北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

GWの後半は宗谷へ

2017-04-30 23:55:55 | Weblog

 

 ルアーで釣る海釣り用の釣り竿とリールを買ってきました。

 これで餌釣りでもルアーでもなんとかなる道具仕立てになりました。

 早速釣り竿に魂を入れたい、と思っていたところ、稚内の友人から「今ちょうどサクラマスが釣れていますよ」という羨ましい連絡が。

「GW中に付き合ってくれるような日はありますか?」と訊いてみたところ、「最終日の7日ならなんとかなります」との返事。

 それじゃあまずは教えてもらおう、ということで、7日めがけて稚内へドライブしてくることになりました。

 遠いことは遠いのですが、少しはゴールデンウィークらしいお出かけになるでしょう。

 さて、どのあたりを回れるかな。

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老化とは「物事を吸収できなくなること」と覚えたり

2017-04-29 23:44:53 | Weblog

 連休初日。

 冬タイヤを自分で夏タイヤに取り換えて、ふと、前回のオイル交換からの距離が5千キロを超えているの気が付きました。

 家の近くに大きなカーショップがあるので、(朝一番だったら滑り込めるかな)と思い、10時の開店直前にお店の前に行ってみましたが、すでにタイヤ交換の申し込みと思しき客が20人くらい並んでいて、一気に気持ちが折れました。

 気持ちを切り替えて、家の片付けなどをしてから、釣り道具や仕掛けを買いに行きました。

 釣り道具って、入門編だったら3千円くらいで買えるのに、少し高度な釣りをしたいと思うと一気に値段が上がります。

 頭が混乱しながらも、お店の方になぜその道具が良いのか、ということを聞きながら品定めをして、ゴールデンウィークの釣り対策ができました。

 ところが、道内各地の友人から入ってくる釣り情報は、「ホッケがいない…」「ホッケはどこへ行った?」とか「バラシが多い」など、どうにも芳しくありません。

 おまけに「誰か一緒に行きませんか」とネットで声をかけても反応なし(笑)。皆さん忙しいんですね。


          ◆ 


 最近、自分の親くらいの80代半ばのお年寄りの方と話していて、その方から出る話題が全部過去のものなんだ、ということに気が付きました。

 こちらが、旅行へ行ってこんなものを見た、とか、映画へ行って面白かった、というような話をしても、「それは僕の時代は○○ということだったよ」という過去のことを教えてくれる話題にしかならないのです。

 こちらとしては、あれだけ若いときは活躍されたのだから、その経験と実績を踏まえて、私の話題に切り込んでほしいと思うのですが、そういう期待はむなしく、昔の成功談とか辛かった愚痴などばかりになるのです。

 歳を取るという事は、どうやら『新しい事柄が体の中に入っていかなくなる、吸収されなくなる』ということなのかなあ、と気付き始めました。

 食べるものも然り。美味しくて栄養のあるものを食べても、肉体は維持するのがやっとで、新たに筋肉になったり体が大きくなることもない。

 スマホなど、新しい文明の利器が登場するとその操作には過去の記憶やスキルが役に立たない。そして新しい使い方は、取扱説明書も読まないし、教えてもらってもそのノウハウが体に吸収されて染み込んでいかないので、嫌になってやらなくなってしまう。

 もしもこれが嫌だというのなら、自分の関心をできるだけ外に広げて、新しい時代にできるだけ頑張って実践的行動としてついて行く、という「生涯学習的生き方」をどれだけできるか挑戦し続けるしかないのではないでしょうか。

 サミュエル・ウルマンの有名な「青春(YOUTH)」という詩の中で、彼はこう言っています。

   人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる 
   人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
   希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる   


 過去に生きずに未来に生きるべきなのだと。

 さて、言うは易く行うは難し、かな。

 

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北海道の山菜を取る人には絶対に読んでほしいアイヌ説話

2017-04-28 21:58:15 | Weblog

 アイヌ語研究家である知里真志保氏の「分類アイヌ語辞典~植物編」は、現代の植物和名を書いて、それをアイヌ語でどう言ったか、という辞典です。

 地域ごとに差があるアイヌ語に対しては、どこで採取された言葉かということ要素なども加え、さらに各植物に関する伝説や物語なども収録されており、優れた研究業績の集大成になっています。

 さて、先日うろ覚えで、「オオウバユリと行者ニンニクの神が表れて、山菜をとらないことを嘆く」という話を、上記の「分類アイヌ語辞典だったと思うのだが」と書きました。もう30年以上も前に読んだ本の記憶なので、本当だったかなと思い、先日札幌市中央図書館まで行って、この本を借りてその箇所を再読してきました。

