互いに誰かに救いや仲裁を求めて、互いのメンツを守りながら解決に導いて欲しいと心の中では思っているものです。

 意地の張り合いをいかになだめて結果として解決に結びつけるかという交渉には大きな力量が必要。お世辞ではなく、誠意による太鼓持ちというのもあるのかもしれません。

 うーん、いろんな考え方があるもんぜよ!
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Qちゃんの引退

2008-10-28 23:27:05 | Weblog
 女子マラソンの高橋尚子選手(愛称:Qちゃん)が引退とのこと。なにしろ日本女子陸上の世界で始めて金メダルを取ったスプリンターです。

 シドニーマラソンでの終盤に、サングラスをはずしたかと思うとぽーんと放り投げ、そこから一気にスパートしてゴールをした姿は忘れられません。本当に格好良かったなあ。

 サングラスを投げた理由については、あとから、「30km過ぎから投げたかったと思っていた。35kmあたりで父が見えたけれど、併走するシモン選手の側にいたので、ぶつかると思って一歩先に出てサングラスを放り、そのまま前に出た」というようなことを言っていました。

 でも見ている側にはそんなタイミングは分からなくて、サングラスを放り投げるのがスパートの合図のように思えたものです。そしてそれと同時にシモン選手を振り切ってのスパート。

 ゴールをした後も全く疲れた顔を見せずに小出コーチを探す姿も印象的でした。

 長年の過酷なトレーニングでさぞ疲れたことでしょう。今後はその経験を生かして、別な形で女子陸上に貢献して欲しいものです。

 長い間夢を与えてくれたことに感謝します。お疲れ様でした。
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数値化に馴染むもの、馴染まないもの

2008-10-27 23:47:21 | Weblog
 北海道から知人のAさんが上京してきて、「一杯やりません?」というので、職場の近くの居酒屋へと向かいました。

 Aさんはある種のシンクタンクのような仕事をしていますが、建設経済の分野にはなかなか造詣の深い方です。

 最近の話題についていろいろ話をしているうちに、話題は建設事業のことに。するとAさんは「最近はすっかりB/Cが幅をきかせています」と一言。B/C(ビー・バイ・シー)のBはBenefitのBで、便益とか効果という意味。一方Cの方はCostのCで、費用と言うこと。つまりB/Cはかけた費用に対して生み出された便益のことで、「費用対効果」などとも言われます。

 最近の公共事業は、お金をかけたことで便益がちゃんと生み出されているのか、ということが事業をやってもよろしいという条件になっています。お金を使うためだけの公共事業などはもうありえないのです。

「これにはいろいろと違った意見もあって、公共事業を4つに分類して考えるべきだという先生もいます」
「4つの分類とは何ですか?」と私。

「それは①ナショナルミニマム、②国家的プロジェクト、③B/C、④高質社会へのインフラ、という四つです」
「なるほど」

「ナショナルミニマムとは、国にとっての最低限の社会資本で、全国どこへ行っても道路や橋、水道、下水道、川の堤防などはちゃんと揃えて一定の質の生活が出来るようにするための事業です」
「そうですね、戦争直後の何もない時代から良くここまで来たものです」

「国家的プロジェクトとは、大きな港や国際空港、大規模開発など、国として対外的に備えるべき巨大事業で、地方自治体では無理で国が行うべきとされたものです。国民のための財産というわけですね」
「それも分かりますね」

「B/Cは、個別の事業そのものの生み出す価値を一つ一つ点検して、子孫のためにもやるべきだと考えられる事業は実施するけれど、人口や利用者など社会構造の変化によってやる意義が失われたものはやらない、という考え方です。今はほとんど総ての事業がこの考え方を導入して、価値を計算しています」
「そうですね、しかし総てを貨幣価値に換算するというのもなんとなく落ち着かない気がしますが…」

「そう、そこで出てくるのが、価値をなかなか計算出来ないけれど、より質の高い社会を作り上げるためにはお金をかけるべきではないか、という考え方です。例えば景観の形成や電線の地中化、色彩の統一などが挙げられます」
「なるほど、確かに貨幣価値としては計算しづらそうですね」

「電線の地中化などは、電力会社も一定の負担をしなくてはならないので昔ながらの街並みなど、本当に意義の高い場所以外は消極的なのが現実です。電力会社にとって電線は、空中にあろうが地下に埋設されていようが電気が通じればよいわけで、お金をかける意味はありませんからね」
「しかしそのために、日本の街並みは電柱と電線だらけです。そうか、それらの価値を算出するというのは難しいことですね」

