ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教62~皇帝教皇主義対教皇皇帝主義

2018-06-18 09:26:41 | 心と宗教
●皇帝教皇主義対教皇皇帝主義

 東西教会の組織に関する考え方の違いは、皇帝と教皇の関係やローマ教会と他の教会の関係に強く表れた。
 東ローマ帝国のビザンティン政権では、6世紀のユスティアーヌス帝が分裂したローマ帝国の再統一を意図した。皇帝は領土拡張に努め、534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を滅ぼし、さらに西ゴート王国を攻撃してイベリア半島南部を占領し、地中海域の全域に対する支配を回復した。また皇帝は、教会はコンスタンティノポリス教会もローマ教会も皇帝に従属するものとしようとした。ここで確立された体制を、皇帝教皇主義という。
 皇帝教皇主義とは、皇帝は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」であり、政治的にも宗教的にも最高の統括者であるとして、帝権(皇帝権)が教権(教皇権または教会権)を支配し、皇帝が教会に君臨する思想・体制をいう。
 世俗の最高権力者である皇帝が教会の上に立つとすれば、西方キリスト教のように聖と俗を分ける考え方によれば、政治による宗教への支配となるが、東方正教会では聖と俗を分けず、帝権と教権はともに神に由来するものとし、相互に調和・均衡を保たねばならないという考え方を取った。この東ローマ帝国における帝権と教権の関係を、東方正教会ではビザンティン・ハーモニーという。
 高橋保行は、この体制を次のように説明する。国家(政府)と教会は、「互いの立場を尊重しつつ、教会はこの世の救いに専念するものであって、政治的に国家と競う機構ではない。皇帝はその立場を以て政治の面から、この世を来世の写しとし、教会の聖職者は同じことを教会の面から充実させるのである」「敵対するか、断絶か、それともどちらかが一方的に治めるかという問題はここにはない。したがって政教分離という考え方も生じてこない」と。
 もっとも、法律上では皇帝と総主教は同格であり、一致・協力するものと規定されていた。また、実態としては、皇帝と言えども教義を決定することは出来ず、教義の決定は公会議に委ねられていた。そのうえ、総主教が帝権に介入した場合もあったとされる。それゆえ、帝権が絶対的に教会を支配していたとはいえない。
 さて、こうした東ローマ帝国の政教体制に対し、ローマ教会から反論が出た。ユスティアーヌス帝の死後、教皇グレゴリウス1世は、6世紀末から7世紀の初め、教皇という称号をローマ教会の司教にのみ限り、教皇のみがペトロに由来する使徒的伝承を保持するとし、この権威は他の司教たちのみならず、帝権にも優越すると主張した。ユスティアーヌス帝の皇帝教皇主義に対抗する教皇皇帝主義である。
 これには、次のような背景がある。原始キリスト教団の時代から、キリスト教の管区はそれぞれの独立性と自治性を尊重することが原則だった。その中で、ローマ教会は、イエスから指名を受けたペトロに由来する教会としての権威を認められていた。他の四つの総主教区の総主教たちは、どの総主教も平等であることを原則としながら、ローマ総主教区は名誉上、首位にあるものとして、これを尊ぶ態度を取っていた。ただし、ローマ教会が持つ他の地方教会に対する教会法上の権限は、地方教会の上訴を受け付けることに限られた。それも厳格なものではなかった。やがてローマ教会は、各総主教の平等性を無視して、地方教会に対して直接的・法的な権限を持とうとするようになっていく。
 ローマ総主教区は、ゲルマン民族の蛮行に対抗するために、政治的な能力を必要とした。ローマ総主教は、教会の統率者というだけでなく、政治権力を持つ指導者とならねばならなくなった。そこに、教皇権の考え方が生まれた。蛮族に対して権力を示すには、神の力を預かる最高権威者という地位を得なければならない。そこでローマ総主教は、教皇権に教義的な理由をつけて、ローマの教皇がすべての権限を持つことを、他の四人の総主教に要求するようになった。
 教皇が皇帝の上に立つという主張は、西方キリスト教においては、聖と俗を分け、教会を聖なるもの、国家(政府)を俗なるものと分ける考え方に基づく。聖の領域の指導者である教皇が、俗の領域の指導者である皇帝を指導しなければならないとするものである。
 また、現実的には、476年に西ローマ帝国が滅亡してしまい、西地中海地域では教会が、唯一の社会的統合力を発揮し得る組織となっていたことが関係している。教皇は、世俗的な政治権力の上に立って、社会を統合しなければならない。そこから、教皇権は皇帝権に優越するという主張がされたものである。
 ローマの教皇がこのような主張をし得る条件には、修道院の発展があった。修道院については、次の項目に書くが、当時、修道院は多くの土地の寄進を受け、大規模な土地経営者となり、混乱した社会の安定要因となっていた。グレゴリウス1世は修道士出身であり、皇帝教皇主義に対抗して教皇皇帝主義を唱え得たのは、修道院の後ろ盾があったからと見られる。

 次回に続く。

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