ほそかわ・かずひこの BLOG

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明治天皇5~国民に呼びかけた教育勅語1

2012-08-03 08:44:53 | 皇室
 明治天皇の崩御から百年に当たり、明治天皇の遺徳を称えるために、ここでこれまでの掲示でたびたび触れた教育勅語について掲載します。

 明治天皇は、明治23年に教育勅語を発布しました。教育勅語には、わが国の教育の理念・目標が説かれています。そして、戦前は、その理念・目標の下に、教育が行われていました。しかし、戦後GHQによって教育勅語は廃止を余儀なくされてしまいました。そして、そのまま捨てて顧みられずにいます。このことが、今日の教育危機や青少年の心の荒廃の一つの重要な原因となっています。このまま、教育勅語を忘れ去っていると、日本の教育は益々荒廃し、日本人の心はいよいよ頽廃し、ひいては日本が亡国に至る恐れがあります。日本の教育と日本人の心の再生のためには、教育勅語の再評価と復権が必要です。

 明治維新後、西洋列強の脅威の中で独立を維持するため、日本は西洋の文化を積極的に採り入れ、自国の近代化を推し進めました。文明開化・富国強兵・殖産興業が目標とされました。
 こうしたなかで、明治5年(1872)5月、学制が発布され、近代国民を創出する教育が開始されました。「一般人民邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」との趣旨に基づいて発布された学制は、国民すべてが学校教育を受けることを目指しました。江戸時代に発達していた寺子屋教育を下に、全国的に近代的な学校教育が急速に普及しました。学制の主眼は「学問は身に立つるの財本」とする功利主義的学問観に立つ実用的な教育でした。
 こうして始まった近代教育は、西洋文明を模倣することに急なあまり、自国の学問をないがしろにしていました。とりわけ道徳教育を軽視していました。学制と同時に定められた「小学教則」において、修身の時間は最も下位に置かれました。その教科書もほとんどが欧米の道徳・法律書の類を翻訳したものでした。
 明治天皇は西洋模倣の教育を深刻に憂慮し、明治11年(1878)に教学刷新についての示唆を与えました。これは後に「教学大旨」としてまとめられました。その内容は、道徳あるいは仁義忠孝を主に学び、その上で知識才芸を究め、それによって人道をつくすことが柱となっています。さらに同15年には、侍講の元田永孚(ながざね)に命じて、幼児のための教訓書である「幼学綱要」を編ませました。
 しかし、世は鹿鳴館の舞踏会に象徴される欧化主義の時代でした。思想界、教育界の混迷は収まらず、道徳教育に関する課題はそのままとなっていました。
 勅語煥発の直接のきっかけは、明治19年10月、明治天皇の東京帝国大学行幸でした。天皇の行幸ならびに明治天皇の教育観を、元田が記録したのが「聖諭記(せいゆき)」です。当時のわが国の指導者たちは、まず軍事技術で欧米に追いつかなければならないと考えていました。産学が一体になって技術革新に取組む必要があり、日本の大学が理工系を中心とするようになっていました。明治天皇は、大学の何もかもが西洋一辺倒になっていることにひどく驚きを感じました。これでは、日本の歴史、伝統、文化、精神が吹き飛んでしまう。西欧の科学教育のみでは人材を作ることができない。道徳を基礎として、その上で西欧の科学を学ぶようにしなければ、真の人材を育成できないーーこう憂えた明治天皇は、これからの教育のよりどころとなるものが必要だと考えました。
 また、一方、明治23年に地方長官会議で、知育の一方のみ進んで徳育が進まないことを憂える知事たちから、徳育の教えを確立してほしいとの建議が内閣に対して出されました。要望の理由としては、当時の教育界には欧米の「豪傑」を理想としたり、欧米崇拝、伝統無視の風潮が強くなっていました。特に洋行帰りで西洋かぶれになった学士会の影響が地方や学生にまで及んでいました。そこで、地方長官たちは、教育のこの状態は日本の将来のために良くないとして、徳育の基本方針を立てることを提案したのです。こうした国民からの要望に応える必要もありました。

 教育勅語の最初の草案を書いたのは、中村正直でした。これは天・神などの宗教的概念を使い、西欧思想に基づく中村流の哲学理論によって道徳の根源を明らかにするという性格をもっていました。これは多くの問題点が指摘されて事実上廃案となりました。中村に代わって起草に携わったのが、当時法制局長官だった井上毅です。
 井上は草案作成に当たり、7つの前提条件を立てました。まず、今日の立憲主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉してはなりません。そこで教育の方向を示す勅語は、「政事上之命令」ではなく、「社会上之君主の著作公告」として発せられるべきであるという原則を示しました。その上で、宗教上の争いを引き起こす可能性のある「天を敬い、神を尊ぶ」のような語を使用しないこと、必ず激しい論争を招く「幽遠深微なる哲学上の理論」にわたるのを避けること、天皇の真意ではなく時の政治家の示唆によるものと受け取られるような「政治上之臭味(くさみ)」を帯びないこと、「漢学の口吻と洋風の気習」を吐露しないこと等を、前提条件として挙げました。
 井上はこれらの前提条件の下に教育勅語を起草しました。これに、彼と同郷(熊本藩)の儒学者・元田永孚(ながざね)が協力して草案を作りました。天皇からもいくつか要望が出され、さらに修正が加えられました。そして明治23年10月30日に発布されました。
 元田が井上の意見を尊重したので、井上の基本方針は最後まで貫徹されました。それは、法律と異なり大臣の副署がないこと、天・神などの用語を使わないこと等に表われています。しかし、勅語の発布形式は井上の構想と異なり、天皇が首相・文相を宮中に召して親しく勅語を下され、文相は直ちに全国に発布するという形となりました。

 次回に続く。

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