北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

東京自転車巡り~十思公園・月島・将門首塚

2007-06-30 23:15:03 | 東京ウォーク
 週末は雨の降らない今年の梅雨。都内巡りにはうれしい状況が続いています。

 ここのところ三軒茶屋を中心に自転車で回ることが多かったのですが、今回は久しぶりに文京区の春日駅から出発です。

 前回と同じジャイアントのスポーツ自転車を借りて、軽快に都内を疾駆するのです。今日のとりあえずの目標は中央区にある十思公園。
 ここは、ここのところお付き合いの深まった吉田松陰が捕らえられ処刑された小伝馬町牢屋敷のあった場所なのです。神社や本に巡り会った縁尋の機妙の最後は、松陰先生ゆかりの場所に行く必要があると思ったのです。まずは松陰先生完結の旅路です。

    ※    ※    ※    ※

 さて軽快に走り出したものの、まずは孔子様にあやかって湯島聖堂へお参り。論語をまた一から学ばなくてはだめですかね。

 中央区へ向かう途中には久しぶりの秋葉原へも立ち寄りました。何年かぶりで地区内をうろついてみましたが、駅前は再開発ビルが建って全く様変わりをしていました。

 しかし一歩中通りにはいるとそこには昔と同じく、秋葉原独特のオタク族っぽい人たちが闊歩するにぎやかな通りです。

 電気街、パソコン街としての趣はやや薄れた感がありますが、それでも中古品やジャンク品の宝庫。ついつい中古パソコンを眺めているうちに、超掘り出し物と思われる一台を見つけました。
 パソコン話はまた別の話題で書きますが、秋葉原は以前にも増して活気に満ちていました。ここには情報と話題とソフトが日々生まれているという印象です。アニメも、そこから派生するコスプレも、またそうした変化の仕方も「ジャパン・クール」なのです。

    ※    ※    ※    ※

 さて、自転車はいよいよ中央区の十思公園へ到着。この公園は、表の太い通りには面していないので地図を持って、しっかりとゆく気にならないとちょっとわかりづらい場所。昔の小伝馬町牢屋敷はこの十思公園の隣の日本橋小学校の敷地も含めた広い場所だったようなので、日本橋小学校を目標にくると良いかもしれませんが。

 公園は50m四方の、それほど広くはない児童公園のような有様です。しかしその奥に「留魂碑」が建てられていて、まさにここが松陰先生最期の地であったことがわかります。
 今は静かなたたずまいの公園になっています。土地の記憶をとどめるには公園という形が一番良いのでしょうね。

 勤王の志士の中では、橋本左内や頼三樹三郎(らい みきさぶろう)などもこの地で刑場の露と消えています。
 志半ばの志士たちに 合掌。

    ※    ※    ※    ※

 続いては先日視察で近くまで来ていながら楽しむところまでいかなかった、もんじゃ焼きで有名な月島界隈を自転車で回りました。

 月島地区も家同士がくっついていて、家の前の通りがめちゃくちゃ細い密集地区の様相を呈していますが、こちらは道路がしっかりとした直線でただ細いだけの、計画的な密集地区といえるでしょう。

 インターネット百科事典のWikipediaで「月島」を調べるとこのように出ていました。

 ***Wikipediaより引用***

 月島(つきしま)は、東京都中央区にある地名である。

 明治25年の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられた、月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成した。ちなみに月島2・3号地は勝どき、月島4号地は晴海である。

 当時の月島は、富国強兵の国策に沿い鉄工業地帯とされていた。また、月島の名前は「築島」の字を変えたものといわれている。広義では、佃島(現在の住居表示で)佃、月島、勝どき、晴海を含む島を言う、縂面積は2.279km2[1]。

 ***引用終わり***

 なるほど、「築島」から「月島」とはねえ。なかなかロマンチックな命名をするものです。

 中通りは商店街になっているのですが、ここは「もんじゃ焼き通り」と言われているくらい、地元の名物であるもんじゃ焼き屋さんがたくさんあるところ。

「もんじゃ焼きって、美味しいところは美味しいけれど、不味いところに当たるとひどい目に遭いますよ」とは職場の同僚のアドバイス。

「じゃあどこがいいのか教えてくれませんか」「じゃあ調べてみましょう」ということで、紹介してくれたのがこちらの「近どう」という老舗のお店。老舗と言うからには古い店構えを想像していたのですが、実際は近代的なお店に変わっていました。