 結果的にはほぼ記憶のとおりだったのですが、良い話であることと、私のうろ覚えの書き方では誤解を招きかねないことから、備忘録の意味も含めて、下記に書き写しておくことにします。
北海道に住んでいて山菜取りに興味のある方には特に読んでおいていただきたい物語だと思います。

 ちなみに、原文は旧漢字・旧仮名遣いであり、また独特の発音記号で書かれていたりする個所があるのですが、読みやすくするために旧漢字・旧仮名遣いは現代に改め、また発音表記の部分は割愛して書くことにします。興味のある方は原典にあたっていただきたいと思います。
 それでは原文をどうぞ。

【オオウバユリに関連する説明の中の話で「参考2」として】

【オオウバユリ】

 オオウバユリとギョウジャニンニクは「ハル・イッケウ」(”食料の・背骨”、”食料の中心”)だと言われる。太古、人間がまだ野草を食べることを知らなかった時代、これら野草が人間の国土の山野に、年々歳々採る人もなしに空しく咲いては散って、それらの霊魂が祭られることもなく泣きながら神の国へ引き上げていくのを嘆いて、オオウバユリとギョウジャニンニクの頭領が人間の女に化けてウラシペッの酋長を訪ねてくる話がある。

「ウラシペッ」とは、北見のオホーツク沿岸に昔あったコタンで、そこの酋長たる「ウラシペトゥンクル」は、胆振日高の説話にまでヒーローとして出てくるほどに有名であった。次に掲げるものは、胆振国幌別の説話で「ウェペケレ」(=伝説物語)というジャンルに属するものである。

 俺は立派な酋長で立派な妻を持ち仲良く暮らしていた。するとある日次のような噂が聞こえてきた。

――東の方から、小さな女が小娘を連れて、村ごとに酋長の家を訪ねて泊まり込み、お椀を借りては物陰に行って脱糞し、酋長に食べてちょうだいと言って差し出す。

 酋長が汚がって食べないと、ひどく怒ってさんざんに罵倒しながらまた次の村へ来て、同じことを要求しつつ、今はもうこの村の近くへやって来ている ――というのだった。

 もしそれが事実なら、おれの村だけ避けて行くわけはないと思ったので、俺は心の中で、火の媼神や家の神、憑神たちに聞かせて、神様というものは何事もご存じなのだから、噂の女どもがもしも悪性の者ならば、この村へ向けさせないでくれるように、とひたすら念じていた。妻も俺の身を案じて、ひどくしょげきっていた。

 するとある日、戸外で犬の吠える声がした。妻が戸口へ出てからすぐ戻ってきて、例の女どもがいよいよやって来たと告げた。それでは座席など整えてお入れ申せ、と俺が言うと、妻は忌々しげにざっと客席の塵を払ってから、女どもを案内してきた。見ればなるほど小さな女ではあったが、悪性の者とはさらに見受けられず、続いて入ってきた小娘と共に神貌を具えているように見えた。左座に並んで座った。俺が会釈すると、二人ともひどく喜んで、炉の火に当たりながら四方山話を始めた。聞いているとそれが皆神々の噂話ばかりであった。

 俺も良い話ばかりを選んで話していると、小女が話の隙をとらえて、お椀を貸して下され、と言う。貸してやると聞きしにたがわず物陰へ向いて何かごとごとしていたが、やがて大椀にいっぱい何かしらどろどろした変なものを入れて、俺の前へ差し出した。

 人間の汚物なら悪臭を発しそうなのに、悪臭どころか、旨そうな匂いがぷんぷん鼻をついた。押しいただいて食べてみると何とも言われぬ良い味。一人で食べるのも惜しいので、食べさしを妻に伸べると、妻も押しいただいて受け、大変旨そうに食べたのであった。それを見た女たちは非常に喜んで、にこにこしながら歓談を交え、やがて妻が敷いた花ござの寝床に入るのだった。

 俺たちも良い気持ちで寝につくと、いつかぐっすり寝入ってしまった。すると、枕がみに先ほどの女たちが立っていて、小女の言う事はこうだった。

「これウラシペッの酋長どの、良く聞かれよ。私どもは人間でもなく、また悪神でもない。私はオオウバユリの頭領、これなるはギョウジャニンニクの頭領である。

 太古国造りの神が国土を造りたまいしとき、人間の国土の表の、野にも山にも一面に、人間に食べさせようとて、木の実・草の葉・草の根などを用意されておかれたのに、人間どもはその大部分が食物であることを知らない。中でもギョウジャニンニクとオオウバユリは食料の中心だったのに、採る人もなしに年々歳々人間の国土の山野に花を開いては空しく散っていく。そしてその霊魂が泣きながら神の国へ帰るのだ。

