北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「見ること」は布施行なり

2010-10-31 23:05:33 | Weblog
 自衛隊帯広駐屯地で開かれた、第五旅団創立6周年・帯広駐屯地創設59周年記念式典に市長代理として出席してきました。

 第五旅団は、かつては上位の組織単位である第五師団として約7千名の隊員を有していましたが、2004年3月に現在の旅団という形に再編成され、3個普通科連隊基幹約4千名に規模が縮小されました。

 しかしその任務は、北海道道東の防衛警備はもちろん、災害派遣、民生協力及び国際貢献活動と幅広く、今年1月に中南米ハイチで発生した大地震による国際復旧事業にもここ帯広の隊員が参加をしたそうです。

 隠れた世界貢献も地元から発せられているとはあまり知られていないのかも。

    ※     ※     ※     ※     ※

 今日の式典には、国会議員、道議会議員をはじめ管内自治体の首長や多くの自衛隊関係者が参加して晴天の暖かな日の下で行われました。

 式典の中では主催者の式辞、来賓挨拶の後に観閲式という形で、音楽隊を先頭に、偵察隊、歩兵隊、戦車隊、輸送隊、火砲部隊などが主催者である旅団長の前を行進し、それを査閲する「観閲式」というのが大々的に行われました。





               【管内自治体の旗も振られました』


 よくテレビで北朝鮮が軍隊の行進を大変な人数で行っている映像が流されますが、規模こそ違えそれと同じく軍事力の状況を高官が見るという式典です。

 そこだけをとらえると部下が一生懸命に行進して上官はそれを眺めるだけのことと思われるかもしれません。しかしこの『見る』という行為こそ、上官にとっては現場の最前線がどのようになっていて士気がいかなる状態にあるかを把握するもっとも重要な仕事であると言っても過言ではありません。

 『見る』ということがいかに大切であるか。

 仏教に「無財の七施」という言葉があります。これは財やお金を用いなくても人々を喜ばせる施しはできるのだ、という教えです。

 無財の七施は次の七つの行為のこと

---------------≪ 以下引用 ≫--------------

①眼施(がんせ)
 慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。

②和顔施(わげんせ)
 和顔悦色施ともいいます。いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。

③愛語施(あいごせ)
 言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをいいます。

④身施(しんせ)
 捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。

⑤心施(しんせ)
 心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。

⑥牀座施(しょうざせ)
 たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。

⑦房舎施(ぼうしゃせ)
 風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける思いやりの行為など。

【引用元】http://berry.nagaokauniv.ac.jp/home-hal/muzai.html
---------------≪ 引用ここまで ≫--------------

 この七施の一番最初に出てくるのが「眼施」で、まさに見てあげることこそが大事な布施の行であるわけです。

 幼子が「お母さん、見て、見て~」というときに優しいまなざしでわが子を見るその目こそ眼施そのもの。決して見もせずいい加減に「はいはい」と生返事をしてはいけません。


    ※     ※     ※     ※     ※

 
 この日は、一般の市民も大勢集まって、施設見学や体験試乗などのアトラクションにも参加をしていました。

 私たちももっと我が国と地域の防衛に関心を持って、なにかあるときはそれを見てあげること、参加してあげることがより高い意識の醸成に繋がります。

 まちづくりもまさにそれと同じ。関心を持って見る、参加する、その積み重ねでしかないのです。あとはそれを実行でき、実践してもらえるように人々の心を動かせるかどうかに外なりません。

 その実践活動こそ生涯学習の本質である、と私は思っているわけ。

 国の防衛を生涯学習するにはこうした式典は格好の機会です。国民の防衛意識も次第に高まってきているようですが、自分のことと思うまでにはなかなか至っていないようですがどうでしょう。


               【戦車隊は勇壮でした】



               【ヘリコプター部隊も登場】



    ※     ※     ※     ※     ※

 式典後の会食会では、冒頭のハイチ大地震へ部隊を指揮していかれた隊長の挨拶がありました。

「最初は『中国人か?』と言われてアジア人が区別できないようでしたが、『日本だ、日本だ』と言い続けているうちに、仕事の丁寧さや時間を守る姿が分かってもらえて、最後は『ジャポネ、ジャポネ』と言われるようになりましたし、その仕事ぶりから『一番難しい仕事はジャポネに頼め。そこができなければどこもできない』とまで言われるようになり、日本を強く印象付けることができと思います」という言葉に会場からは拍手の嵐。

