goo

ポーハタンと補陀洛

(自宅より、雨が近付く西原)

島田市の竹林寺廃寺・鵜田寺について書き込もうと思ったが、一昨年の8月の同じ講座にて、扱われているものと重複するので、2008年8月13日の書き込み「竹林寺廃寺と鵜田寺・慶寿寺」を参照してもらうことにする。

竹林寺廃寺が造営された奈良時代、聖武天皇が鎮護国家をめざして、東大寺や国分寺の造営をめざしたのに対して、氏寺としての私的な寺院は観音を本尊として祀る寺院であった。釈迦如来の西方浄土に当る理想郷が、観音信仰では海の向こうのポーハタンであった。人々はポーハタンに理想郷を見ていた。ポーハタンは日本では「補陀洛」などと表示されている。日本に多くある「観音崎」ははるか沖のポーハタンを見つめる観音を祀った故である。

講義でそのように聞いたので、「ポーハタン」をネットで調べてみると、ポーハタンはインディアンの酋長の名前で、部族名にもなっており、転じてアメリカの昔の軍艦の名前となり、日本への黒船再航の際に、その一艘として日本にやってきている。講師の記憶違いか、自分の聞き違いか。正しくは梵語で「ポタラカ」というのが正しいようだ。「ポタラカ」が「補陀洛(ほだらく)」なら解りやすい。古い日本語では「ポ」と「ホ」は区別して発音されていなかった。

補陀落(ふだらく)を辞書で調べると、「インド南端の海岸にあり、観音が住むという八角形の山。中国・日本で、多く観音の霊場にこの名を用いる。補陀落山(ふだらくせん)。」とあった。 

観音信仰は後に補陀洛への渡海という究極の信仰形態を取ったことが良く知られている。修行僧が意を決して補陀洛をめざして小船に乗って沖へ出発する。決意のため小船の中に閉じ込められて、太平洋に向けて、岸から見えなくなる所まで他の舟に曳航されて、そこで放たれる。小船は波のまにまに揺られて、おそらく黒潮に乗って、やがて海の藻屑と消えたのだろうが、岸から見送った人々は修行僧が補陀洛に着いたであろうことを疑わない。ただ確かめた人はいない。補陀洛渡海は太平洋に面した高知や熊野で数多くの例が伝わっている。講師は榛原でも補陀洛渡海の記録が残っているという。それは知らなかったが、いつか調べてみたい。

お寺の山名、寺名に補陀洛、普陀洛という類の名前がついているのは、いずれも観音信仰のお寺と考えられる。ちなみに、日光のもとになった「二荒山(ふたらさん)」もその一つである。

今夜、書こうと思ったテーマがすでに過去に書かれていたので、話が脱線したままに任せた。書き込みが1600回を越えて、気をつけないと同じテーマで書いてしまう危険性も増してきた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )