goo

●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)

4.

 電車を降り、ホームを中央まで歩き、階段を下る。改札口を抜けて、駅前に出た。真正面にロータリー、左手には屋寝付きの駐輪場。駐輪場前の歩道をロータリー沿いに歩けば、アーケード商店街の入り口に出る。もっとも、このアーケード内は今はもう、シャッター通り商店街と化しているのだが。

 この一週間、登校のため、早朝に降り立った駅前に、夕方来るのは初めてだ。だが逆に、夕方近くは帰宅するのに、電車に乗るため、この駅前に立つ。お母さんが学校側に話して、しばらくはバスケットボール部の、放課後クラブ活動は休むことになった。お祖父ちゃん・お祖母ちゃんの家から学校に通うようになって、電車通学になった。

 勿論、朝は弟・和也と共に出て、電車に乗り、駅から学校までバスに乗る。バスの運行路は都合良く、小学校前にも、中学校前にも停留所がある。それにもう、あとわずか何日かで夏休みに入る。帰宅も、和也が、中学校の授業が終わるまで待って、一緒に帰っている。吉川愛子は、駐輪場に停めてある何台もの自転車を眺めながら、あたしも家から街に出たときは、いつもこの駐輪場に自転車置いてたのにな、と、まだ臨時引越ししてから一週間ちょっとしか経たないのに、感慨深げに思った。

 吉川愛子は、隣に立つ弟・和也に 「行こう」 と、促した。ロータリー沿いの歩道から、駅前から真っ直ぐに伸びる大通りに渡る。この目抜き通りは、地方の街ながら、両側に幾つかのビルが並んで立っている。銀行の支店や郵便局、幾つかのテナントの入った商業ビルだ。その先には、地方にしては比較的高層なマンションも見える。少し遠くには、こじんまりしたビジネスホテルのビルも立つ。

 愛子と和也の姉弟は、ファーストフード店の入ったビル目指して、大通りの歩道を歩いて行った。もう直ぐ先に、看板が見えている。夏真っ盛りの季節だが、愛子も和也も長袖シャツを着て、袖を捲り上げている。下は、二人とも長ズボンだ。愛子は、薄手の、色の褪めたジーンズを穿き、和也は、濃紺の子供用スラックス。和也のシャツはグレイの無地だが、愛子は派手なチェック柄を着ていた。夕方近い気温は、真夏日で相当暑いのだが、二人の目的は市民公園の森の中へ行くことなので、敢えて長袖長ズボン姿なのだ。もう一つ言うと、二人ともキャップを被っていた。

 14歳の少女、愛子のオカッパ頭の髪は、首筋の下の方あたりまで伸び、そこにキャップを深々と被り、とても可愛らしく見えた。バスケットで鍛えた身体はスレンダーで、着飾ればジュニアモデルとして通用するかも知れない。難を言えば、愛子はモデルとしては僅かに足が短い。愛子はショルダーバッグ、和也はバックパックをかるっていた。二人は、何度も来たことのある、ビル一階のファーストフード店に入って行った。

 店から出て来た二人は、いったん駅前近くへ戻り、駅脇に位置するバス停まで来た。市民公園は、山々を切り開いて造り上げた、大規模な総合運動公園だ。この町でも、市街地からかなり外れて、辺鄙な場所にある。愛子たちはバスを利用して、出来るだけ近くまで行き、あとは公園まで歩くつもりだ。帰りは暗くなるだろうから、タクシーを携帯で呼び、駅まで戻るつもりでいる。この地域でも辺鄙な、市民公園近くを通るバス路線は、夕方なぞたった一本だけだ。

 愛子たちは、バス停でバスを待った。和也が、バス停から、通りの向こう側をじっと見ていた。 「何をそんなに凝っと見ているんだろう?」 と、疑問に思った愛子も、同じ方角を見た。中年くらいなるのか、もう少し若いのか、中背で少々太り気味に見える、サラリーマンと思しき男性が立っている。着古したようにヨレッとして見える、背広姿でネクタイもしているようだ。薄くなりかけたような頭髪を、横分けできれいに整髪している。こういっては悪いが、“くたびれたサラリーマン氏” という感じだ。