 誇りに思うとはこういうことなのでしょうね。

 秋晴れのさわやかな一日でした。
 
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お嬢さんと結婚させてください

2010-10-30 23:55:27 | Weblog
 娘の彼氏が「お嬢さんと結婚させてください」という挨拶にやってきました。

 二人はつきあい始めてから二年が経った今月の初めに彼氏の方からプロポーズをして娘もそれをありがたく受け入れていたもの。私がなかなか札幌へ帰ってこないものだから、挨拶が延び延びになっていたのです。

 娘からは彼氏とのできごとを時々耳にしていましたし、何度か会わせてもらって人となりは知っていたのでそれほど心配はしていませんでしたので、やっとプロポーズしてくれたか、という感じ。私にはあまり違和感はありません。

 今日は先勝なので良いことは午前中にしてしまおう、ということで昼前に我が家へ来て頂きました。今日の目的はその挨拶と分かっていながら、まずは四方山話から始まって、当たり障りのない話が続きます。

 思えば私も二十数年前に妻の実家へでかけて同じ挨拶をしたことを思い出しました。そのときもドキドキしたいたのに優しく受け入れてくれたので、あまり意地悪をする気にもなりません。

 話が彼の趣味の登山に及んだところで、人生の山登りにかけて「お嬢さんと結婚させてください」と切り出されたので、こちらも「娘をよろしくお願いします」と応えました。

 そのうえで付け加えるように「お互い相手に尊敬される自分になるように頑張ってください」と言い添え。本当はもっと言うことを用意していたような気がしますが、なんだか吹っ飛んでしまいました。まあいいよね。

 なにはともあれ、明るく楽しい家庭を築いて欲しいものです。

 子育てなんてあっという間ですね。

 
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ししゃも漁初水揚げ

2010-10-29 23:46:29 | Weblog
 10月28日は今年のししゃもの初水揚げの日。

 ししゃも漁は25日から解禁になっていたのですが、時化模様で漁に出られずこの日が初水揚げとなりました。ししゃも漁は午後に出漁して夕方に帰港、5時からセリが始まるというしくみなんだそうで、魚と言えばなんでも朝早くか夜遅くに行われると思いこんでいた私にはちょっと意外。

 もう日が落ちようとする頃に、寒い風に吹かれながら船で捕れた魚を岸壁にあげ、魚種を選別して木箱に入れる。ししゃも漁とはいえ、ししゃもだけがねらったように取れるわけではなくいろいろな魚種が混獲されるので、ししゃもだけを分けなくてはいけないのです。


               【夕日にししゃも漁とは絵になります】


「ちょっとこの魚の匂いをかいでみてください」案内してくれた水産課の担当者に言われて、ししゃもよりもちょっと大振りの魚の匂いをかいでみるとなにやら青臭い匂いがします。

「キュウリの匂いがしませんか。この魚はキュウリウオ、通称キュウリと言ってます」


               【これはキュウリウオ、ししゃもより大振り】


 ちょっと大振りなキュウリウオですが、実はししゃもも分類的にはキュウリウオ科の魚で、キュウリに似た匂いがします。安く出回っているカラフトししゃもやノルウェー産ししゃもなどもキュウリウオ科の魚で一見区別がつかないのですが、あちらはカペリンという別な魚。