【ギョウジャニンニク】

 それが悲しいので、何とかしてオオウバユリとギョウジャニンニクも食べられるものだということを人間に教えて、自らも神に祭られたいと思い、人間の女に化けてこれなるギョウジャニンニクの頭領と一緒に東の方から人間の国土をやって来たのだが、人間どもはあまりに愚かで、ただ汚いとばかりかんがえて私たちの食糧を試みに食べてみようともしない。それで憤慨しながらあなたのところへ来たのだが、あなたも私たちの食糧を食べない場合は、もはやこれまでと諦めて、一族を引き連れて神の国へ引き上げようと決心していたのだ。

 しかるにさすがは代々音に響いていたウラシペッの酋長の末裔だけあって、私たちの食糧を汚がりもせずに食べてくれた。心からありがたく思う。あなたのおかげでこれからは神となれるのだ。

 オオウバユリの食糧やギョウジャニンニクの食糧の採取法・調理法をあなたは学んだのだから、今よりは遠い村近い村にもそれを伝えるが良い。ギョウジャニンニクの食糧を守護神として祭るならば、いかなる疾病にもかかることなく、子々孫々繁栄するであろう。

 あなたはとても賢く、心も善いから、今より一層立派な首領になるであろう」と言ったかと思えば夢さめたのであった。妻も同じ夢を見たのであった。さきほどの女たちの寝床を見ればもぬけのからだった。

 そこで幾度も手をもんで礼拝し、妻と共に里川に沿って行ってみると、言うがごとくオオウバユリと称するもの、ギョウジャニンニクと称するものが、地面を覆って見渡す限り繁茂していた。そこで妻と一緒にコダシいっぱいオオウバユリの根やギョウジャニンニクを採ってきて、オオウバユリの根は臼でついてデンプンを取り、残ったかすは干して団子にした。そして村の人や遠い村近い村の人々にも教えたので、今では同族も異族もこれらの食糧を知って、大いに俺を徳としたのであった。

 神様も俺たちを見守って下さると見えて、まるで何か上から降って来るように、限りなき長者となって、多くの子供を持ち孫を持ち、「どんな飢饉があっても疫病が流行っても、オオウバユリやギョウジャニンニクがあるおかげで村が立っていくので、子々孫々に至るまで、ゆめゆめオオウバユリとギョウジャニンニクとを忘れず、食料として暮らしていきなさい」と教訓しつつ、今は極楽往生を遂げるのだ。――とウラシペッの酋長が物語った。


 いかがでしょうか。こういうアイヌの人たちの山野草に対する神観が非常に面白いと思います。また、このような野山からの贈り物に対して敬意をもって山菜取りに入れば、根こそぎ採って消滅させてしまったり、食べられる以上に採りすぎたりするというようなこともなくなるのではないでしょうか。

 ちなみに私はこの文書を改めて読んで、「コダシ」というのが、山菜取りの時に使う肩掛け式の布袋のことだと知りました。知らない事って多いですね。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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北海道はサケマス釣りの天国になれないか

2017-04-27 23:58:58 | Weblog

 

 海外では広い川でサケやマスを釣ることが観光の重要なコンテンツになっているところがあります。

 スポーツとしての釣り、特にフライフィッシングはイギリス貴族の遊びが発祥なので、その昔イギリスが植民地やイギリス領となったカナダやニュージーランドなどは国ではそうした文化が根付いています。

 フライフィッシャーにとっては、サケやマスのような大きな魚と対決したいというのは夢でもあり、そういう釣りができるところへは、お金と時間をかけてでも行きたい場所。

 受け入れる側も、そうしたニーズは良い収入の元なので、資源保護のためのルール、違反に対する取り締まり体制、ガイドの育成、宿泊施設や飲食施設、移動手段など様々な受け入れ態勢を整えて、よりよい客をより多く招き入れようと努力しています。


   【許可証のデザインも美しい】

 

