北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「黒船前夜」レビュー

2011-08-31 23:45:33 | 本の感想
 さて、「黒船前夜」のレビューです。全体は十章からなっていて、それぞれにテーマを持った文章が書かれています。

 まず初めはロシアの東征の物語。16世紀の末あたりから東へ東へとコサックたちが進出を始め、1639年にはオホーツク海の名の元となったオホーツクへ進出をしています。

 そしてその後、ロシアの政治がまともには及ばない東方を舞台にまあ乱暴な活動が始まりますが、そのころ丁度力を伸ばしていたのが大陸の清でした。

 ロシアは清と6年にわたる戦争を戦い、ついにネルチンスク条約によって、アルグン河との合流点より下流のアムール河流域を清国領と認め、結果として広大なアムール河下流から駆逐されることになりました。

 後世歴史家は、「このことによりロシアは沿海州を押さえることができず、カムチャッカ方面からアプローチせざるを得なくなり、北方問題の始まりが遅くなった」と説明しています。

 実はこの時代はまだカムチャッカ半島から蝦夷地に至るクリル諸島周辺は夏期に立ち込める霧によって視界がきかず、世界の中でも満足な地図が描けない最後のエリアでした。

 しかしロシアはカムチャッカ半島からのクリル諸島がテンやラッコなどの毛皮資源が豊富であることに気づき、原住民を征服して毛皮税をかけようとします。

 そこで莫大な現地利益を上げられるという成功体験が彼らを東へ東へ、未開の土地へと突き動かす原動力でした。

 同時に、その頃からしばしば見られた漁船の漂流者たちがやって来る、東方にある日本という国は、水や食料、燃料の供給拠点や交易先として有望であると思われるようになりました。

 ロシアがペテルブルクに日本語学校を作ったのはなんと1705年のこと。この頃からロシアは日本とコミュニケーションをとることへの戦略的な活動を始めていたのです。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、時代は下って1771年。一隻の異国船が阿波の国(今の徳島県)の港に入り、長崎出島のオランダ商館長に当ててロシア人に注意するようにとの警告の手紙を託すという事件がありました。

 その人物とはファン・ベニョフスキーという流刑になっていたポーランド人ですが、脱獄してこの挙に及んだらしいのですが、彼の名はいつしか間違って伝えられ「はんべんごろう」と呼ばれるようになります。

 最初はこの手紙の訳も判然とせず放っておかれたのですが、これを市井の知識人たちが騒ぎはじめ、幕府も捨て置けないようになりました。やがて工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著すに至って、どうやらロシアは蝦夷地のまだ先の諸島でアイヌたちをてなずけ始めているらしいということを知るようになりました。

 この頃の松前藩の蝦夷地統治は、アイヌとの交易権を場所請負制として力のある商人に任せるようになりました。この場所請負制については、しばしばアイヌから搾取をする非道な面が強調されていますが、著者は「少なくとも松前藩としては非道な商人は取り締まったり罰を与えるなどかなり倫理に適った政治をしていた」と解釈します。

 また必ずしもアイヌを日本人化させることにも積極的ではなく、アイヌにはアイヌの文化や生活があり、そこで彼らが採るものと交易ができれば良い、とさえ考えていて、ロシアのように土地を征服するというような強い支配意識を持っていなかったのがロシアとの違いである、とします。

 しかし、天明5年、6年に田沼意次政権末期に相次いで行われた蝦夷地一周大探検に加わった者たちには既に国家意識や近代ナショナリズムの意識が芽生えていたようです。

 かれらの報告書には搾取されているアイヌに同情し、「アイヌは日本人であり、彼らを日本の国風に同化させないでいるのは『その方が掠め安いため』であり、松前藩と悪徳商人の結託の結果であり、アイヌを救い出さなくてはいけない」という不信感が明らかで、この考え方はその後の幕府の方針や明治以降の歴史観にも大きな影響を与えることとなったのでした。

 
    *    *    *    *    *


 天明の探検が行われてから数年後の1789年にネムロ、アッケシ、クナシリまで巻き込んだメナシ・クナシリの乱が起きます。くしくもフランス革命と同じ年のことです。

 これはアイヌの長老が死んだことに対して、それまでの交易上の不満が重なって和人に殺されたものでこのままでは自分たちも危ないと思う、追い込まれた感情が爆発したものでした。

 幕府は騒動が治まった後にアイヌならびに商人側から聞き取り調査を行っていますが、このときのアイヌ側の不満は後々、和人によるアイヌ収奪という固定的な観念を生んだのではないか、と著者はこれまでの常識に疑問を投げかけます。

 それはさまざまなアイヌとの関係に関する研究の中でわかってきたことがベースになっています。

 たとえばアイヌ勘定というのがあります。鮭を数えるときに「はじめ、一、二、三…、九、十、おわり」という数え方で、和人は10本ごとに2本得をするものです。

 これは数の勘定に疎いアイヌをだます典型的な数え方だ、とされて搾取の典型とされてきましたが、実はアイヌには数の概念はしっかりあったし、いわゆるアイヌ勘定は鮭と鱒のかんじょうのときにしか使われなかったのだそう。