 「ししゃも」とは呼んで欲しくないのだけれど、そこはビジネスの世界。値段の差と味の差の関係が難しい。

    ※    ※    ※    ※

 午後5時から第五魚揚場でセリが始まりました。一箱13kg入りの魚箱が積み上げられて値段が決められます。


               【ししゃもの魚箱が積み上げられています】


「ワンワンワン…(何を言っているのかさっぱり分からない)」「ターッ」で値段が決定したらしい。

 現場の方にこっそり伺うと「『ターッ』というのは『買ったーっ』の『たーっ』ですよ」とのこと。

 ししゃもの場合は下げセリといって、値段がどんどん下げられて行く途中で値が決まるセリの方式なんだとか。今日のししゃも、浜値は590円/kgだったそう。


               【セリの緊張した雰囲気】


「理想を言えばキロ千円欲しいところさ。シーズンで300トンくらいの漁獲を期待しているからそれで3億円の売り上げ。キロ800円でもまだ何とかなるけど、590円じゃあねえ…。それじゃ年に1億ちょっとくらいだろ。皆だんだん嫌になってくるさ…」

 もっともっと本物のししゃもを味わって食べましょう。今からが旬なんですから。

    ※    ※    ※    ※

 この日は体長40cm以上のマツカワカレイもたくさん上がっていました。

「カレイも刺身が旨いマツカワガレイと煮物が美味しいババガレイ(ナメタカレイ)などの違いがよく理解されていないみたいですね」とは水産の担当者の弁。
「刺身だとやっぱりヒラメが美味しいと思っていましたけど」

「ヒラメは獲ってからは旨味がどんどん落ちて行きますが、マツカワは落ち方が緩やかで旨い状態が長続きするという研究結果もあるみたいですよ」

 日高地方では「王蝶」と呼ばれて高級魚として認識も高まりつつあります。

 魚をもっと食べましょう。



               【マツカワガレイは大きいですね】
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【おまけ】条件不利を生き延びる~太平洋炭鉱の歴史

2010-10-29 01:49:22 | Weblog
 動物園へ行った帰りに釧路博物館へ立ち寄りました。炭鉱と石炭についてどうしても知りたかったことがあったので、石炭のことに詳しい学芸員のIさんに会いに行ったのです。

 数多あったはずの道内の炭鉱の中でも、釧路コールマインとして今なお年間約60万トンほどの石炭を掘り続けているのが元の太平洋炭鉱です。

 歴史的に見ると江戸幕府によってはじめて石炭採掘が行われたのは安政3(1856)年のオソツナイ地区でのことでしたが、炭層が浅かったり石炭の船積みに不便だったことから短期間で終了してしまいました。

 明治になると春採湖周辺で採掘を始め、海底へと坑道屈伸を始めたのが昭和21年で、同年8月には海底下の切羽採炭を開始しています。そしてこの時から当鉱の飛躍が始まりました。

 ピークの算出は昭和52年のことで、年間約261万トンを生産しこのとき年度末従業員数は約3600人もいたのです。

 やがてエネルギー源が石炭から石油に代わり、次第に炭鉱は閉山してゆくことになります。

「釧路の石炭の炭質はどうだったのですか?」と私。
「石炭の質と言えば、カロリーがどれだけ高いかでほぼ決まりますが、中の上か上の下あたりでしょうか。石炭が燃えるときには、ぱっと燃えて灰になる性質のものと、ねちゃっと粘りながら燃える性質のものとがあるのですが、釧路炭鉱は前者のぱっと燃えるタイプ。こういうのは発電所などに向いていて、後者は製鉄に用いられます」

「ははあ、だから今でも火力発電所に持ち込まれるんですね」
「そうです」

「そんな中の上くらいで結果としてずっと炭鉱が存続している理由はなんだったのでしょうか」
「中の上というのは条件的にはあまりよくありませんよね。道内にはもっと高カロリーで上質な炭鉱がたくさんありました。しかしそういうところでは簡単に採れる上に高く売れて儲かるために、安全対策や機械化への投資などが労使ともついおろそかになりがちでした。結果として事故につながってやっていけなくなるというところが多かったのです」

「なるほど」
「しかし逆に太平洋炭鉱の場合は条件が不利でしたから、早くから機械化による合理化に努めるとともに、ひとたび大きな事故を起こしてしまえば補償などで事業が立ち行かなくなるという危機感があって、安全対策にも相当力を入れました。そしてそれでも売って儲かるような事業計画を進めてきたのです。結果としてそういうところが残ったというのはある意味では必然のように思います」

