●ナポレオンの宗教協約から政教分離法へ
ナポレオンが行った政教条約は、コンコルダートと呼ばれる。コンコルダートとは、ローマ教皇と国家君主との間で国際法の形式に準じて結ばれる条約をいう。教会と国家の関係を調整するための協定である。15世紀から歴代教皇は各国君主とこうした協定を結んできていた。
フランス市民革命が勃発すると、絶対王政時代のカトリック教会の圧政や堕落に対する不満や批判が噴出した。カトリック教会は国教ではなくなり、国家管理下に置かれ、教会の十分の一税が廃止され、教会財産が没収された。そのため、革命政府とカトリック教会は激しく対立した。それが、社会的不安定の一つの要因となっていた。
ナポレオンは、1799年に権力を握ると、それまでの革命政府の反カトリック政策を転換することとし、1801年、ローマ教皇ピオ7世との間でコンコルダートを結んだ。これによって、フランス政府とローマ教皇庁の対立状態を、修復した。この協約において、教皇ピウス7世はナポレオンの統領政府を正式に承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意した。叙任権は、教皇が持つが、人選は第一統領が指名大権を持った。任命を受ける聖職者は、フランス国家への忠誠宣誓を必須とした。聖職者の公定俸給は国が支払うことになった。教区の変更の線引きは、教会と国家が協議して決めることになった。カトリック教会は、国教ではないが、それに近い「フランス人の最大多数の宗教」という立場になった。これを公認制という。
教皇との和解は、ナポレオンが、カトリック教徒が多いフランスで人心をとらえる上で大きな役割を果たした。1802年に、ナポレオンが国民投票によって終身の第一統領に就任した際に、国民から熱狂的な支持を得たのは、彼の軍事的・外交的な能力とともに、この協定の実現にもよっている。教皇からフランス皇帝の指名を受けることができたのも、コンコルダートで教会との関係を修復していたからである。
コンコルダートの締結以後、カトリック教会はフランスでの影響力を回復し、ナポレオン没落後の王政復古期には王権を支える勢力となった。だが、カトリック教会は、一枚岩ではなかった。17世紀前半のコルネリウス・ヤンセンの思想を継承するジャンセニスムは、アウグスティヌスに帰れと説いて、人間の自由意志の無力さ、罪深さを強調し、イエズス会、王権、ローマ教皇庁と激しく対立した。また、17世紀末のポシュエらによるガリカニスムは、国王が世俗的事項に関して教皇の裁可を免れることや公会議が教皇権に優越することを主張し、ローマ教皇庁からフランスの教会の独立を目指した。カトリック教会は、こうした反対勢力を内部に抱えていた。
1870年に成立した第三共和政のもと、共和主義者・社会主義者が台頭し、国家の宗教からの中立を求める政教分離(セキュラリズム)を主張し続け、1905年に政教分離法が成立した。同法は、国家が信教の自由を認める一方、いかなる宗教も国家が特別に公認・優遇・支援することはなく、また国家は公共秩序のためにその宗教活動を制限することができることを明記した。また、公共団体による宗教予算の廃止、教会財産の信徒への無償譲渡、公教育での宗教教育の禁止等を定めた。これによって、ナポレオン以来のコンコルダートは破棄されることになった。
フランスでは、政教分離法によって、政教分離の原則が確立された。ただし、同法は、礼拝への公金支出禁止の特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められるなど、厳密な政府と教会との分離ではなかった。フランスの政教分離は、国家の非宗教性・宗教的中立性を意味するライシテ (laïcité) の原則に基づく。ライシテが憲法に規定されたのは、1946年の第四共和制憲法である。以後、その原則がフランス憲法に引き継がれている。
