ほそかわ・かずひこの BLOG

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ユダヤ101+102~ニクソン政権でユダヤ人が共和党に影響拡大

2017-09-14 08:54:01 | ユダヤ的価値観
ニクソン政権でユダヤ人が共和党に影響拡大
 
 歴代政権のことに話を戻す。ジョンソンの後を受けて、共和党のリチャード・ニクソンが第37代大統領になった。
 ニクソンは1968年(昭和43年)の選挙で当選したが、対立候補との票差はわずか0.6%という苦戦をした。原因の一つは、ユダヤ票を得られなかったことである。共和党の支持者には、ユダヤ人差別の中心となっている白人プロテスタントが多かった。それゆえ、当時、共和党とユダヤ人社会とは結びつきが小さかった。
 ニクソンは1972年(昭和47年)の再選に向けて、ニューヨーク州のユダヤ人社会の支持を得ることを目指した。ユダヤ人実業家マックス・フィッシャーは、イスラエルの安全保障、ソ連のユダヤ人への救援、法と秩序維持という3点をニクソンに示し、ユダヤ票の取り込みを進めた。また、民主党支持のユダヤ人富豪を次々に寝返らせていった。そのことが、ニクソン再選の大きな勝因となった。また、この選挙を通じて、それまで民主党にのみ影響力を振るってきたユダヤ人社会が、民主・共和の両党ともに影響力を振るうようになった。
 ニクソン以前の大統領は、イスラエルとアラブ諸国の双方と友好姿勢を保った。ケネディ・ジョンソン両政権を通じて米・イスラエル関係は成長したものの、その歩みはゆっくりしていた。だが、ニクソンはイスラエルに大きく接近した。ニクソンは、1970年代に、ジョンソン政権時代のイスラエルへの援助額を倍以上に増やした。それ以後、イスラエルはアメリカから援助金を受け取る国々の中で、最大の受給国となった。ニクソン政権は、歴代政権で初めて、イスラエルに対して軍事技術を提供するようになった。アメリカの軍事技術の供与は、イスラエルの軍需産業を世界に冠たるものへと発展させることになった。こうして、ニクソン政権の時代に、アメリカとイスラエルの強固な同盟関係が始まった。
 米国において、ユダヤ人は1970年頃まで連邦議会にはほとんど進出していなかった。だが、70年代前半のニクソン政権時代を境にして、連邦議会におけるユダヤ人議員の数は、一挙に3~4倍に急増した。そのことは、ユダヤ人が米国の政治において、それだけ力を獲得していったことを意味する。

●ニクソン・フォード両政権のキッシンジャー外交

 ベトナム戦争の長期化等で、アメリカはドルの金兌換性を維持できなくなった。ニクソン政権は、1971年(昭和46年)8月に突然、金とドルの交換を停止した。このニクソン・ショックによって、各国は次々に変動相場制に移行した。以後、ドルは長期的に競争力を失っていく。また貨幣が投機の対象となり、資本主義は段々、賭博場のような性格を帯びるようになっていった。そのことが、ユダヤ的価値観の普及を促進することになった。
 ニクソン政権は、ベトナム戦争の終結に向けて、米中国交の実現、米ソ貿易の拡大等、目覚ましい外交を行った。ニクソン政権の外交は、ほとんどがヘンリー・キッシンジャーの忍者外交によるものだった。国際政治学者のキッシンジャーは、今日のアメリカの外交政策に最も強い影響を与えている人物の一人である。ニクソン政権で。国家安全保障担当の大統領補佐官を務め、のち国務長官を兼任した。ジェラルド・フォード政権でも国務長官として外交政策全般を統括した。
 キッシンジャーは1923年、ドイツ生まれのユダヤ人である。ナチスが政権を掌握したため、1938年に一家でアメリカへ移住し、43年に帰化した。第2次世界大戦の時は陸軍に志願し、軍曹として、アメリカ陸軍の諜報部隊で任務についた。戦後、ハーバード大学に進学し、国際政治学を専攻した。
 キッシンジャーは、学生時代からロックフェラー財団の特別研究員だった。若きキッシンジャーのずば抜けた優秀さに注目したのが、ジョン・D・ロックフェラー2世の次男ネルソン・ロックフェラーだった。ネルソンと出会って以来、キッシンジャーは、政治の世界に足を突っ込んだ。キッシンジャーは、ネルソンの外交問題首席顧問となり、ネルソンの政治的野心の追求を支えた。
 ネルソンは、1968年(昭和43年)の大統領選で共和党の大統領候補指名選挙に立候補した。しかし、ニクソンに敗北した。そこで、ニクソンを大統領に仕立て、キッシンジャーをニクソンに強く推薦した。国家安全保障担当大統領補佐官となったキッシンジャーは、ニクソン政権の外交全般を取り仕切った。
 キッシンジャーは、同じくユダヤ人の国際政治学者であるハンス・モーゲンソーの現実主義的外交を継承・実践した。キッシンジャーのバックには、ロックフェラー家があり、キッシンジャーはその意思を体した行動をしたとも見られる。