 つまりこうした輸送中に痛みやすい品物は12本を持って10本とするという一般の商習慣であって、「アイヌを騙して搾取している」とするのは劣った彼らを保護しなくてはならない使命感とセットになった文明的優越感があったのではないか、というのが著者の解釈です。私自身の既成概念が揺らぎました。

 またアイヌ側の方も和人の側が新しい漁場を開拓することに対して「自分たちだけでは無理なので嬉しい」と歓迎を示すなど、既に交易という形での商品経済なくしては生活が成り立たなくなっていたのも事実で、経済が社会を変えて行くことは時代の流れだということがこの歴史でも学べます。


    *    *    *    *    *


 さて、いよいよラクスマンの登場。彼は漂流民を日本に返すというカードを持ちながらネムロに到着して日本側に交易を求めます。

 そこで初めて徳川幕府は長崎の出島意外での外国に対して開国をするかどうかを迫られます。

 このときの対応は、相手をじらしつつ「今は駄目だが長崎へ行くならそこで改めて考える」という証文を渡してごまかします。このときには長崎へはいけまいと踏んだ節があります。

 案の定、ラクスマンは長崎へは行かずに戻ることになりましたが、あとは長崎へ行けば交易は開かれると信じていました。

 ところが戻ってみるとロシア本国ではナポレオン旋風が吹き荒れていて東方をどうするどころではなくなってしまい、日本渡航はしばらく沙汰やみとなってしまいます。

 その証文は十数年後にレザノフに託され、レザノフは長崎へ向かうのですが、このとき幕府はやはり開国することはできないとつっぱることになり、怒ったレザノフは部下のフヴォストフに武力で威嚇するように伝え、クナシリや樺太で日本人が襲われると言ういわゆる「フヴォストフ事件」を起こします。

 これがやがてゴローニンの捕獲と高田屋嘉兵衛との交換といった一触即発直前の緊張感を招きます。

 総じて江戸幕府の外交対応は、国を開かないことを除けば捕虜の扱いなどは当時の国交の世界標準にかなったものであって、双方に敬意をもった紳士的なものであったと著者は評価します。

 またゴローニンも後にその顛末を「日本幽囚記」として表しますが、一貫して日本の役人および庶民の態度を好ましいものだと記しています。

 このゴローニン事件(1813年)の一件落着を契機として、ロシアは日本との接触を控えるようになります。南進するロシアと北進する日本とのせめぎあいはここにこう着状態を迎えたまま、日本は今度はアメリカから開国を迫られ、明治維新を迎えることとなります。今度は開国を避けられなかったと言うわけです。


    *    *    *    *    *


 総じて北方は江戸から遠くても現場力でなんとか鎖国の禁を守り続けたけれど本丸が襲われると耐えられなかったということでしょうか。

 この間、蝦夷地は松前藩の統治におかれていたものが幕府直轄となりまた松前藩に戻され、さらにまた直轄になるというゆらぎを繰り返します。

 地方自治的な管理が国家管理になる過程の揺らぎを示しているようですが、辺境の地は地方が管理するのが良いのか、それとも国家が管理するのが良いのか、地方分権の流れが強まる昨今、やはり私たちは今一度辺境の地の歴史を勉強しなおしたほうが良いように思います。

 数多くの歴史的エピソード満載の「黒船前夜」、北海道を舞台にこのような良書が現れたことに感謝したいと思います。

 道民ならばぜひ読んでおきたい一冊。重ねてお勧めします。 


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渡辺京二著「黒船前夜」を読む ~開国の舞台は蝦夷地だった

2011-08-30 23:45:16 | 本の感想

   【「黒船前夜」を読む


 「北海道に歴史がない」、という人がいますが、それは江戸を中心とした教科書や徳川正史の中での記述が少ないというだけのことです。

 まだ近代的国家観が醸成される前の身内的経営観で統治が可能だった江戸時代には、その統治からはずれて訳の分からない辺境の地を開拓して収入を増やそうという意欲がきわめて少ないのでした。

 それ故蝦夷地では、統治が及ばない故の開放的な経営スタイルが許された反面、ロシアを始めとする異国の接近に対して場当たり的な対応がなされ、それがまたドラマを生み出してもいたのです。


    ※     ※     ※     ※     ※


 八月上旬、北海道新聞の夕刊に掲載されていた「北方史に魅せられて~「黒船前夜」に寄せて」というタイトルの一文を見た時に、その著者が渡辺京二さんと気づいたことは実に幸いでした。

 渡辺京二さんは近世史家と名乗っていますが、物書きとしての才能を以前にご紹介した「逝きし世の面影」という名著で鮮烈に印象付けました。

 この本を「ぜひ、絶対に読んでください、名著ですから」と教えてくれたのは今は静岡県知事になってしまった川勝平太さんでしたが、実に良い本との出会いが生まれて感謝に絶えません。

 「逝きし世の面影」では、江戸時代末期から明治時代に日本を訪れた多くの外国人が記した日本人に関する記録をくまなく調べて、その中からどうしようもなく純朴で幸せに満ちた明治以前の日本人の性格と性質を鮮やかに浮かび上がらせました。

 この文筆力がそのまま「黒船前夜」でも発揮されていて読ませます。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、北海道新聞に寄せられた文書を読んで、初めて私は、これまでずっと興味を持っていた近世北海道のロシア外交史やら幕府の蝦夷経営史を網羅した「黒船前夜」という本があることを知りました。

 本屋さんへ行く暇がなくてすぐにネットで取り寄せて読み始めるとこれがまさに私が求めていたテーマに沿うもので、どんぴしゃで面白い!

