●人権の思想は西方キリスト教の土壌で発達
ホッブスは、自然法から自然権という権利のみを取り出し、制約のない自由を強調し、いかなる道徳的な拘束も存在しないとした。ホッブスは、自然状態における人間を想定した。自然状態における人間は、主に自己保存の本能で行動し、生命維持のため殺人を含むあらゆることを行う、とホッブスは考えた。自然法による秩序というより、無法状態である。
ホッブスは、自由を「運動の外的障害の欠如」と定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態であり、障害・拘束からの自由である。ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。またそれは「彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由」だと説いた。そして、殺人を含む自由権の行使のために戦争状態が生じるとした。
これに対し、ジョン・ロックは自然状態における自然法の存在を強調した。ロックの自然状態では、各自が自然権として生命・自由・財産の所有権を持つ。人々は自然法の道徳原理である理性に従って行動する。理性は他人の所有権を侵害すべきでないことを教え、人々はこれに従う。互いに自由・平等で独立して生活し、他人の生命・自由・財産を損ねることがない。これは、ホッブスの戦争状態とは正反対の平和な状態である。
ロックは、自然法には、他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、自由を自他の相互性においてとらえた。ロックは言う。「自然状態とは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」「人々が理性に従って一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上に持たない状態、これこそまさしく自然の状態である」と。
唯物論者のホッブスと異なり、ロックはキリスト教的な神を信じた。彼によって人権論は、西方キリスト教的な土壌において成長した。
「神はこの世界を人間に共有物として与えたもうた」とロックは言う。神は「人間の利益」となるよう、また「衣食住の便」を最大限に引き出すことができるよう、世界を与えた。では、神が共有物として与えたものを、どうして各人は所有物とするようになったのか。ロックは、「神は土地の開墾を命じることによって、その限りでそれを占有する権限を与えた」という。人々が労働をして土地を開墾することで、私有財産がもたらされた。ロックは、労働によって得られたものは、固有の所有物である身体を動かして得たものゆえ、その人の所有物であるとして、私有財産を正当化した。この理論は、私有制に基づく資本主義を権利論で基礎づけるものだった。
ロックは、人々は、歴史的・社会的に形成された貴族・庶民の「古来の自由と権利」ではなく、自然権として、諸個人が各自に固有な所有権(property)を持つとする。生命(life)、自由(liberty)、財産(possessions, estate)が、一体として所有物(property)とされる。こうした権利が人権として基礎づけられることになった。 もしロックの自然状態が、人々がみな理性に従って生き、互いの権利を侵害しない平和な状態であれば、争いは生じ得ない。そのため、どこまでも平和な状態で、豊かに、安全に発展していくはずである。だが、ロックは、その自然状態に争いが起こるようになったという。いわば自然法からの逸脱が起こったとするのである。
ロックによると、自然法は、理性によってのみ認識できる法であり、理性を失っている者、無知な者には見えない。自然状態においては、所有権の享受は「はなはだ不確実であり、絶えず他の者の侵害にさらされている」とロックはいう。自然状態の人間はいつも理性の人であるとは限らず、自然法から逸脱し、これに背いた振る舞いをする。人々のうち勤勉でも理性的でもない人間は、労働を怠り、財産を持たない。人をうらやみ、人のものを奪おうとする。そのため、財産をめぐる争いが起こり、殺し合いにもなる。それによって、自然状態の平和は破れたという見方である。 そして、平和を取り戻すため、人々は自発的な同意による契約で国家を設立したとロックは説いた。
盗みや殺人に対して、裁きと処罰を行うものとして、政治権力が求められる。ロックは言う。「人間は、自分の所有物、すなわち生命・自由・財産を、他人の侵害や攻撃から守るための権力だけでなく、また他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信ずるままに罰を加え、犯行の凶悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑さえ処しうるという権力を生来持っている」と。各人の権利を確実に保障するために、財産争いの状態から脱し、自然法を協同で執行する権力を形成する。それによって、政治社会が成立する。こうして自然状態から政治社会への移行が起こるとロックは考えた。
ロックは説く。「すべての人が自然の法の執行権を放棄してそれを公共の手に委ねる」ことで政治社会あるいは国家が成立する。「人々は、すべての争いを裁定する権威と、国家のどの成員に加えられる危害をも救済する権威とを備えた裁判官を地上に打ち立て、自然の状態から国家の状態に入るのである。その裁判官とは、立法部またはそれによって任命された行政者なのである」と。
ロックは、生命・自由財産の所有権の保全のため、人々が政治に参加し、権力を協同的に行使する体制を求める。ロックにおいては、議会制デモクラシーは、自然法から逸脱してしまった状態を是正する制度であり、逸脱の是正によって自由と権力の保障を実現し得る機構なのである。
こうしてロックによって、ホッブスの社会契約論が発展され、議会制デモクラシーを正当化する理論がつくられた。今日世界に広がっている人権やリベラル・デモクラシーの思想は、西方キリスト教の社会において発生・発達したものである。
次回に続く。