 さすがに名物の味だけは見てきただけでは物足りないので、エビ・タコ・イカなどがボリュームたっぷりに入った特製もんじゃを注文。なるほど、これが月島もんじゃのお味ですか。非常に美味しくいただきました。


 店内はグループやカップル連ればかりで、一人でのもんじゃ焼きというのはどうにも絵になりませんでしたね、ははは。

    ※    ※    ※    ※

 月島を後にして、築地の場外市場、築地本願寺などを巡りつつ、帰路につきました。

 最後に、以前近くまでいきながらついぞ見つけることのできなかった平将門の首塚へもお参りをしてきました。高層ビルの狭間にひっそりと祀られていましたが、やっとたどりつきました。

 今日は吉田松陰先生の十思公園に始まって平将門の首塚にいたるお参りの旅。心残りを一つずつ消して行くと、この都会が少しずつわかってくるような気がします。

 
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災害時の公園の役割

2007-06-29 23:34:23 | Weblog
 この週末には夜遅くまでのことがいろいろあって、ブログが書き切れませんでした。夏休みの宿題と一緒で、ためると大変なんですよねえ。

 今日の夜は、防災公園のアドバイザー会議。これはある団体が面倒をみている、防災公園のあり方について研究をしている活動です。

 本来は国と地方自治体の行政関係者の会合なのですが、かくいう私も防災公園には大いに関わっているので、声をかけてもらってメンバーに加えてもらっているのです。

 主に地震とそれによってもたらされる建物の倒壊、そして同時多発的な火災というのが、大規模地震の際の都市における代表的な被災シナリオです。

 公園など、大規模な空き地は被災直後では火災の際の一時避難場所、あるいは広域避難場所として効果を発揮し、また一時的な災害が収まった時期には復旧、復興の拠点として救援隊や自衛隊の拠点となり、あるいは家を失った人たちのための臨時仮設住宅の場所としても利用されます。

 これまでの代表的な地震被害では、阪神淡路大震災でも中越地震でも被災後の公園はそうした利用がされてきています。

 今日はそうしたことも踏まえつつ、私が来る前のこれまでの研究の紹介と今後のあり方について意見が交わされました。

    ※    ※    ※    ※

 会合には学識経験者として何人かの大学の先生も参加されていたのですが、興味深い意見が多く出されました。

 N先生からは、「東京は関東大震災並みの地震がいつ起こるかわからないが、倒壊と火災のシナリオは、耐震の度合いや住宅の不燃化率が関東大震災の頃よりは格段に進んでいるので、それを踏まえた議論が大事だが、今日的な問題は、『帰宅困難者』の問題だと思う」 と発言。

 帰宅困難者とは、大規模災害により交通機関が被害を受けたり、あるいはそこまでいかなくても運行を停止することによって遠くの自宅まで帰宅をあきらめたり、一旦徒歩で帰宅を開始したものの途中で帰宅が困難となり、保護が必要になる人々のこと。

 つまり、大地震等で交通機関がマヒしてしまった場合に、職場、学校、買い物先等から自宅へ帰れなくなってしまう人々のことです。

 地方都市や田舎ではあまり考えられませんが、東京で大規模地震が発生し交通網が分断された場合、都内の約390万人が帰宅困難者になるという予測もあるとか。

 N先生曰く、「実は単に遠いだけではなくて、山手線の内側では山手線をくぐって行く道路の容量に限りがあって、まずそこで大変な滞留が起こるのではないか、また、そこをすぎると今度は川を渡るのに橋の容量が必要になる」

「そうした帰宅者の通る道はおおむね決まってしまうのだが、そうしたどうろは今度は救援のために使われることになる。東京都ではそうしたことを見越して緊急道路の位置づけを行っているが、これが東京都の範囲を出ると、他県はまだそこまでいっていないなどの不整合がある」

「しかも夜までに家にたどり着かない場合は、野宿や夜間の休息の場も必要となる。つまり帰宅者のためには家に向かう放射状の道路とともに、要所要所に水やトイレの拠点と雨露をしのぎながら休息のとれる場所が必要になるということなのです。公園は一時的な避難だけではなくて、そうした休息ポイントとしても利用される可能性があるということを念頭に置くべきだ」

 大都会ならではの大きな問題意識です。私の場合は家から職場まで約20kmほどですから、水さえあれば何とか帰ることのできる距離といえます。やはり水の備えですね。

    ※    ※    ※    ※

 またもう一人のS先生は、能登地震の情報を収集されておられて、救援物資の管理が興味深いとおっしゃいます。

 阪神淡路大震災などでも問題になりましたが、日本中から救援物資と称して必要なものから要らないものまでが被災地に大量に押し寄せて、現地の役場の職員がその裁きに忙殺されてしまって、功罪相半ばしたという話が伝わっています。

