大嘗祭の位置づけ及び国費支出について、秋篠宮殿下は、11月30日に大嘗祭が「宗教色が強いもの」であるから、国費ではなく「内廷会計で行うべきだ」とし、「身の丈に合った」儀式こそが「本来の姿ではないか」と発言されました。このご発言を受けて、皇室制度の権威である大原康男・国学院大名誉教授は、次のように述べています。
「政府は来年の大嘗祭について、平成度の前例を踏襲することを決めている。前回は政教分離の観点から大嘗祭の違憲性を問う訴訟も起きたが、原告の訴えはことごとく最高裁で却けられた。皇位の世襲は憲法で定められており、皇位継承儀礼も公的な性格を有する。国費を節約し簡素化を求められたご発言はありがたいものだが、大嘗祭に限らず宮中祭祀は国家国民の安寧慶福を祈るもので、一般の宗教とは同視できない。したがって、大嘗祭は国費で行われるべきである」
深く同意します。大原氏は、このような見解をより詳しく、本年12月14日の産経新聞の記事に書いています。また、本件について、12月1日付の産経新聞の社説(主張)の見解は的確なものだったと思います。
以下は、これらの記事の全文。
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●産経新聞 平成30年12月14日
国の儀式として大嘗祭の斎行を 国学院大学名誉教授・大原康男
正論
2018.12.14
11月30日、53歳の誕生日を迎えられた秋篠宮文仁親王殿下は、これに先だって行われた記者会見で、明年4月以降に営まれる御代替わりの諸儀のうち、最後に斎行される大嘗祭(だいじょうさい)に関していささか衝撃的な発言をされ、各方面に波紋が広がったことは記憶に新しい。
殿下は「大嘗祭自体は絶対にすべきもの」とされつつも、大嘗祭が「宗教色が強いもの」であるから、国費ではなく「内廷会計で行うべきだ」と主張、「身の丈に合った」儀式こそが「本来の姿ではないか」と結論づけられたのである。
≪大正・昭和は法令に則り実施≫
30年も前、日本国憲法の下で初めて行われた平成度の御代替わりに際して、その儀式が可能な限り伝統に即した形で執り行われるよう、微力ながらも奉賛活動に従事した一人として往事を顧みつつ、大嘗祭を含む次回の御代替わりについて少し考えてみたい。
本欄で既述したこととも重なるが、皇位継承のあり方を初めて成文法で明確に規定したのは明治22年制定の旧皇室典範である。そこで確立された一つが皇位継承の資格を「皇統に属する男系男子」に限り、もう一つが皇位継承の原因を「天皇崩御」のみに限定するという二つの原則であった。
過去にしばしば見られた「女帝」や「譲位」が、これまで皇位継承をめぐる激しい政争や流血を伴う内戦の悲劇をもたらしたことを真摯に省みて、明治維新という国家体制の大変革を機に明確なルールを定めたのである。まさに画期的なことであった。
かような経緯で構想・整備された御代替わりの儀礼は「践祚」「改元」「御大喪」「即位の礼」「大嘗祭」の五儀によって構成される。「御大喪」を除く四儀は皇室典範に基本規定を置き、具体的な儀礼の次第などの細則は典範を根拠法とする皇室令の一つである登極令が網羅的に規定、残る「御大喪」も同じく皇室令たる皇室喪儀令の定めるところによる。大正・昭和両度の御代替わりの諸儀は整備されたこれらの法令に忠実に則(のっと)って営まれたのである。
≪条文欠いた「新しい皇室典範」≫
ところが、先の大戦終結後、連合国軍総司令部(GHQ)の意向に沿って現憲法とともに昭和22年に制定された新しい皇室典範には「即位の礼」と「大喪の礼」は規定されているものの、その細則は何一つ備わっておらず、「践祚」「改元」「大嘗祭」に至っては該当する条文を全く欠いていた。
このうち「改元」については、54年に元号法が制定されて、ようやく法的な根拠が与えられたが、残る2点についての立法化は手つかずのまま放置され、10年後の御代替わりを迎えたのである。苦境に立った当時の政府はさまざまな工夫をこらさねばならなかった。
まず、「践祚」という語自体はなくなってはいるが、現典範の第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」の「即位」がこれに該当すると解し、いわゆる「三種の神器」のうち「剣」と「璽」の承継を「剣璽等承継の儀」と称して「国事行為」として行う一方、「鏡」を奉斎する賢所への奉告は宗教色を配慮してか、「皇室の行事」という別のカテゴリーを立てて挙行された。