「そういうことだったのですか。石炭の歴史もしっかりと押さえておかなくてはいけませんね」
「この辺りには東北の鉱山で働いていた人たちがかなり多く入ってきました。東北には『友子制度』といって、炭鉱に従事する人たちが互いに助け合うという、親と子の関係にも似た互助会のような制度が見受けられましたが、これらは東北地方によくみられる制度で、それがこちらにも入ってきた様子がうかがえます。石炭の歴史も面白いですよ」

    ※     ※     ※     ※     ※

 有利な条件の炭鉱が早々と姿を消してゆく中、条件の悪いところがそれを補うための合理化や先進的な安全対策を取り、結果として最も長命となるというのは皮肉なことでしょうか。

 いいえ、まちづくりでも資源や豊かさに甘んじて埋没することもあれば、苦しいからこそ住民が一致団結して地域なりに質素な幸せを満喫することだってありそうです。

 釧路は豊かで油断するまちなのか、苦しさを逆手に取れるまちなのか。 
 自分たちの意思で変えられるのは未来だけです。


【ついでに】
 博物館一階では12月12日までの期間で、トミカのコレクションをお借りした展示会を実施中。よくぞこれだけ集めたなあ、と驚きました。

 キーワードは「バリエーションとの戦い」なのだそうですが、持ち主の執念が伺えます。車好きにはたまらないかも。



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命について考える動物園

2010-10-29 00:13:30 | Weblog
 時間ができたので釧路動物園を訪ねて、前回見られなかった残りの施設を見せてもらいました。

 こちらの人気者がアムール虎のココア。2年前にここ釧路動物園では三頭のアムール虎の子供が生まれました。しかし母虎が産室ではなく、園舎の中で産み落としたために飼育員が気付いた時には小さな子虎たちはぐったりしていて誰もが三頭とも死んだと思いました。

 しかし母虎を別室に移した後で拾い上げてみると、ぴくりと小さな体が動いたんだそう。

「おい、生きてる!」

 そこから飼育員たちと子虎たちとの格闘が始まりました。一匹はすぐに死んでしまいましたが、タイガとココアと名付けられた二頭には、38度のお湯で体を温め、飼育員たちが交代でさすり続けたんだそう。

 しかしそこで子虎の下肢が以上にねじれているのに気が付きました。ずっと後になって分かったことは、この二頭は軟骨形成不全症という障碍によって、骨盤や関節が正常に形成できていなかったのです。

 障碍を持った子供の虎。他の動物園であれば知られないように薬殺されたかもしれません。しかし釧路動物園はそれを助ける選択をしました。

 足が動かないために糞尿を洗い落とすのも難儀。母虎の初乳も飲めなかったので飼育員が猫用のミルクで育てました。

 歩くのは無理だと思われていたのが、飼育記録を撮影中に見事に立ち上がり、その映像を入手したテレビ局が全国放送したことで一気に注目を浴びて日本中の人気者に。

 その後行われた臨時公開でも声援を送る人が多数訪れ、やがてタイガとココアのために募金活動まで始まるほどの一大フィーバーとなりました。

 残念ながらオスのタイガは昨年8月に餌をのどに詰まらせてなくなってしまいましたが、ココアの方は体格もよくなって今でも元気に園舎を動き回っています。命とは何かを考えさせられます。


               【今も元気なココア】



               【亡くなったタイガの部屋】


    ※     ※     ※     ※     ※

 実は釧路動物園には、全国で唯一のタンチョウ保護増殖センターが設置されています。これはタンチョウが自然状態で安定して存続できることを目的に昭和57年に設置されたものです。

 特別天然記念物であるタンチョウを保護したり育成したりできるのはここだけ、ということなのですが、タンチョウは今では生息数が千羽を超えたとも言われていて、事故にあったりケガをしたりする個体も増えています。

 そしてそこに人間が介在すると助けられたものはこちらへ持ち込まれることになります。

 タンチョウ保護増殖センターとしてはそうしたタンチョウが持ち込まれれば精一杯助けるように努力をすることになりますが、翼やくちばしが折れてしまったような傷病鶴は年々増えています。

