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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

安重根は犯罪者であり、「英雄」ではない2

2013-12-19 08:48:22 | 歴史
●伊藤は当初韓国統合に反対だった

 ハーグ密使事件をきっかけに、日本では一気に併合を進めるべきだとする声が高まった。だが、日本は第3次協約を締結し、統監権限を強化する取り決めのみとした。韓国併合について、陸奥宗光、曾禰荒助等は反対派、桂太郎、山縣有朋等は推進派だった。伊藤博文は、韓国を保護国化し実質的に統治することで充分と考え、当初は韓国併合に反対の立場を取っていた。理由は、わが国は日露戦争で莫大な戦費を費やし、貧困国の合併にかかる出費をする余裕のないこと。韓国を併合すれば、韓国の対外債務を引き受けねばならないこと。また台湾の開発の経験から見て、一視同仁の思想による民生の向上には莫大な費用がかかること等である。
 これらの理由に加えて、伊藤は韓国人の資質を高く評価していた。韓国を訪れた新渡戸稲造は伊藤と面会した際、新渡戸が「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果してできましょうか」と問うと、伊藤はこう答えたという。
 「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない」(新渡戸稲造『偉人群像』)
 すなわち伊藤は、将来韓国人自身が韓国を統治することを期待しつつ、韓国の政治改革に努めていたのである。日韓の共存共栄を理想としていたのだろう。
 しかし、伊藤は義兵闘争が盛んになると考え方を変えた。1909年(明治42年)4月、時の首相・桂太郎と外相・小村壽太郎が併合の方針を提示すると、その大網を是認した。伊藤の意思を確認した桂内閣は同年7月、「韓国併合の基本方針」を閣議決定した。伊藤は、同年5月に統監を辞任した後、4度目となる枢密院議長に就任した。そして、訪韓して残務を行った。
 伊藤は積極的な韓国併合論者ではなく、韓国の自立を願いながら、韓国の発展に努めたのである。
 伊藤は1907年(明治40年)5月28日、総督府の日本人幹部に対する訓示で次のように述べた。
 「荀くも数千年の歴史と文明を有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論に賛成せず、またわが陛下の御思召も決してそうではない」
このように説いていた伊藤は、政府の韓国併合の方針を容認するに至っても、併合及びその後の政治は、韓国人の資質を評価し、その自立心を尊重する進め方を求めたことだろう。
 深谷博治著『明治日本の対韓政策』(友邦協会)は、次のような伊藤の言葉を伝えている。
 「日本は非文明的、非人道的な働きをしてまでも韓国を滅ぼさんと欲するものではない。韓国の進歩は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。日章旗と巴字旗(韓国旗)とが並び立てば日本は満足である。日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
 日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが、日本は韓国を合併する必要はない。合併は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである」
 また、大韓帝国朝廷の官吏に対して、次のように語った。
 「韓国人の何びとが自らその独立を主張したであろうか。かつまた、韓国人の何びとが自ら韓国の独立を承認したであろうか。あるならば聞きたい。韓国人は、三、四千年来、固有の独立を有するように言っているが、自分はこれを承認できない」
 しかし、安重根は、伊藤こそが日韓併合を進めている元凶と考え、伊藤の暗殺を計画した。

●伊藤は安らに暗殺された

 伊藤は、1909年10月26日、帝政ロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために、ハルピンを訪れた。安は共謀者たちとともに、列車から降りて駅ホームでロシア兵の閲兵を受けている伊藤に、群衆を装って近づき、銃弾を3発、発射した。被弾した伊藤は約30分後に絶命した。
 安重根は直ちに逮捕され、共犯者の朝鮮人3名もロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを旅順の関東都督府地方法院に移送した。ロシアの治外法権の地から、わが国の司法権管轄の地に移すためである。裁判の結果、翌年2月14日安を死刑、他の者を懲役刑に処する判決が下された。安は同年3月26日に絞首刑に処された。
 伊藤暗殺という大事件は、韓国に衝撃をもたらした。わが国による国葬には、韓国の王室だけでなく、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列した。国葬の日、ソウルでは、李完用首相の主催で、官民1万人が参列して追悼会が催された。追悼会は全国各地に及んだ。伊藤を「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等とたたえる賛辞が続いた。一方、旅順監獄に繋がれていた安重根に面会者はなかったという。
 安重根らは、韓国併合を阻止するために、伊藤の暗殺を謀った。だが、伊藤暗殺は、韓国併合を阻止するものとはならなかった。むしろ、伊藤を殺害したことにより、日韓併合は促進された。
 安の処刑から約5か月後となる1910年8月、寺内正毅統監と李完用首相が日韓併合条約に調印し、併合は完了した。韓国人が日韓併合を非難するのであれば、伊藤を暗殺し、日韓併合を加速することになった安重根を英雄視するのは、誤りである。
 また安重根は、敬虔なカトリック信者にして、深い知識も兼ね備えた人物だったという見方がある。逮捕後は潔く罪を認め、その態度は日本人の検察官や判事にまで深い感銘を与えている。だが、そうした一面をもって、安の行為が免罪されるものではまったくない。

 次回に続く。

安重根は犯罪者であり、「英雄」ではない1

2013-12-18 08:49:11 | 歴史
●はじめに

 韓国人の歴史観には、こうありたいという願望や史実を無視した思い込みが多い。伊藤博文を暗殺したとされる安重根を「抗日闘争の英雄」とするのは、その典型の一つである。本稿は、安重根は犯罪者であり、「英雄」ではないことを記すものである。全9回の予定である。