 キッシンジャー外交は、米中国交実現、米ソ貿易拡大、ベトナム戦争終結への道筋付け、中東戦争の解決等、驚嘆すべき成果を次々に生み出した。
 キッシンジャーは、非常に高度な外交を行った。すなわち、ベトナムへの派遣軍を削減はするが、戦争をすぐ止めるのでなく続けつつ、同時に終結の条件を整えていく。しかも、それによって、冷戦下の国際関係、米中・米ソの関係を自国の国益にかなうように組み替えていくというものである。
 1969年(昭和44年)、中ソは、共産主義の路線対立が高じて、国境紛争に至った。中国は、ソ連から自立して独自の核開発を進め、1964年(昭和39年)に核実験に成功していた。70年(45年)4月には、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)が完成していることを世界に示した。ソ連は強大化する中国を押さえるため、核攻撃の共同作戦をアメリカに提案した。アメリカはこれを断り、逆に中ソの間に楔を打った。その結果、米中ソの三角関係と呼ばれる勢力均衡状態が生まれた。
 1971年8月、ニクソン大統領は、ニクソン・ショックでドルを守る体制を作った。キッシンジャーは、この年、極秘で共産中国を2度訪問し、米中和解の道筋を付けた。それを受けたニクソン大統領は、1972年(昭和47年)2月、共産中国を訪問した。これは、ベトナムの背後にいる中国とソ連が、当時中ソ対立で緊迫化している状況を捉えて、中ソ分断を狙うものだった。ニクソン訪中で、米中両国は、国交実現に合意した。米国はその一方、それまで反共の友好国だった中華民国台湾との国交を断絶した。共産中国は、台湾に代わって国連安保理の常任理事国となった。
 キッシンジャーは、米中とソ連の対決という構図で緊張を高めるのではなく、ソ連との間では第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結した。さらに第2次交渉を進めるなど、緊張緩和(デタント)政策を推進した。こうして米中、米ソの勢力均衡を組み直しながら、ベトナム戦争終結の条件を整えていった。
キッシンジャーの交渉は3年半かかって、ようやく終結の道筋がつき、1973年(昭和48年)、パリ和平協定が調印された。協定により米軍は撤退した。
 この年、第4次中東戦争が起こった。アラブ産油国はアメリカ、オランダ等のイスラエル支持に対抗して原油の値上げを行った。それによって第1次石油危機が起こった。わが国はイスラエル支持からアラブ寄りの姿勢にスタンスを変えた。欧州共同体(EC)の諸国も高い原油価格で窮地に陥り、アラブ寄りの方針を明らかにした。開発途上国の多くも、イスラエル批判に転じたので、イスラエルは孤立した。だが、イスラエルは、外交力・諜報力を駆使して、巻き返しを図った。
 キッシンジャーは、典型的なシオニストである。一貫してシオニズム及びイスラエルの利益のために行動した。また、それを隠そうとしない。国務長官時代に、米国最大のユダヤ人団体であるユダヤ名誉毀損防止同盟(ADL)が引き起こした事件に際し、25回以上も団体の代弁者として登場した。彼は、シオニストの指導者たちを多くの政府機関の役職に就けた。また、ADLやほかの多数のシオニスト機関が永遠に免税措置を受けられるよう、元内国歳入庁(IRS)長官シェルダン・コーエンに説いて、IRSの規則を書き換えさせた。
 キッシンジャーは、ネルソン・ロックフェラーをはじめとするロックフェラー家と強いつながりを持つが、同時にロスチャイルド家とも深い関係がある。キッシンジャーは、ロスチャイルド家、それと切り離せないイギリス、及びイスラエルの利益のためにも貢献したと推測される。ロックフェラー家とロスチャイルド家が協力する領域にこそ、ユダヤ人シオニストのキッシンジャーが活躍する舞台があったと考えられる。
 ニクソンは、ウォーターゲイト事件で失脚した。続くフォードは、ニクソン政権が打ち出した親イスラエル政策を継承した。また、キッシンジャーを引き続き国務長官として重用した。キッシンジャーこそ、現代世界のユダヤ人の中で、最も大きな政治権力を国際政治の舞台で行使した人物と言えるだろう。
 キッシンジャーは、フォード政権の終焉とともに、国務省を去った。その後、キッシンジャー・アソシエイツという会社を設立し、アメリカの多国籍企業の国際的な権益増進に寄与すべく、各社と顧問契約を結び、企業活動をしている。また、米中国交回復の立役者としての実績、人脈をもとに、共産中国の投資研究機関とともに、中国における大規模な商業権益にも関与している。
 キッシンジャー・アソシエイツの共同経営者の一人に、イギリスの貴族ピーター・キャリントン卿がいる。キャリントン卿は、ロスチャイルド家の親族である。イギリスの外務大臣、NATO事務総長等を歴任した大物政治家であり、またイギリス最大の核兵器・原子力・軍需企業ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)の会長、ウラン・シンジケートの元締めである資源会社リオ・チント・ジンク社やバークレー銀行等の役員として活躍した企業家でもある。そして注目すべきことは、王立国際問題研究所(RIIA)では所長を務め、キッシンジャーもメンバーであるビルダーバーグ・クラブでは1991年(平成3年)から議長を務め、またキッシンジャー同様、後に触れる三極委員会(TC)の有力メンバーでもあることである。RIIA、BC、TCで重要な役割を果たすこうした人物とキッシンジャーは、一緒に企業活動を行っているのである。

 次回に続く。

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