ほそかわ・かずひこの BLOG

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西田と和辻3~西田の「逆対応と平常底」

2019-12-01 08:53:55 | 心と宗教
●西田幾多郎の思想(続き)

④逆対応と平常底

 これまで書いてきた西田の思索の到達点が、1945年(昭和20年)4月に脱稿した最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』である。ここで西田は、親友の鈴木大拙が発表した『日本的霊性』に刺激を受け、大拙が本書で書いた「即非の論理」について考察した。
 「即非」とは、『金剛般若波羅蜜経』で説かれるもので、「般若即非」ともいう。「仏の般若波羅蜜と説くは即ち般若波羅蜜に非ず、是れを般若波羅蜜と名づく」とあるのが、「即非の論理」の由来である。西洋には、これと同じ判断は存在しない。形式論理学では「AはAである」という判断を自同律という。これはAの自己同一性を表す文である。これに対し、「般若の論理」を判断式で表すならば、「AはAではない。ゆえにAである」となる。西田も、本論文に「仏仏にあらず故に仏である、衆生衆生にあらず故に衆生である」と書いている。一度、AがAであることを否定したうえで、Aであると肯定する。単なる肯定ではなく、否定を媒介した肯定である。これは、Aの実相は、通常考えているようなAではない。悟りに達した境地において、はじめてAはありのままのAであるという意味と推察される。
 「即非」における「即」という用語は、西田哲学でも使われてきた。「一即多」「内即外」「主観即客観」等である。「即」の前後に相矛盾する概念が置かれ、それらが「即」で結ばれる。そのもとをたどれば、日本天台宗の本覚思想に行き着く。本覚思想では、煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即浄土のように反対概念を「即」の語で結び、不二一体を表現する。本覚思想は、禅宗や浄土宗にも深い影響を与えた。西田は、この本覚思想における「即」を論理学的に解き明かそうとしたと考えられる。本論文でも「永遠の生命は生死即涅槃という所にある」等と書いている。
 西田は、大拙の「即非の論理」を、自身の場所的論理によって、「絶対矛盾的自己同一」ととらえる。そして、絶対矛盾的自己同一が神と人間の関係を表すとともに、現実の歴史的世界の論理構造でもあると主張する。
 西田は、論文『場所的論理と宗教的世界観』で、「絶対矛盾的自己同一」に「逆対応」と「平常底」という用語を加えて、宗教的な世界観を論じている。
 逆対応とは、絶対者と自己、神と人間、仏と衆生との間の関係を表わす概念である。絶対的に隔絶し、逆方向の極端にあるものが、相互に自己否定的に対応し合っていることをいう。西田は、本論文で、「神と人間との対立は、どこまでも逆対応的であるのである。故に我々の宗教心というのは、我々の自己から起るのではなくして、神又は仏の呼び声である。神又は仏の働きである。自己成立の根源からである」と書いている。また、「我々の自己は、どこまでも絶対的一者と即ち神と、逆限定的に、逆対応的関係にある」と書いている。そして、こうした観点から、西田は、親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という思想は、この逆対応を表わすものととらえている。また、大燈国師の「億劫相別れて而も須臾(しゅゆ)も離れず、尽日相対して而も刹那も対せず」という言葉も、その例として挙げている。
 平常底は、「平常心是道」等に使われる平常心とは違う。西田独特の言葉である。平常底の立場とは、「歴史的世界の永遠の過去と未来と、即ち人間の始と終との結合の立場、最深にして最浅、最遠にして最近、最大にして最小の立場」だと西田はいう。この文は、まず逆対応の関係を時間的な側面からとらえている。過去と未来、始まりと終わりが同時に存在し、その永遠の現在の自己限定として現在があるという時間論に基づくものである。西田は、この平常底を歴史的世界の根底とする。また、この根底とは、先の文で「最深にして最浅、最遠にして最近、最大にして最小」というように相異なるものが統一された絶対的な次元を示唆している。
 「絶対矛盾的自己同一」は論理学的な用語だが、西田は日常語をもとに作った言葉で、これを表現している。「絶対矛盾的」を言い換えたのが「逆対応」であり、「自己同一」を言い換えたのが「平常底」といえるだろう。
 西田は、本論文で場所的論理によって「即非の論理」を哲学的に考察したうえで、宗教的な世界観について述べる。「絶対矛盾的自己同一的場所の自己限定として、場所的論理によってのみ、宗教的世界というものが考えられる」と、西田は書いている。

⑤普遍的な次元を切り開いた哲学

 最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』で、西田は、それまで主に依拠していた禅の自力的修行の思想から、浄土信仰の他力的信仰の思想へと重点を移している。そして、親鸞の説く悪人正機や阿弥陀仏の名号をもって、絶対矛盾的自己同一の典型例としている。ここには、禅と浄土信仰が合体した禅浄一致の思想の影響が明らかである。
 西田哲学は、西田の参禅体験と仏教に対する深い理解に基づくもので、まぎれもなく日本仏教を背景とした哲学である。ただし、それは、単なる仏教的哲学ではない。西田は、本論文で、場所的論理でとらえた一般者を「神」と呼び、キリスト教の一神教的な信仰にも深い理解を示した。「絶対無」を「絶対の無即有」、「絶対無の一般者」を「絶対的一者」とも書いている。
 西田は、絶対矛盾的自己同一の場所的論理による自身の哲学を、汎神論ではなく万有在神論であると自認していた。万有在神論の神は、宇宙神である。神と人間の関係には超越と内在がある。万有在神論は、神を対象的・超越的にとらえるか、一体的・内在的にとらえるかによって立場が分かれる。西田哲学における神は、対象的超越的方向に想定した神ではない。自己の内の内、あるいは底の底に想定した神である。
 超越者が人間に内在すると考えるのは、超越的内在である。人間の自己の内に超越者を求めるのは、内在的超越である。キリスト教の神は超越神であり、イエス=キリストは超越的内在である。これに対して、大乗仏教の仏性は内在的超越である。西田哲学は、内在的超越型の万有在神論と言える。
 西田は、本論文の結尾部に、「ただ私は将来の宗教としては、超越的内在よりも内在的超越の方向にあると考えるものである」と書いている。超越的内在の方向に考えられる絶対者は、われわれの自己とは別個の人格である。これに対して、内在的超越の方向に考えられる絶対者は、究極的には、真の自己である。この場合、神と自己、仏と衆生は隔絶したものではなく、両者は不二一体である。その関係を西田は、「絶対矛盾的自己同一」とし、逆対応と平常底で表現していると理解される。ここでは、真の自己を探求する道は、神という全体性・根源性へ向かう道となっているのである。
 それゆえ、西田哲学は、単なる仏教的哲学ではなく、キリスト教に基づく思想をも包含し得る、人類に普遍的な次元を切り開いた哲学と評価されるべきものである。

 次回に続く。

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