 本の副題は「ロシア・アイヌ・日本の三国志」とありますが、極東を目指したロシアの事情と松前藩を中心とした蝦夷地経営の事情、そしてアイヌの人たちとの関係を、実に多くの文献からその記述を吟味して一つの解釈として浮かび上がらせてくれます。

 本そのものは小説というよりは根拠となる文献をページの端に丁寧に記載してくれていて、「だれでも原文に当たればこう解釈するでしょう?」と言わんばかりのエピソードを連ねて、歴史論文的とでも呼ぶべきスタイル。

 今まで分からなかった地理感覚や舞台となった町なども豊富な地図を掲載し、歴史物語を理解しやすくしてくれているあたりは、「どう?これなら分かるでしょ?」と言われているようです。


    ※     ※     ※     ※     ※

 
 著者は日本そのものの外交史を概括して、「日本は十六世紀半ばから十七世紀半ばにいたるおよそ100年間、ヨーロッパ文明との最初の接触を経験した。これをヨーロッパとのファースト・コンタクトと呼ぶとすると、鎖国という中断を経てやがてセカンド・コンタクトへ至るのは時の必然」だと言います。

 そして「開国というセカンド・コンタクトを省みるとき、もっぱら一八五三年のペリー来航に焦点が合わされるのは再考を要しよう。それはひとつの画期ではあっても、セカンド・コンタクトそのものの開始を告げるわけではなく、それを求めるならば時ははるかに早い安永・天明年間、場所は北方の蝦夷地に求められねばならない」と言い切ります。

 そして、北方問題を一言でいうと、それは「アイヌを自分側に取り込もうとする日・露民族主義同士の相克にほかならなかった」と看破。

 北海道にはこんな歴史があった、という驚きとともにかつて誰も教えてくれなかったわが郷土の歴史の物語がここにあります。

 北海道に住む知識人には必ず、いや、絶対に読んでほしい本だと断言します。

 著者の渡辺氏はこの文章を熊本日日新聞からの依頼によって書きはじめ、本人自身は文献中心に組み立てを行い、『北海道には一度も足を踏み入れたこともなく、地理にも疎い』のだと言います。

 これだけのエピソード集を北海道の人間として書けなかったことに忸怩たる思いです。しかしその悔しさを超えて読んでいただきたい。

 内容のレビューは次回にお届けします。

 ※「黒船前夜」~ロシア・アイヌ・日本の三国志
   洋泉社 2900円+税 (第37回大佛次郎賞受賞作)
 
 
【拙ブログより】

 ■渡辺京二著「逝きし世の面影」に日本観を見る http://bit.ly/pX1ZyV

 ■「逝きし世の面影」完読~心の垣根 http://bit.ly/oVJqQU

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人馬一体のマラソン~エンデュランス馬術大会

2011-08-29 23:45:55 | Weblog
 馬術と言うと、囲われた場所で技術を競うと思われがちですが、そんな先入観を覆すのが「エンデュランス馬術」です。

 エンデュランス馬術とは、一口で言うと馬のマラソンのようなもので、野山の中に設定されたコースを一日で80kmから、長いものでは160kmも走ります。

 昨日は「第11回釧路湿原エンデュランス馬術大会」という大会が鶴居村のどさんこ牧場を拠点に開催されました。

 この大会ではコースとして、80kmと60kmの二つのコースが用意され、そのほかに最長40kmのトレーニングライドなどのメニューがあります。

 80kmを走るコースには、全国各地から30名の参加者が訪れましたが、そのほとんどは本州から遠征されてきた方ばかり。馬は道東各地の馬牧場で育てられているものを借りての参戦です。

 このエンデュランス、「馬のマラソンのようなもの」とは言いながらただ早ければ良いというわけではありません。

 他の馬術競技と大きく異なるのは、馬体の健康具合が悪ければ制限時間以内にゴールにたどり着いても失権(失格のこと)になり、完走が認められないということです。

 ゴール付近で待ち構えていると、到着目前の馬体が見え始めても一向に急いでゴールに向かう様子がありません。

 なんだかゆったりと歩いてくるのを見るのは、一秒を争うレースを見慣れた目には不思議に見えます。

「あれで心拍数を整えているんですよ。もう制限時間以内にゴールインできるのは大丈夫なので馬体の調整をしながらゴールします」

 ボランティアスタッフがそう説明してくれます。


    ※     ※     ※     ※     ※


 ゴールした瞬間は周りから拍手がおきますが、騎手とクルーはそこからもうひと頑張りが必要。




 出場する馬は、走行前や大体40kmのチェック区間到着ごとに20分以内に獣医師団により馬の健康チェックを受けなくてはなりません。

 そのため騎手も一緒になって到着した馬には水をじゃぶじゃぶかけて馬体を冷やし、一生懸命に馬の呼吸を整え心拍数を押さえるケアをします。






 馬体の検査項目としては、心拍数(64拍/分以下)、呼吸数、体温、血の巡り、怪我の有無、歩き方にふらつきがないか、などがルールによって決められていて、このルールに基づいて馬体がチェックされ、これにパスして初めて完走が認められるのです。