 能登地震でも同じようなことが起こりかけたのですが、「ヴァーチャル在庫」という手法を取ってこの難局に対処したというのです。

 それは「救援物資を送りたい」という申し出に対して、まず送りたいという物資の品物と量を聞き取って、実際には送らずに情報としてだけストックし、それをデータベースにして必要になったものを伝えてそれを送ってもらうようにした、というのです。

 この役回りは石川県庁が行ったそうで、「石川方式」と呼ばれて、効果的という評価を得ているのだそうです。

 日本では災害を文化としてとらえ、質の高い災害マネジメントを蓄積しつつあるところといえるでしょう。

 しかし阪神淡路大震災の記憶でさえもう風化しつつあると言われています。「忘れないための記念碑を作る場所も公園の役回りだ」とも言われました。

 本所被服廠跡地が横網町(『よこづな』ではなくて『よこあみ』)公園になったのも至極当然のことなのです。

 日頃の備えこそが災害への最大の対処ですね。
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愛宕山の月

2007-06-28 23:50:27 | Weblog
 ♪汽笛一声新橋を~♪で始まる鉄道唱歌。本当は路線ごとにたくさんの歌集があるのだそうですが、一番有名なのは東海道を歌ったもの。

 その一番は、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」となっています。

 問題はこの愛宕山。東京は港区にある小山ですが、愛宕山と名が付いている山はたいていが愛宕神社と関わりが深くなっていて、まさにの愛宕山にも愛宕神社が祀られています。

 今日は夜にこの愛宕地区のビルで勉強会があったので参加したのですが、近くに愛宕神社があることに気づいてお参りをしてきたのです。

 この愛宕山標高は25.7mあるのですが、天然の山としては都内23区で最高峰なのだそうで、これはちょっとした豆知識。

 参道正面の石段は急勾配で、昇るのに骨が折れるのですが、これが講談では有名(らしい)出世坂ということになっているのだとか。

 インターネット百科事典のWikipediaによると、

「…現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代・増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅が咲いているのをみて、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。」と書かれています。

 徳川家光の頃といえばもう戦からはだいぶ遠ざかった平和の時代。それにもかかわらず、いざというときに備えて馬の訓練を怠らなかったその姿勢を家光が賞賛した、という美談になっています。
 平時の備えを怠らず、曲垣平九郎にあやかりたいものです。

    ※    ※    ※    ※

 さてこの愛宕神社。御祭神は火産霊命(ほむすびのみこと) とされていて、火の神様。古事記ではヒノカグツチノミコトと呼ばれる神様と同じです。

 江戸は木造長屋でできあがっていたのでしょっちゅう火事が多く、そのことから火伏せのために徳川家康が祀ったのだそうです。

 急な石段を登ってみると、6月30日の大祓えのための茅の輪が飾り付けられておりました。

 ちなみに、幕末に江戸無血開城を目指しながら膠着状態に陥った西郷隆盛と勝海舟が二人で江戸を見下ろしたのもこの愛宕山からの景色。その後どちらからともなく、「この江戸を戦争で灰燼に帰すのは惜しい」と言い出して、無血開城に向けて大きな弾みがついた、とも言われています。

 今では回りをビルや樹木に囲まれてしまい、往時の景色は望めませんが、歴史と由緒のある場所は良いものですね。

 地方都市にはなにもない、と良く言われますが、本当にちょっとした歴史的な曰く因縁もないものでしょうか。ほんのささいなことでも、歴史を彩る話題として発掘すれば、自分たちはもちろん、観光客だって心が満たされるのですが。

 愛宕神社のことを書くだけで、分量が来てしまいました。その後参加した勉強会の様子はまたいつか。

   
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吉田松陰「留魂録」を読む

2007-06-27 23:51:02 | 古典から
 そろそろ水不足が心配されそうな今年の梅雨。降らないまま終わって、降ればどしゃ降りというのは最も好まれないパターンなのですがね。


 さて、吉田松陰さんに招かれている今日この頃。そういうことならその縁の続くところまで行ってみよう、と通勤電車の中で、先週買ってあった「留魂録(留魂録)」(吉田松陰 全訳注古川薫 講談社学術文庫)を読み始めました。

