今日も北海道は快晴の一日。昨日書いたイザベラ・バードの道内旅行に感じるものがあって、白老方面へドライブしてきました。
イザベラ・バードは本の中で、白老で白老川に沿って上流へ向かい奥地の白老山まで探検を試みています。もっともその旅は、ひどい蔓草と荒馬に悩まされたうえ、熊の落とし穴にはまってしまうなど、ボロボロの旅をした思い出を綴っています。
(そうか、バードは白老でどんな風景を見たのだろう)と思い、それを見てみたくなったのです。
※ ※ ※ ※ ※
幸いまだ週末の高速道路は千円上限が生きているので、高速道路で道央自動車道を南下し、白老インターで降りてポロトコタンへと向かいました。
その途中で目に入ったのが「国史跡白老仙台藩陣屋跡」の看板。地図を見て何か昔の陣屋の跡らしきものがあるとは思っていたのですが、ついでなのでちょっとだけのつもりで立ち寄ってみました。
するとここは、江戸時代安政3年から12年間にわたってロシア南下政策に備えた北方警備のための拠点だったことがわかりました。当時幕府は松前藩のほか東北各藩に命じて蝦夷地を分割警備させ、各藩では道内から北方領土の択捉島まで24ヵ所の陣屋を築き沿岸の防備にあたっていました。
なかでも当時もっとも多くの面積の警備を命ぜられたのが仙台藩で、白老以東の北海道の下半分、そして北方四島までもが仙台藩の警備地となり、その拠点がここ白老陣屋で往時は120人からの藩士が常駐し訓練を行っていたといいます。
※ ※ ※ ※ ※
陣屋跡の奥をさらに進んでみると、陣屋跡に関係がありそうな建物が見えたので入ってみました。するとここは、白老教育委員会が管理する「仙台藩白老元陣屋資料館」でした。
入ってみるとまずビデオによるガイド映像があったのですが、この出来が実に良かくて驚きました。話の中身、脚本、表現のしかた、一テーマを7分ほどの時間でわかりやすく紹介する仕方に感心してしまい、これらのテーマ映像を7本も見てしまいました。
その中で教えられたのは、この地に陣屋を築いてから12年後の慶応4年に明治維新が興り、当時攘夷派が強かった仙台藩は賊軍の汚名を着ることとなってしまい、陣屋はわずか12年ほどしか使われなかったということでした。
「政府軍がこの地を襲う」との知らせを受けた仙台藩陣屋ではその日のうちに陣屋を払うことを決め、なんとか船を手配してほうほうの体で多くの藩士が仙台藩まで舞い戻ることができました。
しかしその過程で数人の部下とともに民政の責任者として残った代官草刈運太郎は、陣屋を襲った政府軍とのいさかいの中で刃傷を受け、その傷が回復せずに仙台へ帰ることなく自害をしたという悲劇も起こりました。
今では地元の歴史家たちがそうした物語を掘り起こし、この資料館として地域の歴史を今に伝えています。
※ ※ ※ ※ ※
私は常々、「北海道の開拓の歴史の裏に流れるのは、近世における北方ロシアとの外交史だ」と考えています。
つまり、鎖国時代の日本に対して西欧列強が次第に開国を求めるきざしが18世紀後半には少しずつ現れ始めていて、中でもロシアが北方から南下する圧力に次第に恐怖を感じ始めたことが、蝦夷地の地理に関する情報収集のための蝦夷地探検であるとか北方警備であったということです。
ロシアから日本を守るためには蝦夷地にたくさん人を住まわせなくてはならないしそこで殖産興業を果たさなくてはならなかったという思いが北海道の開拓の原動力だったのです。
高田屋嘉兵衛や近藤重蔵や最上徳内、松浦武四郎、間宮林蔵などの探検家や商人たちの活躍もそうした文脈を感じなければ単なる功名心目当ての冒険譚としか感じられないのですが、国を守るという使命感をもって命をかけた調査探検だということがわかれば自ずと見方も変わるというものです。
この資料館の中でも北方交流史の説明はとても充実していて、非常に感銘を受けました。どうして今まで知らなかったかと恥ずかしくなりました。
北海道人ならば一度は訪ねて祖先の歴史を学んでおくべきです。歴史は年表の暗記ではなく、一日を真剣に生きた人々の生き様の積み重ねなのです。
【仙台藩白老元陣屋資料館はこちら】
http://www.town.shiraoi.hokkaido.jp/ka/jinya/