 和也はまだ、凝っと見詰めていた。愛子が咎めた。

 「和也。あんまりヒトを、じろじろ見ていちゃ悪いよ」

 和也はただ 「うん」 とだけ返事した。

 何かを探しているのだろうか、“くたびれたサラリーマン氏” はキョロキョロとしていた。和也は愛子に言われて、一度は目を外したが、やっぱり、通りの向かい側の男性を見ていた。愛子もつられて、男を見る。よく見ると、離れた両目がぎょろりと大きくて、薄い唇の口幅か広そうで、何となく “カエル” を思わせた。何かおっとりした雰囲気で、見ていると全体的に、ユーモラスな感じを受ける。愛子は、思わず吹き出した。

 笑いながら、和也の顔を見ると無表情に、ただ凝っと男を見続けている。愛子も、「この弟も少々変わった子供だしな」 と考えて、気にせず、「バスはまだかな」 と、バスの来る方角を見ていた。少しして、バスが見えた。愛子が 「来た来た」 と思いながら、何気なく通りの向こうを見ると、もう “カエル顔のユーモラスなオジサン” は居なかった。

 隣の和也を見やると、だんだん近付いて来るバスの方を見ていた。停車したバスに乗り込んだのは、愛子と和也含めて四人だった。バスの中も空いていて、二人は後ろの方の座席に座った。総合市民公園は、市の端っこの、山々を削り開拓して自然を残して造り上げた、大規模な公園施設だ。市内でも、かなり田舎の方にある。市民公園近くのバス停も、田畑ばかりの場所だ。

 自転車で行けば、駅から市民公園までは、急げば20分で行けるが、徒歩だと先ず一時間以上は歩かねばならない。バスでも、市民公園最寄りバス停まで、やはり20分近くは掛かりそうだ。そこから10分は歩かねばならない。愛子はバスに揺られながら、一週間前の自宅でのことを思い出していた。

 相変わらず遅く帰って来た、父・和臣。変わり果てた家の主人にもう、家族の誰も、相手しなかった。この夜も、父は家で食事も摂らず、風呂にも入らなかった。母・智美は勿論のこと、二人の子供たちも、和臣とは一言も口を利かなかった。深夜、愛子と和也は、二階の部屋に納まりベッドに就き、母・智美も就寝に、和臣とは別の、元客室であった自分用の寝室に退き込んだ。もう、ひと月以上も前から、両親は寝室を別にしている。

 二階の愛子は夜中に、「きゃあーっ」 という、女性の悲鳴を聞いてベッドから飛び起き、愛子には、一階からの、母・智美の叫びだと直ぐに解り、急いで階下へ降りた。リビングには、寝室から飛び出して来た、母・智美が荒い息を吐きながら、血相を変えて構えていた。母が寝ていた寝室の前には、薄笑いを浮かべて落ち着き払った、父・和臣が立っていた。

 階段から降りてすぐの場所で、愛子が叫んだ。

 「どうしたの!?」

 母・智美は、恐怖に歪んだような顔で居る。そして大声を上げた。

 「和也、二階に帰ってなさい!」

 愛子がその声に驚いて、後ろを振り向くと、階段の一番下に和也が、子供用のバットを持って立っていた。父親はニヤニヤ笑いながら、一言も喋らずに、寝室へ戻って行った。その背中に愛子が、一言投げ掛けた時だけ、寝室の前で一瞬立ち止まった。

 「今度お母さんに何かしたら、許さないから!」

 和臣は何事も無かったように、黙って一階寝室へ入り、ドアを閉めた。その後、智美は、娘・愛子の部屋で寝た。床にマットレスを敷き、タオルケットを掛けて寝すんだ。翌朝までずっと、幼い弟、和也のことを心配していた。二階隣室の和也には、部屋に施錠して、何かあったら大声を上げるように言い置いて、二人は部屋で寝すんだ。

 中学二年生の愛子は、もう当然、大人の営みを知っていた。夜遅く帰って来た和臣は、それまでは二、三ヶ月以上も、家族にまるで興味が無いみたいに、何事につけ、家族を相手にするのを面倒くさがっていたのに、この晩は、口も利かずに先に、元は客室の寝室に入った智美を追い掛けて、その寝室に入り、床に横になっていた智美に覆い被さり、求めて来たのだ。

 人間が変わってしまった夫には、今の智美は、不信感と不気味さと嫌悪しか抱いていない。智美にしてみれば突然、和臣が智美の肉体を求めて来たのは、恐怖以外の何物でもなかった。

 一晩、娘の愛子と共に二階の子供部屋で過ごした智美は、翌朝、愛子と和也に学校を休ませて、和臣が勤めへと家を出た後、家の軽自動車に身の回りのものを積めるだけ積んで、智美の実家へと向かった。