 この留魂録とは、吉田松陰が小伝馬町上町にあった牢に入れられ、死を迎える二日前から一昼夜で書き上げた五千字ほどの文章です。

 文章全体は「一、」から始まる十六の章に分かれたエッセイのような短文で、留魂録と書かれた後に和歌が一首。

 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
       留置(とどめおか)まし 大和魂(やまとだましい)
                         二十一回猛士

 「二十一回猛士」とは松陰がよく使ったペンネームのこと。そしてその内容は、今日ここに至った経緯を簡潔な文章で表しつつ、死生観やこれからのことについて語った松陰最後の文章、すなわち遺書そのものなのです。

 松陰は二度牢屋につながれていますが、最初はペリーの黒船に乗り込もうとして失敗し自首したとき。そして二回目の嫌疑の端緒はごく軽いもので「誰それにあったと聞くが、謀議ではなかったのか」「御所に批判的な文書が投げ込まれて、それがお前の字に似ているというものがおるがどうか」というものでした。

 あまりの馬鹿らしさに松陰先生、思わず時の老中間部詮勝(まなべあきかつ)を襲撃する企てを述べて、意見をしてしまったのでした。

 松陰は(それは幕府も知っていることだろう)と思っていたのですが、そうではなかったために、逆に超危険人物と見なされてしまったのです。
 そのため、いくら「襲撃といっても、諫めるという意味である」という主張をしても、取り調べ調書には「殺すつもりであった」という書き方しかしないようになり、(ああ、これは自分に罪を着せるつもりであるな)ということが分かってきたのだ、というようなことが書かれています。

 訳者の古川薫によるとこの後に続く文章は
「…だが、ことはもうここまで来た。差し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは、かえって激烈さを欠き、同志の諸友も惜しいと思われることであろう。自分もまた惜しいと思わないわけではない」

「しかしながら、繰り返しこれを考えると、志士が仁のために死ぬにあたっては、このような取るに足らぬ言葉の得失など問題ではない。今日、私は権力の奸計によって殺されるのである。神々はあきらかに照覧されているのだから、死を惜しむところはないであろう」という訳になります。
 
 既に死を覚悟した思いが切々と書かれています。

    ※    ※    ※    ※

 そしてこのなかでも最も輝いている一節が、彼の死生観を表した一節です。

「今日、死を決意してもなお心が安らかなのは、四季の循環を考えたからである。農業が行われるのを見ると、春に種まき、夏に苗を植え、空きに刈り取り、冬には収穫物を蔵に入れる。秋冬ともなると皆収穫を喜ぶばかりであって、収穫を悲しむということを聞いたことはない」

「私は今三十歳で生を終わろうとしている。このまま死ぬのは育てた作物が花を咲かせないままに似て、惜しむべきかも知れないが、しかし自分自身でいえば、これもまた花咲き実りを迎えたときなのである」

「なぜなら人の寿命には定まりがなく、農業のように必ず四季を巡るものとは違うからである。人生には人生なりの春夏秋冬があるものだ。十歳にして死ぬ者はその十歳の中に四季がある。二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳の四季があるのである」

「十歳が短いというのは、夏ゼミの一生が樹木のように長くあるべきだ、というようなものだし、百歳が長いというのは樹木をセミにしようというようなもので、どちらも天寿にたっすることにはならない」

「私は三十歳で四季は既に備わり、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるモミガラか成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志諸君の中に私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じで収穫のあった年に恥じないことになるだろう。同志諸君、このことを良く考えて欲しい」

 まさにこの一節こそ、吉田松陰の死生観が存分に現れていて読むものの涙を誘わずにはいられません。

 この留魂録は実は二通作られ、一通は所在が不明となったもののもう一通は牢獄内で松陰を尊敬するに至った牢名主の沼崎吉五郎が肌身離さずもっていたことで後に世に出るようになったのだとか。

 松陰の門下生たちはこれを回覧し、書き写して自らを奮い立たせ維新の道をひた走ったのでした。

    ※    ※    ※    ※

 この文庫本「留魂録」には、注釈者の古川薫さんによる吉田松陰の伝記も添えられていて、彼の生涯がより分かりやすくなっています。

 明治維新の思想的背景を形づくり、命をもって維新に魂をいれた吉田松陰。歴史は人だ、ということを改めて感じました。 
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青山墓地にて

2007-06-26 23:45:04 | Weblog
 一日中雲の中にいるような霞がかかったような天気。それほど暑くはならなかったけれど、蒸すようになってきました。

