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道聴塗説 その八 10

(庭のワスレナグサ)

去年種が落ちたものだろう。春を忘れずに。芽を出して花を付けた。

午後、雨の中、駿河古文書会に出席した。今日は総会であった。帰りに、3000円の金券が手元にあったので、静岡パルコで弁当、総菜、デザートを買って帰った。今日、天皇ご夫妻がスペイン国王と静岡を訪れると言い、市内では警備のためか、警察車両が多くみえた。

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「道聴塗説 その八」の解読を続ける。

また弥陀の第十七願には、「十方世界無量諸仏不悉咨嗟稱我名者不取正覺」と誓い給えり。願成就の文には、萬(よろ)ずの仏に誉められ喜び給うと見えたり。少しも疑うべきにあらず。
※ 十方世界無量諸仏不悉咨嗟稱我名者不取正覺 - 十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称(たた)えずんば、正覚を取らじ。
※ 無量(むりょう)- はかることができないほど多いこと。
※ 咨嗟(ししゃ)- 讃嘆の意で、ほめたたえること。
※ 正覚(れい)- 仏の正しい悟り。最高の悟りの境地。


これは「如来と等し」と云う文どもを表わし、信ずるなりと仰せられたれば、弥陀は諸仏に誉められ喜び給い、行者も諸仏に誉められ喜ぶ故に、これを如来と等しとなり。この旨にて讃文を解せば、御書に「信心を得て事に喜ぶ人を」とあるは、讃文の「他力の信心得る人を」と云う意なり。

次の釈尊の御言(みこと)には、「見敬得大慶則我善親友」と説き給えりとあるは、讃文の「敬い大きに慶べば」より下の三句なり。然れば、讃の第四句を第二句に移せばよく聞こゆるなり。「他力の信心得る人を 教主世尊は誉め給う 敬い大きに慶べば 即ち我が親友ぞ」と、これ一義なり。

またこの三首の讃は、もっぱら師主の恩徳を歎じ給う。如来大悲の恩徳ともあれども、これは師恩を仏恩に並べて歎じ給うとて仰せられたり。これ故に、初めに「三朝浄土の大師等」と標章し給う。されば、他力の信心得る人はかの三朝浄土の大師なり。その上には、広く一切の念仏の行者に通じて仰せられたり。
※ 歎ず(たんず)- 感心する。感嘆する。
※ 標章(ひょうしょう)- しるし。


経に「見敬」とあれども、今世に仏に値遇し奉る事なければ、念仏の信者は如来と等しければ、これを見て敬うと云う意なり。また「見」の字は、過去の仏を見るにすれば、今は行者を敬うには、見仏の意を存して、見仏の言葉は要らぬこと故に、「見」の字を省いて、ただ「敬い大きに慶べば」と仰せられたり。これ「他力の信心得る人を如来と等し」と示し給うゆえに、仏恩と師恩と並べて、粉骨摧(砕)身の報恩を勧進し給う。
※ 値遇(ちぐ)- 縁あってめぐりあうこと。特に、仏縁あるものにめぐりあうこと。
※ 勧進(かんじん)- 人々に仏の道を説いて勧め、善導すること。


かくの如く心得るは、経文の顕説には非ずといえども自力の信を貶(おとし)めて、他力の信心褒め給うに付いて、全く如来と等しければ、師恩と仏恩と並べ給へり。これ念仏三昧の法にある恭敬の儀なるべし。
※ 顕説(けんせつ)- 浄土真宗で、顕著に説かれている教義。(⇔隠彰)
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