するとAさんは「ところが…」「ところが、なんです?」
「経済学者さんの方だってそんなに簡単に引き下がりはしません。それらの価値についても貨幣価値化できるとしていろいろな計算方法を編み出していますからね」

「なるほど、世の中の大概のことは貨幣価値化できる派と、できないこともある派との対決というわけですね。しかし現実の問題は、今の電力会社の電線のように、例え貨幣価値化できたとしても、民間事業者が儲けの範囲でやらなくてはならない分野があると、やはり整備は進まないということではありませんか?」と私。

「そしてそれを考えて行くと、公共と民間が負担する割合の妥当なところはどこか、ということの議論をもっとすべきなのでしょうね。場所によっては99%が公共負担で民間負担は1%なんてことだって良いのかもしれませんしね」

    ※    ※    ※    ※

 ものごとの価値を総て数値化すべきという考え方と、数値化が及ばない領域があるのではないか、という二つの意見。

 多様な評価が必要だと言えば、その多様な評価軸は具体的には何がよいのか…。議論は続きましたが酔いが回って今日はここまで。

 現実社会は答えのない問題に折り合いをつけて行くことです。  
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古典と品格

2008-10-26 23:28:49 | Weblog
 昨日の大琳派展に関してもう一つ。

 展示されていた作品の中には、大物のふすま絵や屏風などが目立ったのですが、小物としては扇子や団扇、掛け軸に色紙など多彩な品々が並んでいました。

 絵のテーマは、日本の豊かな四季折々の草花や風景、動物などが多いのですが、それ以外にはやはり古典の一節を絵で表現するというものが目立ちました。

 伊勢物語や平家物語、新古今和歌集や三十六歌仙、漢詩にまでその範囲は広がっています。

 昨日の記事で、こういう芸術をもった子孫の末裔であることが誇らしい、と書いた私です。しかし同じような文化財産であるところの古典に触れていないということも改めて恥ずかしく思いました。

 伊勢物語のワンシーンを描いたもの、と解説が付いているから良いものの、絵を見て「ああ、この場面ね」と思うことも出来ないとは。

    ※    ※    ※    ※

 現代は書物が次から次へと出版されて、追いついたり本当によいものを見つけるのに苦労するのですが、古典は増えるわけがなく数は限られています。そして本当に良いものが古典とされているわけですから、質の低いものであるわけがありません。

 落語や古典の中にすでに、古典の知識があるからこそ理解で生きるユーモアや諧謔の表現もあったりします。

 また流れるような筆の文字が読めないのも悔しさのタネの一つ。和歌が書かれていても、読むことも出来なくてこれまた情けなくなりました。

 こんなことは、現代を生きる上ではほとんど必要のない技能なのですが、敢えてそれを身につけることこそが「品のある生き方」なのでしょう。

    ※    ※    ※    ※

 ある男性の先輩から言われたことは「博物館や美術館は作品も良いけれど、来ている女性を眺めるのもこれまた面白いんだよ」ということでした。

「え?どういうことです?」と訊き返すと、「彼氏連れで来る女性の中にはミーハーな人もいるんだけど、そういうところへ一人とか二人連れで来る女性の中には、本当に品のある女性がいるものさ。そういう女性の品格をさりげなく見るというのも実に目の肥やしになるんだよ」

 決してストーカー的な男の視線ではなく、品の良さとはどういうことか、ということに触れられるのもこういう場ならではです。実は男性陣も女性からそういう目で見られているのかも知れませんが。

 この日も確かに男女とも品のある方が大勢いらっしゃいました、はい。


【ロダン作 カレーの市民】国立西洋美術館前にて
  
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国立博物館の「大琳派展」を観る

2008-10-25 23:40:38 | Weblog
 上野の国立博物館平成館で開催中の「大琳派展」を見てきました。

 

 琳派(りんぱ)とは画家であり工芸家として知られる尾形光琳(1658~1716)によって確立された絵画工芸の独自のデザイン世界のこと。今年は尾形光琳の生誕350年なのだそうで、それをきっかけにして尾形光琳の芸術のルーツから、彼が生み出したものの継承者にスポットを当てた企画展というわけです。