 今日は午後から、都内で都市計画公園として区域を定めていながらまだ公園になっていない場所の現地視察。

 都内には旧都市計画法で定められた、「将来は都市公園にするつもりですよ」という都市計画公園が結構たくさんあるのですが、その多くは一部が宅地として家が建てられたりしていてなかなか整備が進んでいないのが実態です。

 都市計画法によって都市計画公園がかけられると、いつ公園になっても大丈夫なように、「原則として、主要構造部が、木造、鉄骨造、コンクリートブロック造その他これらに類する構造」であって、「階数は原則として、2階以下でかつ、地階(地下)を有しないもの」と制限がかけられます。

 しかしそのために、さすがに高層マンションは建ちませんが、二階建ての木造民家等なら建てることが可能です。都内ではそうした物件が結構多いのです。

 練馬区に豊島園という遊園地がありますが、あそこの一帯も都市計画がかかっているのですが、その一部は既に住宅になったりしています。

 また青山墓地の近くの一角にもそうしたところがあります。

 今日はそうした事例の現場を見に行こうと視察を行ったのですが、公園にするぞ、という理想とは裏腹に、実際に民家が建てられて生活をしている姿を見ていると、なかなか簡単に事が進むとは思えないというのも実感です。

 大きな再開発事業などを行って、住まいを高層マンションに移してしまうといった解決法もありえますが、余程性根を据えて実行に移して行かなければ難しいことでしょう。

    ※    ※    ※    ※

 青山墓地周辺を歩いていると、青山葬儀所で「ZARD/坂井泉水さんを偲ぶ会」と題された故・坂井泉水さんを偲ぶ音楽関係者による会葬が行われていました。


 惜しまれる才能に思わず合掌です。

 
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三上~どこで何を読むか

2007-06-25 23:59:50 | 古典から
 「三上」という言葉があります。読書をどこでするべきか、ということの教えです。

 曰く「枕上(ちんじょう)、馬上(ばじょう)、厠上(しじょう)」の三つです。本を読むには、寝るとき(枕上)、馬に乗って移動するとき(馬上)、トイレにはいるとき(厠上)というわけ。

 この三つは、あくまでも「そう言う時間を使って『良い本』を読め」と言っているわけで、ただそこで何でも本を読めばよいと言うものではありません。

 安岡正篤先生によれば、特に厠にあっては、「身体の汚れたものを排出するのだから、同時の心の汚れを排出すべきである」「そのためには大部の本を読んではいかん。霊感を与える『語録』のようなものがよい」のだそうです。

 トイレでじっくりとマンガなど読んでいる場合ではありません。汚れを出したら良いものを取り入れるということも大事。

 そういう品格ある短い文章こそ、言葉の出会いを感じるものです。安岡先生お勧めの語録としては、「言志録」、「菜根譚」、「論語」、「呻吟語」などを挙げられておられます。

 トイレに一冊、読むなら良書しか読む暇はありませんね。

 
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【番外編】企業倫理って何?

2007-06-24 23:44:48 | Weblog
 北海道苫小牧市のミートホープという会社で、牛肉と称していながら豚肉や鶏肉、果ては期限切れの肉まで混ぜて売っていたことが判明してちょっとした事件になっています。

 北海道出身者としては、こうした北海道の食材の信頼を大きく傷付ける犯罪行為については非常に情けなく、またこれまで信頼して納入したり買ってくれていた企業や消費者の皆さんには誠に申し訳なく思うのです。

 報道されているような他の肉の混入が事実だとすれば明らかな確信的な犯罪行為です。こうした行為が企業活動として社会に貢献し、それに対する正当な対価を得るという企業倫理に反していることは明らかです。

 このような犯罪行為のせいで、真っ当に企業活動を行っている他の多くの企業に対して余計な監視活動を強めるような法規制や行政行為が増えるとしたら、まさにこの犯罪の影響の大きさは一個の企業の犯罪を裁く以上の意味を持つことになるでしょう。

 コムスンとその親会社のグッドウィルの違法行為が明らかになって報道されたときに、夏富士会議で一緒だった厚労省の若い官僚も、「こうした行為で余計な書類提出なんかが増えると回りがたまったものではありませんよ」と憤っていました。

 そもそも法律は確かに性悪説の面があって、社会倫理にはずれる行為が起こることを想定しつつ罰則規定が作られている側面があります。

 しかしながらそれを防ぐための事前チェックは、企業活動の妨げとなるほどのものであってはいけないわけで、あくまでも犯罪の未然防止とそのための労力のバランスが取られていなくてはなりません。