 それが、今から一週間くらい前だ。その次の日から、愛子と和也は電車通学となり、智美は勤めを二日ほど休んだ後、またパートの仕事に出勤した。不思議なことに、和臣以外の家族三人が揃って、家を出てしまい戻らないというのに、智美の携帯にも智美の実家の電話にも、この一週間、和臣からは全く連絡が無い。勿論、愛子の持つ携帯電話にも、父親から一度も掛かって来ない。

 愛子はひとしきり思い出してから、大きな溜め息をついた。窓外の景色を眺めていた和也が、心配そうに姉の顔を見る。愛子はニッコリ笑って、応えて言った。

 「もうそろそろだよ。そこから市民公園まで歩くよ」

 バスを降りた姉弟は、田畑の中、一本道を歩いた。向こうに小山や林が見える以外は、民家も少ない。しかし、このあたりから自動車で10分も掛からずに、一週間前まで暮らしていた、自分たち家族の家がある、新興住宅地だ。

 愛子は、「あの自宅からだったら、市民公園は自転車ですぐなのになあ」 と思った。前方に、こんもりと繁った深い森が二山、三山見える。総合市民運動公園の森だ。二人はそこに向かって、てくてく歩いた。愛子のショルダーバッグも、和也のリュックも暖かい。二人のバッグの中には、差し入れのハンバーガーやフライドチキンなどが入っていた。

 二人は歩き続け、公園内に入って行き、やがて、和也たち少年野球チームが練習に利用している野球用グランドが見えた。グランドの方向目指して歩く、二人が駐車場の脇を通った。今日は日曜日で、和也たちチームの練習はない。練習のあるときは、何台か乗用車や軽トラックが止まっている。練習日の夕方遅くは、ここはチーム所属の子供たちのお迎えの、保護者たちの車でごった返す。和也は、一週間前から練習に参加していなかった。母親の実家に越して電車通学になり、しばらくは野球の練習には行けなくなったのだ。勿論、母・智美がチームの監督やコーチに、話を着けている。

 まだ陽はあるが、もう夕刻だ。野球やサッカーの練習がなければ、空っぽの筈の駐車場に乗用車が二台、停まっている。この夕方の時間に、散歩やジョギングなどに公園を利用する場合、ここからは離れた、別の駐車場に車を停める。今、ここから見渡しても、野球用グランドにもサッカー用グランドにも、人の姿は見えない。別に、誰かが少人数で、キャッチボールに戯れてる訳でもないのだ。グランドには誰も居ない。愛子は怪訝に思った。

 「この2台の車に乗って来た人たちは何処に居るんだろう?」 愛子はそう思いながら、後ろに弟・和也を連れて駐車場の脇を抜けて、野球グランドに向かって歩いた。いつものバックネット裏になる、通りの位置まで来た。愛子が自転車でこの公園に来たときは、この通りの反対側の端に、自転車を停め置く。愛子と和也二人、立ち止まって考えた。

 このまま通りを真っ直ぐ行って、遊歩道に出て、あの林の中まで行くか。それとも近道で、グランドの真ん中を横断して、向こうに見える林に入って行くか。まだ陽はあるし、そろそろ夕刻だがもうしばらくは暗くならないだろう。

 「まだ明るいから、藪の中通って行こうか」

 二人は、グランドに入る、低い鉄パイプの柵を乗り越えた。グランドの中央を歩きながら、愛子は、変わり果てた父親のことを考えた。もう長い間、考えまい考えまいとしながらも、つい頭に浮かんで出て来てしまう。昔は、あれほど愛すべき、私と和也の実の父親だったのだ。今でも、実の父親ではあるが、人間の中身が悪い方に変わってしまった。

 智美の話を聞いた祖父母は、「病院に入院させた方が良いんじゃないかい?」 と言っていた。母・智美としても、もう “離婚” は考えている様子だ。それも気持ちは “決心” に近いようだ。父親・和臣は何故、私たちに何の連絡もして来ないのだろう? そこまで家族に関心が無くなったのか。愛子は涙が出そうになった。愛子はまた自分に言い聞かせた。もう父親のことを考えるのはよそう。