 企画展では尾形光琳芸術のルーツとして、俵屋宗達(生没年不詳)と本阿弥光悦のコラボレーションから説き起こします。なんと尾形光琳の曾祖父の奥さんは本阿弥光悦の姉なのだそうで、光琳と光悦は遠い親戚にあたるのです。

 尾形光琳は弟の尾形乾山とともに、父から莫大な遺産を受け継いだのですが、堅実な乾山に対して光琳の方は大の散在家だったよう。遺産をたちまち食いつぶして、逆にそのために絵を描くことを仕事にしたといいますから、世の中まさに『禍福はあざなえる縄のごとし』です。

    ※    ※    ※    ※

 尾形光琳は俵屋宗達とは直接の師弟関係にはありませんでしたが、その画風には大きな影響を受けていて、宗達の有名な風神雷神図屏風(国宝)を模した風神雷神図屏風(重要文化財)が伝わっています。今日はこれに一番の感動です。

 今回は残念ながら宗達の原画は展示されていませんでしたが、光琳とその弟子鈴木抱一の手によって構図をそのまま模した屏風が展示されていました。

 光琳の屏風絵は本当に素晴らしかった!そしてそれ以上に、この構図を生み出した俵屋宗達の独創性に感服しました。風神と雷神を屏風全体の中にダイナミックに配置し、しかもやや滑稽かつ躍動感あふれる動きの一瞬を捕らえたこのセンス!感動です。

 【俵屋宗達画(国宝)風神雷神図】(絵はがきをスキャンしたもの)


 【尾形光琳画(重要文化財)風神雷神図】(絵はがきをスキャンしたもの)


 この風神雷神図は鈴木抱一も模写をしましたが、抱一はさらに、光琳の描いた屏風の裏に夏秋草図屏風という絵を描いていました。今は別々の屏風として展示されていましたが、風神の裏には風で飛ばされるツタの葉を、また雷神の裏には突然の雨を受けて萎れる夏草を描くという、これまた絶妙な洒落っ気ではありませんか。本当に目の保養になりました。

 【鈴木抱一画(重要文化財)夏秋草図屏風】


    ※    ※    ※    ※

 琳派と呼ばれる作品の数々を見ていて、特に大きな絵が残されていることには、日本の屏風や襖(ふすま)という調度品の存在が大きいと改めて感じました。

 日本人は芸術を初め、もの作りを細かく小さくすることに長けていて、小さい世界が得意だと思われがちですが、大きな場を与えられるときにも非常に独創的でクールな感覚を発揮するものです。

 そして、祖先が残してくれた芸術の数々を観られることの幸せと、日本人としてこういう芸術家たちの末裔であることの誇りを強烈に印象づけられました。

 上野へ行く機会があったらぜひご覧になっていただきたいものです。


 ちなみに、今発売中の「週刊世界の美術館」の特集が国立博物館で、表紙は同館所蔵の尾形光琳画風神雷神屏風図でした。まちなかで見かけたけれど偶然ですね。
 
  
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変わるのは日本か、世界か

2008-10-24 23:54:07 | Weblog
 さてさて、これはまた大変な経済状況になってきました。

 世界中の通貨が売られ、替わりに比較的経済が安定していると思われている円が買われています。買われに買われて円はついに一時一ドル90円台まで高騰。こりゃすごい値動きです。

 そして円高と世界的な株安のあおりを受けて、日経平均はバブル崩壊以降最安値の7469円まで続落。マスコミは、これだけ円が高くなると自動車や電気製品などが海外に売れなくなり、不況になると判断。

 各局のニュースは、円高株安に続いて、町工場を取材して工場の社長に「注文が激減して大変です…」と言わせ、円高による不況到来と不安を煽りまくっています。

 「日本の経済は大変なことになるぞー、不況が来るぞー」というのが一般的なマスコミの論調。なかには今にも国が潰れそうな感じを与えるものもあったりします。

 でも本当かな。通貨が強くて潰れた国はない、と聞きますが。

    ※    ※    ※    ※

 いろいろな経済ブログがある中で私が一番信頼して面白いと思っているものの一つが、「新世紀のビッグブラザーへ blog」です。

 これは中小企業診断士という肩書きの三橋貴明さんという方のブログですが、記事の内容はふわふわした噂に踊らされずに、数字と根拠を示しながら、現実的に判断をする、ということで貫かれた一級の経済記事ブログです。