 事前に防げなかった法律体系や行政の能力を非難する前に、まずは犯罪を起こした企業が悪いのだという事実が大事です。感情的にはけ口をどこにでもぶつけるよりは、これからどうあるべきかを冷静に考えたいものです。

 それにしても、安心安全な食が最大の売り物のはずの北海道でこういうことがあってはならないわけで、なんとも言いようのない憤りを感じます。たった一人の行為が地域の信頼を揺るがすことになるわけで、まさに罪、万死に値すると言われてもやむを得ないでしょう。

 それにしても、ずっとばれないと思っていたんだろうか。こんなことは例外だと思いたいのだけれど。
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自転車ではないまち巡り~明治に導かれる

2007-06-24 22:52:17 | 東京探検
 朝は曇だったけれど、午後からは雨の予報。今日は早めに帰るつもりで都内巡りです。

 まずは六本木の新スポット、今噂の東京ミッドタウンへ。

 インターネット百科事典のWikipediaで「東京ミッドタウン」を検索すると、こう書かれていました。

『東京ミッドタウン(Tokyo Midtown)は、三井不動産主体の東京都港区六本木の旧防衛庁跡地と港区赤坂9丁目再開発計画により誕生した複合施設及びその地域一帯である』

『シンボルとなるミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mと、六本木ヒルズ森タワーだけでなく、東京都庁舎第一庁舎をも追い抜き、都内で最も高い超高層ビルとなった。なお、東京都庁舎や六本木ヒルズ森タワーと違い、ミッドタウン・タワーには展望台は設けられていない。最上階である54階は機械室など施設の維持・管理のためのスペースとなっていて、一般客は入場する事ができない』

『ホテル、住居、オフィス、商業・文化施設、病院、公園などが近接した複合的開発である。目玉施設としては、ミッドタウン・タワー最上層に位置しているホテル「ザ・リッツ・カールトン東京」や「サントリー美術館」の移転などが挙げられる』

 超高層のタワー部分はそのほとんどがオフィスで、ヤフーを始め超優良企業が入っています。一般の客が楽しめるのはガレリアと呼ばれる地下一階地上4階のショッピング棟のほうだけ。

 見物するだけならお店の飾り付けの見本市みたいなものなので楽しいのですが、それほど大きな店舗面積ではないので商品が限られている印象です。

 それ以上に楽しいのはやはりスイーツやレストランコーナー。高級な和・中・イタリアン・フレンチ・インドなどのお店が多く入っていて楽しみですが、やはりお値段は高め。ケーキ一つが700円って、そんなかんじ。

 それでもお昼頃にはどの店にも長蛇の列ができていて、カップルの格好のデートコースとしてまだまだ人気がつづきそうです。 

    ※    ※    ※    ※

 ここのビルがすごいのは、容積を最大に利用して地上部に大きなオープンスペースを生み出したことです。それもちょこちょこした庭ではなくて、既存の公園と併せて4haもの緑地が広がっています。これには計画段階から東京都からも要請があったと聞いています。

 この4haという面積には大きな意味があって、これだけあると広域避難地として使うことができ都市の防災機能が向上することになるのです。稠密(ちゅうみつ)な土地利用をしている東京にとっては、素晴らしい緑地が生み出されたとわけですね。
 再開発による土地の高度利用には、地上部の利用にとってそういう効果もあるということ。

 なお、この「稠密(=こみあっているということ)」を私はずっと「ちょうみつ」と覚えていて、このブログを書くに当たって調べたところ『「ちゅうみつ」の誤読』と出てきてがっくり。しかし気づいて良かった。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」ですからね。

    ※    ※    ※    ※

 ビルの正面にはさりげなく安田侃さんのブロンズによる「妙夢」という作品が置かれていましたよ。道産子としてはちょっと嬉しくなりました。
  
    ※    ※    ※    ※

 続いては、ここまで来たので先日新宿6丁目のところで書いた神宮外苑にある「絵画館」へ行ってみようと思い立ちました。ここからは歩いていけるほどの割と近い距離なのです。

 歩いていると、乃木希典大将の旧乃木邸と乃木神社の近くを通りました。うーん、神社と言われたらご縁を感じずにはいられません。 

 乃木神社でお参りを済ませてからふと見ると、横に「正松(せいしょう)神社」と書かれているのを見つけました。なんだろう、と思って訪ねてみると、なんとここには吉田松陰とその叔父の玉木文之進が祭神として祀られているのでした。
 昨日に続いてまたまた吉田松陰先生の登場です。呼ばれているのかなあ。

    ※    ※    ※    ※

 更に歩みを進めて、いよいよ絵画館前の通りに到着です。絵画館は四列に植えられた銀杏並木の遙か彼方に建っています。なるほど、ここからの眺望が東京を代表する景観ということなのですね。

 せっかくなので絵画館も訪ねてみることにしましたが、神宮外苑は結構広い。秩父宮ラグビー場や、ロッテ対ヤクルト戦目当てで神宮球場に並んでいるファンの列などを横目に見ながらやっとのことで絵画館へ到着。

 この絵画館、正しくは聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)と言います。

 Wikipediaには、
『聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)は、東京都新宿区の明治神宮外苑の一角にある美術館。神宮外苑の中心的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の業績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している。維持管理は明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けていない』と書かれていました。

 ここには、明治天皇の御代の出来事を、40枚の日本画と、同じく40枚の洋画で描いた絵画が展示されているのです。どの絵も百号を超える大きさで、実に見応えのあるものばかり。

 明治がいかにすごい時代だったのか、ということを改めて感じるのと同時に、一丸となってこの難局に立ち向かった指導者層の凛とした姿勢、さらに必死でこれを支えたこの時代の日本人のひたむきさに感慨を覚えました。

 そう言えば昨日買った本の中には吉田松陰の「留魂録」と岡倉天心の「茶の本」がありました。ここ数日はどういうご縁なのか、知らず知らずのうちに明治時代に導かれてきたようです。

 私はあまり下調べをせずに、どこにどんな縁があるのかとまちを巡るのを楽しみにしているので、乃木神社に正松神社があったときには驚きました。私の名前の二文字も入っているんですからね。

 少し目標管理がおろそかになっていたので、「もっとしっかり精進しろ」ということでしょうか。ははあ、畏れ入りました。
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自転車のまち巡り~世田谷松陰神社

2007-06-23 23:52:48 | 東京ウォーク
 先週青山で致知出版社を見つけて、そこで吉田松陰の「一日一言」を買い求めました。

 本に出会って読み進んでいる内に、(そう言えば、世田谷線沿線に松陰神社前という駅名があったはず)と思い出して調べてみると、やはりここが山口の萩とともにある吉田松陰の墓所であり縁の神社であることが分かりました。それならやはりお参りせずにはいられません。
 今日は世田谷区内を走り回りました。

    ※    ※    ※    ※

 さて、吉田松陰は天保元(1830)年8月4日(新暦では9月20日)に今の長門国萩松本村(現在は山口県萩市)に萩藩士杉百合之助の次男として生まれました。
 天保5年に叔父の吉田大助の養子となり、翌天保6年には大助の死とともに、吉田家を嗣ぐこととなりました。

 天保13(1842)年に、叔父の玉木文之進が私塾を開き「松下村塾」と名付けました。松下村塾とは、松本(下)村の塾という意味だったのだそうでよ。

 その後、江戸で佐久間象山からも教えを受けて、「国を動かすのは吉田」と、大いに期待されました。 

 やがて黒船が来港した翌年の安政元(1854)年には門弟と二人で黒船に密航をしようとして失敗、幕府に自首をして長州藩の野山獄に囚われの身となりました。

 そして安政2(1855)年からは叔父の開いた私塾松下村塾で主宰者となり、後の木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、明治維新の重鎮となった人材の教育に当たったのでした。

 安政5年に幕府が日米修好通商条約を結ぶとこれを激しく避難して、時の老中の暗殺を企て、再び投獄をされることになります。そして翌年の安政6(1859)年に、江戸伝馬町の刑場の露と消えたのでした。享年29歳。

 刑死後は小塚原回向院(現在の荒川区)の墓所に葬られていましたが、文久三年に高杉晋作や伊藤博文などの志士たちによって、ここ世田谷区若林の地に改装をされたのでした。

 明治15年になって、かつての門下生らの働きによって、ここを社とし、東京府の府社として認められることになったのだそうです。

 墓所には運命を共にした志士たちの墓も並んでいました。
    ※    ※    ※    ※

 吉田松陰が後の明治の元勲らに薫陶をさずけたのは年月にすればわずかに二年半にしか過ぎないのですが、意志を植え付けるには充分な時間だったということなのでしょう。人間、心に火がつくのは一瞬の出来事なのです。