●韓国による安重根の石碑建立の動き

 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は、安重根(アン・ジュングン)をたたえる石碑を、中国のハルビンに建て、中韓連携による反日の象徴としようとしている。安重根は、初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した犯罪者である。韓国では「抗日闘争の英雄」とされるが、わが国にとっては「維新の元勲」にして初代・総理大臣を務めた国家指導者を殺害したテロリストである。安重根は、1909年(明治42年)10月26日伊藤暗殺事件を起こし、殺人罪で、事件直後に処刑されている。
 だが、第2次大戦後、韓国では、安重根を英雄視するようになり、勲章が追叙された。1970年(昭和45年)には首都ソウルの南山公園に安重根義士記念館が作られて、顕彰されている。2009年(平成21年)には、同年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせて翌年記念館が拡張された。
 朴槿恵氏は本年2月大統領職に就くと、反日的な姿勢を露骨に示す一方、中国への傾斜を強めている。朴氏は本年6月に訪中し、習近平国家主席と首脳会談を行った際、習氏に安重根の石碑を建てたいとして協力を要請した。朴氏は、伊藤殺害現場のハルビン駅に石碑を建立する計画である。11月18日、韓国を訪問した中国の楊潔チ国務委員(外交担当)と青瓦台(チョンワデ、大統領府)で会談し、計画は中韓間で「うまく進んでいる」として謝意を示した。
 これに対し、菅義偉官房長官は19日、「わが国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにはならないのではないか」と述べ、韓国政府を批判した。韓国外務省は「犯罪者」との指摘に反発したが、菅氏は「随分と過剰反応だなと思う。私は従来のわが国の立場を淡々と述べただけだ」と述べた。韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は20日の国会答弁で、菅氏の発言に対し、「日本政府の立場を代弁する高官の、歴史を無視した発言」との認識を示し、「韓国政府としても、国民としても容認できない」と反発した。尹氏は「日本の責任ある政治家は、日本帝国主義の侵略の歴史を徹底的に反省し、被害を受けた国家に心から謝罪する姿勢を持たなければならない」と強調した。中国の洪磊外交部報道官は定例会見で、安重根について「歴史上の有名な抗日烈士であり、中国でも尊敬されている」と述べて、韓国を援護した。
 これまでは、中国政府は、安重根の評価は反日勢力を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていなかった。2006年に、韓国人によってハルビンに安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として中国当局により撤去された。伊藤暗殺100年にあたる2009年10月26日に同市で記念式典が開かれた時は、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催を許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。また旅順の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、安重根の名前を出させず、慰霊や記念式典は認めなかった。
 だが、過去の政権以上に反日的な姿勢を強めている習近平政権は、態度を変えたようである。中韓の連携によって安重根の石碑を建てるという計画は、日韓関係・日中関係を損ない、韓国・中国にとっても重大な不利益を生じるだろう。

●伊藤博文と安重根

 李朝末期の朝鮮は、政治と社会が腐敗しきっており、国全体が疲弊していた。支配階級は外からの脅威をよそに、党派抗争に明け暮れ、貪官汚吏がはびこり、民衆は悲惨な生活を強いられていた。19世紀末の東アジアで、朝鮮はシナ(清国)、ロシア、日本のはざまにあって、国家を維持する力が消失していた。
 朝鮮は日清戦争後、シナ(清)への従属を脱し、1897年(明治30年)に大韓帝国と号して、高宗が皇帝を称した。日本と韓国は1904年(明治37年)に第1次日韓協約を結び、日本は韓国政府に顧問を置いた。1905年には第2次協約で、日本は韓国を保護国とした。日本としては、日露戦争後も朝鮮半島にはロシアの脅威が残っていたため、韓国を保護国とせざるをえなかった。
 韓国統監府が設置されると、伊藤博文が初代統監に就任した。維新の元勲であり、初代総理大臣、アジア初の憲法の実現者、天皇を支える枢密院議長等、当時日本最高の指導者が、朝鮮の開発に当たり、その発展に尽くした。
 伊藤の考えは、欧米諸国が行うように朝鮮を植民地とすることではなかった。1905年(明治38年)11月の伊藤のメモには、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述がある。伊藤博文研究の第一人者とされる伊藤之雄京都大学教授は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。
 高宗は、第2次協約に反して、1907年(明治40年)6月、オランダのハーグで開催された万国平和会議へ密使を送り、「独立回復」を訴えた。全権委員の会議参加は、韓国には外交権がないとの理由で拒否された。この事件をきっかけに、伊藤は高宗皇帝を退位させ、皇太子を即位(純宗)させた。また韓国の軍隊を解散させた。これによって韓国人による義兵運動が起こった。
 こうした時、抗日運動に身を投じたのが、安重根だった。安は、1879年に朝鮮黄海道の海州で両班の子として誕生した。両班は李朝の特権身分である官僚階級である。成長してからキリスト教カトリックに改宗し、生涯その信仰を持ち続けた。洗礼名をトマスという。韓国の状態に危機感を持った安はウラジオストクに亡命し、大韓義軍を組織して、抗日闘争を行った。