 そんな鶴たちは自然界は生き延びることができないと思いますが、助けられるのが良いのか、それとも自然界で土に還るのが良いのでしょうか。


 釧路動物園は「命」について哲学できる動物園かもしれません。  



               【傷病鶴はこの園舎の中で保護されます】
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時代を貫く「誠」とは

2010-10-27 23:58:26 | Weblog
 その昔、職場での転勤に際して餞別という美しい風習がありました。

「大変だねえ、これで子供さんにお弁当でも食べさせてあげなさい」

 見送る方も苦しい懐の中からわずかばかりのお金を包んで持たせてあげる。昔は引っ越しや転勤って今よりもずっと大変だったのでしょう。

 命令ひとつで引っ越しを強いられる気苦労を少しでも癒してあげたいという優しい気持ちが餞別という形に姿を変えていました。

 しかし転勤や引っ越しが当たり前になってもなお風習だけが残るとしたら、初心がどこかへ忘れられてその意味が貶められてしまいます。

 どこまでが薄いグレーでどこからは濃いグレーなのか。いや、そもそもグレーじゃダメなんだと価値観は時代とともに変わります。

 またまた事業仕分けが始まりました。今度は特別な事業を別なお財布でやりくりする特別会計がやり玉に挙がっているそうです。

 初心がどこにあって、時代が変わってもなお残るべきものは何か。放たれる言葉に『誠』があるのはどちらなのか見抜けるでしょうか。

 予断を持たずに、言葉の奥の誠実さを見抜く眼力も問われています。
 
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「『都市縮小』の時代」を読む

2010-10-26 23:43:04 | Weblog



 「『都市縮小』の時代」(矢作弘著 角川oneテーマ21)を読みました。

 高度成長時代に広がりすぎた市街地はもはや人口減少が進む地方都市では支えきれないとして、都市を畳んで小さくしてゆこうというコンパクトシティという概念が語られるようになりました。

 国の人口が減る局面を迎えた日本では、今や都市は成長のステージではなくなったわけですが、それでは次に訪れるのは「衰退」なのでしょうか。

 売れると見越して郊外に整備した住宅地はもはや売れ残り、中心市街地は空洞化し商店街はシャッター街になりました。人口が減るなかで町の規模や施設をそのままにしておくと、それらを支えるだけの力や財政が行き届かなくなるのは当然ですが、衰退の前に「劣化」という局面があるだろうというのが私の考え。

 劣化ということの私のイメージは、利用されず放置される土地や家、建物が増えて、地域が魅力を失ってゆく状態のこと。

 人口密度が小さくなることで土地に対するニーズが減り、空き家や空きビルが増え、やがては所有者が行方不明になったり破たんしたりして主なきビルや家が出始めています。

 こうした局面を放っておけば、その状態が広がって魅力のない場所が魅力のない地域になり、魅力のない都市に成り下がってゆく。その時初めて都市が衰退した、と言えるのではないか、というのが私の見立てです。

    ※     ※     ※     ※     ※

 そんな都市の行く末に対処するためのヒントをこの「『都市縮小』の時代」に求めてみたもので、アメリカ、ドイツ、日本の都市を数多く訪ね歩いて、衰退する都市のルポルタージュになっています。

 アメリカ中西部オハイオ州のヤングスタウンという都市は、かつて製鉄で栄えました。そのピークは1930年代の人口17万人の時代でしたが、第二次大戦以降、鉄の消費低迷とモビリティの発達によってスーパーマーケットが郊外化し、さらに豊かな中流層が郊外居住をはじめて中心市街地は大きく衰退しました。