 「吉田松陰一日一言」(致知出版社 川口雅昭編)より『雪中の松柏いよいよ青々(せいせい)たり』の一節。
 「天が人に才能を与えることは多いが、その才能を自分のものとして、完成させることは難しい。才能を与えるとは、例えば春や夏に草木の花や葉が青々と盛んに茂るようなもので、これが才能を生じるというものである。しかし桃やスモモなどは秋や冬の霜や雪に遭えばみな枯れ落ちてしまう。ただ松や柏だけはそうではなく、雪の中でもますます青々とその緑を保っている。これが才能を完成させるということである」

 次に『心はもと活きたり』から
 「心というものはもともと生き物である。活きているものには、必ず発動のはずみというものがある。機というものは、何かに触れることによって発動し、感動することによって動くものである」

 『盛強を勉めずして』からも。
 「吾れ盛強を勉めずして人の衰弱を願う。是れ今人の見なり。悲しいかな、悲しいかな」
 (自分の意気を盛んとし、精神を強化せずして、他人の衰え、弱化を願う。これは今の人々の考え方である。悲しいことだ、悲しいことだ)

    ※    ※    ※    ※

 この「吉田松陰一日一言」は、吉田松陰自身の著作や他人に宛てた書簡などから拾ってきた文章を一日一言ずつ紹介する本です。全編に維新の気概に満ちた精神が展開しています。

 境内には松下村塾を復元した建物もありました。学問をするのに施設が立派であるかどうかは何の関係もないのですね。


 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 

 これが彼の辞世の句です。人としてあるべき生き方を自らの姿勢で示した吉田松陰の生き方は、縁ある多くの人の心に今でも火をつけているようです。
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都市再生の現場(7)~密集地区の成功事例

2007-06-22 23:02:00 | Weblog
 ほぼ一週間ぶりの本格的な雨の一日となりました。少しお湿りが欲しいところだったので、木や草も嬉しそうでした。

 今日は密集地区の現地見学。少しは密集事業の上手くいった事例も見てみよう、ということで、都内の数カ所の現場を巡ったのです。

 写真はそのなかでも典型的な、実に分かりやすい密集の事例です。ここでは谷地形のところに小さな土地と小さな家が密集して建てられています。家を建てるときには道路に接していなくてはならないという、接道要件が建築基準法では決められているのですが、それも満たされていません。

 ここは調査によると、かつて密集地区改善事業が行われる前には7500㎡の面積に150戸の家があったと言いますから、道路がなかったとしても一戸あたりの敷地面積は50㎡以下で、道路らしい道路といえば1mほどしかない細い路地でしかないという現状だったとのこと。

 今では道路事業による直接買収が始まっていて、やがてこの風景も消える運命ですが、さすがにここは典型的な密集の形態を良く表していました。
 上空からの写真では屋根のひさしで道路が隠れちゃっていたそうですよ。

    ※    ※    ※    ※

 お次は大きな工場跡の土地を使って高層住宅を建てつつ、この土地を活かして細く曲がった道路を7回に渡って土地交換を行い、まっすぐでしかも広げたという事業を見学。

 それまでは古い木造住宅だったものが、道路が広がった途端に自分たち自身で家の建て替えを行い、全く昔の雰囲気がなくなったと担当者は語ってくれました。

「やっぱり道路なんですよ。道路ができれば土地の価値が上がって、個別の家をどうにかしなくても自分たちで良くしたくなるものなんですから」

 地域の中には、道路の計画がありながらいまだにまだ道路のための用地を打ってくれないでいる「へた地」もありました。土地への思いが強い人はいるものです。

 こうした土地の再生事業は、できてしまうと何の変哲もない、どこに出もある道路と家並みに見えますが、従前の写真と見比べてみるとその差は歴然としています。

 目立たないけれど、大事な仕事をする。

    ※    ※    ※    ※

 我が社のイメージについて有識者と意見交換をした際に、ある女性の方が「いろいろ話を伺っていて、機構さんのお仕事のイメージってミミズのようなものではないかと思うようになりました」という発言があったそうです。

「ミミズって、一見すると何をしているのかよく分からないけれど、実は土を食べることで質の悪い土を良い畑に変える働きをしていますよね。ミミズがいない土地は悪い土地で、ミミズがたくさんいる土は良い土なんです。そんなことを思いついたんですよ」

 なあるほど。自然界にも目立たないけれど立派な役割を果たしていて、いないと困るという存在がありました。そういうことを心の勲章にして、都市の再生事業に励むとしますか。 
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