 次回に続く。

関東大震災での「朝鮮人虐殺」は謀略宣伝

2013-12-17 08:43:23 | 歴史
 韓国の朴槿恵(パク・クネ)氏は平成25年2月大統領職に就くと、反日的な言動を強めている。今度は11月に韓国政府が日本統治時代の3・1独立運動での鎮圧と関東大震災の「朝鮮人虐殺」の被害者名簿を発表した。これから「朝鮮人虐殺」が国際的に喧伝されるだろう。
 名簿は日韓国交正常化交渉の過程で当時の李承晩大統領が1953年に指示して作成され、東京の駐日韓国大使館に保管されていた。大使館建て替えで今年6月、新築完成に伴う引っ越しの際に倉庫でみつかったという。
 韓国メディアによると、「3・1独立運動事件鎮圧犠牲者名簿」は630人分関東大震災の「朝鮮人虐殺名簿」は290人分、であり、それぞれ名前、住所、殺害の場所や状況が「憲兵に銃殺された」「竹やりで刺され死亡」などと記載されているという。
 3・1事件は日韓併合後、最大の独立運動で、1919年3月1日に起こったデモが全国に波及拡大した。宗教界、民族指導者が主導して「独立宣言」を読み上げ万歳三唱したことから、万歳事件とも呼ばれる。当日のデモ参加者は数万人に上り、事態は数カ月に及んだ。鎮圧には軍・警察も投入されて略奪、暴動事件にも発展した。今回の名簿には「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる女子学生、柳寛順(ユ・グァンスン)の記録が入っており、「17歳で西大門刑務所に収監され、撲殺された」とあったという。だが、日韓併合は日本政府と韓国政府が合意して条約を締結して行われたものであり、その体制を覆そうとする運動は治安維持のため取り締まりを受ける。鎮圧には、韓国人の軍人・警官が多数当たっており、日本人による「虐殺事件」と主張するには、無理がある。
 一方、関東大震災については、一部に「朝鮮人虐殺」説が唱えられてきている。これは、大正12年(1923)9月1日、大震災が起こった際、震災の混乱のなかで「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語が飛び交い、地元の自警団などとの衝突事件が各地で発生した際、日本人が多数の朝鮮人を虐殺したという説である。現在韓国政府は「数十万の大量虐殺」と主張しており、中国における「南京大虐殺」に匹敵する「関東大虐殺」に仕立て上げようとしている。 
 しかし、ノンフィクション作家の工藤美代子氏は、事件を徹底的に調べ、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)を出版した。工藤氏は、大震災時の朝鮮人暴動には多数の実話があることを当時の新聞記事等の資料を以て示し、さらに暴動はコミンテルンの指令を受けた朝鮮人テロリストによる皇太子(後の昭和天皇)の暗殺を目的としたものだったことを明らかにしている。当時のわが国の政府は、治安維持を優先して報道規制と「揉み消し」をしたため、事件の全体像は知られていなかった。
 まず言えることは、当時東京及びその周辺にいた朝鮮人は9,800人であり、「数十万の大量虐殺」はあり得ないことである。従来は、虐殺された朝鮮人は2,600人~23,000人とされてきた。だが、この数字も根拠のあるものではない。
 工藤氏によると、各地で朝鮮人暴徒と自警団の衝突が起こる中、政府は善良な朝鮮人を守るため、その9,800人のうち、6,797人を習志野の兵舎等に保護した。戒厳令司令部は事件後、暴動の中で殺害された無辜の朝鮮人を233人と発表している。それゆえ、問題は、残る2,770人である。では、この2,770人は全員が233人以外に殺害された朝鮮人なのか。これまでわが国では、大震災では日本人だけでなく、朝鮮人も被災し、死亡者があっただろうことを考慮してこなかった。工藤氏はそのことに初めて注目した。
関東大震災では、日本人約190万人が被災し、死者93,144人、行方不明者13,275人、計106,419人が犠牲となった。特に被害の大きかった地域では、人口の15%ほどが犠牲になっている。その地域は朝鮮人が集住する地域でもあり、家屋の関係で、朝鮮人が犠牲になった割合は、日本人以上だったと考えられる。工藤氏は、大震災の被災による朝鮮人の死者・行方不明者が人口比20%ほどいたと想定し、これを1,960人とする。そして2,770人からこれを引いた810人が、暴動の中で殺害された朝鮮人のテロリスト・賛同者・付和雷同者と推計している。
 こうした研究により、工藤氏は朝鮮人2,600人~23,000人が虐殺されたという説は、「南京大虐殺」と同類の「謀略宣伝」だと結論付けている。右記のビデオは工藤氏の主張をよくまとめている。
http://www.youtube.com/watch?v=r0bZoEfXl2I
 関東大震災後の朝鮮人暴動事件は、単に反日的な朝鮮人テロリストによるものではなく、背後に日本の皇室を廃絶し、日本を共産化しようとするソ連のコミンテルンの指令があったと考えられる。この点は、虎ノ門事件を合わせて考えるとき、当時の国際事情が浮かび上がるだろう。ロシア革命後、コミンテルンは日本の共産化を重大課題としていた。特に1918年のドイツ革命が共産化に至らず、ヨーロッパにおける革命の展開が困難になっていたため、スターリンは日本革命の機会を虎視眈々と狙っていた。関東大震災が起こるやコミンテルンは朝鮮人を指示して、皇太子を殺害し、革命を起こそうとしたが、失敗に終わった。計画が失敗に終わったわずか約4か月後、同年12月27日に、虎ノ門事件が起こった。この事件は、共産主義者・難波大助が皇太子を殺害しようとした事件である。当時皇太子は摂政つまり天皇陛下の代行者だったから、万が一生命に係る事態となれば、わが国の混乱は必至だった。虎ノ門事件は難波個人の犯行とされているが、大震災後の朝鮮人暴動事件と一連の事件ととらえるべき点は、ともに共産主義による皇室廃絶・日本革命をめざす国際運動を背景にしたものだったことである。ロシア革命から6年後、ドイツ革命から5年後という世界的激動の時期の出来事だった。
 当時の皇太子、すなわち後の昭和天皇は朝鮮人暴動事件、虎ノ門事件でまったく傷害を受けることなく、公務を全うされた。昭和7年(1932)1月8日には、朝鮮人テロリスト、李奉昌(イ・ボンチャン)が手榴弾を天皇の行列に投げつけた桜田門事件が起こった。この時も、昭和天皇は無事だった。戦後、韓国では李を英雄として讃え、独立運動の義士として独立記念館で顕彰し、小学校歴史教科書に掲載して教えている。李は1962年に韓国政府から建国勲章大統領賞を追叙され、1992年には、逝去60周年を記念する郵便切手が発行された。李奉昌を称賛するのであれば、関東大震災で皇太子を殺害しようとした朝鮮人テロリストも賞賛すべき対象ということになるだろう。朝鮮人暴動事件を「関東大虐殺」などと喧伝しようと図るのは、単なる反日ではなく、日本そのものの破壊を謀る極めて危険な動機があるものとして警戒すべきである。
 以下は関連する報道記事。

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●産経新聞 平成25年11月23日

http://sankei.jp.msn.com/world/news/131123/kor13112312000003-n1.htm
【朝鮮半島ウオッチ】
日韓衝突、次は「朝鮮人大虐殺」?
2013.11.23 12:00

 朴槿恵韓国大統領の対日強硬発言がボルテージを上げるさなか、今度は韓国政府が関東大震災の「朝鮮人虐殺」と日本統治時代の3・1独立運動での鎮圧の被害者名簿を発表した。虐殺・鎮圧名簿には「殺害状況」まで記録されているため「日本の蛮行」が改めて韓国世論を刺激している。これらの事件は、日本統治時代を象徴する韓国でも最も悲惨な差別と抵抗の記憶だ。今年6月に発見されたという名簿が、なぜいま発表されたのか。韓国発の反日メニューの背景が気になるところだ。(久保田るり子)

朴大統領の反日ボルテージはさらに上がっている
 今月の欧州訪問でも仏、英、ベルギー各地で日本批判を展開した朴槿恵大統領。帰国後は訪韓した中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)国務委員に伊藤博文をハルビン駅で暗殺した安重根の記念碑建立について「(中韓の)協力でうまく進行している」などと語り、中韓両国の連帯をアピールした。朴大統領の対日発言は日を追って挑発的になっているようにみえる。大統領の意向に沿うようになのか「青瓦台(大統領府)に日本への配慮という発想そのものが見受けられない」(在京の韓国メディア)とされる。
安重根をテロリストと扱ってきた日本が「わが国は『安重根は犯罪者だ』と韓国政府に伝えてきた。このような動きは日韓関係によくない」(菅義偉官房長官)と苦言を呈すると、韓国外交省報道官が即座に「あり得ない発言。犯罪者とは極めて遺憾」と反発した。これに菅氏が「(韓国側は)随分、過剰反応。私はわが国の立場を申し上げただけだ」と反駁する事態で、友好国の政府高官同士とは思えない異例な応酬となっている。
 歴史観も評価も、その立場により異なるのは当たり前という好例だが、日韓世論の感情的対立は深まる一方だ。まさに、この応酬直後に韓国政府が発表したのが関東大震災、3・1事件、元徴用工の3種類の新たな被害者名簿だった。

