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道聴塗説 その九 4 及び その十

(庭の黄色のビオラにアケボノセンノウが一輪混じる)

一転して、快晴で暖かくなった。桜も満開になったことであろう。大代川には早くも花筏が流れていた。

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「道聴塗説 その九」の解読を本日で終る。

然るに、宿善開発する機の験(しるし)には、善知識に逢いて開悟せらるゝ時、一念疑心を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざる事は、光明の縁に逢う故なり。もし光明の縁、もよおずば、報土往生の直因(じきいん)たる名号の因を得べからず。云う意(こころ)は、十方世界を昭(照)曜する無量光遍昭(照)の明朗なるに、昭(照)らされて、無明沈没の煩惑、漸々にとら(蕩)けて、涅槃の直因たる信心の根芽、僅かに兆す時、報土得生の定聚の位に住す」云々とあるこれなり。
※ 無明(むみょう)- 迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。
※ 煩惑(はんわく)- 煩悩のこと。
※ 定聚(じょうしゅ)- 正定聚。真宗では,浄土往生が決定している他力念仏の行者をいう。


その十
一 問う。当流には、四修の中に恭敬修を専安(要)とし給うは如何なるぞや。
※ 四修(ししゅ)- 浄土教において行を修める四つのしかた。
恭敬修 - 阿弥陀仏とその聖衆を恭敬礼拝すること。
無余修 - 専ら仏の名を称え他の行いを雑えないこと。
無間修 - 行を間断させず、また煩悩をまじえないこと。
長時修 - 恭敬修・無余修・無間修を命終るまで修めつづけること。


答う。四修の軌則はいずれ取捨あるべき事に非ず。その故は、一心専念には余念間雑する事なきは無間修なり。但し、聖人(親鸞)は凡夫として、念々の称名に、他の想なき事は、とても成し難ければ、ただ、疑蓋、雑(ま)ざること無きの義を取り給う。縦令、声々の中に、貪瞋等の心、間雑して起るとも、最初一念より臨終までの念仏に疑惑を ‥‥
※ 軌則(きそく)- 守るべき物事の規範。のり。
※ 間雑(かんざつ)- 雑然と混じり合うこと。
※ 疑蓋(ぎがい)- 蓋はおおうの意。疑いは真実をおおいかくすので疑蓋(疑いのふた)という。
※ 貪瞋痴(とんどんち)- 数ある煩悩の中で「貪りの心」「怒りの心」「愚痴の心」の三つを、人間をいちばん苦しめる毒薬という意味で「三毒」とよんでいる。


    宝暦六年丙子暮秋
    十一月廿三日      沙弥弁隆
                  謹写
※ 暮秋(ぼしゅう)- 秋の終わり。秋の暮れ。晩秋。
※ 沙弥(しゃみ)- 剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者。


「その九」で終りかと思っていたら、最後に「その十」らしき部分が始まり、尻切れトンボで終ってしまった。落丁したわけではなくて、書写した人が、理由は判らないが、そこで終わってしまった。写す元の本が落丁していたのかもしれない。

およそ2ヶ月にわたって解読してきたが、最初の思惑と違って、これは浄土真宗の教義の解説書のようなものであった。他力本願、悪人正機説など、おぼろげながら、少しばかり理解できたような気がする。中々仏教は奥深くて、しかし、案外面白いかもしれない。
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