 2000年になって、そんなまちをなんとかすべく、「賢い衰退(smart decline)」を求めることとし、新しい再生計画をつくることになりました。

「縮小(decline)は死ぬこと(dying)と同じではない。小さくなったことを積極的に評価して、再生に役立てよう」という明確な意思が示されました。

 そして具体的な土地利用として、使われていない土地に移住を奨励する一戸5万ドルという引っ越し奨励制度を作って、移住した跡地は公園か緑化をしていると言います。

 健康産業を誘致するとともに、かつての栄光の時代に造られた近代様式建築を修復してスタジオやITオフィスに用途転換し、新しい産業の育成にも力を入れています。

    ※     ※     ※     ※     ※

 これらのほかにも、デトロイト、クリーブランド、セントルイス、かつて東独だったドイツの諸都市、そして日本では福井市、釜石市、長崎などの例が語られます。

 しかし日本の縮退都市づくりはまだ始まったばかりで、国内でまともに都市を小さくした事例はありません。

 日本の場合は土地の所有に対して固定資産税をかけているために、土地の所有者がなくなったり(実はその場合は最終的には国の所有地になる)すると、税金を払ってくれる人がいなくなり財政がますます苦しくなるというジレンマに陥ります。

 かつて住宅地が広がった時には、一坪千円だった原野が宅地になることで一坪3万円に化けたわけで、市への税収もどんどん増えたわけで、だからこそ都市拡大を奨励したのです。

 本のタイトルは「『都市縮小』の時代」とありますが、冒頭に書いたように都市は縮小せず劣化します。縮小するというのは、「縮小させる」という明確な行政の意図があって初めて成立することにほかなりません。

 家が建てられる一坪3万円の民間所有の土地を家が建てられない土地にすることは民間財産を毀損するためになんらかの保証をしない限り無理でしょう。

 とすると、もう縮めたい区域にある土地を市が所有する条件の良い土地と交換して市の所有地としたうえで家が建てられない土地にして原野に還すということが考えられますが、それでは売れる市の土地をくれてやり価値を下げ、税金の取れない土地にするという意味で、二重三重もの負担を市が負うことになりますが、それが将来の都市財政で支えられるかどうかを検証しなくてはならないでしょう。

 考えれば考えるほど、都市を畳むというのは実は大ごとだということが分かってきます。よほど性根を据えた議論が必要です。

    ※     ※     ※     ※     ※

 「『都市縮小』の時代」には、いくらか活性化した都市の事例も紹介されています。そしてそのポイントは、その都市が持つポテンシャルを十分に生かして、市民と一体となった理解と協力があって初めてできる、ということで、どこでも通じる万能薬ではありません。

 
 実はこの本の企画の初めは、「地方都市…勝ち組/負け組」というテーマで本が書けないか、というものだったとか。しかし著者は(負け組という都市を書きたくはないなあ…、しかし勝ち組都市とは何か…)と考えて結局このテーマはボツになったというエピソードをあとがきで語っています。

 わがまちを負け組にはしたくありません。そのためにはたくさんの人の知恵と参加と巻き込みが必要になるでしょう。

 この問題はさらに深く考えていきたいと思います。 
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航空写真の精度の差ってひどい

2010-10-25 23:43:21 | Weblog
 釧路市内にはいろいろと特色のある企業があります。

 市内を巡って企業活動の最前線を見せてほしいと担当者に伝えたところ、一日かけて10社ほどを巡るプランを作ってくれました。

 魚の新鮮さを保つことができる「窒素氷」は、窒素を吹き込むことで酸素を追い出した氷です。

 酸素がなければ酸化が防げるわけで、サンマを刺身で食べられるように保存・輸送ができる範囲が非常に広がりで注目されているのですが、その氷を作っているのも釧路の企業。是非見てみたいと思っていたところです。

 長芋を運ぶのには梱包材として使われる品質の良いオガクズを作る企業があったり、光ファイバーのリサイクルをする工場があったりと、いろいろと面白そうな企業を一気に見学して回れそうで楽しみなところ。

 
 回る企業についての説明をしてくれた担当者はなかなかの情報機器の使い手で、企業や周辺の場所を示すのにiPadを持ち込んで、インターネット上の地図情報グーグルマップ(Google map)を見せてくれました。

 インターネットでの地図情報には航空写真も貼り付けられていたはずだ、と思って、「地図はどうなっていますか」と訊ねたところ、「航空写真のデータが甘いんですよ」と嘆き節。