虐殺と鎮圧の被害者名簿には「殺害経緯」までも詳細に明記
 韓国メディアによると、関東大震災(1923年)の「朝鮮人虐殺名簿」と「3・1独立運動事件(1919)鎮圧犠牲者名簿」の発見はいずれも初めて。虐殺名簿の方は290人分、3・1事件は630人分だ。それぞれ名前、住所、殺害の場所や状況が「憲兵に銃殺された」「竹やりで刺され死亡」などと記載されているという。
 関東大震災の朝鮮人事件は、震災の混乱のなかで「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語が飛び交い、地元の自警団などとの衝突事件が各地で発生した。軍や警察が朝鮮人保護や避難所も設けたが、衝突による殺害事件も起きた。当時の日本政府調査で朝鮮人犠牲者は233人。その後の韓国政府発表は「数十万の大量虐殺」と主張。日本の警察当局が起訴した事件だけで十数件だが、虐殺の実態や被害者数は諸説あって確定していないだけに、今回の名簿は生々しい。
 3・1事件は日本統治時代最大の独立運動で全国に波及拡大した事件だった。宗教界、民族指導者が主導して「独立宣言」を読み上げ万歳三唱したことで万歳事件とも呼ばれる。当日のデモだけで数万人に上り、事態は数カ月に及び、鎮圧には軍も警察も投入されて略奪、暴動事件にも発展した。このとき逮捕収監されて悲劇の死を遂げた女子学生、柳寛順(ユグァンスン)は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるが、今回の名簿には彼女の記録が入っていた。そこには「一七歳で西大門刑務所に収監され、撲殺された」とあったという。

名簿の取り扱い次第では過激な反日ナショナリズムが惹起されると懸念も
 名簿は日韓国交正常化交渉の過程で当時の李承晩大統領が1953年に指示して作成され、東京の駐日韓国大使館に保管されていた。大使館建て替えで今年6月、新築完成に伴う引っ越しの際に倉庫でみつかったという。名簿は3種で22万9000人分の元徴用工名簿も発見された。
 韓国ではこれら名簿こそ「日本の蛮行を示す資料」と、いま政府に日本への責任追及を求める世論が高まっているのだという。
 背景には大法院(最高裁)による「元徴用工の賠償請求権は消滅していない」との判断(昨年5月)がある。このところ徴用工個人請求権を認める賠償判決が続いているため個人請求権問題が注目されているのだという。
 関東大震災の被害者は大部分が民間人同士の暴力事件だった可能性が高いが、3・1事件は憲兵による鎮圧も少なくないとみられる。これら遺族が個別に訴訟を起こせばどうなるのか。「賠償請求権が認められるはず」との期待感があるという。
 名簿に関しての評価、判断を韓国政府は態度保留している。韓国が万一、問題化しても日本は「請求権協定で完全、かつ最終的に解決済み」とするのは確実で、双方の世論だけが興奮する感情的対立激化が予測される。韓国ナショナリズムの急所ともいえる歴史資料をめぐって、はやくも過激な反日を警戒する声が出ている。
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戦前の朝鮮の真実を伝える映像

2012-09-08 09:22:50 | 歴史
 映像の紹介です。

「日帝の協力を強制させられた朝鮮人~日帝強占期当時、1937年日中戦争直後、韓国の姿」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18810989

 戦前の朝鮮の姿を記録した貴重な映像です。
 タイトルは「協力を強制」と書いていますが、真実は違うことを映像自体が語っています。
 必見、お勧めです。

 映像には逆語が多く書き込まれています。逆語とは自分の意見と逆のことを言って、真に主張したいことを強調する表現方法です。しばしば相手の主張をそのまま言うことによって、真実はその反対であることが主張されます。
 書き込みには「慰安婦」や「強制連行」に関する物が多いので、参考に以下記します。

 この映像は「1937年日中戦争直後」としています。それが正しければ、昭和12年7月のシナ事変勃発直後の朝鮮で撮影されたものということになります。日韓併合が行われて27年目ごろ。ほぼ一世代を経過し、日本の統治による行政・教育・産業・医療等が進み、文化的にも融合が進んだ段階と思います。
 この時点では、まだ朝鮮で軍の慰安婦が多数雇用されてはいないと思いますが、翌年の昭和13年(1938)3月4日付の陸軍省副官通牒2197は、軍の名義を不正に利用したり、誘拐と見なされる方法での募集を明確に禁止し、そのような方法での採用行為は罰っせられていると警告しています。同年2月18日付の自治省指令(No. 77)は、「慰安婦」の募集は国際法に従うべきで、女性の奴隷化や誘拐を禁じています。同年11月8日付の指令(No.136)は更に、21歳以上で既に売春婦として働いている女性のみを「慰安婦」として募集して良いとの命令をしています。そこではまた、女性の家族や親類の許可を義務としています。
 同年8月31年付の朝鮮で発行された東亜日報の記事では、女性達を強制的に慰安婦にした業者が、当時日本の管轄であった朝鮮の地元警察によって逮捕されたニュースを報じている。これは日本政府が女性に対する非人道的犯罪に対して厳しく対処していたという証拠となるものです。
 記事は「悪徳紹介業者が跋扈 農村婦女子を誘拐 被害女性が百名を突破する 釜山刑事、奉天へ急行」と題され、「釜山に拠点を置く45の悪徳業者が摘発された。それらの業者は釜山で何も知らない若い女性を雇い、家族から引き離し、満州の売春業者に売り飛ばしていた。100人以上の女性が既に被害に会っている。釜山警察による徹底的な捜査で、奉天におけるこれらの業者の存在が明らかになり、6人の刑事が8月20日の夜に現地に向かいこれらの業者を逮捕した。今回の逮捕劇で、これらの業者の暗躍が完全に明らかになるものと予想される」と書いています。