 しかし日本の場合は、サケマスは水産資源としての漁業権が強く、資源保護の対象として密漁や乱獲防止という視点が強く打ち出されています。

 多くの河川には漁業権が設定されており、サケマスはあくまでも捕獲のための資源であり、遊びとしてのサケマス釣りを奨励するという文化がまだ少ないように見受けます。

 北海道でサケマスを釣って良いのは、規制の外の海で、河川として海にそそぐ前のいわゆる「内水面」ではサケマス釣りは原則禁止。数少ない例外は、調査を目的とした釣りで、それも道内では道東の標津町を流れる忠類川と石狩市浜益地区の浜益川の二つの河川しかありません。

 

 調査可能河川も、以前は4河川あったのですが、サケマスの資源が激減したことで調査と言う名目で釣るという事もなくなってしまいました。


 今やサケマスも資源の減少は、漁業者さんたちにとって死活問題であり、遊びのための内水面での釣りなど考えている余裕はないのかもしれませんが、食材として売れるという魚資源としてだけではなく、地域を豊かにする観光資源としての内水面釣りの可能性を考えてみたいところです。

 北海道がルールを守る人たちの釣り天国になれるでしょうか。

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静岡では必ず出てくる安政の大地震

2017-04-26 23:56:56 | Weblog

 今回の掛川~伊豆半島の旅で印象的だったのは、その各地で安政の大地震がキーワードとして登場したことでした。

 一つ目は掛川城。ここは関ヶ原の合戦にあたって、豊臣側の家臣が徳川方につくという流れを作った山内一豊が今に伝わる近世城郭としての体裁を整えた、とされている城です。

 今の姿は平成6年に天守が日本初の木造建築によって復元されたものですが、実はこのお城は、安政の大地震で天守と城郭が倒壊しています。

 お城などの文化財を復元するためには、それがそういう姿をしていたということを証明しなくてはならないのですが、その根拠は、ここ掛川から高知23万石への大出世をした山内一豊の言葉にありました。

 それは「高知城は掛川城のように作れ」というもので、やや時代は異なるとはいえ、今に残る高知城を参考にして掛川城が復元されたのでした。


 次がレンタカーを借りた三島市内の三嶋大社。こちらも安政の大地震で社殿が倒壊し、その後13年の歳月をかけて明治2(1869)年に再建されたもの。

 今目にしているのは江戸時代末期の建物、と言われるのは、まさにこの大地震後に再建されたからにほかなりません。

 この神社は拝殿が大きいことで知られていますが、全国的に見ると、本殿の高さは23mにも及び、出雲(いずも)大社と並んで国内最大級を誇るとのことです。


          ◆ 


 そして最後が下田での大地震とそれによる大津波。

 下田では津波によって市街地がほぼ壊滅したほか、幕府と開港を交渉していたプチャーチン提督のディアナ号が、高さ6mの津波を受けて破損し自力航行が不可能になりました。

 その後は先日書いたように、伊豆近在の船大工が寄ってたかって洋船の建造に携わり、それが日本海軍の技術の下支えにつながったという歴史物語に続いてゆきます。


   【下田市ペリーロード】

 静岡県を旅していると、そこここで安政の大地震の話が必ずと言って良いほど出る、ということはそれだけ本当に甚大な被害が発生して、それが歴史になっているという事です。

 プレート型の大地震は、東海・南海地方は数百年の周期で繰り返されていますので、必ずやまたこの地方を襲う事が予想されています。

 現代社会の知恵と技術で、それが悲しい歴史にならないように祈るばかりです。

 先人の知恵を今に生かすためにも歴史の勉強が必要です。

 

 

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タケノコとの格闘

2017-04-25 23:08:10 | Weblog

 

 昨日までの伊豆半島の旅。三島でレンタカーを返してからは、羽田空港~新千歳空港~自宅と重たいタケノコを抱えながらの移動でした。

 空港で預けようとして中身を訊かれたので、「タケノコです」と応えたところ、「はー」と感心されました(笑)。その後で、「お客様、これは運搬途中で折れてはいけないと思いますので、箱にお入れいたしましょうか?」と言ってくれたのですが、「いえ、どうせ家で処理するときにこのままでは鍋に入らないので切ってしまいます。折れてもかまいませんよ」と言うと、笑っていました。

 気遣いが嬉しいところです。

          ◆  

 さて、自宅についたのは夜の23時45分でしたが、そこから大鍋を持ち出して米ぬかでタケノコを茹でてあく抜き開始。

 一本あった巨大なタケノコはどうやっても鍋に入らず、三つに割って鍋に押し込みました。

 根元の部分が堅いように思えるでしょうが、家庭用の包丁でもサクッと簡単に歯が入る柔らかさ。

 米ぬかは、だしパックに入れると後の処理が簡単、とネットに書いてあったのでそのまま実行です。

 昨夜ぐらぐらと煮立てて、今日の夜に皮をむいてみました。


 【剥いてしまうとこんなかんじ】

 部分的にちょっとえぐいところもありましたが、身に近い皮も柔らかかったので一緒にして、今日は刺身、ゆずポン酢和え、チンジャオロースにして美味しくいただきました。

 ややしばらくはタケノコ料理が楽しめそうです。静岡万歳!

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下田にあった日本開国の物語~近世の歴史って案外知らないよね

2017-04-24 23:57:57 | Weblog

 

 そんなわけで、下田市のはずれのホテルに泊まって昨夜はゆっくりと体をいたわりました。

 朝一番で下田市の中心部へと向かい、まずは道の駅「開国下田みなと」に立ち寄って、ここで黒船仕立ての遊覧船で湾内クルーズ。

 海の上から見ると、下田の港が地形の防波堤に囲まれて天然の良港であることがよくわかります。

 また江戸時代は、江戸との交易をおこなう廻船の江戸往復に対して「入り鉄砲」、「出女等」のチェックため「船改番所」を置き、「陸の関所 箱根」に対して「海の関所 下田」と言われたのだとか。

 米一つとっても、陸路を牛や馬で運ぶことを考えると、船による海上物流はずっと効率的で、なくてはならない輸送手段となっていたことがよくわかります。

 
 続いては下田開国博物館へ行き、開国に関する情報や資料を見学してきました。

 開国と言うと、ペリーによる黒船来航という記述からアメリカとの開国ばかりが話題になりますが、実はアメリカと日米和親条約を結んだすぐ翌年に、プチャーチンの働きによって日露和親条約が結ばれています。

 しかも日米和親条約の条文のほとんどは、実はプチャーチンがかなり前から日本と条約締結に向けてやり取りをしていたものがそのまま使われているのだそうで、当時のロシアが日本との通商条約締結などになみなみならぬ意欲を持っていたことがうかがえます。

 また、この日露和親条約には第二条において双方の領土のことが、「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず是迄仕来りの通りたるべし。」と初めて定められています。

 今の(新暦の1855年)2月7日(旧暦では前年の安政元年12月21日)が「北方領土の日」とされているのは、この国境条項を含む条約が平和裏に調印された日として定められたのだそうです。関心を持ってみていると色々なことが分かってくるものです。

       ◆    

 しかし、この日露和親条約締結作業のさなかに、旧暦の嘉永7(1854)年11月4日の安政の大地震による津波が下田を襲い、下田は壊滅。停泊していたロシアの船ディアナ号も甚大な被害を受け航行不能になってしまいます。

 修理のために西伊豆の戸田(へだ)へ移動中に、ディアナ号はあえなく沈没してしまいましたが、プチャーチンは代船の建造を幕府に願い出て幕府もこれを許可。
 修理をするはずだった戸田の港に近在の船大工が集められて、日露共同で日本初の洋船の建造が行われました。

 ここで貴重な経験を積んだ船大工は、後に同じ船を六艘建造したほか、長崎造船所や石川島造船所などで洋艦の造船に力を尽くし、その後の日本海軍の礎になっていったのです。

 
 旅のお土産って、饅頭やお酒も良いけれど、こんなエピソードが生き生きと身近に感じられるのが良いと思うのです。

 博物館を出たところに売っていたちょっとした冊子をやっぱり買ってしまうのですが、これが案外良い本で嬉しくなりました。

 北海道民は忘れちゃならないロシアとの北方外交史にも下田は重要な役割を果たしています。

 歴史の知識も良い旅の土産となりました。

「下田なんて何があるんですか?」と言われたけれど、旅は知らないことを知るところに宝があるのです。

 


  【ペリー上陸の地】
 

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タケノコのこともレストランのことも ~ ローカルのことはロコに訊け

2017-04-23 22:10:07 | Weblog

 