 この方は「本当はやばい韓国経済」という本を書いて一躍経済コメンテーターとして有名になりまた人気が出たのですが、このブログも誠実な内容により、人気ブログランキングでは常に一位を争っています。

 さて、このブログの本日のタイトルが「変わる世界」。為替環境の劇的な変化で一体何が起こるのかを予想しています。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/19079991.html

 三橋さんの見解を引用すると、「今の超円高がどこまで進むかは分かりませんが、一つだけ確かなことがあります。
 来年の今頃も、我々はきっとWiiの体感ソフトに夢中になり、少年ジャンプを買い、「富樫また休載かよ!」とブツブツ文句を垂れ、ハルヒアニメ二期開始予告に胸をときめかせ、「アッキーナって確かに萌えるけど、何か安っぽいよな~」とか何とか言っているでしょう。要するに、今と変わらないということです。多少、輸出企業がリストラクチャリングに励み、日本人の購買力が高まった結果、輸入品ブームが巻き起こり、海外への大名旅行が流行っているかも知れませんが。
 変わるのは、世界の方です」というもの。

 日本は世界二位の内需を持った国です。そして確かに世界にモノを売っていますが、その外需依存度は世界の先進国よりも相対的には低く、決して異常にモノを売りまくっているわけではありません。

 【日本経済は外需依存の嘘】
http://members3.jcom.home.ne.jp/takaaki.mitsuhashi/data_02.html


 そしてバブル崩壊とデフレの苦しみから10年かけて堅実な経済を作り上げてきた今、多額の金を借りて利子の差で儲けようというバブルな考えで経済を支えてきた国はここで一気に風の吹かないグライダー状態になりました。IMF(国際通貨基金)の監視下による経済立て直しを余儀なくされる国が続々と増えて行くことでしょう。

 変わるのは日本ではなく世界の方だ、というのが三橋さんの見解です。

 確かに浮かれるような日々はしばらく来ないかも知れませんが、それにしても、経済は悪い方向に進んでいるという暗い気分になりそうなところを吹き飛ばしてくれる意見です。

 マスコミのとらえ方を、ネットが提供してくれる多くの誠実な知識と照らし合わせてみることで、自ら深く考えることができる良い時代になりました。

 ネットと上手につきあい、これを使いこなして強い判断力を身につけたいものですね。 
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人の道を生きる

2008-10-23 23:50:09 | Weblog
 知人から、「二宮尊徳の入門書といえば何ですか?」と訊かれて、迷わず答えたのが「二宮翁夜話」でした。

 これは尊徳先生の高弟だった富田高慶が尊徳先生の語った言葉を思い出しながら書き留めた話を集めたものです。文体が平易であるとともに内容に含蓄が深く、尊徳先生の報徳思想を理解する上で一番の入門書といって間違いないでしょう。

 そんなことを思い返しながら書棚のこの本を手にしてパラパラとめくりますと、「己に克つのが人道」という一節に出会いました。私は感動したページを感動の量だけぐいと折り返すのですが、その折り返しが多いページだったのです。

    ※    ※    ※    ※

 まず原文をご披露します。

 【52. 己に克つのが人道】
 翁のことばに、天理と人道との差別を、よく弁別出来る人は少ない。およそ人のみがあれば欲があるのは天理であって、田畑に草が生ずるのと同じ事だ。

 堤は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる、これがすなわち天理なのだ。そこで人道は、私欲を制するのを道とし、田畑の草をとるのを道とし、堤は築き立て、堀はさらえ、橋は掛け替えるのを道とする。

 このように天理と人道とは別々のものだからして、天理は万古変わらないが、人道は一日怠ればたちまちすたれる。

 だから人道はつとめることを喜び、自然にまかせるのを尊ばない。そうして、人道でつとめるべきことは「己(おのれ)に克(か)つ」という教えだ。

 「己」とは私欲のことだ。私欲は、田畑にたとえれば草だ。「克つ」とは、この田畑に生ずる草を取り捨てることをいうのだ。「己に克つ」というのは、わが心の田畑に生ずる草をけずり捨て取り捨てて、わが心の米麦を繁茂させる勤めのことだ。