 「従軍慰安婦」にするために、朝鮮で多くの女性を「強制連行」したという話は、吉田清治が元になっています。吉田は「戦争中、軍の命令で自分が韓国の済州島に出かけ、多数の女性を従軍慰安婦にするために狩り立てた」と「自白」して、謝罪しました。この証言を朝日新聞が、昭和57年(1982)9月2日付で報道しました。翌58年(1983)、吉田証言は本になりました。『私の戦争犯罪ーー朝鮮人強制連行』(三一書房)です。
 吉田は、昭和18年(1943)5月、韓国の済州島で「従軍慰安婦」として朝鮮人女性205人を、自分たちが、強制連行した、と書いています。その真偽を確認するため、歴史家の秦郁彦氏は、平成4年(1992)3月、済州島を現地調査しました。秦氏は、慰安婦狩りが行われたとされる城山里の老人クラブで、貝ボタン工場の元組合員など5人の老人と話し合いました。それによって、吉田証言が虚構らしいことを確認しました。200人以上が、力づくでさらわれていったと言うのに、誰もそんなことを知らないというのです。
 もしこのような若い女性の強制連行を行おうとすれば、村人は怒り、猛烈に抵抗するでしょう。暴動が起こるに違いありません。強制連行は、まったくの作り話なのです。

 さて、わが国では、この映像の後になると思われる昭和14年(1939)に国民徴用令が発令されました。大東亜戦争の末期には、朝鮮にも適用されるようになりました。朝鮮半島から日本に徴用された者がいました。彼らも日本国民でした。だから、法令に基づく徴用を、強制連行という言葉で表現するのは、間違いです。また徴用で来た朝鮮系日本人以外に、戦前、日本本土で生活をしていた朝鮮人は、よりよい仕事、豊かな生活を求めて、貧しい朝鮮から渡来した人たちが、ほとんどでした。ところが、この徴用を「強制連行」といい、それを「慰安婦」にこじつけたものが、「慰安婦にするための強制連行」という虚偽・捏造の物語なのです。

■追記

 下記の映像もお勧めです。

「志願という名の朝鮮人の強制徴兵」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18811836
「日帝による過酷な植民地支配~1938年、日帝強占期のソウルの姿」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18811789

大東亜戦争に関し注目すべき本

2011-12-09 10:02:40 | 歴史
 日米開戦70年の今年、大東亜戦争(太平洋戦争)に関し注目すべき本をメモしておく。
 一冊は米政治学者チャールズ・A・ビーアドの幻の書「ルーズベルトの責任-日米戦争はなぜ始まったか」(藤原書店)。ビーアドは「アメリカ合衆国史」「アメリカ精神の歴史」等が邦訳されている権威ある学者。フランクリン・ルーズベルト大統領が巧妙な策略によって日本を対米戦争へと追い込んでいった過程が、米側公文書などによって浮き彫りにされているという。
 もう一冊は、米歴史家のジョージ・ナッシュによる「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」。本書は、ハーバート・フーバー元米大統領がFDRについて、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことを書いているという。邦訳の計画があるかは不明。

 FDRの策略については、既にジョージ・モーゲンスターン著「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」(錦正社)、ハミルトン・フィッシュ著「日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか」(PHP文庫) 、アルバート・C・ウェデマイヤー著「第二次大戦に勝者なしーーウェデマイヤー回想録」(講談社学術文庫) 、ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」(文芸春秋)等が明らかにしてきている。上記の2冊は、これらの著者たちの見解を補強ないし検証するものとなるのではないかと思う。
 以下は、関連する報道記事。

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●産経新聞 平成23年12月7日

http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
【真珠湾攻撃70年】
「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
2011.12.7 22:41

 【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874~1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882~1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。
 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした-などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。
 ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。
 その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。
 マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった」と批判していた。
 著書ではフーバーが「米国から日本への食糧供給がなければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろう」とマッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたことも詳細につづられており、フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなっている。
 ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけになってほしい」と話している。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/111208/amr11120807480001-n1.htm
日本を巧妙に対米戦争へ…「幻の禁書」邦訳で日の目
2011.12.8 07:46

 今月25日に全訳刊行(上巻)される「ルーズベルトの責任-日米戦争はなぜ始まったか」(藤原書店、下巻は来年1月刊行)には、ルーズベルト米大統領が、巧妙な策略によって日本を対米戦争へと追い込んでいった過程が、米側公文書などによって、浮き彫りにされている。
 著者は、米政治学会会長や歴史協会会長などを務めた第一人者、チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授(1874~1948年)。順次解禁された米側の外交公文書や連邦議会議事録など膨大な資料を詳細に調査・分析し、1948年4月に米国内で発刊されたものの、政府側の圧力などによって激しい不買運動が起き、事実上の禁書扱いとなってしまった「幻の名著」だ。いわゆる「ルーズベルト陰謀説」が終戦直後に、米側公文書などによって裏づけられていた意味は大きい。
 48年当時の日本は占領下にあり、刊行するすべもなかったが、今回、同書店が5年がかりで発刊にこぎつけた。藤原良雄社長は、「米国を代表する歴史家であるビーアドにとって、国民を欺く(ルーズベルト大統領の)行為は憲法違反という思いが強かったようだ」と話している。(喜多由浩)
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東京裁判に関する動画

2010-09-16 16:34:50 | 歴史
 友人でマイミクのチョックリーさんが、東京裁判に関する動画を作りました。私がサイトに載せている記事を元に、作成したのだそうです。

 「東京裁判で正義を貫いたアメリカ人弁護人」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12113409

 感動しました。素晴らしい力作です。ご一見をお勧めします。

関連掲示
・拙稿「日本弱体化政策の検証」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion08b.htm
  第6章「日本弱体化のための東京裁判」
・拙稿「東京裁判で正義を貫いた米国人弁護士」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind08.htm
 目次から07へ

8月9日~ソ連侵攻の日を心に刻め

2010-08-08 10:30:37 | 歴史
 8月6日は広島に原爆が投下された日、9日は長崎である。毎年、これらの日には平和を祈る式典・行事が行われる。9日はもう一つ重大な歴史的な出来事があった。多くの日本人は、そのことを忘れている。昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州・樺太等を侵攻したのである。日本人は、決してこのソ連の不法行為を忘れてはならない。
 さらに、スターリンは国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、シベリア等の各地で強制労働を課した。また旧ソ連を引き継いだロシアは、ソ連の不法行為を謝罪、補償することなく、北方領土の不法占拠を続けている。そのことも忘れてはならない。

 今年で第2次大戦終結後、65年になるが、日本とロシアは、今も平和条約を結んでいない。ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかった。わが国は、ソ連と北方領土問題等の解決をめざし、平和条約交渉を続けたが、交渉は難航した。ソ連崩壊後は日ロ交渉へと受けつがれた。ロシアは、旧ソ連と基本的な姿勢を変えておらず、交渉は進展していない。
 こうしたなか、ロシアは先ごろ、わが国が第2次大戦の降伏文書に調印した9月2日を「第二次大戦終結の日」に制定した。事実上の「対日戦勝記念日」の制定である。この動きは、旧ソ連の不法行為を正当化し、北方領土の不法占拠を固定しようとするものである。しかし、わが国の政府は、ロシア政府に抗議せず、岡田外相は単に懸念の意を伝えるにとどまった。こういう日本の弱腰を見て、ロシアは傲慢の度を強めている。