次の「改元」は「元号は、政令で定める」という元号法の規定に基づいて何ら問題もなく行われた。ただ、条文だけを見れば天皇と無関係に閣議決定だけで決せられる危惧があったため、公表の前に天皇のご聴許を得るという手順が踏まれたと伝えられるが、やはり明文で規定すべきであろう。
≪平成は賛成に630万人が署名≫
今次の御代替わりは昨年6月に制定された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づいて、200年ぶりに行われる譲位に伴うものであるから、御大喪のことは考えなくてもよいが、その代わりに践祚の前に譲位に関する儀礼が必要となった。
最も重要な「即位の礼」はほぼ登極令に準拠し、「国事行為」として古式ゆかしく営まれたが、皇族方や役務を担った人々がすべて伝統的な装束を着用したのに対し、国民を代表して寿詞(よごと)を奏した海部俊樹首相が燕尾(えんび)服で参列したのには強い違和感を覚えた。
続いて斎行された「大嘗祭」はその宗教色がとくに問題視されたものの、そこには「世襲」に伴う「伝統的皇位継承儀式としての公的な性格がある」ことが認められ、「皇室の行事」として同じく登極令に則って斎行され、費用は天皇・皇后両陛下をはじめ内廷皇族の日常の費用である内廷費ではなく、公的皇室費と称してもいい宮廷費から支出されたのである。
秋篠宮殿下が「大嘗祭」の費用をできるだけ節約し、簡素化を求められたご発言は大変、ありがたいことではあるが、一方には国民の側の気持ちもある。平成度の御代替わりに際してキリスト教徒を中心とした「大嘗祭」反対の署名がおよそ5万8千人だったのに対し、「大嘗祭」を国の儀式として行うことを求めた署名は同じく630万人に達した事実を改めて想起したい。(国学院大学名誉教授・大原康男 おおはら やすお)
●産経新聞 平成30年12月1日
【主張】大嘗祭 国費でつつがなく挙行を
来年の皇位継承に伴う大嘗祭(だいじょうさい)について、秋篠宮さまが記者会見で、皇室の公的活動を賄う国費(宮廷費)を充てることに疑問を示された。
「宗教色が強い」「国費で賄うことが適当かどうか」として、憲法の政教分離原則を念頭に、天皇ご一家の私的活動費である内廷費を充てるべきだとの考えを示された。「身の丈にあった儀式」とすることが「本来の姿」とも指摘された。
政府は平成の御代(みよ)替わりの例にならって、来年11月の大嘗祭に国費を充てることをすでに決めている。西村康稔官房副長官は会見で、政府方針に変わりはないことを明らかにした。
大嘗祭は、新天皇が初めて行う新嘗祭(にいなめさい)で、国家国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る一世一度の祭祀(さいし)だ。即位の中核的な行事であり、国費の支出によってお支えしたい。
憲法の政教分離原則に触れるという懸念は当たらない。平成の大嘗祭に対して複数の訴訟があったが、政教分離に反しないとの最高裁判決が確定している。
政教分離は、政治権力と宗教の分離が目的である。天皇や皇族は権力を持たないし、宗教団体を擁さない。大嘗祭をはじめとする宮中祭祀を一般の宗教と同列視して、私的行為と見なす必要はないのである。
祈りは天皇の本質的、伝統的役割といえる。大嘗祭を含む宮中祭祀を、日本にとっての公の重要な行事と位置づけるべきだ。
費用を節約し、行事を簡素化しようと促された秋篠宮さまのご発言は、国民の負担をできるだけ少なくしようというお考えとして受け止めたい。
長い歴史を振り返れば、戦乱期など大嘗祭が行われなかった時代もあった。つつがなく行えるのは日本が栄えている証しである。
国民は、天皇陛下の即位に伴う重要な儀式として平成の大嘗祭を見守った。来年についても同様である。
秋篠宮さまのご発言に対して、天皇や皇族が控えられるべき政治的発言ではないかとの指摘があるが、見当違いだ。皇室のご活動に関わる重要な事柄に天皇や皇族が考えを示されるのは当然であり、封じ込められるべきではない。
ご発言で、山本信一郎宮内庁長官が「聞く耳を持たなかった」と評された。皇族と宮内庁の綿密な意思疎通も大切である。
https://www.sankei.com/column/news/181201/clm1812010002-n1.html?fbclid=IwAR3W7SPSCtFeSIKBrT7hxVLp6KuKybJMYwyRtmARFeNaJm0YZ6GJwKSym5s