 ふと、愛子は和也の方を見て、「和也は今の父親のことをどう思っているんだろう?」 と思った。最近の和也は変わった、という気がする。何だか、あのスーパードッグたちと出会ってからこっち、和也のキャラクターが微妙に変わって来た気がするのだ。もともと口数の少ない子供だったけど、この頃はもっと、家族とは余計なことは喋らなくなり、妙に大人になったような気もする。小学三年生で “大人” はおかしいが、最近は和也の「ワガママ」や「甘え」をとんと見なくなっている。子供ながらに、母親・智美の置かれている状況や事情が解っていて、心配し配慮しているのだろう。

 やがて二人はグランドを突っ切り、林の手前の叢まで来た。愛子がショルダーバッグから虫除けスプレーを取り出し、和也の顔や露出した部分に噴霧してやり、自分の顔から首筋、袖を捲り上げた腕にスプレーを掛ける。グランド境界の側溝を跨いで叢に入った。数メートル進むと林の藪の中に入る。道なき道を茂みを掻き分けて、地面の草や落ち葉などを踏む音を立て、二人はさらに進んだ。グランド手前通路から遊歩道へ出て、ぐるりと遊歩道を回って行けば、かなりの遠回りになるが、この林を抜けて直線距離を歩けば時間的には全然違う近道となる。

 二人は木々の間の茂みを抜けて、目的地である遊歩道奥の引き込み路の、手前十メートルくらいのところまで来た。和也が立ち止まって一言喋った。

 「お姉ちゃん、誰か居るよ」

 そう言われて愛子も立ち止まり、林に隠れた前方を凝っと見ながら、耳を澄ませた。小さな音だが、ガヤガヤとしたような人の声が聞こえている。木々の枝葉や茂みが影になり前方が見えないが、確かに人がそれも数人居るようだ。

 「本当だ。和也、あんたよく解ったわね。一人じゃないね。何人も居るみたい‥」

 小さな音だが、聞こえて来ているのは、何人もの笑い声のような気がする。笑い声の聞こえて来る方角は、遊歩道引き込み路の、調度、後能滋夫が樹木の枝にロープを掛けて首吊り自殺をしようとして、スーパードッグの一匹、ハチに命を救われた場所だ。木々の中、遊歩道の端に、ひときわ幹周りの太い、大きな木が一本立っているところだ。愛子は音を立てないように注意して、静かに移動した。和也もそっと、愛子の後ろを追いて来る。

 遊歩道の手前7、8メートルのところに生えている、比較的大きなj樹木のところまで来て、幹影に隠れて様子を伺う。愛子は思わず 「あっ!」 と声を出しそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。二組の西崎慎吾が居るではないか。不良グループの領袖、西崎と、その取り巻き連中だ。ほとんどが二年二組の生徒だ。西崎は頭に包帯を巻き、白いネットを被っている。病院を退院は出来たが、まだ完治していないのだろう。他の生徒連中は四人くらいだが、やはり同じように頭に包帯とネット姿の者も見える。いづれ、この場に居る生徒全員がこの間、ハチとジャックのスーパードッグに懲らしめられて、怪我を負った連中だ。

 そして、生徒とは別に、見知らぬ、人相の悪い男が、もう二人ほど居た。中学生ではない。もっと年長だ。ラフな私服を着ているが、見るからにチンピラ然としている。だいぶ前だが、 クラスメートのピー子や二年一組の武田虎太に聞いたことがある。西崎慎吾には学校の外では、年上の用心棒的存在が着いているらしい、と。高校中退のニートで、ぶらぶら遊んでいるチンピラのような不良で、西崎慎吾が資産家の親の威光で、ふんだんに持っている小遣い目当てで、学校外では西崎とつるんで遊んでいるらしい。

 そして愛子はまた、さらに驚いた。茂みの影で見えにくいが、ここからの愛子の視界で見える、一番端っこに、後能滋夫が居た。下を向いたまま、直立不動の姿勢で立ったままだ。俯いている顔の表情は、泣いているようにも見える。周囲の不良グループの連中はみんなニヤニヤ笑っている。下卑た笑い顔だ。