 これを人道というのであって、論語(願淵篇)に「己に克って礼に復(かえ)る」とあるのは、この勤めなのだ。

    ※    ※    ※    ※

 尊徳先生は、天の道と人の道をはっきり区別します。天はだれも区別することはない。だから米や麦だろうが雑草だろうが同じように育てる。だがしかし天の道の通りにしていると田や畑は雑草だらけになってしまい、実りも得られない。

 だから人間は人の道に努めて、米麦と雑草を区別して、片方は残して片方を取るのだ。

 なすがままにするということは天の道であって、人の道はそこから自分たちの幸せをデザインしてそこにむけて努力を重ねるところにあるのです。

 教育などはその典型でしょう。子どもを好き勝手にさせるのは天の道。そのなかから才能を見つけ出してそれを伸ばしてやり、余分なものは取り去ってやる作業、それこそが教育です。

 掃除だって、放っておけば散らかって汚れる部屋は天の道。それを元に戻してきれいにするのは人の道なのです。

 我々は天の道の恩恵を受けながら、人の道に生きなくてはならない。尊徳先生はその教えを強調します。

 そこには何が正しいのか、自分自信をデザインする力と生まずたゆまず続ける力が求められます。人の道を生きようではありませんか。 
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クールな日本 GNC=国民総魅力

2008-10-22 23:46:48 | Weblog
 竹島関連の記事を書いて以来、少し韓国関連のサイトウォッチをしています。

 基本的に韓国はいまだに反日、嫌日で国をまとめ上げているようなところがあって、竹島(韓国名独島)の領土問題や歴史教育などで日本人が「へー」と驚くような考え方が非常に多いことに驚きます。

 そんなわけで韓国国内のマスコミも基本的には日本に批判的な論調の記事を書く中、非常に稀ですが、日本を鏡として韓国国内に警鐘を鳴らすような記事を書くことがあります。

 朝鮮日報の日本語版サイトの2008年5月5日の記事は「『魅力』を売るクールな日本」というタイトルの記事を載せて、日本が経済活動による物品だけではなく、アニメやファッション、武道や文字などの文化が世界の中で評価と支持を受けている様子を書いています。

 http://www.chosunonline.com/article/20080505000025

 この記事の中で出てくる単語が「GNC(=Gross National Cool)国民総魅力」という指標。これはアメリカのニューアメリカ財団のダグラス・マッグレイ研究員が、外交雑誌『フォーリン・ポリシー』(2002年5・6月号)に発表した論文の中で使われたものなのだそう。

 もちろん、経済指標のGNPになぞらえたものですが、最近はブータンという国がGNH(Gross National Happiness)国民総幸福度という指標を提唱したりして、国の価値を表す指標づくりが盛り上がっています。

 そんな中、この記事を読むと日本という国が様々な文化面に置いてCool(=魅力、かっこ良さ)だとして、世界で非常に高い評価を受けているということに改めて気づきます。

 このことは、評価を高めようと国を挙げて文化を振興していると言うよりは国民一人一人がより新しいものを生み出したり、祖先の時代から、より良い生活を目指した改善を繰り返す高いレベルの意識をもっていて、その総和としての国が結果として評価を受けているからなのだと思います。

 私などは、こんな日本を今我々が預かっているからには、このレベルを落として子孫に渡したのではご先祖さまに申し訳が立たない、と思うのですが、同時に国民一人一人の心のどこかにそんな気持ちは必ずあるものだという確信ももっています。

 世界経済は大変な状況ですが、私たちはクールな日本に生まれた幸福を味わいつつ、さらにカッコイイ生き方を継承して行くよう目指したいものです。

    ※    ※    ※    ※

 ちなみに、NAVERという韓国の企業が提供するEnjoy Korea(エンジョイ・コリア:通称エンコリ)というサイトがあります。ここでは日韓双方の読者が興味あるテーマで話題を投げかけて、それを自動翻訳で双方が理解出来るようなサービスを提供していて、投げかけた記事をもとに日韓双方の読者が意見交換をしたり罵倒し合ったり(こちらの方が非常に多いのですが…笑)するサービスがあります。

 この朝鮮日報の記事がこのエンコリ上でさらに上手に表現されていて、日韓双方の意見が読めて非常に面白い投稿になっています。お暇ならぜひこちらもご覧になってみてください。

 ただし投稿者によっては最初から相手を罵倒することを目的にした書き込みもありますので、そうした書き込みは気にしないという覚悟が必要です(念のため) 

 http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=1242514&start_range=1238594&end_range=1244280
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