「どういうことですか?」と訊くと、「解像度が荒くて、建物が細かくわからないんです」とのこと。

 以前札幌市内の航空写真データを見た時には、私の自宅もはっきりわかったという記憶がありました。

「でもそれなりには分かるでしょ」
「いやあ、こんな感じですよ…」と見せてくれた市内の写真はひどいもの。

 同じ縮尺の札幌のものと比べると、全く使い物になりません。


               【札幌すすきの周辺の航空写真】



               【同じ縮尺の釧路市役所周辺 粗いですね】



「あらら、これはひどいなあ」
「でしょう?人口の多い都市と少ない都市で精度を変えているんでしょうかね。基準がよくわかりませんが」

 いやはや、都市の写真でこんなに差があるとは思いませんでした。 

 
 グーグルマップは企業による勝手なサービスだと言ってしまえばそれまでですが、わがまちの情報の精度が低いというのは残念です。写真の精度が高ければ、旅行の予定を立てたり行ったことのない街巡りを楽しんだりと楽しみ方の可能性が広がることでしょう。

 グーグルはこうした地図情報について利用者からの提供を受けていたと思いましたが、それならば自治体がとった航空写真を提供すれば精度の高い情報として掲載されるのでしょうか?

 もし掲載されるとしたら、自治体が撮った写真を提供することはどのような問題が起きるのでしょう。また、それらの問題がクリアされるようならば、写真を提供したいものですがどうでしょう。

 
 
 もちろん、防衛やプライバシーについて一定の配慮は必要でしょうけれど、情報は出せば出すほど利便が高まるように思います。行政が持っている情報をこうした形で民間に提供して利便が高まるということについて、研究をしてみようと思います。

 
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コンパクトスキャナーで机周りの環境改善

2010-10-24 23:20:06 | Weblog
 先週の金曜日にネットで注文してあったスキャナーが届きました。

 書類や絵をパソコンのデータ化するスキャナーなんて、最近はプリンターと一緒の複合機になっているものが出ていて、実際今の単身先にもスキャナー付きの複合機が一台あります。

 ところがこの図体がとても大きいために、いちいち取り出してセットしてスキャンする作業はとても面倒なもので、しかも一枚一枚スキャンしなくてはならないので実際には使われない道具に成り下がっていました。

 ところが最近は書類をどんどんデータ化してパソコンに取り込んだり、果てはインターネットでネットのサイトに預けてしまうということが簡単にできるようになりました。

 情報処理では、ネットワーク図を描くときに自分のパソコンが繋がっている先のネットワークをしばしば雲(cloud=雲)のように描くことがあるために、ネットワークの向こう側とデータのやりとりをすることは『クラウド化』と言われるようになりました。

 データを自分のパソコンに入れて持ち歩かずに、いつでもネットの向こう側から取り出せばよいでしょう。これは新しい情報管理の仕方で、たとえパソコンが壊れてもデーターは無事だし、仲間とデータを共有できれば離れたところで皆が参加できる新しい仕事の仕方にも繋げられるというわけです。


    ※     ※     ※     ※     ※


 そんなクラウド化のまず始めの一歩が紙ベースの情報をデータ化することに外ならず、それには気楽にすぐ使える使い勝手の良いスキャナーが必需品。

 机のまわりが書類だらけになってしまう私にとっては、資料をデータ化してパソコンに入れられれば、もしかしたら少しは片付くかもしれないという淡い期待もあります。

 そこで既にクラウド化を進めている友人や知人から「富士通のScanSnapシリーズが良いですよ」というアドバイスをもらって、早速「ScanSnap s1300」という機械を注文したのです。

 機械は横30cm×10cm×6cmくらいとコンパクトですが、紙を自動で吸い込んでA4サイズの紙を両面カラーでスキャンすることができます。両面の紙をいちいちひっくり返してもう一度取り直す必要がなくてこれは便利です。


               【キーボードと比べても小さいでしょ】


 A4サイズの紙を取り込んでそのままPDFファイルに変換してしまえばコンパクトにパソコンに納めておけます。


    ※     ※     ※     ※     ※

  
 さて、使い方がひと通りわかったところで、最近届いた冊子のデータ化に挑戦です。カッティングボードとカッターと金属の物差しを持ち出して、届いた冊子のホッチキスを外して真ん中を切ってA4サイズの紙に分解してしまいます。