 「さあ、やって見せろよ。慎吾君が見たいんだよ。どうやったんだ? 早くしろ!」

 西崎慎吾の取り巻きの一人が、俯いたままの後能滋夫に向かって、楽しそうに大きな声で言った。

 「後能、おまえ。ここで首吊りしてみて、失敗したんだろ。俺たちの前で、もう一度やってみろよ。今度は、俺たちがちゃんと見届けてやるからよ」

 二組の生徒の一人が、からかうように言って笑った。他の者たちもゲラゲラと笑う。後能滋夫は、気を付けの姿勢で下を向いたまま、黙っている。

 「後能。この野郎、おまえ、またチクリやがったろう? 先公どころか、警察からも訊かれちまったよ!」

 他の生徒が怒鳴るように言った。中学校で五月末に起きた、校舎裏手の用具倉庫裏での、二年二組生徒七名集団大怪我事故の、怪事件で、校内捜査に警察が入ったとき、二組生徒で一人だけ無傷で無事だった後能滋夫は、教頭や学年主任や担任の教師連と、複数の刑事から仔細に、何度も執拗に状況や事情を訊かれ、西崎ら怪我を負った生徒全員から、毎日苛めを受けていたことを話してしまい、刑事のあまりのしつこさについ、自分が、首吊り自殺未遂したことまでを喋ってしまっていた。

 後能滋夫に日常的に苛めを行っていた、怪我した生徒たちは、教師や刑事から訊き取りのときに、その苛め行為に関して注意されたらしい。おそらく、あまり深く考えない配慮の乏しい教師か警察官が、滋夫の自殺未遂行為まで、生徒に話してしまったのだろう。勿論、教師や警察官は、「苛めた相手は自殺を考えるまで傷付いているから、反省して、これからは苛めは止めろ」 というようなことでも言って、不良グループの生徒たちを諭したのだろう。浅はかにもほどがあるが。

 後能滋夫を苛めていた面々は、特に不良グループ・リーダーの西崎慎吾は、自分たちが大怪我を負ったのに、後能滋夫一人が無傷だったことが許せなかった。グループの面々も、一人で考えると、「どうしてあいつだけが無傷なんだろう?」 と不気味だったが、不良グループ七、八名という人数が揃えば、恐怖心などなくなり、ただただ、一人だけ無事だった滋夫が憎くてたまらなかった。

 「おまえ、チクったのこれで二度目だよな? 今度は、ご丁寧に警察までもだ。『自殺考えるまで追い込まれました』 ってか? ふざけんじゃねーよ。死にてえんだろ? 見ててやるから早く首吊れよ!」

 見ると、大きな樹木から真横に伸びる太い枝には、新たにロープを括って輪っかが取り付けられていた。後能滋夫の後ろの、少し上方にロープの輪がある。滋夫は相変わらず、下を向いたまま固まっている。よく見ると、両手が小刻みに震えている。小さな嗚咽が漏れているようだ。満を持したように、西崎慎吾が一歩前へ出て来て、おもむろに言った。

 「おい、おまえ。あの時、俺たちが大怪我をして入院したって言うのに、だいたいおまえだけが無傷だったっていうのが、俺は許せねえんだ。俺はなあ、病院のベッドで毎日、退院したらおまえを死ぬほど、ギタギタにシメてやるって、そればかりを考えて、傷が治るのを待ってたんだ。長かったけどな。やっとこの時が来たんだ‥」

 慎吾の言葉が終わると、取り巻きの一人が怒鳴りながら、俊敏に動いた。

 「解ってんのか、この野郎!」

 生徒の一人の強烈な蹴りが、滋夫の腹部に入った。滋夫が、「ギャッ」 と、叫びとも呻きとも取れる声を上げて、自分の腹を押さえながら、前にくずおれた。膝を衝いて蹲り、呻き声を上げ続ける。

 「バーカ。早く、首吊って死ね!」

 前に出て来た西崎が、丸く蹲っている滋夫の、横腹下、腰のあたりを蹴った。滋夫が悲鳴を上げる。年長の用心棒格の二人は、ニヤニヤ笑いながら成り行きを眺めている。生徒の一人が前に出て来て、地面に蹲ったまま呻いている滋夫に、覆い被さるように腰を降ろす。

 「おい、後能。慎吾君が 『早く首吊れ』 って、言ってくれてるだろ。早くしろよ! みんな、待ってんだからよ」

 周囲の少年たち全員が、ゲラゲラ笑った。滋夫の両肩を鷲掴みして、無理やり滋夫の身体を起こす。もう一人生徒が出て来て、手を貸して、滋夫を両サイドから力ずくで立たせようとする。

