皇學館大学名誉教授・田中卓氏の女系容認論を批判している。4~5回のつもりではじめたが、全部で10回になる見込みである。
9.無礼で容共的な吉川座長を弁護
田中氏は、戦後の歴史学界ではごく少数派の愛国的・尊皇的な学者である。共産主義や日教組を批判する活動もしてきた。その田中氏が、有識者会議の構成や姿勢を擁護している。これまた迷妄と言わざるを得ない。
昨年秋、三笠宮寛仁親王殿下が、皇室典範の改正について慎重な検討を求めるご発言をした。これに対し、有識者会議座長の吉川弘之氏は、「どうということはない」と答えた。失礼、無礼と感じた人は多い。ところが、田中氏は、『諸君!』3月号の論文で、「吉川座長の真意を公正に理解せよ」と言う。そして、吉川氏が「小泉内閣メールマガジン」に特別寄稿した文章を引いて、「深甚な配慮と苦渋がにじみ出ており、反対論者の非難が、いかに皮相で軽率であるか、明らかであろう」と弁護する。
確かに引用された吉川氏の言葉には、皇室制度に関わることは「恐れ多いことだという念にとらわれないわけにはいかなかった」「古来の歴史の変更であるという意味で、言葉には言い表せないほどの自問自答を繰り返した末の提案だった」「様々な歴史観や国家観を踏まえながらも、その中の特定の立場に基づく議論は差し控えるという態度をとった」「特定の思想を前提としない、その意味で中立的な立場で検討するという条件を自らに課していた」等という言葉が並んでいる。
田中氏はこのような吉川氏の言葉を、言辞のままに読んで、そこに「真意」が表われていると理解している。しかし、人の言葉というものは、言辞のままに取ることが、「皮相で軽率」となる場合もある。
孔子は「巧言令色に仁すくなし」と説いた。巧みな言葉や穏やかな顔色は、かえって真意を包み隠す場合があるものである。そして、真意というものは、推敲を重ねた文章よりも、とっさの場合の応答に露呈するものだ。寛仁殿下のご発言に「どうということはない」と答えた吉川氏の態度や姿勢に、傲岸不遜、失敬なものを、多くの人が感じたのは、なぜなのかを田中氏は考えるべきなのである。
また、吉川氏は、「特定の思想を前提としない、その意味で中立的な立場で検討するという条件を自らに課していた」と書いているが、一方で「憲法が女性・女系天皇を認めている」「報告書は憲法に従った」のだと吉川氏は発言している。ここに有識者会議が依拠した「特定の思想」がある。それは、日本国憲法の思想であり、より正確に言えばその偏った解釈である。
皇室問題に関し、憲法解釈のポイントは、主権在民と男女平等にある。日本国憲法においては、「天皇」の章と「国民の権利と義務」の章は区別されている。左翼的な学者はこの区別を排除し、皇族と国民の差異をなくそうとする。そして、日本国憲法を共和制の憲法に限りなく近く拡大解釈し、その解釈に合わせて、現実を変えようとする。それが、「主権在民」による皇位継承の伝統の変更であり、「男女平等」による女性・女系天皇の肯定なのである。その先にあるのは、天皇・皇族そのものの否定とジェンダーフリーの推進である。
吉川座長は、こうした左翼的・フェミニズム的な憲法解釈に親和するような、ものの考え方を持ってはいないか。
このロボット工学の権威は、昭和27年から31年の大学在学中には学生運動をやっていたという。その頃の学生運動は、共産党の青年組織(民主青年同盟)しかなかったことから、当時の吉川氏は共産主義または容共的な思想を抱いていたと見られる。スターリンを信奉していたという情報もある。
若い時に共産主義の影響を受けたが、後にその誤りに気付いて、共産主義批判に転じた人間は多い。しかし、吉川氏は、そうではない。共産党の機関誌『赤旗』によく記事を寄せていたという。
また、吉川氏は日本学術会議の会長だったときに、『男女共同参画社会~キーワードはジェンダー』という本を刊行した。執筆者には、上野千鶴子氏らの過激なフェミニストも名を連ねている。
このような人物が「われわれが、新しい歴史をつくる」とか「新しい皇室制度の制度設計をする」と言うとき、その背後に「特定の思想」があると考えるのが、「真意の公正な理解」ではあるまいか。
吉川氏が「小泉内閣メールマガジン」に書いた文章のみをもって、「反対論者の非難が、いかに皮相で軽率であるか、明らかであろう」と弁護する田中氏は、自分が「いかに皮相で軽率であるか」、気付いていないようである。
次回、有識者会議のメンバーについて続ける。
