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「石雲院領庄屋並び惣百姓へ申し渡す條」

(土手のオニユリ)

先週土曜日、金谷宿大学「古文書に親しむ」の第2回講座へ出席した。

幾つか短い文書を解読したが、その中で珍しいので、可睡斎が石雲院に対して出した「石雲院領庄屋並び惣百姓へ申し渡す條」という文書を取り上げてみる。いつものように書き下した文を示す。

  石雲院領庄屋並び惣百姓へ申し渡す條
一 一山大小の事、御公儀御書き出しは勿論、並び五派の指揮を堅く相守るべきこと
一 年貢並び諸役など、遅滞なく厳密に相務むべきこと
一 領内庄屋、組頭並び惣百姓、各自の職分を守り、現住五派並び惣門葉の寺院に対して、無礼いたすべからず、もっとも衆評の外、新條行うべからざる事
   右件の條々、違背せしむに於いては、沙汰いたすべきものなり
    正徳五乙未年(1715年)
      極月九日     可睡斎   名印
              高尾石雲院  五派中

※ 惣百姓 - 江戸時代、本百姓のこと。
※ 五派 - 中国における禅宗の五つの宗派。臨済・曹洞(そうとう)・潙仰(いぎょう)・雲門・法眼(ほうげん)。五派。
※ 現住 - 寺院の、現在の住職。
※ 門葉 - 一門につながる人々。
※ 衆評 - 多数の人々による話し合い。大衆の評定。
※ 沙汰 - 物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。裁定。
※ 極月(ごくげつ) - 12月の異称。しわす。ごくづき。

意味が解らない言葉には注を付けたが、いま一つ理解できない部分も残る。

正徳五年(1715)当時、ここへ名前の出てくる可睡斎石雲院のそれぞれの古刹が置かれた立場を示しておく必要がある。可睡斎は幼い家康公を戦乱から救ったことがあり、家康が長じてから帰依を受け、幕府より駿河・遠江・三河・伊豆の4ヶ国の僧録司(そうろくす)という職(禅宗寺院組織の取締りの職)に任ぜられてきた。だから、可睡斎は石雲院を取り締まる立場にあった。

時代背景をみると、翌年に7代将軍家継がわずか8歳でなくなり、8代将軍吉宗になる、その前年である。江戸幕府も開府後100年経ち、将軍も幼くて、統治システムの色々なところにガタが来ていた時代と思われる。

「申し渡す條」を逆読みすれば、年貢が遅滞したり、諸役がいいかげんになったり、寺院に対して無礼な振る舞いがあったり、勝手に新しいルールを作ったりといったことが目に付くようになったのであろう。

この文書はあくまでも石雲院へ出した文書で、申し渡すべき庄屋や惣百姓へは石雲院から伝達することになる。この文書で、僧録司の役割の一端を知ることが出来た。
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