 私は、ロシアとの平和交渉が妥結しない限り、わが国の戦後は終わらないと考えている。北方領土の返還を実現し、日露平和条約を締結するには、何が必要か。私は、日本国民が歴史をしっかり学び、独立主権国家の国民としての自覚を取り戻し、精神的に団結することだと思う。それなくして、わが国の戦後は終わらない。
 ロシアにおける「対日戦勝記念日」の制定について、マスメディアの報道は少なかった。全国紙で詳しく報じたのは、産経新聞だけだった。産経は、本日の「主張」に「ソ連対日参戦65年 『侵略の日』を心に刻もう」と書いた。以下は、その記事である。

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●産経新聞 平成22年8月8日

http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100808/erp1008080313001-n1.htm
【主張】ソ連対日参戦65年 「侵略の日」を心に刻もう
2010.8.8 03:13

 9日は、ソ連軍が1945(昭和20)年8月のこの日に突如、日ソ中立条約を破って日本に侵攻して65年にあたる。この19日後に、ソ連による北方領土の不法占拠が始まった。日本にとって、9日は「侵略の日」であることを心に刻み、教育の場でしっかりと子供たちにも教えるべきだ。
 ソ連軍は、日本がポツダム宣言を受諾し、8月15日に終戦の詔書が発表された後も一方的な侵攻を続けた。ソ連は、かつて一度たりともロシア領となったことがない日本固有の領土である択捉、国後、色丹、歯舞群島の北方四島を占領し、併合した。
 ソ連は、日ソ中立条約だけでなく、連合国が「戦争による領土不拡大の原則」をうたった大西洋憲章(41年)やカイロ宣言(43年)にも違反し、連合国で唯一、戦後に領土を拡大した国になった。
 ソ連の独裁者スターリンは、45年9月2日の対日戦勝演説で「日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ待っていた」と述べ、勝利の配当として「南樺太と千島列島がソ連領に移る」と宣言した。ソ連にとって対日参戦は、日露戦争の報復戦であり、日本領土の略奪を目的としていた。当初から領土不拡大の原則を守るつもりなどなかったといえる。
 ソ連は、ポツダム宣言にも違反した。武装解除した日本将兵や居留民たち約60万人を「ダモイ(家へ帰るぞ)」とだましてシベリアに抑留し、飢餓と酷寒の劣悪な環境の中、強制労働に従事させた。絶望の中、飢えや病気などで6万人以上もの日本人が帰らぬ人となった。それらは「スターリン体制の犯罪」といっていい。
 ところが、大国復活に奔走するロシアはその犯罪を正当化し、今年から、日本が降伏文書に調印した9月2日を事実上の「対日戦勝日」として祝う。侵略を「正義の戦争」にねじ曲げた。阻止できなかった最大の原因は、日本外交の弱体化と不作為にある。
 日本政府が手をこまねいていることに、ロシアは増長しているのである。このままでは歴史の捏造(ねつぞう)や歪曲(わいきょく)が繰り返されることになるだろう。そうなれば、日露平和条約の締結どころではない。
 そのためにも日本は8月9日の意味について国民全体が認識を新たにするとともに、ロシアの「対日戦勝日」創設の欺瞞(ぎまん)性を毅然(きぜん)として世界に訴える必要がある。
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関連掲示
・拙稿「ソ連の不法行為を忘れるな」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1518956512&owner_id=525191
・拙稿「幻の映画『氷雪の門』が一般公開」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1518133779&owner_id=525191&org_id=1518956512
・拙稿「領土問題は、主権・国防・憲法の問題」
 目次の02へ
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion12.htm

ソ連の不法行為を忘れるな

2010-06-21 07:10:00 | 歴史
 大東亜戦争の末期、共産主義ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州・樺太等を侵攻した。さらに、スターリンは国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、シベリア等の各地で強制労働を課した。
 わが国の厚生省援護局の資料によると、抑留者は約57万5,000人、うち死亡者は、約5万5,000人とされている。また、ロシア側の研究報告によると、抑留者は約54万6,000人、うち死亡者は約6万2,000人とされる。(『はるかなシベリア・戦後50年の証言』北海道新聞社)
 しかし、実態はさらに大規模だった可能性がある。ロシア人ジャーナリストで、元イズベスチア編集長のアルハンゲリスキーは、著書『シベリアの原爆』(邦題『プリンス近衛殺人事件』新潮社)にて、日本人の抑留は軍人・民間人合わせて200万人以上に達し、そのうち40万人が虐殺されたと推計している。酷寒の地で食糧も防寒具もろくに与えられず、重労働を課せられて虐殺された日本人の数は原爆での死者より多かった。アルハンゲリスキーは、著者を「シベリアの原爆」と名づけた。

 ソ連崩壊後、明るみに出た機密文書などによれば、シベリア抑留はスターリンの指令によって行われたものだった。スターリンは、アメリカのトルーマンに、北海道の北半分の占領を要求した。トルーマンがこれを拒否すると、スターリンはその代償として抑留を強行したのである。
 私は北海道の道北地方に生まれ、育った。私の父母は、敗戦当時、まさにスターリンが占領を狙っていた地域に住んでいた。もしソ連に占領されていたら、父母は大いなる悲劇にあったことだろう。私自身、自分の存在がこうしてあったものかどうか、わからない。
 スターリンは、北海道北半分を占領する要求が拒否された代わりに、60万~200万人もの日本人をシベリアに抑留し、強制労働をさせた。その中に私の伯父二人がいた。彼らは、米ソの駆け引きの結果、親・きょうだい、郷土が守られたのと引き換えに、氷原の地獄を味わわされたわけである。

 このたび、わが国では、シベリアなどに抑留された日本人に特別給付金を支給する特別措置法が成立した。伯父二人は、特措法の成立を見ることなく、既に鬼籍に入っている。生存している人たちの平均年齢は、87歳前後だという。給付金は、いくばくかの慰労にはなるだろう。しかし、ソ連の不法行為はなんら裁かれていない。第2次世界大戦の戦後処理によって捻じ曲げられた国際法の正義は、いまだ回復されていない。
 日本人は、決してソ連の不法行為を忘れてはならない。また旧ソ連を引き継いだロシアは、ソ連の不法行為を謝罪、補償することなく、北方領土の不法占拠を続けている。そのことも忘れてはならない。
 