9.無礼で容共的な吉川座長を弁護
田中氏は、戦後の歴史学界ではごく少数派の愛国的・尊皇的な学者である。共産主義や日教組を批判する活動もしてきた。その田中氏が、有識者会議の構成や姿勢を擁護している。これまた迷妄と言わざるを得ない。
昨年秋、三笠宮寛仁親王殿下が、皇室典範の改正について慎重な検討を求めるご発言をした。これに対し、有識者会議座長の吉川弘之氏は、「どうということはない」と答えた。失礼、無礼と感じた人は多い。ところが、田中氏は、『諸君!』3月号の論文で、「吉川座長の真意を公正に理解せよ」と言う。そして、吉川氏が「小泉内閣メールマガジン」に特別寄稿した文章を引いて、「深甚な配慮と苦渋がにじみ出ており、反対論者の非難が、いかに皮相で軽率であるか、明らかであろう」と弁護する。
確かに引用された吉川氏の言葉には、皇室制度に関わることは「恐れ多いことだという念にとらわれないわけにはいかなかった」「古来の歴史の変更であるという意味で、言葉には言い表せないほどの自問自答を繰り返した末の提案だった」「様々な歴史観や国家観を踏まえながらも、その中の特定の立場に基づく議論は差し控えるという態度をとった」「特定の思想を前提としない、その意味で中立的な立場で検討するという条件を自らに課していた」等という言葉が並んでいる。
田中氏はこのような吉川氏の言葉を、言辞のままに読んで、そこに「真意」が表われていると理解している。しかし、人の言葉というものは、言辞のままに取ることが、「皮相で軽率」となる場合もある。
孔子は「巧言令色に仁すくなし」と説いた。巧みな言葉や穏やかな顔色は、かえって真意を包み隠す場合があるものである。そして、真意というものは、推敲を重ねた文章よりも、とっさの場合の応答に露呈するものだ。寛仁殿下のご発言に「どうということはない」と答えた吉川氏の態度や姿勢に、傲岸不遜、失敬なものを、多くの人が感じたのは、なぜなのかを田中氏は考えるべきなのである。
また、吉川氏は、「特定の思想を前提としない、その意味で中立的な立場で検討するという条件を自らに課していた」と書いているが、一方で「憲法が女性・女系天皇を認めている」「報告書は憲法に従った」のだと吉川氏は発言している。ここに有識者会議が依拠した「特定の思想」がある。それは、日本国憲法の思想であり、より正確に言えばその偏った解釈である。
皇室問題に関し、憲法解釈のポイントは、主権在民と男女平等にある。日本国憲法においては、「天皇」の章と「国民の権利と義務」の章は区別されている。左翼的な学者はこの区別を排除し、皇族と国民の差異をなくそうとする。そして、日本国憲法を共和制の憲法に限りなく近く拡大解釈し、その解釈に合わせて、現実を変えようとする。それが、「主権在民」による皇位継承の伝統の変更であり、「男女平等」による女性・女系天皇の肯定なのである。その先にあるのは、天皇・皇族そのものの否定とジェンダーフリーの推進である。
吉川座長は、こうした左翼的・フェミニズム的な憲法解釈に親和するような、ものの考え方を持ってはいないか。
このロボット工学の権威は、昭和27年から31年の大学在学中には学生運動をやっていたという。その頃の学生運動は、共産党の青年組織(民主青年同盟)しかなかったことから、当時の吉川氏は共産主義または容共的な思想を抱いていたと見られる。スターリンを信奉していたという情報もある。
若い時に共産主義の影響を受けたが、後にその誤りに気付いて、共産主義批判に転じた人間は多い。しかし、吉川氏は、そうではない。共産党の機関誌『赤旗』によく記事を寄せていたという。
また、吉川氏は日本学術会議の会長だったときに、『男女共同参画社会~キーワードはジェンダー』という本を刊行した。執筆者には、上野千鶴子氏らの過激なフェミニストも名を連ねている。
このような人物が「われわれが、新しい歴史をつくる」とか「新しい皇室制度の制度設計をする」と言うとき、その背後に「特定の思想」があると考えるのが、「真意の公正な理解」ではあるまいか。
吉川氏が「小泉内閣メールマガジン」に書いた文章のみをもって、「反対論者の非難が、いかに皮相で軽率であるか、明らかであろう」と弁護する田中氏は、自分が「いかに皮相で軽率であるか」、気付いていないようである。
次回、有識者会議のメンバーについて続ける。
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