北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

電気はあるのに電池がない

2010-05-31 23:37:24 | Weblog
 日帰りの東京出張のつもりが、打ち合わせが長引いてしまい東京宿泊の羽目に。

 一日パソコンに向かわないでいると世の中の変化について行けません。泊まる宿にはLAN設備がないところへはもう泊まれません。

 しかも泊まるつもりではなかったので、携帯電話もパソコンも電源ケーブルをもたずにいるので、今の電池が切れるとピンチです。携帯電話は普段は持ち歩いている交換用電池すら忘れてしまいました。まずいなー。

 コンセントはたくさんあるのに電気がもらえないという、なんとももどかしい状態です。

 
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白老仙台藩元陣屋跡にて

2010-05-30 23:32:22 | Weblog
 今日も北海道は快晴の一日。昨日書いたイザベラ・バードの道内旅行に感じるものがあって、白老方面へドライブしてきました。

 イザベラ・バードは本の中で、白老で白老川に沿って上流へ向かい奥地の白老山まで探検を試みています。もっともその旅は、ひどい蔓草と荒馬に悩まされたうえ、熊の落とし穴にはまってしまうなど、ボロボロの旅をした思い出を綴っています。

 (そうか、バードは白老でどんな風景を見たのだろう)と思い、それを見てみたくなったのです。

      ※     ※     ※     ※     ※

 幸いまだ週末の高速道路は千円上限が生きているので、高速道路で道央自動車道を南下し、白老インターで降りてポロトコタンへと向かいました。

 その途中で目に入ったのが「国史跡白老仙台藩陣屋跡」の看板。地図を見て何か昔の陣屋の跡らしきものがあるとは思っていたのですが、ついでなのでちょっとだけのつもりで立ち寄ってみました。




 するとここは、江戸時代安政3年から12年間にわたってロシア南下政策に備えた北方警備のための拠点だったことがわかりました。当時幕府は松前藩のほか東北各藩に命じて蝦夷地を分割警備させ、各藩では道内から北方領土の択捉島まで24ヵ所の陣屋を築き沿岸の防備にあたっていました。

 なかでも当時もっとも多くの面積の警備を命ぜられたのが仙台藩で、白老以東の北海道の下半分、そして北方四島までもが仙台藩の警備地となり、その拠点がここ白老陣屋で往時は120人からの藩士が常駐し訓練を行っていたといいます。




      ※     ※     ※     ※     ※

 陣屋跡の奥をさらに進んでみると、陣屋跡に関係がありそうな建物が見えたので入ってみました。するとここは、白老教育委員会が管理する「仙台藩白老元陣屋資料館」でした。






 入ってみるとまずビデオによるガイド映像があったのですが、この出来が実に良かくて驚きました。話の中身、脚本、表現のしかた、一テーマを7分ほどの時間でわかりやすく紹介する仕方に感心してしまい、これらのテーマ映像を7本も見てしまいました。

 その中で教えられたのは、この地に陣屋を築いてから12年後の慶応4年に明治維新が興り、当時攘夷派が強かった仙台藩は賊軍の汚名を着ることとなってしまい、陣屋はわずか12年ほどしか使われなかったということでした。

 「政府軍がこの地を襲う」との知らせを受けた仙台藩陣屋ではその日のうちに陣屋を払うことを決め、なんとか船を手配してほうほうの体で多くの藩士が仙台藩まで舞い戻ることができました。

 しかしその過程で数人の部下とともに民政の責任者として残った代官草刈運太郎は、陣屋を襲った政府軍とのいさかいの中で刃傷を受け、その傷が回復せずに仙台へ帰ることなく自害をしたという悲劇も起こりました。

 今では地元の歴史家たちがそうした物語を掘り起こし、この資料館として地域の歴史を今に伝えています。

      ※     ※     ※     ※     ※

 私は常々、「北海道の開拓の歴史の裏に流れるのは、近世における北方ロシアとの外交史だ」と考えています。

 つまり、鎖国時代の日本に対して西欧列強が次第に開国を求めるきざしが18世紀後半には少しずつ現れ始めていて、中でもロシアが北方から南下する圧力に次第に恐怖を感じ始めたことが、蝦夷地の地理に関する情報収集のための蝦夷地探検であるとか北方警備であったということです。

 ロシアから日本を守るためには蝦夷地にたくさん人を住まわせなくてはならないしそこで殖産興業を果たさなくてはならなかったという思いが北海道の開拓の原動力だったのです。
 