 以下は報道のクリップ。

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●産経新聞 平成22年6月21日

【主張】シベリア特措法 忘れまいソ連の不法行為
2010.6.21 02:47

 第二次大戦後に旧ソ連のシベリアなどに抑留された日本人に1人当たり25万~150万円の特別給付金を支給する特別措置法が成立した。
 シベリア抑留は、昭和20(1945)年8月に日ソ中立条約を破って旧満州などに侵入した旧ソ連軍によって引き起こされた歴史的な犯罪行為である。関東軍将兵ら約60万人がシベリアなどの収容所に連行され、最高11年半に及ぶ強制労働をさせられた結果、約6万人が死亡したといわれる。
 これは、ソ連も加わったポツダム宣言の日本軍人らの本国帰還を求めた規定(第9条)にも違反している。本来、ソ連(現ロシア)の責めに帰すべき問題である。
 しかし、昭和31年の日ソ共同宣言で、日本はソ連への賠償請求権を放棄した。その後、抑留体験者の一部が国に強制労働の未払い賃金などの補償を求める訴訟を起こしたが、最高裁は平成9年、「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」として、原告側の要求を退け、補償の要否を立法府に委ねた。
 その結論が戦後65年たって、ようやく出されたといえる。ただ、給付金の支給対象は生存している元抑留者に限られる。帰国した46万人を超える元抑留者のうち、生存者は7万~8万人で、平均年齢は87歳前後と推定される。
 特措法は、抑留の実態調査や遺骨収集、追悼などを行うための基本方針策定も政府に義務づけた。異国の地で亡くなった人や、帰国後、特措法を待てずに死亡した元抑留者のためにも、国はこれらの義務をきちんと果たすべきだ。
 ソ連崩壊後、明るみに出た機密文書などによれば、シベリア抑留はソ連の独裁者、スターリン首相の指令によって行われたものだ。北海道の北半分の占領を狙ったスターリンの要求を米国のトルーマン大統領が拒否し、その代償として抑留を強行したのである。
 今回の特措法をめぐり、シベリア抑留は「日本の侵略戦争」などが引き起こしたとする論調が一部マスコミにあるが、歴史を直視しない一方的な見方である。
 ソ連の不法な対日参戦で、多くの日本の民間人も犠牲になった。しかも、ソ連は日本固有の領土である北方四島を占領し、ソ連を引き継いだロシアは今も不法占拠を続けている。日本国民はこうしたソ連の不法な行為を子や孫たちに語り継いでいかねばならない。
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幻の映画「氷雪の門」が一般公開

2010-06-20 09:59:04 | 歴史
 昭和20年(1945)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州・千島・南樺太に侵攻した。わが国はポツダム宣言を受諾し、15日に終戦となった。ところが、ソ連軍はその後も侵攻をやめなかった。そして8月20日、樺太の真岡では、9人の若い女性電話交換手が、逃げ惑う人々のために、最後まで通信に当たり、迫り来るソ連軍を前に青酸カリを飲んで自決した。
 彼女たちの霊は、英霊として靖国神社に祀られている。「北のひめゆり」としても知られる。
 私は、北海道の道北地方の出身である。敗戦の混乱の中で、樺太から北海道へ、命からがら逃げ延びてきた人たちの体験談を聴いたことがある。家を失い、子を失い、きょうだいを失い、友を失った人々の怒りと悲しみは、深い。私の伯父のうち二人は、シベリアに拉致・抑留され、凍土で強制労働をさせられた。一人の伯父は体験を書いて冊子にした。もう一人の伯父は黙して何も語らず亡くなった。
 東京裁判では、ソ連の不法行為は、他の戦勝国のそれとともに、裁判の対象とされなかった。日本だけが一方的に裁かれた。そうした東京裁判の判決の上に、現在のわが国がある。

 『樺太1945年夏 氷雪の門』という映画がある。樺太真岡の女性電話交換手の実話に基づく映画である。昭和49年(1974)、封切り直前になって、ソ連大使館から圧力がかかり、配給中止に追い込まれたという。私は、この映画の存在を知り、20数年前、自主上映をしているところから借りて見た。ソ連の侵攻の不法・非道と、若い女性電話交換手のけなげさに、涙が止まらなかった。この映画は、その後、ビデオ・DVDになった。しかし、一般の劇場公開はされないまま今日に至っている。
 その映画が今夏、ようやく劇場公開されることになったという。多くの日本人に見ていただきたい映画である。

 以下は、報道のクリップ。

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●産経新聞 平成22年6月15日

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100615/tnr1006150807001-n1.htm
南樺太の悲劇「氷雪の門」36年ぶりの劇場公開
2010.6.15 08:05

■「この映画は歴史の証人」

 “幻の映画”と呼ばれる「樺太1945年夏 氷雪の門」(脚本・国弘威雄(たけお)、監督・村山三男)が、36年の年月を経て、全国で順次公開される。太平洋戦争末期に、ソ連が日本領だった南樺太(サハリン)に侵攻し、自決を強いられた真岡郵便局の女性電話交換手9人の悲劇を描いた物語。昭和49年の公開直前、ソ連側の抗議によって公開中止になった。助監督を務めた映画監督の新城卓さんは「この映画は歴史の証人」と訴える。
 同作は、北海道で新聞記者をしていた金子俊男さんの『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(講談社)が原作。南田洋子さんや丹波哲郎さんらが出演し、戦闘場面の撮影では陸上自衛隊が協力した。製作実行予算が5億円を超えた超大作映画として話題を呼んだ。
 だが、公開直前に配給元の東宝が上映中止を決定。「反ソ映画は困る」という駐日ソ連大使館の抗議や、東宝が進めていたソ連との合作映画「モスクワわが愛」への配慮があったとされる。結局、北海道と九州で2週間だけ上映された。
 1945年夏、太平洋戦争は終末を迎えようとしていた。樺太には緊張の中にも平和な時間が流れていた。ところが8月9日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太に侵攻。終戦後も戦闘は拡大していった。
 そして8月20日、真岡の沿岸にソ連艦隊が現れ、艦砲射撃を開始。電話交換手の女性たちは職務への使命感や故郷への思いから、職場を離れることはなかった。ソ連兵がいよいよ郵便局に近づいた。路上の親子が銃火を浴びた。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。この通信を最後に、9人は服毒死を選ぶ。
 配給会社「太秦(うずまさ)」の小林三四郎社長は「同作は日の目をみないまま月日が流れ、多くの関係者が亡くなった。樺太の街のセットを作り上げた美術監督の木村威夫さんと上映を目指したが、木村さんも3月に亡くなった。さまざまな思いが詰まった作品」と話す。
 新城さんも「表現の自由が約束された社会であるはずなのに、この映画には自由がなかった。日本というのはどういう国なんだろう、と悔しかった。政治的意図はなく、史実を伝えたいだけ。ザ・コーヴの上映中止や普天間問題などを考えるきっかけにもなるのでは」と話している。
 7月17日からシアターN渋谷で。全国各地の劇場でも順次公開する。
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参考資料
・映画の予告編
http://www.youtube.com/watch?v=QFueq5PKNwo
・「乙女の碑 北のひめゆり」
http://www.youtube.com/watch?v=eSys0sbDZdM