 掛川での一昨日のサトー君との会話。

「…で、小松さん、明日の『ゆるゆる』に参加しないでどうしようってんですか?」

 今回のサイクルイベントは二日間ありますが、私の参加は初日だけ。二日目はパスです。

「実は下田に向かって伊豆半島を観光しようと思って…」
「し・も・だーーー?下田に何があるんですか?」

「何があるって、何があるかわからないから旅になるんじゃないですか(笑)。ペリー来航のことも勉強したいしね」

「ふーん、下田だって僕が知らないわけじゃないし、もっと訊いてくださいよ。地域のロコでなくちゃわからないことって多いんですから」とサトー節炸裂。

 そこで思い出したのが、「そうだ、じゃあ明日タケノコ堀りはできない?」

「タケノコですか?よし、考えましょう」 そうして掛川のいつものメンバーに相談してもらって、結局、平野さんのキウイフルーツの農場で掘らせてもらうことになりました。

 タケノコ掘りは、掛川を去るぎりぎりに一度やったことがありますが、約12年ぶり。できるかな。


       ◆   


 で、今日の朝。道路交通研究の重鎮である石田先生と、三人でキウイフルーツカントリーへ向かいます。

 農場へ着くや否や、すぐに長靴に履き替えさせてもらって、「すぐ裏の斜面なので行きましょう」と鍬を一本持って畑を横切ります。

 入っていったところは確かにものすごい急斜面で、渓流釣りでもなかなか降りたことのないような角度。

 それでも立ち木を頼りに降りてゆくと、「おー、ありました」と、地上から50センチは伸びてしまっているようなタケノコを見つけてくれました。

 ちょっと大きすぎるかな、と思いましたが、「大丈夫ですよ、今年は暖かくなるのが遅いのでまだ大丈夫ですよ」と確信に満ちた平野さんの言葉を受けて、周りの土を掘って根っこのあたりに鍬を「エイッ」と打ち込みます。

 何度か鍬を入れて、ようやく一本すごく大きいのをゲットできました。

 石田先生と妻も、ちょっと小ぶりのタケノコを掘りとってご満悦。本当ならば、間髪を入れず湯がくことであく抜きをしたいところですが、まだ旅の途中なので新聞紙にくるんでもらっていくことにしました。

 北海道民にとっては憧れのタケノコ堀。次回も季節の良いときにきてまたやらせてくださいね。


       ◆  


 そこからは、新幹線で三島へ行き、そこでレンタカーを借りました。三島大社へお参りをしてから、三島スカイウォークを見学。

 そこからは伊豆半島を南下して下田へ向かったのですが、「小松さん、伊豆半島を回るんだったら、浄蓮の滝のすぐ近くにあるレストラン『かたつむり』へ行かなきゃ。ぜひ行ってください」とサトー君から強く言われていたので、かたつむりへ直行。

 森の中のログハウスで、中は懐かしい昔ながらの道具が飾られている不思議な空間でした。

 そこでご主人に「掛川のサトーさんから『絶対行きなさい』と紹介を受けまして」というと、ご主人は「そうですか」と相貌を崩します。そこで電話でサトーさんと会話をしてもらうと、距離が一気に縮まりました。

 美味しいピザを食べた後は、レストランの裏にあるツリーハウスを見せてもらったり、ピザ焼き釜を見せてもらったりして、フェイスブックでもお友達になってしまいました。

 お土産までもらったりして、かえって恐縮でした。今度は釣りででも来たいところです。


【で、ロコの友達ってやつは】  

 伊豆で「このレストランが良い」なんてディープな情報は、旅行雑誌やネットでいくら調べてもたどり着くことはできません。

 あまたあるレストランの中から、「そこにしなさい」と言ってくれるのは、信頼できるロコ(=ローカル:地域の)の友人だけです。

 そしてそれが新しい人のつながりになってゆくなら、こんなに楽しいことはありませんね。

 振り返ってみて、では自分は外から来た友人に紹介できるような素敵なお店や観光ポイントをどれくらい持っているだろうかと考えたら、とてもおぼつかないことに愕然とします。

 地域、それももっと広範囲を地元と思って、遠くに行っても確実に美味しくて素敵な空間になっているようなお店やポイントを知ることが必要ですね。

「ローカルのことはロコに訊け」「自分もロコになりきれ」

 そんなことを感じた今日の掛川から伊豆の旅でした。皆さんお世話になりました。    

 

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ゆるゆる遠州自転車の旅 ~ ガイドサイクリングの最高水準

2017-04-22 23:43:20 | Weblog

 

 掛川のもはや名物イベントになっている「ゆるゆる遠州2017春」に参加しました。

 掛川の天候は曇り時々晴れ。最高気温は19℃とのことで、道東では雪が降っているような北海道と比べるととても暖かいのですが、この時期の静岡にしてはちょっと寒いかな。

 今年はお茶やその他の作物も例年より一週間ほど遅れているようで、ここでも春は気温が低めで推移したようです。

 しかし自転車部隊にしてみれば、走っても汗をかかないちょうどよい気温。快適な季節でした。

 
 ツアーにエントリーするのに、自転車で掛川市役所に集合しましたが、そこここにかつての友達や知り合いがいて、温かくもてなしてくれます。やっぱり昔の友達に会えるというのはうれしいものですね。


