ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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キリスト教131~ナポレオン以後のフランスの変遷と発展

2018-12-13 10:50:47 | 心と宗教
ナポレオン以後のフランスの変遷と発展
 
 ナポレオンが没落すると、フランスは共和制に戻ったのではなく、王政に復帰した。王政復古の後は、七月王政、第二共和制、ナポレオン3世による第二帝政などと、フランスの政体はめまぐるしく変化し、不安定な時代が続いた。
 この間、人権に関しても動揺が続いた。1789年の人権宣言は、人権思想の発達において、確かに画期的な内容ではあった。1791年憲法がその一部として宣言をそのままこれを取り入れ、実定法の規定ともなった。だが、宣言は、フランスにおいて多くの国民が納得するようなものではなかった。むしろ対立・抗争の可能性をはらんでいたから、宣言発布の後、1795年までの6年間に3つの権利宣言が出し直されることになった。その後もフランスは政体の変化に伴い、 1814年憲章における権利宣言、1848年憲法の権利宣言が出され、そのたびに権利・義務に関する規定は変化した。
 1848年、第二共和制下の人民投票によって、ナポレオン・ボナパルトの甥であるナポレオン3世が、大統領になった。ナポレオン3世は51年にクーデタを起こし、翌年にフランスの皇帝の地位に就いた。
 ナポレオン3世は、1860年まで専制支配を行い、対外膨張と産業資本の利益擁護政策を推進した。フランスは、イギリスに次ぐ植民地帝国だった。北米、南米、アフリカ、中東、アジア等に進出し、各地域に植民地を持っていた。武力で獲得した土地で、カトリック教会の宣教師はキリスト教を伝えた。フランスは、イギリスが1840年のアヘン戦争でシナ文明の清王朝に貿易制限を撤廃させると、イギリスと組んで、56年にアロー号戦争を起こした。英仏連合軍は、広州・天津・北京を占領し、清と北京条約を結び、開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。これにより、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。各国のキリスト教会がシナで宣教するなか、フランスのカトリック教会もシナでの宣教を進めた。
 ナポレオン3世は、ビスマルクを宰相とするプロイセンの強大化を恐れ、1870年、プロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争を開始した。しかし、セダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となり、第二帝政は崩壊した。プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国の成立が宣言された。フランスは敗戦により、プロイセンはアルザス=ロレーヌ地方を割譲した。
 フランスは、第3共和制に変わった。イギリスは1870年代から帝国主義政策を推進した。フランスもこれにならった。イギリス、ドイツ、ロシア等と互いに資源と市場を求めて争った。アフリカや中東、アジア等で、帝国主義諸国による再分割の争奪戦を繰り広げた。

●ユダヤ人の解放と反ユダヤ主義

 ここで、フランス市民革命におけるユダヤ人の解放とその後の反ユダヤ主義について書きたい。
 フランスではカトリック教会の権威が増大した14世紀末に、ユダヤ人に対する迫害が進んだ。1394年には追放に至った。それがフランス革命を機に一転し、ヨーロッパで初めてユダヤ人の解放が実現した。
 1789年の人権宣言は、第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と謳った。宣言が謳う自由と権利は、ユダヤ人にも適用されるようになった。
91年9月、人権宣言のもと、国民会議はユダヤ人解放令を出し、フランスのユダヤ人に完全な市民権を認めた。これは、西欧におけるユダヤ人の歴史において、画期的なことだった。
 フランス革命が起ったパリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等を価値とする思想が展開された。英米と異なり、自由だけでなく、平等を重視する。平等の重視は、政治的にはデモクラティックになり、急進的になる。フランスでは、それが過激な革命運動となった。また、一方で、宗教の違いにかかわらず平等の権利が保障され、ユダヤ人の地位が向上した。
 フランス革命でユダヤ人にも市民権が認められると、その影響が他の国にも広がった。1796年にはオランダ、1798年にはイタリアのローマ、1812年にはプロシアというように、次第にユダヤ人の平等権が保障されるようになった。
 とはいえ、実態としてのユダヤ人差別は、根強く残っていた。そうした18~19世紀の西欧で、ユダヤ人を会員として分け隔てなく受け入れたほとんど唯一の友愛団体が、フリーメイソンだった。
 フリーメイソンは、宗教の違いを超えて会員を受け入れることを原則としていた。中世以来、差別されていたユダヤ人は、近代化の進むキリスト教文化圏で、ゲットーでの生活から抜け出て社会に参入しようとしていた。そのために、自由を求めて、フリーメイソンに入会しようとした。フリーメイソンは、ユダヤ人にとって、キリスト教徒と対等な立場で仲間づきあいができる外にない場だった。メイソンの会員であることは、社会的地位の高さを示すから、ユダヤ人富裕層が入会を求めて殺到した。ユダヤ人の参加に困惑し、制限するロッジもあったが、受け入れるロッジもあった。ユダヤ人にとってフリーメイソンは非常に居心地がよかったので、やがてユダヤ人ばかりになった支部も多く出現した。それに対する警戒や反発も存在した。
 ユダヤ人は市民革命を通じて、自由と権利が拡大された。ところが、その約100年後、アンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)の高揚に直面することになった。
 アンチ・セミティズムは、東欧、ロシア、フランス、オーストリア等に広がった。ロシアでは帝政末期の混乱の中で、ユダヤ人を無差別に殺戮するポグロムが行われた。その波がフランスにも及んだ。1884年パリでアンチ・セミティズムの会議が開かれた。その10年後、反ユダヤ主義が増勢する中で、1894年にフランスでドレフュス事件が起こった。ユダヤ人砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑の冤罪で、終身刑の判決を受けた。それがきっかけでフランス全土に反ユダヤの嵐が吹き荒れた。
 反ユダヤ主義は、フリーメイソンへの攻撃ともなっていた。ドレフュス事件で、ドレフュスを擁護する側の多くは、フリーメイソンだった。作家のエミール・ゾラや政治家でジャーナリストのジョルジュ・クレマンソーのようにメイソンでない者もいたが、反ドレフュス派はドレフュス擁護派をメイソンだとして非難し、フリーメイソンの禁止を求めた。そして、ユダヤ人とメイソンを同一視し、ユダヤ人はメイソンであり、メイソンはユダヤ人だという陰謀説が出来上がった。その説は以後、根強く続いている。
 どうして、ヨーロッパで初めてユダヤ人の解放をしたフランスで、反ユダヤ主義が高揚したのか。その背景には、家族型による価値観の影響がある。パリ盆地の中央部は、平等主義的核家族を主とする。平等主義核家族は、自由と平等を価値として、「人間は皆同じ」という普遍主義の考え方をする。ところが、フランスの周辺部では、直系家族が主になっている。直系家族は、権威と不平等を価値とし、「人間は皆違う」という差異主義の考え方をする。そのため、中央部は普遍主義的だが、周辺部は差異主義的である。これをトッドは「人類学的システムの二元性」と呼んでいる。中央部では世俗化が進み、周辺部ではカトリックが根強い。そして、周辺部の差異主義が時々、表に現れる。ドレフュス事件におけるようなアンチ・セミティズムがフランスで高揚したのは、こうした家族型に根差す背景がある。

 次回に続く。