●西洋文明の挑戦に対する非西洋諸文明の応戦
次に、欧米及びその植民地による西洋文明とは異なる文明における国民国家の形成・発展について述べたい。
文明学的には、西洋文明の世界的進出と、これに対応する非西洋文明における国民国家の形成・発展の過程は、アーノルド・トインビーの説く「挑戦と応戦」(challenge and response)にあたる。
トインビーは、文明の誕生について「挑戦と応戦」の理論を提示した。「挑戦」とは、ある社会が環境の激変や戦争などによって、その存亡にかかわる困難な試練に直面することであり、「応戦」とは、この困難な課題に対して、創造的に対応しその脅威を乗り越えようとすることをいう。文明はこの「挑戦」に対する「応戦」によって発生するとトインビーは考えた。
「挑戦と応戦」は、文明の誕生の時だけでなく、その後の文明のサイクルの各段階においても、重要な作用をする。ひとたび誕生した文明は、さまざまな困難を克服しながら、成長していく。しかし、危機に対して、有効な「応戦」ができなかった文明は、滅亡してしまう。
15世紀末以降、西洋白人種がいわゆる地理的な発見によって、彼らにとっての新大陸に進出し、多くの文明・文化を征服・支配した。アフリカでは、多くのエスニック・グループが白人種との戦いに敗れ、奴隷として新大陸に強制連行された。伝統的な文化の多くが破壊された。ラテン・アメリカでは、ペルーのインカ文明、メキシコのアステカ文明、マヤ文明等が滅亡に追い込まれた。アジアでも多くの地域が植民地とされた。イスラム文明、インド文明、シナ文明等の国々が、白人種によって支配・収奪されることになった。
こうしたなかで、西洋文明の挑戦に対して有効な応戦を行い、自らの文明を維持・発展させ得た代表的な存在が、東方正教文明のロシア、及び日本文明の日本である。
●ロシアにおける国民国家の形成・発展
ロシアは、東方正教文明の中核国家である。東方正教文明は、西洋文明とキリスト教を共有するが、古代ローマ帝国の東西分裂後、宗派を異にする別の文明として発達した。
ロシアでは、16世紀半ばイワン4世がロシアを統一し、初めて皇帝(ツアーリ)を名乗った。以後、ロシアは中央集権国家として成長した。17世紀末のロマノフ朝ピョートル1世の時代から一大帝国となり、西欧諸国に伍する存在となった。シベリアを支配し、アジアへの進出を図った。19世紀初頭ナポレオン率いるフランス軍がモスクワ遠征を行った際、ロシア帝国はこれを撃退した。しかし、この戦争によって、皇帝は西欧発の国民国家の強力性を知り、西欧文化の導入によって上からの近代化を進めた。当時のロシアは、欧米を中核部とする近代世界システムの半周辺部に位置した。日本とは異なり、西欧と陸続きという地理的条件にあった。
ロシアは、19世紀後半から一連の社会改革により資本主義の急速な発達を図った。またロシア語を中心に「正教・専制・国民性」というスローガンにより、国民の文化的な均一化を図る政策を行った。これは、形式的な国民を実質的な国民に変えていくための政策である。こうした政策はロシア帝国特有のものではない。半周辺部及び周辺部に存在する諸文明で、西欧発の国民国家を目指す帝国の多くがこれと似た政策を行った。ここにおけるナショナリズムを、アンダーソンは「公定ナショナリズム」と呼んでいる。私見では、国家発展段階における内部充実型のナショナリズムである。また、上からのナショナリズムである。
西欧発の国民国家を範例として国家を改造することは、西洋文明の摂取となる。資本主義、科学技術、法制度、価値観、思想等を取り入れることは、知識人の間に欧化主義と土着主義の対立を引き起こす。単なる模倣では、西洋文明に飲み込まれてしまう。守旧的な態度では、生産力・軍事力に優る欧米列強に対抗していけない。近代西洋文明の文化要素を取捨選択し、固有の文化に適合するように変換・活用して、自らの文明を創造的に発展させることができるかどうかが課題である。この課題への取り組みは、国民の意識の統合と文化的な均一化なくしては、成功し得ない。