 高田屋嘉兵衛や近藤重蔵や最上徳内、松浦武四郎、間宮林蔵などの探検家や商人たちの活躍もそうした文脈を感じなければ単なる功名心目当ての冒険譚としか感じられないのですが、国を守るという使命感をもって命をかけた調査探検だということがわかれば自ずと見方も変わるというものです。

 この資料館の中でも北方交流史の説明はとても充実していて、非常に感銘を受けました。どうして今まで知らなかったかと恥ずかしくなりました。

 北海道人ならば一度は訪ねて祖先の歴史を学んでおくべきです。歴史は年表の暗記ではなく、一日を真剣に生きた人々の生き様の積み重ねなのです。

 
【仙台藩白老元陣屋資料館はこちら】
http://www.town.shiraoi.hokkaido.jp/ka/jinya/ 
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イザベラ・バードの北海道旅行

2010-05-29 23:17:26 | Weblog
 イザベラ・バードという女性探検家をご存じでしょうか。

 彼女は1831年にイギリスで生まれ、23歳の時に北米を旅行したことを皮切りに、その生涯にわたって世界中を旅したことで知られています。

 彼女を日本で有名にしたのは、静養と称して日本を訪れた際の優れた紀行文で、彼女は江戸でイギリス公使から日本のほぼどこへでも行くことの出来る査証を得て、伊藤という多少癖はあるものの誠実で英語の話せる若者をガイドとして雇い、女性単独での異国の旅を敢行しました。

 その旅は、明治11(1878)年4月に横浜港へ入港し、その年の12月に日本を去るまでの9ヶ月の間のことで、日本の内陸部から北上して、北海道へは8月に函館に上陸しました。

 行きの行程は森町から船で室蘭へ渡りそこから陸路を東へ向かい、白老、苫小牧、勇払、平取、そしてついには日高門別まで足を伸ばしました。また帰りは室蘭以西もひたすら陸路をたどり、礼文華あたりの峠の難所も苦労しながら馬で越えて函館へ戻っています。

    ※    ※    ※    ※

 紀行文は妹への手紙という形で表されていて、先入観のない文化論を展開すると共に、特にその当時はまだ珍しかったアイヌの人々との触れあいについても優しさに満ちた眼差しを向けています。

 アイヌの人々に対しては、その当時の時代の常識としての『未開人』という単語や、ガイドの日本人の差別的な発言など、今ではいささか妥当ではない表現も見られます。

 しかし、英語から日本語、さらには日本語からアイヌ語へと三カ国語の通訳という苦労を繰り返しながら、当時のアイヌの風俗や風習のみならず、信仰や彼らにとっての神とはなにかなど高度な内容にまでその関心が及んでいます。そして彼女の感性はアイヌの人々に対して総じて慈愛に満ちたシンパシーを滲ませています。
 日本人とアイヌの人たちとの間での違いとして、たとえば日本人はバードが宿屋へ入ろうものならば、塀が倒れるくらいに鈴なりになって外国人の姿を一目見ようとする好奇心にあふれているのに対して、アイヌの人たちは極めて穏やかであたかも変わったことなど何もないかのようにバードに対して振る舞うということなどが面白く描かれたりしています。

 道内にはイザベラ・バードの歩いた道を再現しようという取り組みもあるので、彼女の記述と今の違いをその目で確かめてみるのも面白いでしょう。

    ※    ※    ※    ※

 ところでこのイザベラ・バードの紀行文は、1885年に発行された普及分の全訳として平凡社から『日本奥地紀行』が出されていましたが、2008年になって、1880年に発行された初版本の全訳が『イザベラ・バードの日本紀行』として上・下二巻本が講談社学術文庫化が出されました。




 全訳版は、紀行文だけではなく日本に関してバードが得た資料や知識なども載っているので、分量が多くなっています。

 また、この『日本奥地紀行』を歩く民俗学者宮本常一さんが読み解く、「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」という本も平凡社ライブラリーから出されています。こちらもまた宮本さんのお話が縦横に飛び交う面白い読み物となっていてお勧め。

 北海道にも歴史はあるのです。


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滝野公園の後日談

2010-05-28 23:50:20 | Weblog
 先日全園開園を果たした滝野公園事務所長のS君から挨拶のメールが届きました。

 曰く「当日はこの日しかないと言うほどの晴天に恵まれて、最高のスタートを切ることが出来ました。これも先輩の皆様のお陰と心から感謝申し上げます…」
 私からは「当日は僕も行きました。忙しそうで会えなかったけれど、これまでの集大成の一日を一人の客として満喫しました」と返信。あの場にいられたことにこちらこそ感謝です。

 夕方には本人から電話も来ました。
「天気が良かったので何よりでした。翌日はもう寒くなりましたから」
「暑いくらいの一日だったからね。最高の日を選んだな、と思いましたよ」

「実際、開園の日をどこにするかはだいぶ迷ったんですよ。自然観察ゾーンのシラネアオイは例年だったらもう少し早いですが、中心ゾーンでの開園式典だったので、チューリップが満開の頃をねらった5月22日にしました。ところがご案内のように今年の春は異常に寒かったので、チューリップはちょっとしか咲いていませんでしたが、今回開園のエリアではシラネアオイの群落が満開で、結果としてマスコミの皆さんにとって、絵になるコンテンツが提供出来ました」
「シラネアオイは良かったよね。僕が事務所にいた時の調査で見つけて、そのときから約10年近くも毎年チェックして周辺の草を刈るなどして育成に努めてきたからね。山道に一輪、二輪というのは見かけても、あんなに群落で見られるのはそうはないでしょう」

「先輩たちのお陰です」
「いや、継承の力ですよ。誰かの時に初めても植物や生態なんてものを相手にしている限り、長期的な取り組みがあればこそ、なんですよ」




    ※    ※    ※    ※

「そうそう、天気が良かったのはこままささんに言われて滝野神社へお詣りをしたのが良かったのかもしれないと思いました。先日行って改めて気づいたのですが、滝野神社はもともとは公園の敷地の中にあったんですね」
「ああ、もうそういうことは繋がっていないんですねえ。元はアシリベツの滝の上にあったのを公園が出来るので補償して今の場所にお移り頂いたんですよ。そういうことに気づかせてくれる縁でもあったのかもしれませんね」


 これまでのいろいろな苦労を全て引き受けて、全園開園を果たしてくれたのが後輩のS君。これも様々な縁が繋がった結果なのです。
 
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手に余る

2010-05-27 23:45:08 | Weblog
 いつもいろいろなヒントをくれる人生の戦友であるAさんと最近、人との関わり方について意見交換をする機会がありました。

 彼は「自分がシンパシーをもてると思う人たちとつきあいが深くなってゆくと、その人たちの回りにいる団体ともつきあうようになっていきます。そうするうちにだんだん知り合う人の数が増えてくるんですが、あるところからはそうした人々のボリュームが大きくなりすぎて、メンテナンスが効かなくなるんです」と言います。
「ははあ、なるほど、いわゆる『手に余す』ってやつですね」と私。

「『手に余す』か、まさにそのとおりですね。どうしたって自分で関係性をコントロール出来る量には物理的な限界があるんだと思いましたよ」
「複雑な関係の多くの団体とつきあっていようと思ったら、全体とまんべんなくつきあうなんてのはとっても無理で、どうしても中心的なキーマンとだけ接触して情報交換をするしかないですよね」

「その論を行政に敷衍(ふえん)すると、僕は道州制って良いのかな、と思うんですよ。国が市町村に情報を流して、逆に市町村という基礎的自治体から情報を得るという双方のバランスを考えると、都道府県が大きくなりすぎるのは、そこから市町村との関係性を保っていくのが難しいのじゃないかと。北海道もかつての支庁制度があって、今は地域総合振興局という形になりましたが、結局一人の首長にどれだけ情報があがっているんですかね」
「全ての情報を上げさせて全てに判断を下すなどと言うのは無理でしょうね。だから社会が複雑になればなるほど、独自の判断で行動に移せる官僚的な組織が必要になってくるわけですよ」

「こままささんはそう言うけど、独自判断という機動性が裏目に出ると関東軍のように勝手に振る舞うようになるところが出てくるわけでしょう?まあ事業仕分けで批判もされていますが、僕だって、新しい社会問題が発生した時に、経験に照らして専門家と連携して原因を究明し、対処方針をつくり、複雑な制度間の調整を行ったうえでバックアップをしながら政治的決断を実現し社会を動かして行く能力というのは政治的に欠かせないとは思いますけどね」
「社会をスムースに動かしているブラックボックスの中はなかなか見えませんからね。実際現代日本の社会は、少ない人間が動かすにはあまりに手に余るほど複雑に利害や制度が絡み合っているんですから」

    ※    ※    ※    ※

「ところで、Aさんなんかはいろいろな社会の人たちと縦横につきあっていて、僕などはうらやましく思いますけど」
「そうですね、確かにいろいろな世界の人たちとつきあってみると、都会の人たちって、レッテルが一枚じゃないんですよね。ある大会社の幹部が実はNPOで活動していたり、社会運動をしているリーダーが実はかつての労働界の大物だったり、という人格を多重にもっている人たちが多いと言うことに最近気づきました。これって、相手の立場で全人格を判断してしまうことは実に恐ろしいことになりかねないんで、気を遣うんですよ」

「なるほどねえ」
「ところが、都会ではエリートと呼ばれる人たちほど、初めて会う人に対してはレッテルで判断せずに、実際の会話で話される相手の内容や価値観念がどのあたりにあるか、を見極めているんです。偉い人ほど頭が下がってくるというのを良く目の当たりにしますよ」

「ふうむ、都会人になりたければ表の顔と裏の顔を持て、ということですかね。怖いな~(笑)」
「そう、田舎の人はそこらあたりがわりと単純だったりするんですね。良く言うと裏がなくて手に余すこともないんです(笑)」

    ※    ※    ※    ※

 手に余すというのはこちらの力量が不足しているということだってあるかもしれず、全てが相手のせいでもありますまい。

 自分の包容力は広げつつ、膨れあがる友達関係をどう上手に維持出来るでしょうか。

 キーワードは「程の良さ」ということでもありそうです。二宮尊徳風にいえば「分度」ということですね。 
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元気な農業、当麻町

2010-05-26 23:51:25 | Weblog
 昨夜は友人と久々の会合をして旭川からは最終の電車で帰ってきたのですが、今日は朝から東京へ出張。結構疲れます。

 昨日旭川周辺を見学させてもらった後に訪ねたのが当麻町役場。こちらの町長さんは昔から個人的にお付き合いがあるのです。 

 当麻町の菊川町長に最近の町の様子を伺うと、「米の品質では道内トップを連続して獲得していますし、デンスケスイカも良いですよ。町内で栽培して出荷しているバラが100万本になり、イベントもやりました」とのこと。

「お米が当麻米というので知られてきたのだそうですが」
「ええ、ある人から紹介を受けて八王子のスーパーさんへ『ほしのゆめ』を売り込みに行きました。最初は『北海道の米なんて売れないよ』と言われたのを、なんとか置いてもらってみるとだんだん人気が出てきて、とうとう今では居並ぶ他県米を尻目に売り上げ一番になりました。東京の人は安全で美味しいお米として北海道を選んでくれるんです」

「八王子のスーパーだけではなく、もっと販路を広げてはいかがですか?」
「ところが当麻米というブランドではもっと出すだけ収量が揃わないんです。ちょっと残念ですがね」

「バラが売れているとは知りませんでした」
「当麻のバラはもう安定した高品質で知られていて、市場へ出しても箱を開けてチェックもしないで、『ああ、当麻のは良いんだ』ですって。価格も他の所より高くつけて頂いていますよ」とのこと。

 デンスケスイカに至っては、糖度も空洞も割らずに計ることが出来る光センサーが進歩しているんだとか。「チェックを通らなかったものは生産者がチェック量を支払ったうえで生産者が自己引き取りです。品質が劣るのは出さずに品質を保っているんです」とのこと。

 農業の元気は町の元気。

 量だけでなく高い品質で人気が出ている農作物の話を聞いているとこちらも元気が出てきました。

 当麻町は、今度は生産が盛んな時に伺いたいと思います
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離島の民宿がんばれー

2010-05-25 23:40:37 | Weblog
 稚内でもうひとつ。昨夜は稚内市役所の方達と夜情報交換会という名の懇親会をしました。

 ロシア料理が売り物の「ペチカ」という居酒屋でウォッカを飲み続け、そろそろ終わりにしましょうか、と言っていたら、どやどやとなにやら知った顔の皆さんがお店に入ってきました。

 なんと偶然なことに今日は宗谷シーニックバイウェイの会の総会があったそうで、利尻・礼文の観光担当の役場の方達や地元の観光振興、地域振興で繋がっている人たちが集まって会合を開いていたのです。

 実は朝の飛行場で、この会に札幌から応援に行く人たちと出会っていたのですが、そのためどうやら私が稚内に来ていることが分かり、ついには飲んでいる場所も探り当ててやってきたのだそう。いや、私も実は会いたいな、と思っていたのです(ホントよ!)。

    ※    ※    ※    ※

 最近の宗谷地域での活動や観光の状況を尋ねると、やはりあまり元気がない様子。北海道観光と言っても、他にもたくさんの魅力あるエリアと競争しながら宗谷や利尻・礼文を選んでもらいたいところですが、「では他と違って何がウリなの?」とずばっと訊かれると、そこにプレゼン出来るものが足りないというのが悩ましいところ。

 しかし最近はいよいよ民宿の経営者たちも危機感を募らせたようで、民宿同士の連携を模索し始めているのだとか。

 民宿というと、観光シーズンにホテルが満杯になった時の予備の宿泊施設だと自虐的な言い方をする人もいますが、実は民宿のファンという方だって決して少ないわけではありません。

 昔は民宿同士がお互いをよく知っていて、民宿へ泊まった人が「次に良い民宿を紹介してよ」と言われるとすぐに電話が出来たものだそう。

 それが最近はつきあいが薄れてそういう事が少なくなり、ホテルのおこぼれ的なお客さんの待ち方に慣れてしまったために、改めて「民宿とは何だ」という気運が起こってきたのだそう。

 宿泊業協会となるとホテルも入ってしまうので、あくまでも民宿の経営者として集まって何かしたいという思いが募っているようです。旅の拠点は民宿を選ぶというスタイルもあって良さそうです。

 話をしているうちに、利尻・礼文から参加している人たちとも大いに話が盛り上がりました。
 「なんだかんだ、いい話をたくさんしてもいい話をたくさん聞いても、私たちにとってはとにかく島へ来てもらわなければ話にならないんです。絶対面白いですから是非来てくださいよ」

 そういえばまだ利尻島だけは足を踏み入れていませんでした。いろいろなタイミングが合ってきたようです。これは近々行かなくてはなりませんねえ。

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稚内駅前の再興

2010-05-24 23:27:40 | Weblog
 朝から稚内への出張。時間の関係で今日は飛行機での移動です。

 茫漠とした宗谷丘陵を眼下に眺めながら稚内空港へ降り立つと、随分温かな風がながれています。そろそろ宗谷地方も春なんだな、と思いながら市内へと移動しました。

 今日は担当している交付金関係の説明会に出席ですが、残った時間で地域の皆さんにご挨拶やら現地を視察させていただきました。

 JR稚内駅の前には再開発ビルの建設が進行中。かつて賑やかだった稚内駅前の地域も次第に廃れてきたのですが、再び賑わいを取り戻そうと、人たちが集まるような施設を備えたビルを建てるのです。





 再開発ビルの目玉は3スクリーンと少ないながらも地域になくなってしまった映画館の復活。一番大きな部屋で98人という小規模ながら、古ハイビジョンのさらに二倍という細かい表現を可能とし、また3D映像も見られるという最新鋭の映像機械を備えたシネコンが6月にはできることになります。

 稚内から映画館が消えたのは23年前なのだそうですが、映画で考えてみると私自身が稚内に住んでいた幼い時に、父親に連れられてまちなかの映画館で見た覚えがあるのが「ワタリ」という映画と「サイボーグ009」。
 
 調べてみるとどちらも1966年のことで、私が8歳の時の懐かしい思い出です。なんであの映画を観に連れて行ってくれたのかを今度親父に訊いてみようかな。

 再開発ビルそのものは、JR稚内駅前の以前は駐車場だった場所に作られているのですが、今後はJR稚内駅そのものがもう少し海側にずれたところに新しく作られ、今の稚内駅のところも平成23年には再開発ビルになり駅と直結となる予定です。

 稚内も市内の賑わいの中心はJRの衰退や道路整備の充実と共に次第に東側に移っています。それらに対抗して、活気を失った稚内駅前の商店街や商店街のある中心市街地の賑わいが復活する起爆剤として期待されているのがこの新しいビルというわけ。

 市民に共感を持って支持されて、稚内での映画館の復活と共に賑わいが取り戻されると良いですね。
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ネットオークションでパソコン部品をゲットする

2010-05-23 23:53:06 | Weblog
 先日自宅のパソコンは、ハードディスクのクリーンインストールを試みたものの、マザーボードの部品が取れてしまいとうとう壊れてしまいました。

 仕方がないので東京で使っていた中古のパソコンを引っ張り出して応急的に使用していて、とりあえずは使えないこともないのですが、さすがにその遅さに耐えかねてきました。

 新品のパソコンかもう少し新しい中古にすれば良いのでしょうが、まだ使える部品が山のようにあって、もう少し改善を加えれば使えるだけになんとももったいなく思います。壊れているのはマザーボードという基盤部分だけで、メモリやハードディスク、電源などは十分に使えます。

 しかしながら、そもそももう8年前くらいの部品なので今更新品が打っているはずもなし…。と、そこで頭に浮かんだのがネットオークション。古い部品だけに、かえってネットでなら売っている人がいるかも、と探してみると…、お~!売ってる~!

 少しだけ型は違うのですが、同じ会社の製品で部品も今のものがそっくり使えるマザーボードが:Yahooオークションに約4千円で出品されていました。

 しかも自分のものより少し性能の良いCPU付きではありませんか。今のところまだだれも応札した人がいない商品ですが、オークションの締め切りまでの残り時間はあと3時間。

 おっとっと…これは決断の時ですな。部品が本当に使えるかどうかをネットのなかで探して確認したところで、とりあえず出品者の示した最低価格で応札し、あとは時を待つばかりです。

    ※    ※    ※    ※

 オークションなので、誰かがこれ以上の高値を付ければ、メールで連絡が来て再応札するかどうかを決めることになります。この締め切りを待つ時間って案外ドキドキしますよ。(誰も張り合ってくれるなよ…)

 そして迎えた23時18分過ぎ、オークション終了で「おめでとうございます! 商品○○を落札しました」というメールが届き、とりあえず取得権利の獲得です。

 あとはオークション終了メールに記載されていた出品者のアドレス宛に、送り先や当方の名前などを書いたメールを送っておきました。

 明日からは出張が続くの作業は来週の週末になるでしょうが、とりあえず部品の確保ができました。さて、来週には今よりも少しだけ性能の良いパソコンの復活がなるでしょうか。


 パソコンって、少しでも調子が悪かったりするとやたらに気になるものです。まるで自分の子供みたいだなあ。早く具合が良くなって欲しい~。 


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国営滝野すずらん丘陵公園のグランドオープン!

2010-05-22 23:56:23 | Weblog
 札幌市南区にある国営滝野すずらん丘陵公園が本日396haの全園開園、グランドオープンを果たしました。

 思えば第一期開園は私がこの世界に入った二年目の1983年7月のことで、アシリベツの滝から下流部1kmまでのわずか30haの利用から始まったのでした。

 第一期開園は駐車場とアシリベツの滝、不老の滝、それにジンギスカンハウスと釣り堀があるだけの極めて素朴な施設でした。

 それが翌年には鱒見の滝を含む50haを追加し、以後着々と整備面積を広げて、花や遊具に力を入れた憩いの地として充実をしてきました。




 私は直接的・間接的に約11年間この公園に関わってきたわけですが、これまでの197haの開園区域が一気に396haの全域に及び、その感慨もひとしおです。

 今日は簡素な式典も行われましたが、特段招かれているわけではないのであくまでも一市民として、快晴の空の下で記念無料開園日の一日を滝野公園で楽しんできたのです。

    ※    ※    ※    ※

 今回開園したのは敷地の南西部にあたる一体で、もともと細い河川が流れ自然が豊かだったエリアです。

 ここら一体はあくまでも自然観察を中心としたエリア構成で、周辺の自然を紹介できる拠点的な施設である「森の情報館」が新しく建てられ、また川をまたぐようにして空中園路も作られました。




 川の南側の斜面には何年も前からシラネアオイという植物の群落があることが分かっていましたが、これを保全し増殖させるためには特別に気を遣った草刈りなどの周辺手入れを継続的に行ってきました。今では立派な群落が育っています。




 またエゾサンショウウオの棲息する水たまりもあって、これも経年的に調査を続けてきました。そのおかげで開園したあかつきに自然観察の有力なコンテンツになりかけています。

 ただ単純にあるものを見せるだけではなくて、何年も掛けてコンテンツを探りながら保全・育成ができるのが充実したスタッフを揃える公園の良いところです。

 何が見られるのかに価値を感じる人と、その価値が分からない人もいることでしょうが、「それを見ることにどういう意味があるんですか?説明してください」と言われたりすると辛いことでしょうね。

 価値観は何度も実物に触れて自ら育て上げられるものであって、人から伝えられれば備わるものではないですから。

 滝野公園は明日も無料で、記念のイベントも数多くやっています。

 久しぶりに仕事ではなくて一日公園を満喫しました。大きな一区切りがついた気持ちです。 
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