地域には地元を振興しようといろいろな会が作られて、様々な活動が行われています。
ボランティアの環境整備から、地元の意識を高めるような勉強会、地域にいろいろなインフラ整備を求めるような要望活動など、実に多岐にわたります。
それらは始まってから長年にわたって熱心に続けられているものが多いのですが、次第に参加者の年齢が上がってきます。
リーダーも高齢化してどこかで世代交代を考えるようになります。
そうしたときに構成員の新陳代謝がうまく進めば良いのですが、熱心な会ほど構成員の連帯と紐帯が強くて、後から参加した人たちがその輪に入りづらくなるということもあります。
結果的に、思いが強く熱心な人たちの集まりであるほど、構成員の新陳代謝が進まなくて構成員の平均年齢が年々上がり高齢化、やがて会員が減って行き、会の活動も低迷してゆくというのが悲しい筋書きです。
例えば「次世代に譲る」と称して、会長の座を若い人に譲ったとしても、初期のメンバーが残っていると自分たちの活動との温度差を疎ましく思ったり、逆に任された若い世代の人たちも、活動に常に目を光らせている上の世代がいるとうっとうしく感じることもあるでしょう。
次世代に委ね、任せたのなら、上の世代はもうそれ以降は会の活動に絶対に口を出さないことです。
若い世代から敢えて質問や意見を求められたらなにがしかのアドバイスをすることはあるでしょうが、求められもしないのに意見や文句を言っているようでは、新陳代謝は進みません。
そもそも、構成員の世代が変わるのと同時に、課題の質も変わっているでしょうし、社会情勢も変わっています。
なにより構成員の世代が変われば考え方や行動様式、使う道具だって変わります。
何もかもが次第次第に変化している中で、創業の時の思いだけが変わらないというのは柔軟性に欠けてゆきます。
会そのものの継続が目的化してゆくのも考えものです。
なんのための会だったのか、始まった当時の思いや課題は、現在の時世に照らしてどのように変わってゆくべきか。
それらも全て次の世代に委ねなくてはなりますまい。
初期に会を率いた人たちの目から見ると、次世代はどことなく熱量が少なく、頼りなげに見えるものです。
いつの世も年寄りは「今の若者は…」と言われながら育ってきたのですから。
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自然の野山に生えている植物は長い年月の中でその構成種や個体数が変わってゆきます。
これを植生の遷移と言います。
火山の噴火や火災などで現状の植生群落のない場所ができると、そこには様々な植物が入り込んでゆきます。
初めには地衣類や苔など土壌に栄養がなくても育つ植物が入りやがて草本類、樹木類などが生えてくるようになります。
また条件によってはシラカバやヤナギのような陽の光を好む陽樹の種が入り込み一気に陽樹林になるようなところもあります。
しかしそれらもやがては自らのつくる木の陰に、陽の光がなくても育つ樹木(陰樹という)が入り込み、植生が変化してゆきます。
こうした植物群落の遷移では、草そのものが木になることはありません。
陽の光が好きな樹木が、日陰でも育つようになることもありません。
群落で見ると、草は樹木に淘汰されて無くなって行き、陽樹は陰樹に押されて次第に勢力を失ってゆきます。
すなわち、自らが変化するのではなく代替わりによって群落がその時代の環境にマッチしてゆくという移り変わりを示すのです。
人間の集団である社会も、同じように年寄りが若者になることはありません。
年寄りはその役割を終えれば、好むと好まざるとにかかわらず新しい世代にとって代わられるだけのことです。
次の世代が前の世代から何を受け継いでくれるのかも全世代がコントロールできるものではありません。
ただ見守るだけ、いざというときには盾になって守るということで十分ではないでしょうか。
「世代交代は難しい」と言いますが、交代してしまえばそれだけの事だったりもするものです。
自分たちの役割がいつまでのことなのかの見極めが一番難しいのかもしれません。