ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

対米依存で専守非核の日本6

2007-01-03 10:17:22 | 国際関係
●佐藤=ジョンソン会談で「核の傘」が明言

 昭和42年に佐藤栄作首相は、非核三原則を唱えた。どうして、佐藤はこれを唱えることになったのか。
 中国が最初の核実験を行ったのは、昭和39年(1964)の10月だった。その直後の12月、佐藤栄作首相はライシャワー駐日米大使と会談した。ライシャワーは、会談の内容について、ラスク国務長官に極秘文書を提出した。

 佐藤はライシャワーとの会談で、中国の核実験に関して、「もし相手が核を持っているのなら、自分も持つのは常識である」と述べたとライシャワー報告は書いている。
 ライシャワーは、「佐藤が池田よりも慎重さに欠けるとの評判通りだ。彼の率直さと熱意は新鮮だが、私はそこに深刻な危険も見る。彼が危険なコースに陥らないよう、池田にした以上の教育が必要だ」と本国に打電した。
 これを受けたラスクは、「これ以上の核拡散」に反対すべきであることなどをリンドン・ジョンソン大統領に進言した。 

 翌40年(1965)1月、佐藤=ジョンソン会談が行われた。会談で佐藤は核保有論に言及していないらしいが、米側文書には、ジョンソンが「もし日本が防衛のためにアメリカの核抑止力を必要としたときは、アメリカは約束に基づき防衛力を提供すると述べた」とある。佐藤は「それが問いたかったことである」と語った。ジョンソンは、日本の核武装を防ぐために、初めて「核の傘」の提供を明言したとされる。

 その後に、佐藤は非核三原則を提唱した。佐藤は、自主的な核戦力を持つ意思があったのに、ライシャワーらに「教育」されて考えを変えたのか。それとも核保有の意思を示すことで、アメリカから「核の傘」の提供を引き出すことが狙いだったのか。
 真相はわからないが、わが国は、実際には当てにならない「核の傘」の下に入り、国民は自主独立の精神を一層失う結果となった。

●「持ち込ませず」で「持ち込みOK」の欺瞞

 話しは少し飛ぶが、昭和46年(1971)、佐藤政権の時に、日米間で沖縄返還協定が調印された。翌47年、27年ぶりに沖縄は日本本土に復帰した。沖縄返還は、戦勝国が敗戦国に領土を返還した歴史的に稀な出来事だった。この際、佐藤の提唱した非核三原則のうち、「持ち込ませず」が重要な原則として機能した。基地付きだが、核抜きだというわけである。
 しかし、「持ち込ませず」は、まことに疑わしい。米国艦隊は、核兵器を装備した状態で、日本に寄航しているはずである。新安保条約には事前協議が定められているが、実際には行われていない。入港時に、日本側が検査をするわけでもない。
 建前は「持ち込ませず」だが、実態は「持ち込みOK」だろう。「持ちこませず」という文言は、私には、国民を欺くためとしか考えられない。

 その後、非核三原則は、あたかも憲法の規定に並ぶ不変の大原則であるかのようになっている。しかし、この三原則は法制化されたものではない。また国際条約でもない。あくまで政策として取られているものであって、国益に照らし、また国際情勢によって再検討されるべきものである。私は、まずこれまでの欺瞞をやめ、「持ち込ませず」という原則をはずすべきだと思う。

●知られざる70年安保の危機

 昭和40年代のわが国は、戦後かつてない激動の時代を迎えていた。
 昭和35年締結の新安保条約は、10年が期限だった。昭和45年、1970年はその期限の年だった。その後は、1年ごとに自動延長されるという定めとなっていた。
 昭和40年に、大学紛争にはじまった学生運動は、43年に全共闘の結成に至り、新左翼を中心とした暴力革命運動に変化していった。焦点は、70年安保だった。共産革命をめざす勢力は、日米安保の破棄を呼号して激しい実力闘争を繰り広げた。安保を堅持すべしとする勢力は、治安を保ち、日米安保の自動延長をめざした。

 昭和40年の年頭、透徹した洞察力を持つ大塚寛一先生は、重要な警告をされていた。3年から5年のうちに、日本はもとより人類は存亡の岐路に遭遇するというのである。警告後まもなく、世界は激動の時代に入った。アメリカのベトナム北爆、中ソ対立、中東戦争など一触即発の危機が続いた。欧米先進国では、共産主義革命運動が激化し、赤旗の波はわが国にも押し寄せた。背後には、世界の共産化をめざすソ連の工作や資金援助があった。加えて毛沢東の思想が、知識人・学生を酔わせていた。
 こうしたなか、大塚先生は、昭和43年6月、日本精神復興促進運動を開始し、活発な啓蒙活動を展開された。全国の人口30万人以上の都市で連続講演をし、日本人は日本精神に返れと訴えをされた。

 私は翌44年4月、故郷北海道の高校に入学した。この年は、東大安田講堂の攻防戦に始まり、70年安保をめぐる大衆闘争で国内が騒然としていた。ベトナム戦争の反戦運動が急進化するなか、アメリカはアポロによる人類初めての月面歩行に成功した。東京・大阪等の大学だけでなく、オホーツク海に近い田舎の高校でも学生による紛争があった。そういう時代だった。
 この年の12月、衆議院総選挙があった。安保破棄を唱導する社会党が、圧倒的優勢と見られていた。多くのマスメディアが盛んに政府批判を煽っていた。もしこの選挙で社会党が大勝し、政権が左翼に移動していたら、日米安保は破棄されたかもしれない。
 左翼政権は、日本を無防備化する非武装中立政策を取っただろう。アメリカがこれに介入すれば、反米闘争が高まり、親ソ容共勢力は、共産軍による「解放」を求めただろう。仮に北海道や北九州等から、共産軍が侵攻したら、日本列島は米ソの決戦場となったかも知れない。最悪、米ソが日本で互いに核を撃ち合い、それがきっかけで核による第3次世界大戦に発展した危険性もあった。
 幸い総選挙は、予想を覆して社会党の惨敗に終わった。左翼の暴力革命運動は下火になり、翌45年の6月23日、安保条約は自動延長された。日本の共産化は防がれた。

 70年安保の時期の危機が、世界的に見て、いかに大きなものだったか。大塚先生の著書や講演記録を読むと慄然とするものがある。日本の指導者、世界の有識者でも、この危機の意味するものに気づいている人は、まだほとんどいない。
 あまりにも時代の先を見通した警告や建策は、多くの人に理解されるために、30年、50年の月日を必要とするのかもしれない。

 次回に続く。

参考資料
・大塚寛一著『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872576896/mixi02-22/