 「さあ、後能。立たねえか!」

 滋夫は泣き顔で抵抗していた。生徒たちの後ろの方から、一人が箱を抱えて前に出て来た。

 「これがあるぜ」 生徒は、抱えていた箱を地面に置いた。汚れた木箱だった。

 板を張り合わせて組んだ、昔でいう、りんご箱みたいなものだ。

 「ロープの下に置けよ」 一人が言うと、一人が 「おうっ」 と軽快に返事して、箱を置き直した。

 西崎が言下に言った。

 「どうだ、後能。覚悟は出来たか?」

 それを合図に、滋夫を両脇から抱える二人が、無理やり立たせて、滋夫をロープの下へ運ぼうとする。滋夫は、イヤイヤをして駄々をこねるように暴れ、泣きじゃくった。生徒二人が引き摺るように、ロープ下まで連れて行く。滋夫が暴れるので、滋夫の片足が当たって、ロープ下に伏せるように置いた木箱が、撥ね飛ばされて転がった。これに触発され、カッとなった西崎慎吾が怒声を上げて、両脇から抱えられ吊るされた格好の、滋夫の腹部に蹴りを入れた。

 滋夫が、「ギャッ」 と叫びを上げる。

 「おい、そのまま持ってろ!」

 西崎が生徒二人に命令口調で言うと、ポケットから皮手袋を取り出し、急いで右手に嵌めた。西崎は左手で、頭を垂れている滋夫の顎を持ち上げると、皮手袋の右手のげんこつで、滋夫の左頬を思いきり殴った。また滋夫の悲鳴が上がる。滋夫を右側から抱き抱える生徒が、片手を使って、下を向いている顔を上げた。滋夫はくしゃくしゃにした泣き顔で、口の中を大きく切ったらしく、口の左端から血が滴っている。滋夫の顎のあたりは、涙と血でぐちゃぐちゃな感じで、滋夫は 「ヒック、ヒック」 と嗚咽していた。

 西崎慎吾を始め不良グループ連は、滋夫の汚れた顔を見て、またみんなゲラゲラと笑った。滋夫を抱える一人が言った。

 「後能。おまえ、死にたいんだろう? せっかく慎吾君が親切で、首吊り手伝ってやろうってしてんのに、嫌がっちゃ駄目じゃんか。せっかくの慎吾君の友情、無駄にすんなよ」

 この言葉に、一同がまたドッと笑った。

 「やめろーっ! お兄ちゃんを苛めるな!」

 突如、子供の声がしたと思ったら、チビッ子が飛び出して来た。

 左側の林の中から、勢いよく出て来た子供は、どう見ても、十歳にもならないくらいのチビッ子だ。野球帽を深々と被り、バックパックを背負った子供は、後ろから二人に抱きかかえられた後能滋夫と向き合う、西崎慎吾の前に立った。

 「何だこいつ‥?」 一同はポカンとしていた。

 「後能。おまえの友達って、こんな幼児かよ? 友達が、助けに来てくれたって訳だ」

 一人が喋ると、弾かれたように全員が笑いだした。

 「後能。おまえ、良い友達持って幸せだなあ」 爆笑が続く。

 「お兄ちゃんたち、こんなに大勢で、たった一人を苛めて、中学生にもなって恥ずかしくないの!?」

 子供が言った。全員が笑うのを止めた。西崎慎吾の顔色が変わった。

 「何だと、このクソガキ‥」

 西崎が一歩出て、小学校中学年程度の子供を、蹴飛ばした。子供の身体がゴロゴロと、後方へ転がる。

 「和也っ!」 叫びを上げて、同じ左手の林から、吉川愛子が飛び出して来た。

 倒れた和也の小さな身体に寄り添い、「和也大丈夫?」 と声掛けた。愛子は、弟・和也を抱き起こしながら、西崎慎吾を睨んだ。

 そして、不良グループの一同を見回した。愛子は、可愛い弟を足蹴にされ、文句の一つも言ってやろうと思ったが、西崎以下十名くらいの人数が揃う、不良グループの面々を前にすると、さすがに恐怖心が先に立ち、睨むのが精一杯だった。

 愛子は心の中では、失敗したと後悔し、「どうしよう!?」 と焦っていた。林の中の樹木の、幹影から覗き見て様子を伺っていたときは、愛子は、このまま気付かれないように後退し、林を出て、電話を掛けて警察に通報しようと考えていた。まさか、後ろに居た弟・和也が、突然飛び出して行くなどと、思いもしなかったのだ。