 単なる速さの追求だけではなく、人馬一体となった走りの質を問うところは、西洋の馬文化思想の一つの形のように思います。




    ※     ※     ※     ※     ※


「日本ではなかなかエンデュランスは競技人口が増えませんね。人口減少もありますが、文化も市場も育っていませんから」とは日本馬術連盟からこられたAさんの弁。
「文化や市場が育っているというのはどういうことですか?」

「馬の文化をなくしてはいけない、と思えば行政ももう少し支援するのでしょうけれど、単なるイベントとして支援してくれる自治体はあっても、それを『失ってはいけない文化』にまではなっていません」
「なるほど。では市場というのは」

「世界的なエンデュランス大会に出るのはアラブの王族など、お金には困らない層がほとんどで、馬も完全にエンデュランス用に鍛えあげられたものが大会に臨みます。そういう人たちの間では、優勝した馬を育成した人はその腕を買われて、高額で引き抜かれてそれで十分な生活ができるだけの市場があるのです。しかし日本では馬ではなかなか食べてゆくことはおぼつきませんよね(笑)」


    ※     ※     ※     ※     ※


 会場となった鶴居村のどさんこ牧場の周囲を見渡すと、北海道のイメージとも異なるような異国のような独特の雰囲気があります。

 こんな風景の中で、今や機械に取って代わられていった馬が走り、それを楽しむ文化がある、なんて道東らしいイメージです。

 もともと釧路の大楽毛は日露戦争の頃は軍馬の一大産地として有名だったという歴史もありますし、もっと馬を連想するような同等のイメージ作りがあっても良いかもしれません。

 大会参加者の皆さん、協力してくださった獣医師団の皆さん、そして無償で支えてくれたボランティアスタッフの皆さん、お疲れ様でした。

 来年またお会いいたしましょう。



   【来年もお会いいたしましょう】
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博物館のまちなみ探訪「釧路の駅」

2011-08-28 23:45:20 | Weblog
 市立博物館主催の歴史探訪会『まちなみ散歩』。今回のテーマは釧路の駅を中心とした鉄道史です。

 快晴でじりじりと熱い釧路市内、集合場所のMOOの裏側に集まった人数は約25人。中には長期滞在の方もいたりして、釧路の面白話に興味津々です。





 案内してくれるのは博物館学芸員の戸田さんですが、話題が鉄道ということで臨港鉄道友の会の会長の星さんも加わり心強い案内が期待できそう。

 今日配られたのは探訪会のしおりと、現代の地図、それに昭和7年の釧路市大日本職業明細図。これらを見比べると今ある建物が昭和7年にどうであったかを見比べることができるというわけです。


    ※     ※     ※     ※     ※ 


 MOOを出発して、国際交流センターのあたりから小さな街区を歩きます。昭和7年の地図に見えるお店の中には昔のまま、あるいは商売の形態を変えて残っているところがあって興味深いものがあります。








 北海道での鉄道敷設は案外早くて、日本で初めて鉄道が新橋~横浜間で開通したのが明治5(1872)年に対して、その8年後の明治13(1880)年に北海道で初めて札幌~手宮間が開通しています。

 さらにその7年後には標茶~跡左登(硫黄山)間に硫黄採取のための鉄道が敷設されています。

 主に石炭を運んだ白糠~釧路間が開通したのは明治34(1901)年で、今年はこの路線が開通してから110周年の節目の年にあたります。

 最初は今の「交流プラザさいわい」があるあたりに終点だった釧路駅が作られました。ここにその碑があるとは知りませんでした。


明治41(1908)年に石川啄木が降り立ったのはかつての釧路駅で、その後大正6年に釧路~厚岸間が開通した際に釧路駅は現在の駅の場所に移り、古い釧路駅は「浜釧路駅」と名前を変えることになりました。

 こども遊学館があるあたりもかつての浜釧路駅の敷地で、このあたりに整備されている歩道が実はかつての線路のあった位置を表しているんだそうですよ。




 次に行った幸町公園にはSLが静態保存されていますが、これは日本の鉄道開通100年記念事業の一環なんだそう。SLもあるのは気付いていましたが、じっくり見ることはなかなかありませんでした。

 同公園内にある北海道鉄道記念塔の物語を含めてじっくり説明を聞く良い機会になりました。


    ※     ※     ※     ※     ※




 最後には釧路駅に到着。ここでは駅長さんに、釧路駅を案内してもらえました。

 今は無き雄別線のあった線路跡や、2番ホームの先にあるタヌキの置物などを紹介してもらった後に、今日の目玉はかつてのステーションデパートの跡を見せていただきちょっと感動。




 そう言えばかつて私も旭川の駅の地下に会ったステーションデパートを思い出しました。釧路ステーションデパートは昭和36年に開店して以来43年にわたって営業を行い、平成16年5月30日をもって閉店となりました。