本題から離れるが、ここで政教分離のことについて述べておくと、わが国では、一部の憲法学者が日本国憲法は、国家と宗教の厳格な政教分離を定めたものだと解釈し、厳格分離が国家のあるべき姿と主張している。だが、政教分離は、政府と特定の教会(教派)の分離を定めるものである。すなわち、国教を設けることを否定したり、特定の教会(教派)を政府が公認・優遇・支援することを禁じるものである。政教分離を定めている国は、わが国のほか、アメリカ合衆国、オーストラリア等である。ただし、政教分離といっても、国家と宗教の関係をまったくなくすものではない。わが国では、日本国および日本国民統合の象徴である天皇は、神道の祭司として祭事を司る。このことは、日本が神道の伝統を保つ国家であることを表している。アメリカ合衆国では、大統領が就任の宣誓をする際に、聖書に手を置いて、神に対し宣誓することが慣習となっている。このことは、合衆国がユダヤ=キリスト教に基づく国家であることを表している。
イギリスは、信教の自由を保障しつつ、英国国教会を国教とし、国王(女王)が国教会の首長を務めている。一部の北欧諸国(デンマーク、フィンランド、アイスランド)も信教の自由を認めながら、ルーテル教会を国教に定め、同教会に対してのみ政府は保護・支援を行なっている。イタリアは、第2次世界大戦後に制定された憲法でカトリック教会を国教に定めた後、1985年以降、政教条約(コンコルダート)方式に替わった。スイス、ベルギー、ブラジル等は、優勢な宗教を尊重する寛容令方式を取っている。
国家と宗教の厳格分離は、国際標準ではまったくない。各国は自らの国の伝統に基づいて、国家と宗教のあり方をさだめているのである。
また、西欧には、キリスト教に基盤とした政党が少なくない。イタリアでは第2次世界大戦後、旧キリスト教民主党が第一党を長く占めた。ドイツでは、現在、キリスト教民主同盟(CDU)が政権与党であり、キリスト教社会同盟(CSU)と連邦議会で統一会派を組んでいる。これらのキリスト教政党は、キリスト教内の特定の教派の政治団体ではなく、広い意味でのキリスト教を政治理念の根本に置いている。
次回に続く。
ナポレオンが行った政教条約は、コンコルダートと呼ばれる。コンコルダートとは、ローマ教皇と国家君主との間で国際法の形式に準じて結ばれる条約をいう。教会と国家の関係を調整するための協定である。15世紀から歴代教皇は各国君主とこうした協定を結んできていた。
フランス市民革命が勃発すると、絶対王政時代のカトリック教会の圧政や堕落に対する不満や批判が噴出した。カトリック教会は国教ではなくなり、国家管理下に置かれ、教会の十分の一税が廃止され、教会財産が没収された。そのため、革命政府とカトリック教会は激しく対立した。それが、社会的不安定の一つの要因となっていた。
ナポレオンは、1799年に権力を握ると、それまでの革命政府の反カトリック政策を転換することとし、1801年、ローマ教皇ピオ7世との間でコンコルダートを結んだ。これによって、フランス政府とローマ教皇庁の対立状態を、修復した。この協約において、教皇ピウス7世はナポレオンの統領政府を正式に承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意した。叙任権は、教皇が持つが、人選は第一統領が指名大権を持った。任命を受ける聖職者は、フランス国家への忠誠宣誓を必須とした。聖職者の公定俸給は国が支払うことになった。教区の変更の線引きは、教会と国家が協議して決めることになった。カトリック教会は、国教ではないが、それに近い「フランス人の最大多数の宗教」という立場になった。これを公認制という。
教皇との和解は、ナポレオンが、カトリック教徒が多いフランスで人心をとらえる上で大きな役割を果たした。1802年に、ナポレオンが国民投票によって終身の第一統領に就任した際に、国民から熱狂的な支持を得たのは、彼の軍事的・外交的な能力とともに、この協定の実現にもよっている。教皇からフランス皇帝の指名を受けることができたのも、コンコルダートで教会との関係を修復していたからである。