       ◆   


 さて、今回の「ゆるゆる遠州」では、掛川をスタートゴールとして、全部で7つの珠玉のコースが設定されています。

 そんななか、私は自転車の経験があまりない妻を連れていくことから、一番距離が短く、かつ美味しい掛川のソウルフードが味わえるという、「Gコース:新茶摘みとローカルフード&カルチャー」と名付けられたコースを選定しました。

 掛川は工業都市でありながら、一歩郊外へ出ればまだまだ農業が盛んな中小地方都市であり、隠れた農産物、名産品が結構ありますし、また企業活動の延長にある企業文化なども見られます。今回は自転車でそれらを一筆書きで走って、掛川を味わいつくそうというコースに魅力を感じました。

 スタートは朝の9時くらいになり、いよいよ市役所を出発です。


 

 まず最初のポイントは、掛川城でこちらを忍者装束のガイドさんが案内してくれました。

 ガイドの内容も、歴史的な勉強をしっかりしておられて、何を聞いても聞いた以上の答えが返ってくるうえに、時々ジョークで笑いを取る余裕も。

「なぜ忍者装束でガイドをしようと思ったのですか」と訊いてみると、「普通のガイドだと飽きちゃうでしょ?でもこのスタイルなら興味と感心を引き続けられるんです」とのこと。

 懐には、昔の古銭や手裏剣、まきびしなども仕込んであって、空きそうになったらそれを見せるのだそう。掛川城を話題の中心に、教養が深まるお城ポイントでした。


 続いては「松浦苺農園」さんを訪ねて、こちらで苺摘み体験をさせてもらいました。こちらの苺は、ふつうは観光農園はしていなくてもっぱら農協などを通じて首都圏などへ運ばれてゆくもの。

 出荷の時はまだ白いところが残っている状態で出して、店先で売られるときに調度赤くなるという頃合いの時間差があるのですが、こちらで直接摘ませてもらう分には、今まさに真っ赤で食べごろの大ぶりの苺をもいで食べるのですから、美味しくないわけがありません。

 色も形も味も、「本当にイチゴだー!」という感動に出会える松浦苺農園さんでした。

 
       ◆   


 次が、五明という地区にある「五明の丘」ポイント。ここは地元掛川のアマチュア天文家が新しい彗星を発見して、発見者の一人に名を連ねるという栄誉を得た場所。

 こちらには地元の「五明シスターズ」と呼ばれる婦人会の皆さんが、手作りの総菜やお菓子でおもてなしをしてくれて、もうこの時点でおなかはいっぱいです。

「いくら頑張って自転車を漕いでも、使うカロリーより入ってくるカロリーが多いなあ。収支が合わない(笑)」と冗談を言いながら、それでもついつい手が出ちゃうのがこういう素朴な料理ですね。

 こちらではお茶の新芽を摘む、茶摘みの経験もできました。「柔らかいのは一芯二葉」と教えられて、ちょうど手でちぎれる柔らかさを感じて、「これが優しい味の新茶になる」という実感がわきました。


       ◆   

 この後に、障碍者教育によって子供たちに美術の才能を花開かせた「ねむの木学園」、雨ごいに霊験あらたかな「天桜神社」、天竜浜名湖鉄道に並行するまっすぐな直線の滑走路の道、旧東海道の松並木がそのまま残る道路などをゆるゆると走り、掛川のカルチャーを満喫です。

 そして最後の極めつけは、お城の近くの駄菓子屋の「すいのや」さんでの買い食い。

 スタッフからお小遣いをもらって、それで好きな駄菓子を買ってみるという趣向に、昔は「無駄遣いしちゃだめよ」と言われてなかなか駄菓子屋へ行くことができなかった私も大人買い(おおげさ)です。

 こちらには始まりがいつのことかわからないくらい秘伝の汁に付け込んだ静岡おでんが有名。私と妻で黒いイワシの練り物の「黒はんぺん」と「鶏皮」を買いましたが、これにちゃんと「イワシの粉」がかかっていてまたうまさ倍増。