 西崎ら不良グループは怖かったが、和也が危険な目に合っているのに、出て行かない訳にはいかない。愛子の顔を凝っと見ていた西崎慎吾が、思い付いたように言った。

 「おまえ、見たことあるヤツだな」

 それに答えるように、不良グループ生徒の一人が言った。

 「おまえ、吉川だろ? 女子バスケの‥」

 「ああ、なんだ。ウチのバスケ部か」

 「確かこいつ、二年四組だよ」

 西崎慎吾が、和也の元に中腰になっている愛子を、足元から頭の先まで嘗めるように見る。他の生徒たちはともかく、西崎と年長の用心棒役の二人は、愛子を見る目付きが違っていた。愛子は危険を感じ、緊張した。

 どうにかして、この場から逃げ出さなければ、危ない。そう思う愛子は、緊張と焦りで、ゴクリと固唾を呑んだ。しかし、愛子には一縷の望みがあった。ここは、この運動公園の森の中は、スーパードッグのテリトリーなのだ。多分、この地が、彼らの棲み家に間違いない筈だ。スーパードッグの一匹、ハチは弟・和也を訪ねて、家までやって来たくらいだ。

 「きっと来てくれる‥」 愛子は思わず声に出し、小さく言った。

 「おまえ、何ブツブツ言ってんだ?」

 愛子は黙って、和也を抱く腕に力が入る。用心棒役の年長二人の内、一人がおもむろに西崎に話し掛ける。

 「慎吾クンさあ。俺たちがここでやってるコト、後でこいつらに先公とか警察とか親とか、大人に喋られると面倒なコトになるじゃん。まさか今、こいつら三人とも首吊りさせる訳にも行かないしさ。今日のトコロは、帰って誰にも何も喋らねえように、この三人とも適当にシメとくのが良いんじゃねえかナ?」

 年長の不良は二人とも、西崎よりも二つ三つ年上になるが、自分たちに遊ぶ小遣いを回してくれる、西崎に気を使っているようだ。やはり、あくまでこの不良グループのリーダーは、金持ちのワガママ息子、西崎慎吾なのだ。

 「そうだな。しかし、この姉ちゃんの方は、ちょっと惜しいけどな」

 もう一人の年長が言った。

 「女だけ、この林の奥に連れ込んでも、良いんじゃね?」

 もう一方がそう言って、西崎の顔を見た。リーダー・西崎は、自分の顎を左手指で弄びながら、思案顔だ。

 「そうだな‥。子供は適当に蹴飛ばして泣かせて、後能はもう少し痛め付けて、女は、俺と哲さんたちと三人で、森の中に連れ込もうか‥」

 西崎は、用心棒役の年長の一人を、“哲さん” と呼んだ。そして後ろを振り返り、配下となる不良グループのクラスメートたち、六、七名に向かって言下に言った。

 「ガキと後能をシメた後、おまえらは車で待ってろ」

 西崎の言葉に、愛子は背筋に、電流のように冷たいものが走るのを感じた。恐怖心に身体の緊張が高まり、凍ったように固まってしまった。小刻みに身体が震えている。年長不良の一人が、ニヤニヤ笑いながら、座り込んだ姿勢の愛子と和也に、一歩近付いて来た。愛子は恐怖に、悲鳴を上げそうだった。

 その時、ガサガサと藪を掻き分ける音がして、遊歩道引き込み路の奥の方に、一匹の犬が出て来た。西崎たち不良グループの塊から、調度六、七メートル離れた地点か。白い大型犬だ。不良グループ生徒の一人が言った。

 「何だ犬かよ。嚇かすなよ」

 他の生徒が言う。

 「けど大きいぜ。日本犬だな。秋田犬か何かか?」

 「襲って来ねえかな?」

 年長の一人が叫んだ。

 「おい、誰か。鉄パイプ、持って来てただろ!?」

 返事が聞こえ、生徒たちの後ろの方に居た一人が、前に出て来て、用心棒役に、1メートルくらいの長さの鉄パイプを渡した。

 愛子は、爆発的な喜びで、胸が張り裂けそうになっていた。「ジャックだ! ジャックが来てくれた」 愛子は心の中で叫んでいた。ふと、愛子の腕の中に居る、弟を見ると、和也もジャックの方を凝っと見ていた。