 臨港鉄道の会会長の星さんの手元にはその閉店を知らせるビラの写真もあって見せてくれたので、「どうしてそんなものの写真が手元にあるのですか?」と訊くと、「プロですから」という答え。




 鉄道ファンもプロになると違うものですね。


 釧路のまちなみ探訪、なかなか興味深いものがあります。

 

   【往時を偲ばせるSL】
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台北の新聞記事

2011-08-27 23:45:35 | Weblog
 朝一番で台湾のホテルを出発。今日はひたすら釧路まで戻る一日です。

 台北市内の松山空港は市内から車で15分ほどの近さで便利この上なし。規模は小さいけれど設備はそれなりにそろっているので不便はありません。

 台北からは羽田へ到着、羽田からは国内線に乗りついで釧路まで向かいます。

 羽田までの飛行時間はわずか2時間半くらいなものです。最近の機材の座席にはパソコンの電源を取れる席もあるのだそうです。

 通信こそできませんが、文字を打ち込むくらいなら十分で電源難民としてはありがたいことです。次から飛行機に乗るときは電源サービスを要望しておくことにします。


    ※     ※     ※     ※     ※


 一昨日の台北市長との会談では多くのマスコミが取材をしていたので、もし新聞に記事が載ったら参考までにいただけますか、と台北市観光局の担当の方にお願いをしていました。

 すると昨日の夜にホテルに記事が届けられていました。市当局の素早い対応に感謝です。





 新聞記事の見出しは『北海道のタンチョウ』といった書き方をしているものが多く、北海道の宣伝色が強くなったよう。

 記事の中には釧路市副市長という文字が見えますが、やはり地域ブランドとしては『北海道』の方が分かりやすいのでしょう。

 しかしあくまでも関心の対象はタンチョウなのですから、来月台北市からくる出迎え訪問団などの話題を上手に使って、地域ブランドは釧路や道東という知名度が向上するように努力したいものです。

 しかしそのためには一にも二にも情報発信あるのみで、マスコミが食いつくような話題をどう連続して提供できるか。

 各方面との戦略的な連携を構築しなくては、ね。 
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タンチョウ外交はいよいよこれから

2011-08-26 23:45:35 | Weblog
 台湾でのミッション二日目。昨日の要人訪問は三つの新聞に大きく取り上げられていました。

 台湾での関心の大きさを知る思いですが、さらにその波を大きなものにするように各方面へ働きかけてゆくつもり。そこで今日はまず台湾一の航空会社であるエバー航空を訪問。

 エバー航空は台北と新千歳空港間に定期便を持っているものの、釧路へは乗り入れていません。

 かつてはチャーター便で乗り入れてくれていたものの、現在は大陸の中国との間に路線拡大に忙しく、いくら機材を投入しても追いつかないほどの航空需要があるのだそう。

 そのため比較的需要が少ない日本への路線はどうしても後回しになりがち。ましてや北海道は人気があるとはいえ、台湾から送り込む方には需要が期待できますが日本から台湾への入れ込みはまだ数が限られています。

 我々としては、そんな現状を変えるのがタンチョウの台北動物園デビューであり、日台双方にお互いを訪問してみたいという機運を盛り上げたいところです。

 エバー航空の担当者は、そう遠くない時期に日台では二国間の政府が飛行機の乗り入れについて制限をせず民間活動に任せる「オープンスカイ」に移行するのではないか、と見ているようで、そのためにもさまざまな実績があったほうがよいと言う点では意見が一致しました。

 タンチョウが新しい路線開拓にも一役買ってくれることを期待します。





    *    *    *    *    *


 お昼にフェイスブックで仲良くなっていた台湾の旅行雑誌記者のインタビューを受けました。

 彼女たちはいつでも「新しい魅力は何ですか」という質問をするのですが、幸い釧路の阿寒地区ではこの冬に阿寒アイヌシアターが完成し、来年4月からの供用を控えていて、それを大いに宣伝してくれるようにお願いしました。後で資料を送っておかなくては。

 しかしこんなところでもフェイスブックでのネットワークが使えるのですから、もっと多くの自治体職員はもちろん、一般の市民の方でもこぞってフェイスブックでの人脈作りに努力をしてほしいと思います。

 お金はかからないものの、一人一人の向上心と覚悟と決意にしか期待できず、しかも発言は個人による責任ということになるフェイスブックをはじめとする個人的ネットワークの強化。

 リーダーとしてはこうした世界に身をおく姿を見せるしかないのですが多くの人の共感を得るのは難しいのも事実です。

 私としては「本当に今のままの自分でよいのか」と自問自答する自立する人づくりを目指しますが、他の地域との接触による切磋琢磨が行われなければなかなかモチベーションも沸かないのかもしれません。

 どういう工夫が必要でしょうか。


    *    *    *    *    *


 今日インタビューしてくれた女性のpatさんは、とても上手な日本語を話すのですが、「どこで日本語を勉強したの?留学経験はある?」と訊いてみると、留学経験はなくても台湾の語学学校で勉強して日本語検定一級を取ったといいます。

 日本語を学ぶことが自身の立場や収入を改善させるという明確な目標があれば必死に語学も学ぶことでしょうが、日本人がなかなか外国語を習得しないのはそんなことをしなくても問題ないという日常に暮らしているからでしょう。

 patさんとんの会話ではインスパイアされるところが大きいものがありました。中国語を勉強してみようかなあ。





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 今日はそのほかにも、日本の外務省に相当する亜東協会や政府観光局、さらには一番チャーター便を飛ばしてくれている復興航空を訪ねたりして、タンチョウ外交に努めました。




 今回の台湾訪問ではタンチョウ外交の端緒が開かれたものの、まだまだ開拓の余地は大きく、この小さな炎をますます大きくするようにさまざまな活動をすることになるでしょう。

 今回得られたネットワークも今後大いに役立つでしょう。

 皆さんも日本と日本人が大好きな台湾を訪ねてみてはいかがでしょうか。



  【台湾位置高いビル101タワー】
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台湾での要人訪問

2011-08-25 23:45:49 | Weblog
 朝一番で台湾立法院を訪問。ここは日本で言う衆議院に相当する法律を作る機関のこと。まずはこちらで王金平委員長に会うのです。

 何度も書いているように、王金平さんは大の北海道ファンであるだけでなく、5月中旬に300人の人員を引き連れて北海道を訪問し、重ねて今回送られる鶴を見るために釧路まで足を伸ばしてくださったのです。
 
 駄目元で名刺だけでも置かせてほしいとお願いをしていたところ、なんと30分だけあってくださるとのこと。これも鶴を送り込む自治体からの訪問と言うことで、台湾の札幌分処の特別な計らいでした。

 台湾立法院は官庁街の中でも素朴なレンガ造りの建物。聞けば日本統治下で学校として建てられた建物を利用しているのだとか。どこか懐かしい風景に思えるのはそのためでしょうか。

 会談は9時半から始まりました。王委員長からは東日本大震災へのお見舞いと鶴を贈られることへの感謝の言葉が寄せられました。



   【王委員長との会談】


 私の方からは、「釧路市はもちろん国、道、ならびにニトリさんのご協力で今回のプロジェクトが実現しました。また当地でも受け入れに当たって多くの皆様のご協力をいただき感謝に耐えません」と挨拶。

 さらに「3.11の大震災と津波と放射能問題で日本の観光が大変苦しいときに王委員長が自ら北海道と釧路にお越しをいただき台湾の皆さんにその安全性をアピールしていただいたことは、『苦しいときにこそ本当の友がわかる』という意味の『風雨故人来(フォン・ユー・グー・レン・ライ) 艱難見真情(ジェン・ナン・ツィェン・ヅン・チーン)』という言葉があると聞きました」と重ねて御礼を述べました。

 実際の発音は会場行きのバスの中で通訳さんにどう発音するのかを教えてもらった付け焼刃でしたが、一応通じたようで笑いとともに拍手をいただきました。

 当方としては多額の義捐金をいただいたことを、少々おこがましかったものの国民を代表するつもりで直接お礼を述べることができ感慨無量でした。

 しかし私からの言葉に対して王院長は、「それは1999年の台湾中部大地震の際に日本がいち早く救援隊を派遣してくれたからです。そのときの日本が台湾に対して与えてくれた支援を台湾の人たちは忘れていません。おまけに台湾は日本が大好きです。だからこそ、今度は我々が支援する番だ、という機運が高まったのですよ」とおっしゃってくれました。

 双方が互いの困難に支援しあってお互いに感謝しあう輪が広がっていたのです。私も台湾の大ファンになりました。



   【王委員長へのプレゼント】


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 立法院訪問を終えた後はちょっとあわただしく中華航空と五福旅行社を訪問してから台北市役所へ。

 台湾での要人会談の二人目は台北市の�皖(ハウ)市長さんです。これもまたタンチョウゆえの特別の計らいに他なりません。



   【ハウ市長と後ろの女性が趙局長】


 �皖(ハウ)市長さんとの会談では来月釧路へ来るという趙局長さんも出迎えてくれましたが、驚いたのは会談の様子を撮影するマスコミとカメラの数の多さで関心の大きさがわかります。

 こちらではビッグとキカの大きな歓迎看板が立てられた中で市長さんと、互いにお礼を述べ合う型どおりのやり取りがなされましたが、サプライズはビッグとキカの台北市名誉市民証が贈られたこと。

 台北市では私たちのような訪問団でも機会を捉えて、既に二羽のタンチョウを迎え入れる喜びと準備が盛り上がっていることを感じさせます。


   【ビッグとキカに台北名誉市民証が贈られました】


    *    *    *    *    *


 感心したのは、今日お会いできた、来月釧路へタンチョウを迎え入れるツアーで訪問する予定という観光局長の趙さんは、なんとタレントの「ほしのあき」さんに似た若くて美人の女性だったこと。

 会話の中で、なんとこの方は人気のテレビキャスターだったのが市の観光振興のためにヘッドハンティングされて局長に就任されたのだと知りました。

 訪問団の一人が「映画の女優さんのように美しいですね」と褒めると、脇から「女優は可愛ければなれますが、テレビキャスターは頭もよくないとなれませんからね」という説明がなされましたが、ちょっと顔を赤らめる表情もまあ魅力的。

 この方が来月釧路を訪れてくるというのですから、マスコミにも多いに取り上げてもらえることでしょう。

 今はとにかくタンチョウに関してはあらゆる機会を通じて話題が盛り上がるように努めるべきで、台北での盛り上がりとともに道内、日本国内での盛り上がりを演出したいものです。


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   【台北動物園は東洋一の規模なんだそうです】


 午後は台北動物園も訪ねてビッグとキカが暮らすケージを見てきました。エアコンもついたケージで釧路動物園からのアドバイスもあって工夫されています。

 ここでたくさんの台湾の人たちに可愛がっていただきたいところです。


 明日は復興航空と台湾の観光局や亜東協会を訪ねます。
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台北駐日経済文化代表処を訪問する

2011-08-24 17:19:24 | Weblog



 午前中に台湾の大使館に相当する台北駐日経済文化代表処を訪問。

 明日からの台北訪問に際していろいろご尽力いただいたお礼などを申し上げるのと、釧路における今後の日台友好への協力についての意見交換ができました。

 実は明日からの台湾訪問では、王金平台湾立法院委員長にお会いできるということになっていて、昨日まで言っていた意外な高官というのはこの方のこと。

 王金平委員長は、今年五月に300人の訪問団を引き連れて北海道を訪れ、さらには「今度送られる鶴を見たい」ということを理由に、自ら足を伸ばして釧路まで着ていただきました。

 台湾には「風雨故人来、艱難見真情(困難なときにこそ人の情けを見る)」という言葉があるそうです。

 まさに日本の観光が放射能問題で苦しんでいるときに自ら訪問することで台湾の人々にその安全性をアピールしてくださったわけで、日本としては感謝に耐えません。

 そのため、訪台にあたっては札幌分処にお願いをしてダメ元で会えなくても御礼の訪問だけはしたいと伝えていたのですが、なんと会えるように手配をしてくださったのです。これは実にありがたいことです。

 王委員長に会えるというのは効果てきめんで、今日の代表処訪問でもはじめは政務担当部長が対応してくださるとのことでしたが、急遽いわゆる大使に相当する憑寄台代表が会ってくださることになりました。




 
 憑代表は大柄な方で堂々たる押し出しの方。さすがは一国の代表者です。

 会談の中では王委員長のことも話題になり、「明日お礼に伺いますが会えることとなりました」と言うと、「彼は本当に日本が大好きなんですよ。5月に北海道と釧路へ公式訪問をしましたが、なんとその後にプライベートでも北海道に旅行をされているんですよ。先日帰国したときに私も会いましたが夜遅くまで飲んでずいぶん酔っ払いましたよ」とのこと。

 これで王委員長に会ったときには憑代表のことも話題にできるというわけです。こうしてひとつずつ話題を積み重ねてゆくのです。


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 憑代表のお話では、李登輝~陳水扁政権の民進党政権時代は大陸の中国との人的、経済的交流を制限する政策を取り続けたために関係がぎすぎすしていましたが、親中派と言われる馬英九総統による国民党政権になってからは中国も対決姿勢を和らげてさまざまな交流が進んだと言います。

 その代表的な例が札幌に分処を開設できたことで、これとて中国が了解をしなければできなかったことなのだそうですが、現政権はそこを上手に折り合いをつけています。

 台湾は現在世界一の少子化の道を歩んでいるそうで出生率は1.0に満たなくて、子供が極端に減って大学の学生も少なくなっているところですが、そこに中国本土からの留学生が非常に多く来ているとのこと。

「そのことで同じ時期に建国をした両国を、多くの中国の若者が見比べることができています。方や自由の国になった台湾の現状と、方や共産主義を掲げた自国の現状はどうであるかを目の当たりにするのです。若者はどう思うでしょうか」

 またビジネスの例が典型で、台湾のビジネスマンは約120万人が大陸に住んでいるのだそう。「台湾の人口は2,300万人ですが国の中にいるのは2,200万人ですよ」と憑代表は笑います。

「武力でも経済締め付けでも政治でも台湾をやっつけることはできませんでしたし、そのことで台湾の中に反中の意識が強くなっていることを中国も意識せざるを得ないところまできています。ですからビジネスと観光による交流は台湾にとっても安全を最も保障する交流なのです」

「台湾と日本との貿易では、台湾は日本から5千2百万ドルの輸入をしていますが輸出は千8百万ドルと圧倒的な貿易赤字です。また観光でも、台湾からはたくさんの人が日本を訪れますが日本から来る観光客はまだまだ多くはありません。これらももっと改善したいところです」

「中国も立場がありますから台湾との交流となるといろいろと注文をつけてくると思いますが、どうぞ大人の対応をしていただいて、台湾との交流をさらに進めましょう」

 非常に有意義な会談ができ、明日からの台湾訪問にも弾みがつきました。

 タンチョウの力とはいえ、随分盛り上がってきています。この流れを上手に使わなくては。


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上昇気流

2011-08-23 23:45:47 | Weblog
 午前の飛行機で羽田へ到着。午後から横浜~東京で客船クルーズ会社さんを巡っての営業活動を始めました。

 豪華客船によるクルーズ観光ではその土地ならではの魅力あるイベントなどに充てると、自前でお金をかけて楽しみを用意する必要がないので助かるとのこと。

 釧路では7月下旬の霧フェスティバルや9月上旬の大漁どんぱく、またそこでの三尺玉花火などを紹介したところ、港で花火大会などを行う町は結構あるけれど魅力のひとつではあるのだとか。