コンコルダートの締結以後、カトリック教会はフランスでの影響力を回復し、ナポレオン没落後の王政復古期には王権を支える勢力となった。だが、カトリック教会は、一枚岩ではなかった。17世紀前半のコルネリウス・ヤンセンの思想を継承するジャンセニスムは、アウグスティヌスに帰れと説いて、人間の自由意志の無力さ、罪深さを強調し、イエズス会、王権、ローマ教皇庁と激しく対立した。また、17世紀末のポシュエらによるガリカニスムは、国王が世俗的事項に関して教皇の裁可を免れることや公会議が教皇権に優越することを主張し、ローマ教皇庁からフランスの教会の独立を目指した。カトリック教会は、こうした反対勢力を内部に抱えていた。
1870年に成立した第三共和政のもと、共和主義者・社会主義者が台頭し、国家の宗教からの中立を求める政教分離(セキュラリズム)を主張し続け、1905年に政教分離法が成立した。同法は、国家が信教の自由を認める一方、いかなる宗教も国家が特別に公認・優遇・支援することはなく、また国家は公共秩序のためにその宗教活動を制限することができることを明記した。また、公共団体による宗教予算の廃止、教会財産の信徒への無償譲渡、公教育での宗教教育の禁止等を定めた。これによって、ナポレオン以来のコンコルダートは破棄されることになった。
フランスでは、政教分離法によって、政教分離の原則が確立された。ただし、同法は、礼拝への公金支出禁止の特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められるなど、厳密な政府と教会との分離ではなかった。フランスの政教分離は、国家の非宗教性・宗教的中立性を意味するライシテ (laïcité) の原則に基づく。ライシテが憲法に規定されたのは、1946年の第四共和制憲法である。以後、その原則がフランス憲法に引き継がれている。
本題から離れるが、ここで政教分離のことについて述べておくと、わが国では、一部の憲法学者が日本国憲法は、国家と宗教の厳格な政教分離を定めたものだと解釈し、厳格分離が国家のあるべき姿と主張している。だが、政教分離は、政府と特定の教会(教派)の分離を定めるものである。すなわち、国教を設けることを否定したり、特定の教会(教派)を政府が公認・優遇・支援することを禁じるものである。政教分離を定めている国は、わが国のほか、アメリカ合衆国、オーストラリア等である。ただし、政教分離といっても、国家と宗教の関係をまったくなくすものではない。わが国では、日本国および日本国民統合の象徴である天皇は、神道の祭司として祭事を司る。このことは、日本が神道の伝統を保つ国家であることを表している。アメリカ合衆国では、大統領が就任の宣誓をする際に、聖書に手を置いて、神に対し宣誓することが慣習となっている。このことは、合衆国がユダヤ=キリスト教に基づく国家であることを表している。
イギリスは、信教の自由を保障しつつ、英国国教会を国教とし、国王(女王)が国教会の首長を務めている。一部の北欧諸国(デンマーク、フィンランド、アイスランド)も信教の自由を認めながら、ルーテル教会を国教に定め、同教会に対してのみ政府は保護・支援を行なっている。イタリアは、第2次世界大戦後に制定された憲法でカトリック教会を国教に定めた後、1985年以降、政教条約(コンコルダート)方式に替わった。スイス、ベルギー、ブラジル等は、優勢な宗教を尊重する寛容令方式を取っている。
国家と宗教の厳格分離は、国際標準ではまったくない。各国は自らの国の伝統に基づいて、国家と宗教のあり方をさだめているのである。
また、西欧には、キリスト教に基盤とした政党が少なくない。イタリアでは第2次世界大戦後、旧キリスト教民主党が第一党を長く占めた。ドイツでは、現在、キリスト教民主同盟(CDU)が政権与党であり、キリスト教社会同盟(CSU)と連邦議会で統一会派を組んでいる。これらのキリスト教政党は、キリスト教内の特定の教派の政治団体ではなく、広い意味でのキリスト教を政治理念の根本に置いている。
次回に続く。