 これをスキャナーにかけるとあっさりと読み込んでくれて一枚10秒くらいのごく短時間でスキャンが完了。


               【まずは道具の準備から】



               【冊子の分解完了】



               【ワンボタンで取り込んでくれちゃいます】

 スキャナーと一緒に購入したファイル管理ソフトを使って、冊子のページはパソコン画面で見られる絵図のファイルとして名前を付けて管理できるようになりました。

 分解した冊子は取っておかずに資源回収に回します。これで机の上からなかなか片付かなかった冊子が一冊片付きました。

 最近は自分で買った雑誌を裁断機で真っ二つにしてスキャナーで取り込み、電子書籍として電車内で楽しむという人も現れていると言いますが、読み捨ての週刊誌などであればそんな扱いで十分楽しめそうです。


               【バインダーみたいに管理できます】


    ※     ※     ※     ※     ※

 このスキャナーには名刺管理ソフトもついていて、名刺もどんどん吸い込んでは名刺の画面をそのまま保持しつつ、書かれている名前や郵便番号、住所、電話番号などにあたりをつけて文字データに変換して住所録データを作ることもできます。

 最近は変わった名刺があったり字体も多種多様で、一発で完璧に返還というわけにはいきませんが、実際使って見て「健気に頑張っている」という感じ(笑)。

 変換ミスを直してあげて、分類してやればまあ名刺整理道具としてはなんとか使えます。とにかくスキャンすることへのハードルを著しく下げたことはなんといっても評価できるでしょう。

 仕事の仕方をクラウド化するための第一歩として良い道具が手に入りました。さて、机のまわりは片付くのでしょうか(笑)

 新しいことを覚えるのって実際は大変なのですが、常に好奇心を持ってついて行かなければ見えない世界があるのも事実です。

 人生、あきらめたところが終着駅です。  
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おい、できないことをやらせるな

2010-10-23 21:43:54 | Weblog

               【学芸会のご案内】


 午前に市内の養護学校から案内をいただいていた学芸会を見てきました。

 こちらは昭和54年に小・中学校の養護学校として開校し、平成10年からは高等部が開設されました。知的障害の子供たちが基本ですが、中には肢体不自由の子供さんもいます。

 小中学校だけではなくこちらには高等部もあって高校生も支援教育を受けています。

 こちらでは釧路・根室管内の子供たちを対象としていますが、管内があまりに広いのと中標津にもある養護学校の定員の関係で入りきれない子供たちも受け持っているために、そんな遠くて通うことができない子供たちのために寄宿舎が用意されています。

 学校へ通えずに訪問支援を受けている9名を除いて、今年この学校で学ぶ子供たちは全部で111名。そのうち17名が寄宿舎生活をしています。ハンデを背負いながらなお親元を離れて暮らさなくてはならないのは何とも不憫です。

 しかし小中学生による学芸会は全員明るく楽しく劇や音楽などで日頃の練習の成果を見せてくれ、会場の親御さんたちの拍手を誘っていました。

 舞台上で道具立てを揃えるのには、地元の北海道教育大学釧路分校の学生さんたちもお手伝いに来てくれて、一生懸命裏方を務めてくれました。

    ※     ※     ※     ※     ※

 小中学生の学芸会の後は、高校生たちによる作品展示会「ひまわりフェスタ」も見て回りました。

 高校生になると、いろいろな作品を作って展示したりバザーで売ったりもしています。布を割いて織り込んだ作品などは不思議な風情がありました。

 いろいろと見て回って、最後に壁に掛けられた額の作品を見て心にぐっとくるものがありました。


 おい できないことをやらせるな

   おれにもやりたいことがある





 
 独特な字体で書かれた大きな文字。訊けば、こう書くように指導したわけではないんだそう。

 なんと言ったらよいのか言葉を失いました。そのできないことをやれるようにするのが教育なのかもしれないし。

 何もできないけれど、こういう学校の姿を見てあげることも自分のできるほんの小さなことの一つだと信じることにします。

 これが私の住んでいるまちの現場の姿です。  

コメント (2)
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