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「汐風」 - 喜三太さんの記録

(庭のムクゲが咲きだした)

本日は靜岡中央図書館へ行き、古文書解読基礎講座の初回を受講した。この講座の受講は昨年に続いて2年目である。週一回で夏に集中して9回行われる講座である。今日の教材が暗く余りに強烈なので、ブログでは取り上げないことにした。その代わりに昨日の我らが「喜三太さんの記録」から一つ取り上げる。「汐風」と題した、これも自然災害の話である。例によって解読して書き下したものを書き込む。

汐風
天保七(申)年八月十三日甲子の日、朝より雨天のところ、夕方より東風つよく空赤くして、追々大風と相成り、初更の頃、南風吹き荒れ、大木を祓い、石を飛ばし、家を潰す、漸々(ようよう)二更の頃より風少し穏かになり候に付、屋敷内を見廻り、垣根などは残らず吹き破り、屋(根)の棟を吹き取り、存外の大風にて、殊に汐風にて、草木とも葉すぐさましぼみ、十四日になりて快晴、雨風強く吹き候ゆえ、田方は中稲、晩稲とも白穂同様に見え、畑方は木綿、菜、大根をはじめ、悉く汐風にもまれし故、茹で菜(ゆでな)の如く相成り申し候、西隣徳十家潰れ申し候、外にも破損これ無き家は壱軒もこれ無く候、この辺より西手は大風のよしにて、大沢様御領分などは本家七八拾軒も潰れ候と申す事に候

※ 初更(一更) - 五更の第一。およそ現在の午後7時または8時から2時間をいう。戌(いぬ)の刻。甲夜(こうや)。
※ 二更 - 五更の第二。およそ現在の午後9時または午後10時から2時間をいう。亥(い)の刻。乙夜(いつや)。

風向きが刻々と変わる様子から、明らかに台風の記録である。江戸時代に台風という概念があったかどうか。台風と呼ばれるようになったのは明治になってからで、古くは「野分(のわき)」と呼ばれ、源氏物語にも出てくる。いずれにしても、天気予報の無い時代、突然に襲ってくる嵐であった。

風向きから台風のコースを推定すると、台風はかなり近くを通ったと思われるから伊勢湾辺りに上陸し北東に進んで日本海に抜けるようなコースであったと思う。朝から雨天だったのは、台風前面の雨雲の影響であろう。嵐の前の静けさのような夕焼けがあり、まずは東風、台風は南西方向にあって、伊勢湾辺りから上陸する。南風で大荒れになるのは台風が真西から北西にあって最接近した頃だったのだろうと思う。

「満水」の翌年で、天保の大飢饉の真っ最中、泣きっ面に蜂の災害であった。「汐風」では台風の東側であったため、雨台風ではなく風台風であった。水害の報告はなくて、大風の被害が詳しく記されている。その中で、汐風の被害が記されていて、興味深い。汐混じりの風で作物に大きな被害が出たという。各和村は海から10キロ以上離れていて、間に低いながら小笠山があるにも関わらず、塩害がここまで及んだのであろうか。事実ならば相当大きな台風だったと思われる。
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