 素朴な駄菓子の味を堪能して、今日のローカルフードのポイント巡りは全て終了。最後は市役所で、それぞれが感想を述べあって旅の無事を祝いあいました。

 
【率直な感想】
 わたしもようやくこの「ゆるゆる遠州」に参加させてもらって、サポートのレベルの高さを強く感じました。

 お客が15人くらいのチームに、ガイドは6人+サポートカーがついて、途中の荷物や買い物品を預かってくれる手際の良さ。

 また、ガイドの人たちも実に献身的で、一時停止の交差点などがあると、先行して車が来ていないかを確認したうえで、我々に通っても良いという合図を送ってくれます。これでかなり安全確認の苦労が軽減されました。

 そして、これだけの充実したスタッフグループを全7コースで提供できるというのは、どれだけのガイド人材のプールがあるのかと、そのすそ野の広がりに感心します。

 他の自治体で、同じようにガイドサイクリングを地域の観光コンテンツとして売り出したいと思うならば、これくらいの年月をかけてガイド人材を養成し、その人たちが見つけ出した地域の宝物をネットワークするルート開発を行わなければ、もう売れると思えません。

 サイクルガイドツーリズムの最高水準を知りたければ、絶対に掛川へ来るべきだと確信をしました。全国の皆さんもぜひ掛川のガイドツーリングを一度経験してください。


【最後に】
 今日のツーリングが終わったところで、夜七時から、全国他都市から参加してくれた人たちによる交流会がありました。

 この場で、かつて自転車雑誌サイクルスポーツの編集長を長年勤めあげ、ご自身もサイクリストの宮内忍さんが、あいさつに立ち、台湾でのサイクルツーリズムのレベルが非常に高かったことを紹介してくれました。

 宮内さんはいままで、「日本にサイクリングを根付かせるためには、優れたスキルを持ったサイクリストを育成しないとダメなのだろう」とずっと思っていたのだそう。

 それが台湾へ行ってみると、まだ素人同然のサイクリストでも平気でトータル900㎞などといったツアーを楽しんで完走ができている。それは「ひとえにサポートサービスの充実だったんです。それさえ完備していれば、誰でもがロングライドを楽しめるんだ、ということが本当によくわかりました」と言うのです。

 自分で重たい荷物を持たなくてもそれはサポートカーが運んでくれる。タイヤがパンクすればスタッフが来て直してくれる。困ったことも解決してくれる。

 そんな自転車環境が整えば、サイクリングはもっと栄えるスポーツになる、と宮内さんは言います。

 こういう話を、こんな場所で直に聞けるような人のつながりがあるのも掛川ならでは。

 都市の魅力を支えるのは人の力です。どれだけ多くの地域の人たちが目覚めて人材になってゆくのか。そこがカギですね。

 今日は楽しい掛川の一日でした。

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自転車を迎える町の姿~自転車は宿泊部屋へ

2017-04-21 23:09:23 | Weblog

 明日の掛川「ゆるゆる遠州2017」へ参加するために、丘珠空港からFDAで静岡空港へと向かいました。

 丘珠から一緒に飛ぶ北海道からの参加者は総勢7名。別便で掛川へ向かっている仲間もいるので、十人以上のメンバーが北海道から参加することになります。

 丘珠から出た飛行機は、大きく左旋回をして左手に札幌市街地を見下ろしながら、恵庭岳方面へ向かいます。

 そうか、FDAで丘珠から静岡へ飛ぶなら飛行機の左側に座るのが良いようです。


 約二時間のフライトで無事に静岡空港へ到着。富士山は途中でちょっとだけ見えました。

 空港からは掛川駅までFDAによる無料のバスが出ていて送迎サービスも上々です。掛川駅近くのホテルだったので、これはありがたいですね。

 
       ◆ 


 明日のサイクリングで乗る自転車は、掛川の自転車スタッフから借りることになっていたので、駅へ到着してホテルにチェックインした後で、すぐに自転車を取りに行きました。

 私の自転車はロードタイプのもので、妻には電動自転車をお願いしていましたが出てきた電動自転車は、電動自転車らしからぬ、クロスバイクのような外見。

 一応バッテリーを積んでいるので電動かな、と思いますが、変速機も普通のクロスバイクと同じものを搭載しています。

 これで上り坂になった時にちょっとだけでも電動アシストを入れれば、もう怖いものなしでしょう。

 それにしても、掛川で今日泊まる「ホテル玄」は、借りてきた自転車を部屋に入れさせてくれました。小さいエレベーターにも自転車を入れてよいという対応。

 これこそ、自転車を地域でもてなす町の姿勢と感心しました。さすがですね。


 あすは天気も良さそうです。およそサイクルツーリズム最前線を行く町の姿を勉強してきます。

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