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靜岡古文書講座のあとで

(たけ山に沈む夕陽 - 酷暑の1日が暮れる)

第2回目の靜岡中央図書館の古文書解読基礎講座を受講した。その帰りに、バス停で待っていると、自分より一回り年嵩の男性に、どうして、こんな嫌な文書ばかり取り上げるのだろうか、と話し掛けられた。古文書にはもっと美しい話もたくさんあるのに、どうしてこんな話ばかり選ぶのだろうという。半分もっともであったが、しかし、偶々重なったのだろう、と弁護していた。

前回は、「子供の間引きの話」と「18人の親戚一同が餓死した飢饉の話」で、今回の中には「捨子が死んだ話」が入っていた。講師はその度に、怖い話で申し訳ないけれども夏向きだから、と言い訳をした。言い訳にも関わらず、解読した文書は、背筋も凍る怪談のような怖い話ではなくて、聞いた側の気がめいるような暗い話であり、講師の言葉は言い訳になっていないと、自分も思っていた。

それぞれの話は遠い昔の江戸時代のことだからと割り切れない部分もある。少し話をアレンジすれば、現代の三面記事に出ていても違和感がない話である。それよりもっと不条理な話が幾らでも探せると思った。

かの男性は、今日レポートを提出して講師に抗議した、とA4一枚の手書きのレポート用紙を見せた。

前回万葉仮名の説明の際に、まだ仮名がない時代、歌い継がれた万葉歌を集めて文字にするときに、漢字の音だけを借用して、万葉歌を表現した。それが万葉仮名と呼ばれるもので、万葉仮名の一つ一つの漢字が持つ意味は無視されると説明があった。

かの男性の抗議は、ある枕詞があとへ繋がる歌意に応じて、ふさわしい万葉仮名が選ばれている例を示して、決して漢字の意味が無視されているわけではないという、近年の研究成果を主張したものであった。

講師のいう話は、万葉仮名は音だけを借用したもので、漢字の一字一字の意味を追いかけてみても意味がないことを説明したもので、自分も納得して聞いていた。もちろん、かの男性の主張する話も知らない訳ではなかった。

万葉集の選者は漢字の音だけしか知らないわけはなくて、漢字の意味についての知識も十分にあった。だから、選者がたくさんある万葉仮名から文字を選ぶときに、歌の意味に近いイメージの漢字を選んだであろうことは容易に想像できる。現に細かく当っていくとそのような選択がされたと思われるものも多い。しかし、だからといって、万葉仮名で表記された歌意を理解するために万葉仮名の本来の意味を加味しなければ理解できないわけではない。講師の話はそういう意味で納得できる話である。

かの男性もかつては教育に携わってきたような人なのだろうと思った。たくさんの知識は持っているけれども、こんな抗議をするようでは知識がまだ生で、教養にまで熟成していないと思った。
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