ホッブスは、自然法から自然権という権利のみを取り出し、制約のない自由を強調し、いかなる道徳的な拘束も存在しないとした。ホッブスは、自然状態における人間を想定した。自然状態における人間は、主に自己保存の本能で行動し、生命維持のため殺人を含むあらゆることを行う、とホッブスは考えた。自然法による秩序というより、無法状態である。
ホッブスは、自由を「運動の外的障害の欠如」と定義した。自らの意思に従ってなすところを妨げられない状態であり、障害・拘束からの自由である。ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。またそれは「彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由」だと説いた。そして、殺人を含む自由権の行使のために戦争状態が生じるとした。
これに対し、ジョン・ロックは自然状態における自然法の存在を強調した。ロックの自然状態では、各自が自然権として生命・自由・財産の所有権を持つ。人々は自然法の道徳原理である理性に従って行動する。理性は他人の所有権を侵害すべきでないことを教え、人々はこれに従う。互いに自由・平等で独立して生活し、他人の生命・自由・財産を損ねることがない。これは、ホッブスの戦争状態とは正反対の平和な状態である。
ロックは、自然法には、他人に要求することを自分もまた受け入れ、自分の主張することを他人にも認めるという相互性が基礎にあるとし、自由を自他の相互性においてとらえた。ロックは言う。「自然状態とは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」「人々が理性に従って一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上に持たない状態、これこそまさしく自然の状態である」と。
唯物論者のホッブスと異なり、ロックはキリスト教的な神を信じた。彼によって人権論は、西方キリスト教的な土壌において成長した。
「神はこの世界を人間に共有物として与えたもうた」とロックは言う。神は「人間の利益」となるよう、また「衣食住の便」を最大限に引き出すことができるよう、世界を与えた。では、神が共有物として与えたものを、どうして各人は所有物とするようになったのか。ロックは、「神は土地の開墾を命じることによって、その限りでそれを占有する権限を与えた」という。人々が労働をして土地を開墾することで、私有財産がもたらされた。ロックは、労働によって得られたものは、固有の所有物である身体を動かして得たものゆえ、その人の所有物であるとして、私有財産を正当化した。この理論は、私有制に基づく資本主義を権利論で基礎づけるものだった。
ロックは、人々は、歴史的・社会的に形成された貴族・庶民の「古来の自由と権利」ではなく、自然権として、諸個人が各自に固有な所有権(property)を持つとする。生命(life)、自由(liberty)、財産(possessions, estate)が、一体として所有物(property)とされる。こうした権利が人権として基礎づけられることになった。 もしロックの自然状態が、人々がみな理性に従って生き、互いの権利を侵害しない平和な状態であれば、争いは生じ得ない。そのため、どこまでも平和な状態で、豊かに、安全に発展していくはずである。だが、ロックは、その自然状態に争いが起こるようになったという。いわば自然法からの逸脱が起こったとするのである。
ロックによると、自然法は、理性によってのみ認識できる法であり、理性を失っている者、無知な者には見えない。自然状態においては、所有権の享受は「はなはだ不確実であり、絶えず他の者の侵害にさらされている」とロックはいう。自然状態の人間はいつも理性の人であるとは限らず、自然法から逸脱し、これに背いた振る舞いをする。人々のうち勤勉でも理性的でもない人間は、労働を怠り、財産を持たない。人をうらやみ、人のものを奪おうとする。そのため、財産をめぐる争いが起こり、殺し合いにもなる。それによって、自然状態の平和は破れたという見方である。 そして、平和を取り戻すため、人々は自発的な同意による契約で国家を設立したとロックは説いた。
盗みや殺人に対して、裁きと処罰を行うものとして、政治権力が求められる。ロックは言う。「人間は、自分の所有物、すなわち生命・自由・財産を、他人の侵害や攻撃から守るための権力だけでなく、また他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信ずるままに罰を加え、犯行の凶悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑さえ処しうるという権力を生来持っている」と。各人の権利を確実に保障するために、財産争いの状態から脱し、自然法を協同で執行する権力を形成する。それによって、政治社会が成立する。こうして自然状態から政治社会への移行が起こるとロックは考えた。
ロックは説く。「すべての人が自然の法の執行権を放棄してそれを公共の手に委ねる」ことで政治社会あるいは国家が成立する。「人々は、すべての争いを裁定する権威と、国家のどの成員に加えられる危害をも救済する権威とを備えた裁判官を地上に打ち立て、自然の状態から国家の状態に入るのである。その裁判官とは、立法部またはそれによって任命された行政者なのである」と。
ロックは、生命・自由財産の所有権の保全のため、人々が政治に参加し、権力を協同的に行使する体制を求める。ロックにおいては、議会制デモクラシーは、自然法から逸脱してしまった状態を是正する制度であり、逸脱の是正によって自由と権力の保障を実現し得る機構なのである。
こうしてロックによって、ホッブスの社会契約論が発展され、議会制デモクラシーを正当化する理論がつくられた。今日世界に広がっている人権やリベラル・デモクラシーの思想は、西方キリスト教の社会において発生・発達したものである。
次回に続く。
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