時々参加しているローカルデザイン研究会という会合がありました。いつも地域で活躍する多彩な方たちのお話を聞かせてくれるので楽しみにしているのです。
今日のお話は岩手県遠野市で農業と酪農を営む多田克彦さん。多田さんは、農協に頼らないブランド牛乳を始め、乳製品、野菜、そして最近ではパンからジャムまで多彩な農産品をつくり世に送り出している方です。しかもそれらを農協を通さずに、大都市へ独自の流通ルートを開拓してブランド価値を高めるという、まさに農業に勇気と希望を与える活動を続けている熱い方なのです。
岩手訛りを誇りとしながら、語る口調は抱腹絶倒です。そもそもは遠野市役所に十年勤めたのですが、そこで農政を担当して知ったことは農業は相当無茶をしているということでした。
減反の代償として補助金の鳴り物入りで奨励したビニールハウスでのほうれん草栽培は、土造りへの軽視から三年目で壊滅状態に。多田さん自身は片手間に兼業農家の母親を見ながら市役所からのボーナスで乳牛を飼い始め、6頭くらいを買えるようになったときには結構な小遣いになったのだとか。
そこで農業は儲かる!と農業の会社を作ることを夢見て、20代の間に片手間農業と節約で1500万円ほどの資金を貯めたのだそう。そこで33歳の時に嫌気が差した市役所勤めを止めて農業者として独立をしたのでした。
そのときは資金の1500万円でハウス栽培のほうれん草を作ったのですが、土づくりの知識が無くて収穫はわずかに20把だけ。しかも農協の症例品種ではなかったために農協ルートも使えず、農業には土づくりから流通まであるのだと初めて知ったのだそう。
そんな素人農家でありながら、冬の収入を目指して200頭もの酪農を始め、今度は糞尿の処理でトラブルになったり、作業員が集まらなかったり、やっと雇ったネパール人は滞在ビザが切れていたり…。
おまけに農業を取り巻く環境も、牛乳の値段が下がったり牛肉の自由化など、次から次へと試練が襲います。
その度に眠れないほど悩みながら、試行錯誤で試練を乗り越えて来た様はひとつの冒険談のよう。
「岩手って戊辰戦争で最後まで抵抗をした南部藩の血が残っているんですよ。敗戦によってひどい目にあわされましたが、そこから出たのが原敬であり、新渡戸稲造であり後藤新平なんですよ。絶望はしないんです」
辛さを見せずに明るい語り口がお見事でした。
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多田さんは会場に今売り出し中や試作中の製品を持ち込んで、途中には味見タイムがありました
これは砂糖を使わないプリン。上の黒いところは黒糖を使っていますがその下の黄色いところは甘みにヒエと粟と麹から作り出した甘みを使っているのだとか。一番底からはヒエと粟も出てきましたよ。これは美味しい!
製品に自分の名前を付けたのは多田さんが初めてだし、いわゆる産直販売で売っている人の顔写真とメッセージを付けたのも多田さんが初めてなのだとか。
アイディアは苦しみから生まれることの方が多いようですが。
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多田さんには、ほんの少しの成功体験と、天狗になった瞬間のトラブルと挫折、そしてそこからはい上がる根性と知恵と行動力というサイクルが伺えました。
しかし何より心を動かされるのは、その中心に食べ物や農業に対する哲学があることでした。最近は言葉の元々の意味を調べるのにラテン語まで追いかけるようになったのだとか。
「風土食と言われるようになりました。調べてみたら、風土の『風』はラテン語でプネウマと言って、実はこれは『魂』ということの元でした。そして『土』はラテン語で『フマス』でこれはヒューマン(=人間)の語源でした。風土は魂のある人間って事だったんですよ。言葉の重みや英知に気付いてからもの作りが変わりました」
「土造りも口に入るものも、これからの農業を支えるキーワードは発酵ということじゃないかな、という予感がしています。無駄に捨てていたものを集めてきて発酵させることで、良い土や良い飼料が出来るんです。農業が向かう先は遺伝子組み換えのようなアメリカ的なものではなく、発酵文化のような日本的な指向の方が良いように思います」
「これから後を継げる若い農業者を募って、いろいろな分野を分社化することで任せて責任を持ってもらっています。でも志ある農業者を育てる事って出来ませんね。私は育てるのじゃなくて、出てくるもんだと思っていますから」
「ブランドって言うけれど、食べ物にも物語があるんですよ」とも。
農業への哲学があふれたお話でした。プリンも美味しくて大満足!