16世紀から19世紀の間に急激に膨張したロシア帝国は、獲得した領土が広大であり、またあまりに多数の民族が居住するため、国民の実質化がうまく進まなかった。その状態のロシアで革命が起こって帝政が倒され、ソビエト社会主義共和国連邦が設立された。ソ連は、共産主義の思想のもとに、旧ロシア帝国が成し遂げられなかった課題を継承することになった。
話が本章の範囲を超え、20世紀に及んでしまうが、ソ連の統治機構は連邦制であり、一個のネ イションの中に、多くのエスニック・グループによる多数の共和国がサブ・ネイションとして所属する構造だった。また、それぞれのサブ・ネイションにおいて、主要なエスニック・グループと、少数派または弱小のエスニック・グループが存在した。マルクス=レーニン主義は階級闘争の理論であり、民族より階級を上位に置く。だが、ソ連の実態は、人口で5割を占めるロシア民族が他の少数民族を支配するものなった。またソ連は国家として東欧諸国を支配・収奪した。共産党という党派集団が、労働者階級、農民階級を支配し、同時に中小のエスニックな共和国及び周辺諸国を支配するという三重の支配構造が、ソ連の特徴だった。
家族型については、ロシアは共同体家族が主となっている地域である。この型が生み出す価値観は、権威と平等である。権威=平等的な集団主義は、ツアーリのような強力な独裁者に、集団の全体が服従する社会に肯定的である。帝政ロシアとソ連へと封建制から社会主義に変わったが、独裁者に全体が服従するという家族型的価値観に基づく社会構造は継続した。そのため、ロシアでは、欧米的なリベラリズムは長く浸透しなかった。その一方、上からのナショナリズムは、強力に進められた。既に16世紀以降、膨張を続けていたロシア帝国は、革命後は共産主義の思想と組織のもとで、対外拡張型のナショナリズムを一段と発揮した。マルクス主義は、人権の観念はブルジョワ思想として批判する。そこに、ロシアの家族型的価値観が加わったため、人権の思想は長く発達しなかった。
次回に続く。
次に、欧米及びその植民地による西洋文明とは異なる文明における国民国家の形成・発展について述べたい。
文明学的には、西洋文明の世界的進出と、これに対応する非西洋文明における国民国家の形成・発展の過程は、アーノルド・トインビーの説く「挑戦と応戦」(challenge and response)にあたる。
トインビーは、文明の誕生について「挑戦と応戦」の理論を提示した。「挑戦」とは、ある社会が環境の激変や戦争などによって、その存亡にかかわる困難な試練に直面することであり、「応戦」とは、この困難な課題に対して、創造的に対応しその脅威を乗り越えようとすることをいう。文明はこの「挑戦」に対する「応戦」によって発生するとトインビーは考えた。
「挑戦と応戦」は、文明の誕生の時だけでなく、その後の文明のサイクルの各段階においても、重要な作用をする。ひとたび誕生した文明は、さまざまな困難を克服しながら、成長していく。しかし、危機に対して、有効な「応戦」ができなかった文明は、滅亡してしまう。
15世紀末以降、西洋白人種がいわゆる地理的な発見によって、彼らにとっての新大陸に進出し、多くの文明・文化を征服・支配した。アフリカでは、多くのエスニック・グループが白人種との戦いに敗れ、奴隷として新大陸に強制連行された。伝統的な文化の多くが破壊された。ラテン・アメリカでは、ペルーのインカ文明、メキシコのアステカ文明、マヤ文明等が滅亡に追い込まれた。アジアでも多くの地域が植民地とされた。イスラム文明、インド文明、シナ文明等の国々が、白人種によって支配・収奪されることになった。
こうしたなかで、西洋文明の挑戦に対して有効な応戦を行い、自らの文明を維持・発展させ得た代表的な存在が、東方正教文明のロシア、及び日本文明の日本である。
●ロシアにおける国民国家の形成・発展
ロシアは、東方正教文明の中核国家である。東方正教文明は、西洋文明とキリスト教を共有するが、古代ローマ帝国の東西分裂後、宗派を異にする別の文明として発達した。
ロシアでは、16世紀半ばイワン4世がロシアを統一し、初めて皇帝(ツアーリ)を名乗った。以後、ロシアは中央集権国家として成長した。17世紀末のロマノフ朝ピョートル1世の時代から一大帝国となり、西欧諸国に伍する存在となった。シベリアを支配し、アジアへの進出を図った。19世紀初頭ナポレオン率いるフランス軍がモスクワ遠征を行った際、ロシア帝国はこれを撃退した。しかし、この戦争によって、皇帝は西欧発の国民国家の強力性を知り、西欧文化の導入によって上からの近代化を進めた。当時のロシアは、欧米を中核部とする近代世界システムの半周辺部に位置した。日本とは異なり、西欧と陸続きという地理的条件にあった。
ロシアは、19世紀後半から一連の社会改革により資本主義の急速な発達を図った。またロシア語を中心に「正教・専制・国民性」というスローガンにより、国民の文化的な均一化を図る政策を行った。これは、形式的な国民を実質的な国民に変えていくための政策である。こうした政策はロシア帝国特有のものではない。半周辺部及び周辺部に存在する諸文明で、西欧発の国民国家を目指す帝国の多くがこれと似た政策を行った。ここにおけるナショナリズムを、アンダーソンは「公定ナショナリズム」と呼んでいる。私見では、国家発展段階における内部充実型のナショナリズムである。また、上からのナショナリズムである。
西欧発の国民国家を範例として国家を改造することは、西洋文明の摂取となる。資本主義、科学技術、法制度、価値観、思想等を取り入れることは、知識人の間に欧化主義と土着主義の対立を引き起こす。単なる模倣では、西洋文明に飲み込まれてしまう。守旧的な態度では、生産力・軍事力に優る欧米列強に対抗していけない。近代西洋文明の文化要素を取捨選択し、固有の文化に適合するように変換・活用して、自らの文明を創造的に発展させることができるかどうかが課題である。この課題への取り組みは、国民の意識の統合と文化的な均一化なくしては、成功し得ない。
16世紀から19世紀の間に急激に膨張したロシア帝国は、獲得した領土が広大であり、またあまりに多数の民族が居住するため、国民の実質化がうまく進まなかった。その状態のロシアで革命が起こって帝政が倒され、ソビエト社会主義共和国連邦が設立された。ソ連は、共産主義の思想のもとに、旧ロシア帝国が成し遂げられなかった課題を継承することになった。
話が本章の範囲を超え、20世紀に及んでしまうが、ソ連の統治機構は連邦制であり、一個のネ イションの中に、多くのエスニック・グループによる多数の共和国がサブ・ネイションとして所属する構造だった。また、それぞれのサブ・ネイションにおいて、主要なエスニック・グループと、少数派または弱小のエスニック・グループが存在した。マルクス=レーニン主義は階級闘争の理論であり、民族より階級を上位に置く。だが、ソ連の実態は、人口で5割を占めるロシア民族が他の少数民族を支配するものなった。またソ連は国家として東欧諸国を支配・収奪した。共産党という党派集団が、労働者階級、農民階級を支配し、同時に中小のエスニックな共和国及び周辺諸国を支配するという三重の支配構造が、ソ連の特徴だった。
家族型については、ロシアは共同体家族が主となっている地域である。この型が生み出す価値観は、権威と平等である。権威=平等的な集団主義は、ツアーリのような強力な独裁者に、集団の全体が服従する社会に肯定的である。帝政ロシアとソ連へと封建制から社会主義に変わったが、独裁者に全体が服従するという家族型的価値観に基づく社会構造は継続した。そのため、ロシアでは、欧米的なリベラリズムは長く浸透しなかった。その一方、上からのナショナリズムは、強力に進められた。既に16世紀以降、膨張を続けていたロシア帝国は、革命後は共産主義の思想と組織のもとで、対外拡張型のナショナリズムを一段と発揮した。マルクス主義は、人権の観念はブルジョワ思想として批判する。そこに、ロシアの家族型的価値観が加わったため、人権の思想は長く発達しなかった。
次回に続く。