渡部昇一氏の「日本の歴史」賛

2010-06-09 11:56:33 | 歴史
 渡部昇一氏の『日本の歴史』シリーズ(WAC)、全8巻が発刊された。戦後篇、昭和篇、明治篇等と、現在から過去にさかのぼっていく仕方で刊行中である。私はこれまで出た3巻を読み、渡部日本史に新たな感動を覚えた。
 渡部氏は昭和48年から52年(1973~77)にかけて『日本史から見た日本人』を出した。以後、日本史や日本文明について多数の本を書いている。今回の企画は、渡部日本史の集大成である。ただし、単に過去のもののまとめではなく、新しい研究や見解を取り入れ、これまでの考察と主張をさらに深めている。氏は、昭和5年(1930)生まれであり、当年とって80歳である。この高齢で、日本史の通史を新たに書き上げ、自分の仕事を集大成するとは、驚異的である。多くの人にお勧めしたく、本稿を書くものである。

 MIXIの自己紹介に書いてあるが、私は10代の半ばから共産主義の影響を受けた。高校に入ったのは、昭和44年(1969)。東大安田講堂の攻防戦に始まった年で、70年安保をめぐる運動に国内が騒然としていた。私は日教組の教育を受け、マルクス主義の理論書や歴史書を読んだ。しかし、マルクス主義を学ぶにつれ、私はその理論に矛盾を感じ、運動に限界を、活動家たちの人格に疑問を感じた。共産主義を克服することが、20代半までの私の最大の課題となった。
 こうしたなかで私の閉塞を破ってくれたのは、パール博士の『日本無罪論』だった。東京裁判の検証を通じて、私は、近代の日本史や世界史を根本から見直すことができるようになった。当時、出会った歴史書の中に渡部昇一氏のものがあった。階級闘争史観・自虐史観が支配的だったなかで、清新な歴史の見方だった。その後、渡部氏の著書は、文化・時事等に関するものを含めて、折々に読んできた。

 渡部氏は、歴史学の専門家ではない。本業は英語学者である。専門の研究において、ドイツ、イギリス、アメリカ等で異なる言語と文化に触れた氏は、日本の文化や歴史を見直した。そして、既成の歴史観にとらわれず、独自の視点で日本の歴史を書いて発表した。それが『日本史から見た日本人』であり、それに続く『歴史の読み方』(昭和54年、1979)も名著である。
 渡部氏は「歴史に虹を見る」という。水滴のような個々の事象を見るだけでは決してとらえることのできない、ものの全体像を「虹」と言っている。だから、氏の日本史は大局的な歴史観を表す。巨視的に見て重要な事柄や、日本文明の他にない特徴について、徹底的に考究する。個々の事象の研究家には見えないものが、氏の展望には現れる。それを確信を持って書く。こうした氏の姿勢は、歴史家というより、文明批評家と呼ぶに相応しい。

 私が渡部氏の日本史に感ずるのは、第一に、氏の日本の伝統・文化・国柄への愛情と誇りである。第二に、日本文明を西洋文明、シナ文明と比較する視点である。第三に、アメリカ、ドイツ、コリア等の文化・国情を踏まえた国際的な知見である。これらについては、多くの人が挙げる点だろう。
 私がもうひとつ特筆したいのは、渡部昇一という人物の器量である。幅広く様々なものを兼ね備えた人間の持つ豊かさである。渡部氏は学者だが、政治の駆け引き、外交のセンス、軍事への関心、国益についての現実的な判断力、法制度への論理的思考力、文化・文学・人物への理解等を兼ね備えている。だからこそ、渡部氏は、日本史に関し、独創的な意見を多く発表できているのだと思う。
 氏は既成観念や通説にとらわれずに、自分の頭で徹底的に考え抜く。近代史に限っても、氏が独自の視点で考察していることが多くある。明治憲法の欠陥、日露戦争の世界史的意義、日韓併合の協調性、日米戦争の遠因としての排日運動、統帥権干犯問題の原因、満州国建国の合法性、東京裁判の不法性、パール判決書の重要性、南京事件の虚妄、マッカーサーと東条英機の戦争観の一致、等。
 これらに関し、氏の見方は早くから一貫しており、ぶれがない。確固とした視点のもとに、新知見を取り入れ、考察を加えて、自説を掘り下げ、練り直してきている。大東亜戦争の評価については、私は違う見方をしており、氏の説に異論のあることは他にもある。しかし、日本の近代を考える際、一度は渡部史観を読んでみるべきだろう。今日の日本の政治を考える上でも、渡部史観から重要なことが多数読み取れる。

 渡部氏の歴史書の特徴の一つに、歴史を動かす人物を敬愛をもって書いていることがある。近代史においては、西郷隆盛、明治天皇、乃木稀典、昭和天皇等を、氏は尊敬と愛情をもって描く。これらの人物は、どれも「代表的日本人」と言うべき人物である。みな日本人の精神がよく表れている人物である。だから、私たちは渡部日本史を読むことを通じて、日本人の精神をもった日本人の姿に触れることができる。それは渡部氏が、こうした日本人に感動し、敬愛を覚える日本人だからである。
 渡部氏は類稀な独創性をもった当代一流の教養人である。しかし氏の主張は、単に奇抜なものではなく、日本人の常識に裏付けられているところに、素晴らしさがある。ここで日本人の常識と言うのは、江戸時代以前から明治・大正を経て昭和戦前期までは、日本人に代々受け継がれてきた常識である。日本人としてのものの見方、感じ方である。渡部日本史は、こうした日本人の常識に裏付けられているからこそ、真に「国民の歴史」と呼ぶに値する歴史観になっていると私は思う。
 
 これから日本の歴史を学びたい人、日本が好きでもっと日本の歴史を知りたい人、日本の歴史を掘り下げてとらえたい人、日本文明を他文明と比較して理解したい人等、多くの人に渡部昇一氏の『日本の歴史』シリーズをお勧めしたい。