 しかし港湾区域で花火をするとなると海上保安部によって港湾内は航行禁止となる時間帯があるため、その時間帯をどうするかが課題。

 日中は市内のイベントを楽しんで、夜に花火を見てから出港という例もあり、まずは先方で検討をしてみてもらうことにしました。

 一隻入港すると1~2千万円ほどの経済効果が期待できるというクルーズ船。地域の魅力づくりが欠かせません。


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 明日の夜の飛行機で台湾入りして、明後日の木曜日と金曜日が台北市内で関係者との意見交換です。

 釧路としては、何しろ国外不出のタンチョウを贈ることの先遣隊という意味もある今回の訪台です。

 台北駐日経済文化代表処札幌分処という札幌での出先事務所を頼りにできるだけ多くの方とお会いしたいとリクエストをしていましたが、札幌分処が台北市とも相当掛け合ってくださったようで、相当の高官との会談が期待できそうだ、という連絡が入りました。

 ひとたび高いレベルの方と会えれば、一定のレベルが認識されて、それならという連鎖反応が働き、思いのほか自分自身のレベルが上がるということがあります。

 掛川でお世話になった榛村さんは「イベントを仕掛けたときに、ちょっとしたきっかけが次のきっかけを呼び、どんどん話が大きくなることがあるんだ。まるで上昇気流が発生するようなものでね」と言っていました。

 掛川でのスローライフなどもそんな感じ。あるマスコミが取り上げると他社も黙っていられず、みんなが記事にしてくれるなんてことだってあるのです。

 ちょっとしたことをいかに大ごとにして上昇気流を生み出せるかが勝負。

 今回の訪台がタンチョウに関する上昇気流を生み出せるように頑張りたいところです。
 
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今年の冬はタンチョウで

2011-08-22 23:45:45 | Weblog
 準備を進めているタンチョウペアを台湾へ送ろうという「サルルンカムイプロジェクト」。家具販売のニトリさんの支援をいただきながら順調に進んでいます。

 特別天然記念物であるタンチョウを国外へ送るというのは至難と思われましたが、環境省から域外繁殖事業という名のもとに実験的に繁殖を試みる事業として認められ、このたびペアのタンチョウを台湾へおくることができるようになりました。

 台湾は今年の十月十日が建国百周年記念ということで、建国百周年の記念イベントが数多く行われますが、その中でも長寿のシンボルであるタンチョウが大好きな日本から贈られるというので喜びに包まれています。

 しかしながら動物を国外へ持ち出すというのは大変なもので、送り出す日本側での検疫を行ったうえで受け入れ側の台湾でも検疫に日数をかけておかしな病気が入らないように万全を尽くします。
 
 日台お互いが協力し合って間違いがないように慎重に進めているプロジェクトです。

 タンチョウのペアは来月の11日に釧路動物園で送る会を開いて、その後検疫に入りますが、なんとこれに合わせて台湾から市政府関係者が迎え入れるためのツアーで釧路まで迎えに来るかもしれないという情報が入りました。

 しかも市政府の高官の外にマスコミが数十人同行してくるとのことで、思いのほかに大ごとになりかけています。

 これは釧路や道東にとっては大チャンスなので、さらに大ごとに仕掛けてやろうと画策中です。

 世間の目を釧路、道東に向けさせる大きなチャンスなのでこれを最大限に活用しようではありませんか。


    ※     ※     ※     ※     ※



 しかも私自身、明日から週末にかけて東京、そして台湾へと出張が入っています。

 明日と明後日は東京でクルーズ船観光への営業回りで、明後日の夜に台湾の台北入り。

 木曜日と金曜日は台北市内で、航空会社訪問をするほか台北市政府(台北市役所)を訪問して観光局長にお会いします。上記の来月訪釧されるという方にもお会いできるように台湾の札幌分処を通じて現地とのアポを依頼しているところです。

 また釧路から旅立つタンチョウのペアのビッグとキカが迎え入れられる台北動物園を訪問し、タンチョウのご縁を学術交流に発展させることについての意見交換をすることにしています。

 こちらとしては門外不出のタンチョウを始めて国外に送り出すのです。尊大になりすぎる必要はありませんが、簡単に受け止められてはつまりません。

 十月にタンチョウのペアが台北動物園にデビューするときは道庁の高橋知事と蝦名釧路市長も現地に飛ぶことになっていますし、地元釧路からもツアーで応援に行こうというプロジェクトが進行中。

 十月末には北海道横断自動車道が難所だった夕張~占冠間で開通をするということもあって、今年の冬は世間の目が道東に向く大きなチャンスです。

 今回の訪台はそんな道東プロジェクトのための露払いでもあります。

 それではちょっと行ってきます。


   【台湾用の名刺もできました】 
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