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「政府は来年の大嘗祭について、平成度の前例を踏襲することを決めている。前回は政教分離の観点から大嘗祭の違憲性を問う訴訟も起きたが、原告の訴えはことごとく最高裁で却けられた。皇位の世襲は憲法で定められており、皇位継承儀礼も公的な性格を有する。国費を節約し簡素化を求められたご発言はありがたいものだが、大嘗祭に限らず宮中祭祀は国家国民の安寧慶福を祈るもので、一般の宗教とは同視できない。したがって、大嘗祭は国費で行われるべきである」
深く同意します。大原氏は、このような見解をより詳しく、本年12月14日の産経新聞の記事に書いています。また、本件について、12月1日付の産経新聞の社説(主張)の見解は的確なものだったと思います。
以下は、これらの記事の全文。
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●産経新聞 平成30年12月14日
国の儀式として大嘗祭の斎行を 国学院大学名誉教授・大原康男
正論
2018.12.14
11月30日、53歳の誕生日を迎えられた秋篠宮文仁親王殿下は、これに先だって行われた記者会見で、明年4月以降に営まれる御代替わりの諸儀のうち、最後に斎行される大嘗祭(だいじょうさい)に関していささか衝撃的な発言をされ、各方面に波紋が広がったことは記憶に新しい。
殿下は「大嘗祭自体は絶対にすべきもの」とされつつも、大嘗祭が「宗教色が強いもの」であるから、国費ではなく「内廷会計で行うべきだ」と主張、「身の丈に合った」儀式こそが「本来の姿ではないか」と結論づけられたのである。
≪大正・昭和は法令に則り実施≫
30年も前、日本国憲法の下で初めて行われた平成度の御代替わりに際して、その儀式が可能な限り伝統に即した形で執り行われるよう、微力ながらも奉賛活動に従事した一人として往事を顧みつつ、大嘗祭を含む次回の御代替わりについて少し考えてみたい。
本欄で既述したこととも重なるが、皇位継承のあり方を初めて成文法で明確に規定したのは明治22年制定の旧皇室典範である。そこで確立された一つが皇位継承の資格を「皇統に属する男系男子」に限り、もう一つが皇位継承の原因を「天皇崩御」のみに限定するという二つの原則であった。
過去にしばしば見られた「女帝」や「譲位」が、これまで皇位継承をめぐる激しい政争や流血を伴う内戦の悲劇をもたらしたことを真摯に省みて、明治維新という国家体制の大変革を機に明確なルールを定めたのである。まさに画期的なことであった。
かような経緯で構想・整備された御代替わりの儀礼は「践祚」「改元」「御大喪」「即位の礼」「大嘗祭」の五儀によって構成される。「御大喪」を除く四儀は皇室典範に基本規定を置き、具体的な儀礼の次第などの細則は典範を根拠法とする皇室令の一つである登極令が網羅的に規定、残る「御大喪」も同じく皇室令たる皇室喪儀令の定めるところによる。大正・昭和両度の御代替わりの諸儀は整備されたこれらの法令に忠実に則(のっと)って営まれたのである。
≪条文欠いた「新しい皇室典範」≫
ところが、先の大戦終結後、連合国軍総司令部(GHQ)の意向に沿って現憲法とともに昭和22年に制定された新しい皇室典範には「即位の礼」と「大喪の礼」は規定されているものの、その細則は何一つ備わっておらず、「践祚」「改元」「大嘗祭」に至っては該当する条文を全く欠いていた。
このうち「改元」については、54年に元号法が制定されて、ようやく法的な根拠が与えられたが、残る2点についての立法化は手つかずのまま放置され、10年後の御代替わりを迎えたのである。苦境に立った当時の政府はさまざまな工夫をこらさねばならなかった。
まず、「践祚」という語自体はなくなってはいるが、現典範の第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」の「即位」がこれに該当すると解し、いわゆる「三種の神器」のうち「剣」と「璽」の承継を「剣璽等承継の儀」と称して「国事行為」として行う一方、「鏡」を奉斎する賢所への奉告は宗教色を配慮してか、「皇室の行事」という別のカテゴリーを立てて挙行された。
