平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
はまつゝ羅抄 安倍紀行 12 遠藤新田

昔、関与したお茶屋さんに行って、200枚ほど、コピーをさせてもらってきた。これで、読む準備が整った古文書が11冊になった。まあ、すべてを読むには一年以上掛かるだろう。
午後、菊川市立図書館に出掛けた。初めて訪れたが、隣町の島田市住民には貸出が出来ると親切に案内していただいた。出向いた目的は、掛川にあった古文書「遠州高天神記」全4巻で、掛川図書館に欠けていた第2巻が菊川に無いだろうかと思ったからで、目的の本は見つからなかったが、「秋葉街道似多栗毛」という本を見付けた。森町で見付けたもののコピーだったが、著者が多分「五辺舎半九」で、まあ人気に便乗した偽物なのだが、十辺舎が足を向けなかった、秋葉街道の材を取って、現代からみると、それはそれで面白そうで、いつか読んでみたいと思った。
さて、「安倍紀行」の解読を続けよう。
・遠藤新田里長の許に訪れけるに、年若き主人出会いけるまゝ、種々古跡など尋ねけるに答えて云う。この里はむかし中の郷の地先にて、某が先祖開発して、こゝに住みて遠藤新田とは申すなり。
我らが先祖は、甲斐武田氏の幕下にて、その先遠藤伊勢守正保といえる者、天文十五年、信州戸石城合戦の時、軍功ありて感状を賜い、嫡子尾張守正則は川中島合戦に穴山殿と同じく討ち死になり。
正則が弟、伝蔵正忠は、勝頼侯に仕えける時に、天正十年、平信長公の為に、勝頼主天目山へ落ち給いけるとき、妹君お市殿を不便に思われけるにや、正忠に付与して落さしむ。お市殿を伴い潜かに、甲斐、駿河の界なる、成島村の多屋といえる所に、かくれしのびありける。
※ 成島村 - 山梨県南部町、十枚山の山梨県側からの登山口。安倍郡には十枚山を越えて入ったと考えられる。
甲陽亡びて後、平信長公も明智日向守が為に、本能寺にて殺され給いけるの後、伝蔵正忠、駿河国安倍郡中の郷にしるべありしかば、この国へ下りける。召しぐしたる僕等、この処を開発して、終にこのところにわび住居しける。
お市殿の腹に、二人の男子あり。兄を五太夫正勝と云い、弟を兵右衛門正全と云う。成人の後、兵右衛門は国府に出で、中納言頼宣に奉仕して、紀伊国に行く。五太夫は遠藤の家督にて、今我らまで十代を経たりと物語りける。
※ 中納言頼宣 - 徳川頼宣、家康の十男。駿河国駿府藩を経て、紀伊国和歌山藩の藩主となった。紀州徳川家の祖。
遠藤新田は安倍川沿いの河原だったところに新田を開いたものと思われる。安倍川土手に仕切られて、さほど広いところではないが、現在も田んぼが広がっていた。見渡しても、歴史を感じられるものもなくて、遠藤新田より山寄の中ノ郷の方に遠藤家はあったのだろうか。
武田勝頼の妹、お市。信長の妹、お市の方には負けるが、このお市も数奇な運命に翻弄された女性である。詳しく調べた訳ではないが、その名前をどこにも見出せなかった。敗軍の将の妹であれば、名を残さないほどであったからこそ、駿河の山村に居て、生き延びることが出来たのであろう。
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(静岡の)遠藤本家は中ノ郷60あたりだと思います。
信玄の感状や当時の甲冑(子ども時分拝見しました)があると思います。