goo
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

「竹下村誌稿」を読む 146 竹下村 6

(散歩道のアジサイ3)

一見、アジサイらしくないが、これもアジサイである。

新聞によると、昨日の戦闘機らしき編隊機影は、航空自衛隊静浜基地の航空ショーのものであった。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この記事によりて見るも、本村草創の状況は略々想像し難きに非ず。然るに掛川誌嶋村の条に、

嶋及び番生寺、竹下、牛尾、横岡の新田を志戸呂五ヶ村と称す。古えは大井川、牛尾山と横岡の間を流れ、下は金谷の河原町の経て、東南、島田の方に至りしを、天正中(1573~1593)、山を裁断して本州に属し、河を山と相賀の間に流し(牛尾山は旧駿河相賀より続きたる山なり)、北、横岡より、南、金谷河原町の間、大井川の趾を開墾して田地とす。元和中(1615~1624)、中野七蔵御代官にて、専らその事をなさしむと云う。

それより以前は、大井川の西岸、ただ志戸呂、横岡、金谷の三村あり。志戸呂は古えの郷名なり。金谷は遠江風土記に云う金峡にして、中古よりの宿驛なり。横岡もまた志戸呂郷の一村にて古き村なり。故に五ヶ村と犬牙相接すると云えども、新たに開墾したる村里にあらずと知るべし。
※ 犬牙(けんが)- 犬のきばのように、互いに食い違ったり入り組んだりしていること。

この五ヶ村開墾の初め、元和中、御代官中野氏、百姓一軒に屋舗分上畑三畝ずつ与えて、新田を開墾せしむ証文、今なお存せり。その後田畑次第に開け、戸口も多く加わりて、寛文十年(1670)二月廿五日、御代官長谷川藤兵衛検地の時に至りて、この村(嶋村)の屋敷五十軒、新屋敷十三軒あり。他の四村も大概、今の三分の二に及べり。初め、五箇村開墾の時、他州の人も来り住せしと云えども、金谷より多く開きたると見えて、竹下村、寛永中(1624~1645)免定に金谷新田の内、竹下村とあり。
※ 免定(めんさだめ)- 江戸時代の年貢の賦課率。

と云えり。されど「金谷より多く開きたると見えて、竹下村、寛永中の免定に金谷新田の内、竹下村とあり」と云えるは首肯し難きが如し。初め五箇村の開墾は天正以後に於いて、金谷と相前後して着手せしものなり。特に隣村横岡の内、大蔵新田は天正以前の開発なりと云う。

この時代は金谷は(つと)宿驛となりて、その名も世間に聞こえしかば、その付近を泛称して金谷と云い、新開地を金谷新田と呼びたりと云う。しかも牛尾の一部は最も古きにして、人文も発達し、真言の寺院(養光寺)さえ存在せし程にて、慶長六年(1601)、代官伊奈忠次より牛尾養光寺(今、曹洞養福寺)へ与えし黒印に、金谷の内、潮村とあるにても知るべし。
※ 夙に(つとに)- ずっと以前から。早くから。
※ 泛称(はんしょう)- 同類のものを一まとめにしていうこと。総称。汎称。


(慶長)八年(1603)、金谷新田の内、金谷にて開きたるものを河原町と称したりと云えり。本村、またその付近の新墾地なれば、金谷新田の内と称したるまでに過ぎざるべし。


読書:「美雪晴れ みをつくし料理帖」 高田郁 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「竹下村誌稿... 「竹下村誌稿... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。