 「おい、吉川。おまえ、何喜んでるんだ?」

 無意識になってしまっていた愛子の笑顔に、生徒の一人が気付き、愛子に向かって言うと、鉄パイプを片手に持った用心棒役が、静かに言った。

 「ふん。まあ、任しておけよ。秋田犬だろうが土佐犬だろうが、頭ぶち割ってホームランだ‥」

 男が、鉄パイプを斜め上に構える。西崎が叫んだ。

 「おい、おまえら。木の棒でも枝でも、何か武器になる物、捜せ!」

 不良グループが散った。

 「慎吾君、これ!」

 生徒の一人が西崎にチェーンを渡す。別の生徒が、特殊警棒を振って伸ばし、前に出て来た。数メートル離れた犬に対して、不良グループの面々全員が身構えた。いつの間にか、後能滋夫は解放されていて、樹木の横枝から下がったロープの輪の斜め下で、ボーッと突っ立っている。

 「それにしてもけっこうでかいぜ、この犬。俺は、飛び出しナイフしか持ってねえ」

 「大丈夫だ。横からかっ飛ばしてやる!」

 用心棒役の二人が話しながら、じりじりと動く。犬の方も、少しばかり近付いて来ている。チェーンを持つ西崎と、伸ばした特殊警棒を構える生徒が、斜め前方へと動く。二人の後ろにも、生徒の一人が、木の枝のような棒を構えている。数人で犬を囲み、一気に叩こう、という作戦らしい。

 後方からだが、不良グループの面々の動きを、黙って凝っと眺めていた愛子は、正直、可笑しかった。相手は、あのジャックなのだ。グループ全員が、いくらどんな武器を構えようが、それこそ “一蹴” だろう。西崎ら不良グループの面々、ここに居る全員が、また病院送りだ。まだ傷が完治していない西崎は大丈夫だろうか? などと、愛子は憎き西崎慎吾の心配までする、気遣いを無意識に起こしていた。

 愛子と和也のところからジャックまで、表情を見るには距離があり、愛子には、ジャックの眼光までは解らなかった。愛子は、いつかの校舎裏手のゴミ焼き場近くで見た、ジャックの眼光を身に染みてよく覚えている。あのときのジャックの目は、心底恐ろしかった。目というか、全身から放つ、何だろう、猛獣の迫力のような “気迫” か、恐怖を導く激しい “オーラ” か。不良グループを前に、今のジャックは、あんな眼光を放っているのだろうか?

 今、愛子の眼前には、不良グループの面々が立ち構え、愛子からは不良グループの連中の背中が邪魔して、ジャックの姿は視界に入らなかった。膝を衝いて中腰の姿勢の、愛子の前で、座っていた和也が急に立った。

 「あ、ハチさんだ」

 「えっ?」

 愛子が驚いて首を伸ばし、ハチの姿を目で探すが、前方はグループ生徒の背中ばかりだ。

 「ハチさんは、藪の中に居る‥」

 「ええっ? あんた解るの?」

 「うん。解る。ジャックさんを説得してるみたいだ‥」

 不良グループの面々は全員が、白い大型犬に気を取られていて、和也と愛子の会話には気が付かない。愛子が和也に訊く。

 「で、ハチさんはジャックに、何て説得してんの?」

 「殺すな、って」

 和也の答えに、愛子は仰天した。和也が続けて話す。

 「ジャックさんは、あの人たちを皆殺しにするつもりらしい‥」

 愛子は驚いたままで、何も言葉が出て来ない。

 「ハチさんが、死体の山はまずい、とかって止めてる。けど、お姉ちゃん。あの、一番前の人が鉄の棒を降り下ろしたら、その先は多分‥、みんな死ぬ」

 「あああ‥」 と、言葉にならぬ声を発して、蒼褪めた愛子は、腰を抜かしたように尻餅を衝いた。

 生徒たちの背中で、ジャックの立っているであろう、前方は見えない。愛子の視線と同じく、前方を凝っと見ていた和也が、急に振り返った。

 「どうしたんだろう?」 そう思った愛子も、和也にならい首を回した。遊歩道引き込み路への入り口、遊歩道メインロードの方だ。男が一人、立っていた。

 男はこちらに向かって歩いて来る。「あっ!」 愛子は小さく声を上げた。

 あのオジサンだ。そう。駅前のバス停で、和也が凝っと見続けていた、“くたびれたサラリーマン氏” だ。中背で少し小太りの、中年かもっと若いのかよく解らない、カエルのような顔をした男だ。男は普通に歩いて、こちらに近付いて来たが、愛子たちには目もくれず、不良グループの後ろまでやって来た。

「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(5) へ続く。

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする