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仏教伝来と地方への波及

(マリーゴールドにとまるベニシジミチョウ、花も蝶も少し草臥れている)

「島田金谷の考古学と歴史」の第2回講座に午後出席した。本日のテーマは「竹林寺廃寺と鵜田寺 -伽藍仏教と草堂薬師信仰-」で、日本に仏教が伝わって、寺院が建設され、それが地方へ波及する様子を地方史から見る、と言うのが本日のテーマである。

日本に仏教が伝わって、崇仏派の厩戸皇子(後の聖徳太子)と蘇我馬子は、旧勢力の物部氏との戦いに、寺塔建立を約して仏教に加護を求め、勝利した。587年、皇子らは難波に四天王寺を造立し、さらに馬子は飛鳥に法興寺(飛鳥寺)、皇子は斑鳩に法隆寺(斑鳩寺)を建立する。

588年には百済より「仏舎利」が献じられ、それ以前に、僧、寺工、鑢盤博士、瓦博士、画工といった寺を築く技術者が派遣されていた。彼らが中心になって四天王寺、法興寺、法隆寺は建立されたと思われる。

百済では577年に王興寺が造立された。近年、証拠の舎利容器が発掘されて創建時期が早くなった。その結果、飛鳥の法興寺が百済の王興寺を追いかけるように、同系統の技術者によって造立された可能性が強まった。瓦など出土品の類似性や寺名も似通っていて、その可能性を示唆している。

その後、663年、百済救援に出兵した白村江の戦いに敗れ、戦死者の供養や抑留者の抑留中の祈願などで、寺院造営熱が高まった。685年、天武天皇の詔で、諸国の家ごとに仏舎をつくり、仏像および経典を置き、礼拝供養が命じられた。一方でこの時期、渡来人が自らのために建てた氏寺も少なくない。

白鳳期の靜岡県の寺院としては、三島に市ケ原廃寺・塔ノ森廃寺・天神原廃寺、沼津に日吉廃寺、清水に尾羽廃寺、磐田に大宝院廃寺、浜松に木舟廃寺がある。この「〇〇廃寺」は寺院跡が残るが、寺名が解らないもので、その地の字名などで呼ばれている。寺名が解れば「××寺跡」と呼ばれる。

奈良時代になって、鎮護国家を願う聖武天皇により、741年、全国に国分寺建立の詔勅が出された。総国分寺として東大寺の大仏建立の発願もなされた。その頃にはすでに全国に700ヶ寺の大小の寺が成立していたことが、近年の発掘調査で明らかになってきている。

奈良時代の靜岡県の寺院としては、三島に伊豆国分寺・六ノ乗廃寺、大仁に宗光寺廃寺、富士に三日市廃寺、靜岡に片山廃寺(駿河国分寺?)、菊川に加茂廃寺、掛川に六ノ坪遺跡、森に平戸廃寺、磐田に遠江国分寺・寺谷廃寺(磐田寺?)・鎌田鍬影遺跡(大草寺?)、島田に竹林寺廃寺・宮上遺跡出土螺髪が上げられる。
(竹林寺廃寺と鵜田寺については後日続く)
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