ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教66~東西教会は対立から分裂へ

2018-06-26 09:24:03 | 心と宗教
●東西教会は対立から分裂へ
 
 ここで7世紀以後の東西教会の違いの拡大と対立について書く。東西教会の違いについては、中世の項目の初めに書いたが、人間観、世界観、実在観の全般に渡り、そこから教会の組織や政治と宗教の関係等にも違いが生じた。そうした違いがさらに拡大することになったものに、画像論争、教皇権論争、フィリオクェ論争がある。
 7世紀末から9世紀中葉にかけて画像論争が起こった。ユダヤ教、キリスト教では偶像崇拝を禁止する。だが、キリスト教では、各地で教会が建設されていくと、イエス・キリストや聖母マリアの画像を掲げて飾り、かつ礼拝することが行われるようになった。殉教者の聖遺物礼拝も行われるようになった。これに対して、ユダヤ教徒やイスラーム教徒から偶像崇拝だという非難が起った。こうしたなか、古カトリック教会で、画像を巡る論争が行われたのである。
 726年に東ローマ帝国の皇帝レオ3世が、画像の使用を禁止する画像禁止令を出した。これは、教会において画像を崇拝することを禁止し、それを破壊することを命じたものである。目的は、一切の偶像を否定するイスラーム教に対抗するためにキリスト教の原則に戻そうとすることであり、また命令に反対する教会・修道院の領地の没収が狙いだったとも見られる。これに対し、ローマ教皇が反発した。それが、東西教会の対立の端緒となった。
 787年に第2ニカイア公会議が行われ、画像の崇拝と礼拝を区別し、崇拝の対象としては画像が認められた。また、画像に燈明を献じ、香を焚くことが是認された。この7回目となる全教会公会議は、東西両教会が認めた公会議の最後のものとなった。
 ところが、公会議の決定後、また東ローマ帝国で画像を破壊する政策が行われた。そのため、再度論争になった。今度は、ローマ教皇が画像破壊論者たちを異端と断じた。画像を認めることで、ローマ教皇は東ローマの皇帝の支配下にはないことを示したのである。9世紀に入ると、東ローマ帝国でも、教会側の巻き返しによって画像を認める動きが起こった。その結果、843年に皇太后テオドラによって画像崇拝が認められた。ただし、東方正教会では、立像は禁止され、イコン(聖像)という平面の画像のみが認められた。これによって画像論争は解決した。しかし、この論争によって東西教会の対立は深まった。
 9世紀後半、ローマ教皇ニコラス1世は、教皇権を強硬に前面に押し出した。全世界とすべての教会は、教皇の下にあるという主張であり、伝統的な諸教会並立の形態からは全く考えられないものだった。東ローマ帝国下のコンスタンティノポリス総主教区のフォティオス総主教は、これに反論した。この教皇権論争に、フィリオクェ論争と呼ばれる教義問題が加わった。
 ローマ教会は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に、公会議の承認なく、「子から出て」と付け加えた。ラテン語でフィリオクェという言葉である。追加によって、その部分は「父と子から出て」と修正された。
 西方キリスト教では、6世紀ごろからフィリオクェの考え方が一部の地方で受け入れられていた。9世紀に入ると、ローマ教会はその考え方を受け入れて、教皇権の主張とともに固守するようになった。
 東方正教会では、定められた信条の通り「父から出て」を守っていた。父と子と聖霊の関係については、聖霊は「子を通じて父から」と信じていた。これは同時に、聖霊と子は、神性の唯一の源である父から、共に現れてくるという理解である。しかし、ローマ教会では、聖霊は「父と子から」すなわち「父及び子から」出るとしたので、父と子がこの点では同格になる。東方正教会は、公会議で決められた事項の改訂は、公会議でされるべきとし、「フィリオクェを煮詰めると異端となる」と反対した。これは、教義上大きな対立であり、東西の教会の相互の違和感は増大した。
 東方正教会では、古代以来の伝統を守り続けた。これに比し、ローマ・カトリック教会では、10世紀ころから伝統の意識が希薄になり、発展をよしとする考え方が強くなっていった。その傾向は、ローマ帝国の滅亡により、帝国とともに教会が分裂して以後、現れていたが、10世紀を境に、初代からの伝統を継承する東方キリスト教と、変化による発展を目指す西方キリスト教の姿勢の違いが明瞭になった。
 東方教会と西方教会の違いの拡大と対立の深刻化が進み、遂に1054年に、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が、互いを破門するに至った。これを大分裂(シスマ)という。
 相互破門により、2世紀から「聖なる一つの公の使徒の教会」として続いてきた古カトリック教会は、西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会に分裂した。東方正教会では、首都コンスタンティノポリスの総主教が全地総主教としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。
 この東西教会の分裂が決定的な出来事だったのかどうかについては、東西で見解が異なる。十字軍については後に書くが、東方正教会の側では、1204年の第4回十字軍までは分裂は確定してはいなかったと解釈している。教会の東西分裂後も、西方教会では東方教会との再統合を求める声が根強く残り、公会議などで幾度か統合の道が模索された。十字軍が開始されたのは、東の求めに西が答えたからである。しかし、第4回十字軍がコンスタンティノポリスに侵攻したことによって、関係は決定的に悪化した。以後、正教会側のローマ・カトリック教会への反感は収まることなく、再統合への試みは成功しなかった。第4回十字軍以降、東西の教会は全く別の道を歩むことになったのである。

 次回に続く。

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