戦後も70余年、遺族である事も忘れがちになる。今年も戦没者慰霊祭の案内状が届いた。
昭和18年1月、潜水艦に乗り込んでいた叔父が、23才でニューギニア方面で戦死した。
「南海院忠徹ーー禅居士」いかめしい戒名を頂き、葬儀は村葬で行われたと聞いている。
平成に入ってから宮古市在住の斉藤太一氏は、大戦中に日本海軍は123隻の潜水艦を失い、1万余名の乗員が艦と運命を共にし、そのうち岩手県出身者は49隻の艦で172名戦死したことを調べ上げ、「海に生まれ 海に死す~潜水艦戦没者の記録~」という本を発行された。
その本の中で、叔父の乗った伊号第4潜水艦は戦線に食料弾薬を運ぶ輸送作戦をしていた昭和17年12月20日、米潜水艦シードラゴンの雷撃により沈没、艦長以下90名戦死 ”沈没地点南緯5度2分、東経152度33分”
詳細は当時の敵国、アメリカの資料によるところが多いというのが少々残念である。
叔父が休暇で帰省したことがあったらしいが軍の機密とかで、どこで何をしてるのか、一切話さなかったが、持参したおみやげの、水牛の角で作った花差しを見て、
家人は台湾の民芸品だろうと思ったそうだ。
もう一つのおみやげは拳大の美しい模様のなサンゴだった。
平成に入ってから、日本最南端の波照間島を妻と旅行したことがある、海岸で叔父が休暇の際にお土産に持ってきたサンゴと同じもの見つけた。
どこにいっているのか話さなかった叔父は波照間島や台湾など日本の遥か南で行動し波照間島にも立ち寄ったに違いない。
サンゴを見つけた年の前年は、奇しくも叔父の50回忌の法要をした年で、叔父が私を呼んだのかと胸がいっぱいになったことがある。
昭和13年、17才で志願し、昭和18年23才に若さで戦死した先祖があったと言うことを子や孫にも言い伝える責務がある。
小5の孫が、夏休みに広島の平和祈念式典に出席すると言う。
戦争、平和の意味を良く理解してきてほしい。