次の「改元」は「元号は、政令で定める」という元号法の規定に基づいて何ら問題もなく行われた。ただ、条文だけを見れば天皇と無関係に閣議決定だけで決せられる危惧があったため、公表の前に天皇のご聴許を得るという手順が踏まれたと伝えられるが、やはり明文で規定すべきであろう。
≪平成は賛成に630万人が署名≫
今次の御代替わりは昨年6月に制定された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づいて、200年ぶりに行われる譲位に伴うものであるから、御大喪のことは考えなくてもよいが、その代わりに践祚の前に譲位に関する儀礼が必要となった。
最も重要な「即位の礼」はほぼ登極令に準拠し、「国事行為」として古式ゆかしく営まれたが、皇族方や役務を担った人々がすべて伝統的な装束を着用したのに対し、国民を代表して寿詞(よごと)を奏した海部俊樹首相が燕尾(えんび)服で参列したのには強い違和感を覚えた。
続いて斎行された「大嘗祭」はその宗教色がとくに問題視されたものの、そこには「世襲」に伴う「伝統的皇位継承儀式としての公的な性格がある」ことが認められ、「皇室の行事」として同じく登極令に則って斎行され、費用は天皇・皇后両陛下をはじめ内廷皇族の日常の費用である内廷費ではなく、公的皇室費と称してもいい宮廷費から支出されたのである。
秋篠宮殿下が「大嘗祭」の費用をできるだけ節約し、簡素化を求められたご発言は大変、ありがたいことではあるが、一方には国民の側の気持ちもある。平成度の御代替わりに際してキリスト教徒を中心とした「大嘗祭」反対の署名がおよそ5万8千人だったのに対し、「大嘗祭」を国の儀式として行うことを求めた署名は同じく630万人に達した事実を改めて想起したい。(国学院大学名誉教授・大原康男 おおはら やすお)
●産経新聞 平成30年12月1日
【主張】大嘗祭 国費でつつがなく挙行を
来年の皇位継承に伴う大嘗祭(だいじょうさい)について、秋篠宮さまが記者会見で、皇室の公的活動を賄う国費(宮廷費)を充てることに疑問を示された。
「宗教色が強い」「国費で賄うことが適当かどうか」として、憲法の政教分離原則を念頭に、天皇ご一家の私的活動費である内廷費を充てるべきだとの考えを示された。「身の丈にあった儀式」とすることが「本来の姿」とも指摘された。
政府は平成の御代(みよ)替わりの例にならって、来年11月の大嘗祭に国費を充てることをすでに決めている。西村康稔官房副長官は会見で、政府方針に変わりはないことを明らかにした。
大嘗祭は、新天皇が初めて行う新嘗祭(にいなめさい)で、国家国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る一世一度の祭祀(さいし)だ。即位の中核的な行事であり、国費の支出によってお支えしたい。
憲法の政教分離原則に触れるという懸念は当たらない。平成の大嘗祭に対して複数の訴訟があったが、政教分離に反しないとの最高裁判決が確定している。
政教分離は、政治権力と宗教の分離が目的である。天皇や皇族は権力を持たないし、宗教団体を擁さない。大嘗祭をはじめとする宮中祭祀を一般の宗教と同列視して、私的行為と見なす必要はないのである。
祈りは天皇の本質的、伝統的役割といえる。大嘗祭を含む宮中祭祀を、日本にとっての公の重要な行事と位置づけるべきだ。
費用を節約し、行事を簡素化しようと促された秋篠宮さまのご発言は、国民の負担をできるだけ少なくしようというお考えとして受け止めたい。
長い歴史を振り返れば、戦乱期など大嘗祭が行われなかった時代もあった。つつがなく行えるのは日本が栄えている証しである。
国民は、天皇陛下の即位に伴う重要な儀式として平成の大嘗祭を見守った。来年についても同様である。
秋篠宮さまのご発言に対して、天皇や皇族が控えられるべき政治的発言ではないかとの指摘があるが、見当違いだ。皇室のご活動に関わる重要な事柄に天皇や皇族が考えを示されるのは当然であり、封じ込められるべきではない。
ご発言で、山本信一郎宮内庁長官が「聞く耳を持たなかった」と評された。皇族と宮内庁の綿密な意思疎通も大切である。
https://www.sankei.com/column/news/181201/clm1812010002-n1.html?fbclid=IwAR3W7SPSCtFeSIKBrT7hxVLp6KuKybJMYwyRtmARFeNaJm0YZ6GJwKSym5s
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