●伊藤は当初韓国統合に反対だった
ハーグ密使事件をきっかけに、日本では一気に併合を進めるべきだとする声が高まった。だが、日本は第3次協約を締結し、統監権限を強化する取り決めのみとした。韓国併合について、陸奥宗光、曾禰荒助等は反対派、桂太郎、山縣有朋等は推進派だった。伊藤博文は、韓国を保護国化し実質的に統治することで充分と考え、当初は韓国併合に反対の立場を取っていた。理由は、わが国は日露戦争で莫大な戦費を費やし、貧困国の合併にかかる出費をする余裕のないこと。韓国を併合すれば、韓国の対外債務を引き受けねばならないこと。また台湾の開発の経験から見て、一視同仁の思想による民生の向上には莫大な費用がかかること等である。
これらの理由に加えて、伊藤は韓国人の資質を高く評価していた。韓国を訪れた新渡戸稲造は伊藤と面会した際、新渡戸が「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果してできましょうか」と問うと、伊藤はこう答えたという。
「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない」(新渡戸稲造『偉人群像』)
すなわち伊藤は、将来韓国人自身が韓国を統治することを期待しつつ、韓国の政治改革に努めていたのである。日韓の共存共栄を理想としていたのだろう。
しかし、伊藤は義兵闘争が盛んになると考え方を変えた。1909年(明治42年)4月、時の首相・桂太郎と外相・小村壽太郎が併合の方針を提示すると、その大網を是認した。伊藤の意思を確認した桂内閣は同年7月、「韓国併合の基本方針」を閣議決定した。伊藤は、同年5月に統監を辞任した後、4度目となる枢密院議長に就任した。そして、訪韓して残務を行った。
伊藤は積極的な韓国併合論者ではなく、韓国の自立を願いながら、韓国の発展に努めたのである。
伊藤は1907年(明治40年)5月28日、総督府の日本人幹部に対する訓示で次のように述べた。
「荀くも数千年の歴史と文明を有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論に賛成せず、またわが陛下の御思召も決してそうではない」
このように説いていた伊藤は、政府の韓国併合の方針を容認するに至っても、併合及びその後の政治は、韓国人の資質を評価し、その自立心を尊重する進め方を求めたことだろう。
深谷博治著『明治日本の対韓政策』(友邦協会)は、次のような伊藤の言葉を伝えている。
「日本は非文明的、非人道的な働きをしてまでも韓国を滅ぼさんと欲するものではない。韓国の進歩は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。日章旗と巴字旗(韓国旗)とが並び立てば日本は満足である。日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが、日本は韓国を合併する必要はない。合併は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである」
また、大韓帝国朝廷の官吏に対して、次のように語った。
「韓国人の何びとが自らその独立を主張したであろうか。かつまた、韓国人の何びとが自ら韓国の独立を承認したであろうか。あるならば聞きたい。韓国人は、三、四千年来、固有の独立を有するように言っているが、自分はこれを承認できない」
しかし、安重根は、伊藤こそが日韓併合を進めている元凶と考え、伊藤の暗殺を計画した。
●伊藤は安らに暗殺された
伊藤は、1909年10月26日、帝政ロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために、ハルピンを訪れた。安は共謀者たちとともに、列車から降りて駅ホームでロシア兵の閲兵を受けている伊藤に、群衆を装って近づき、銃弾を3発、発射した。被弾した伊藤は約30分後に絶命した。
安重根は直ちに逮捕され、共犯者の朝鮮人3名もロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを旅順の関東都督府地方法院に移送した。ロシアの治外法権の地から、わが国の司法権管轄の地に移すためである。裁判の結果、翌年2月14日安を死刑、他の者を懲役刑に処する判決が下された。安は同年3月26日に絞首刑に処された。
伊藤暗殺という大事件は、韓国に衝撃をもたらした。わが国による国葬には、韓国の王室だけでなく、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列した。国葬の日、ソウルでは、李完用首相の主催で、官民1万人が参列して追悼会が催された。追悼会は全国各地に及んだ。伊藤を「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等とたたえる賛辞が続いた。一方、旅順監獄に繋がれていた安重根に面会者はなかったという。
安重根らは、韓国併合を阻止するために、伊藤の暗殺を謀った。だが、伊藤暗殺は、韓国併合を阻止するものとはならなかった。むしろ、伊藤を殺害したことにより、日韓併合は促進された。
安の処刑から約5か月後となる1910年8月、寺内正毅統監と李完用首相が日韓併合条約に調印し、併合は完了した。韓国人が日韓併合を非難するのであれば、伊藤を暗殺し、日韓併合を加速することになった安重根を英雄視するのは、誤りである。
また安重根は、敬虔なカトリック信者にして、深い知識も兼ね備えた人物だったという見方がある。逮捕後は潔く罪を認め、その態度は日本人の検察官や判事にまで深い感銘を与えている。だが、そうした一面をもって、安の行為が免罪されるものではまったくない。
次回に続く。
ハーグ密使事件をきっかけに、日本では一気に併合を進めるべきだとする声が高まった。だが、日本は第3次協約を締結し、統監権限を強化する取り決めのみとした。韓国併合について、陸奥宗光、曾禰荒助等は反対派、桂太郎、山縣有朋等は推進派だった。伊藤博文は、韓国を保護国化し実質的に統治することで充分と考え、当初は韓国併合に反対の立場を取っていた。理由は、わが国は日露戦争で莫大な戦費を費やし、貧困国の合併にかかる出費をする余裕のないこと。韓国を併合すれば、韓国の対外債務を引き受けねばならないこと。また台湾の開発の経験から見て、一視同仁の思想による民生の向上には莫大な費用がかかること等である。
これらの理由に加えて、伊藤は韓国人の資質を高く評価していた。韓国を訪れた新渡戸稲造は伊藤と面会した際、新渡戸が「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果してできましょうか」と問うと、伊藤はこう答えたという。
「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない」(新渡戸稲造『偉人群像』)
すなわち伊藤は、将来韓国人自身が韓国を統治することを期待しつつ、韓国の政治改革に努めていたのである。日韓の共存共栄を理想としていたのだろう。
しかし、伊藤は義兵闘争が盛んになると考え方を変えた。1909年(明治42年)4月、時の首相・桂太郎と外相・小村壽太郎が併合の方針を提示すると、その大網を是認した。伊藤の意思を確認した桂内閣は同年7月、「韓国併合の基本方針」を閣議決定した。伊藤は、同年5月に統監を辞任した後、4度目となる枢密院議長に就任した。そして、訪韓して残務を行った。
伊藤は積極的な韓国併合論者ではなく、韓国の自立を願いながら、韓国の発展に努めたのである。
伊藤は1907年(明治40年)5月28日、総督府の日本人幹部に対する訓示で次のように述べた。
「荀くも数千年の歴史と文明を有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論に賛成せず、またわが陛下の御思召も決してそうではない」
このように説いていた伊藤は、政府の韓国併合の方針を容認するに至っても、併合及びその後の政治は、韓国人の資質を評価し、その自立心を尊重する進め方を求めたことだろう。
深谷博治著『明治日本の対韓政策』(友邦協会)は、次のような伊藤の言葉を伝えている。
「日本は非文明的、非人道的な働きをしてまでも韓国を滅ぼさんと欲するものではない。韓国の進歩は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。日章旗と巴字旗(韓国旗)とが並び立てば日本は満足である。日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが、日本は韓国を合併する必要はない。合併は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである」
また、大韓帝国朝廷の官吏に対して、次のように語った。
「韓国人の何びとが自らその独立を主張したであろうか。かつまた、韓国人の何びとが自ら韓国の独立を承認したであろうか。あるならば聞きたい。韓国人は、三、四千年来、固有の独立を有するように言っているが、自分はこれを承認できない」
しかし、安重根は、伊藤こそが日韓併合を進めている元凶と考え、伊藤の暗殺を計画した。
●伊藤は安らに暗殺された
伊藤は、1909年10月26日、帝政ロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために、ハルピンを訪れた。安は共謀者たちとともに、列車から降りて駅ホームでロシア兵の閲兵を受けている伊藤に、群衆を装って近づき、銃弾を3発、発射した。被弾した伊藤は約30分後に絶命した。
安重根は直ちに逮捕され、共犯者の朝鮮人3名もロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを旅順の関東都督府地方法院に移送した。ロシアの治外法権の地から、わが国の司法権管轄の地に移すためである。裁判の結果、翌年2月14日安を死刑、他の者を懲役刑に処する判決が下された。安は同年3月26日に絞首刑に処された。
伊藤暗殺という大事件は、韓国に衝撃をもたらした。わが国による国葬には、韓国の王室だけでなく、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列した。国葬の日、ソウルでは、李完用首相の主催で、官民1万人が参列して追悼会が催された。追悼会は全国各地に及んだ。伊藤を「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等とたたえる賛辞が続いた。一方、旅順監獄に繋がれていた安重根に面会者はなかったという。
安重根らは、韓国併合を阻止するために、伊藤の暗殺を謀った。だが、伊藤暗殺は、韓国併合を阻止するものとはならなかった。むしろ、伊藤を殺害したことにより、日韓併合は促進された。
安の処刑から約5か月後となる1910年8月、寺内正毅統監と李完用首相が日韓併合条約に調印し、併合は完了した。韓国人が日韓併合を非難するのであれば、伊藤を暗殺し、日韓併合を加速することになった安重根を英雄視するのは、誤りである。
また安重根は、敬虔なカトリック信者にして、深い知識も兼ね備えた人物だったという見方がある。逮捕後は潔く罪を認め、その態度は日本人の検察官や判事にまで深い感銘を与えている。だが、そうした一面をもって、安の行為が免罪されるものではまったくない。
次回に続く。