赤いハンカチ

てぇへんだ てぇへんだ この秋はスズメがいねぇトンボもいねぇ・・・何か変だよ

▼吾輩は野良である

2019年01月04日 | ■今丼政幸君との対話

さてさて、数年前より、わが盟友である法政夜学あがりで白物家電と異名を取る今井政幸君との議論の核心となっていたのがヒト科における富と貧との問題だった。何を隠そう、わたすは法政通信教育部中退なのである。ようするに低学歴は似たもの同士ではないかと当方から夜学あがりの白物家電を甘く見て、すりよっていったのが結局は仇となり,いまやさんざんに罵倒されているしまつ。白物家電が言うに、同じ法政でも通信教育部中退なんぞ、なんの自慢にもなるわけがなく、それこそ馬鹿に決まっていると受け入れてくれる様は一向になし。同じ法政でも、俺とおまえは人種が違うとまで言われては、そのまま黙って見過ごせるわけにも行きそうらわず反弁を駆使して身を守ることあたわず。

それはともかくすなわち貨幣所有額の差と人格および思想に反映し比例しているか、または否かの問題だった。わたしの主張は富めるものほど以外に馬鹿だったという結論である。比して今井政幸君は、その逆で貧者こそ生まれながらにして最初から馬鹿だと断じてやまない。さてさて、いかなる哲学の道が開けてくるのか。ご覧あれ。

 

以下、2016年当時の赤っ恥掲示板より

●今井政幸・・・フルハラ直人君がら送られてきた乞食のカモメの写真!!(爆)

 

 

●かもめ・・・上はまさに拙者を被写した写真に違いないようだが、いずれ十年ほど前のものだ。当時職を失い妻子から放擲され食い詰めて路上生活に甘んじていた。主として秋葉原周辺を徘徊しつつ夕暮れともなればねぐらを求めてシャッターを降ろした商店の軒先で涅槃の図をきめこんでいた。だが現在は違う。路上生活のままで人生を終わらせるわけにはいかないと気がついたのだ。頭を丸めて生まれ変わり若い頃世話になった八丁堀の親分に拾われ便所掃除の職を与えられた。それから十年。笑わば笑え。いたって真面目に勤労生活にいそしんでいるところなり。

 

 ●今井政幸・・・ん?便所掃除のかもめは苦しいのか。わたすは町内会長の奥さんから物欲俗物の奇人変人だとレッテルを貼られて以来すっかり誰からも相手にされなくなり苦しいのは確かだがめげずに教養を身につけようと展覧会の中古チケットをあさりまくって充実した毎日を送っておる。先日故郷の兄嫁から手紙がとどいて末尾に「政幸さんも可哀想になぁ~」と記されてあった。

 

 ●かもめ・・・周囲からいつも嫌われつづけ、すっかり平身低頭してめげている今井のばあいも、たまには、どすて、わたすはこれほどまでにバカなのでしょうかと町内会長の奥さんに問うてみればよい。わたすはバカで変な奴でしょと自分から申し出てしまえば少しは町内会長の奥さんも許してくれるかもしれやせぬ。最初から自虐的に振舞ってしまうのだよ。さすれば町内会長の奥さんも納得してくれることだろう。そのうち奥さんの口から町内会全体に今井の人物批評が肯定的に広まり、毎夜毎夜貯金箱をガラガラ鳴らして喜んでいる今井さんも、あんな風に見えても、その実なかなか良い人なのだと評判が立つ。今井さんのばあいはああいう引っ込み思案の少し脳のたりない小口株主の全国どこにでも転がっている罪もない好人物なのだと周知され町内会から、それ以上の批難は出てこなくなる。可哀想な奴だとも思われなくなる。じゃが、周りがいくら今井のことを許してくれても、物欲俗物でアホ丸出しの今井のばあい自己嫌悪に落ち込むでしまっては元も子もない。こうなると町内会および世間と決して根のところで和解出来ない意固地な今井の末路は惨めなものとなってしまう。

  

●今井政幸・・・ばかもめは静かにしなさい。無知の爆発だ。インターネットやパソコンのモニターから芸能の本質なんてみえないよ。

 

●かもめ・・・ネットやパソコンのモニターから芸能の本質は見えないとの今井の言は、そりゃ反対現象のことですよ。では、今井に聞くが、芸能の本質以外の何が見えるのですか、ネットやパソコンモニターから。お前が申しているのは、芸能と言うより芸術のことかもしれないな。たしかに芸術というなら、それもその本質というなら、ネットやパソコンモニターなどからは、見えないものなのかもしれない。だが、拙者の場合は、芸術なんぞという概念は、そもそも相手にしたくもないオカルト現象だと決め付けているところなりけりよ。芸術なんぞ、この世にあってもなくてもどうでもよい、腹の足しにはならないイデオロギー上の産物だ。われら下等な動物のヒト科にとって、衣食住に続いてなくてはならないもの。それが芸能にごわすよ。芸能の本質にござるよ。

 

●今井政幸・・・んっ?ばかもめはインテリ嫌いかや。 低学歴で頭の悪いかもめが反芸術のインテリコンプレックスなのはしかたないとして、結局人生の最後の最後にたどり着くのは自分は何者なのかという問題だ。インテリなんてさほど憧れの対象でもなんでもない。知識を誇ったところで弄られてお笑いの対象にされるだけだ。つーか、例えば経済でノーベル賞を取る程の学者はいっぱいいるが誰一人としていまの経済不況を解決出来ない。真のインテリなら無力な自分の不明恥じて学者を廃業するだろうにそんなきとくな御仁もいない。全てはコンプレックス満載のかもめの心の中にある妄想がばかもめを苦しめているだけだ。コンプレックスこそが人間の発達進化の原動力なのだが、自分が自分にする重圧に耐えかねて大概は進歩を止める。でっも、ただの人でもいいじゃないか。かもめは、無理するな。自分の言葉に自信がないなら 。大衆演歌に依存して、これを芸だと思い込んでいる島国人をして下劣な生き物とカテゴリーして他人を否定する自分を擁護する心の流れにヒントがあるよ。とにかく静かにしなさい。かっこして笑すれば優位になれるのかな。もうやめなさい(笑)。世間知らずの傲慢高慢なばかもめは平等という粋を知らない。ばかもめがこれまで歩んで来た道は絶対絶対ばかもめが受け入れらないばかもめにとって不都合の世界だったからだ。ばかもめは、真面目に、時代遅れについて考察した事がないのか。

 

●かもめ・・・おいさっさ。 「平等という粋」とは何事かね。平等概念に粋なんて言葉をつかっては、それこそ無粋といわれても文句はあるまい。無粋ならまだよいが、そりゃ相当の馬鹿だよ。間違いなくアホだ。いいかい、平等は美に反するものだよ。残念ながらね。平等が担保されるのは、せいぜい貨幣においてだ。日夜、今井君の頭の中を駆けずり回っているカネさ。カネだけだぜ。平等なんてものを証明できるのは。されば平等なんてものこそ無粋の最たるものであろう。よく考えて御覧なさい。

さて、わたすは自分で自分のことを、どれぐらい知っているか知らないかは図りようはないけれど。自分が経てきた過去のあれこれの思い出の数々は、幾千万という記憶の場面を伴って、わたしをわたしたらしめている。これらを踏まえて改めて思うに、別にとりたてて人に比べてご立派なところなんぞは何ひとつないことは自分でよく知っている。それでも自身のことを拒否はしませんよ。もともと度が過ぎるほどの楽観主義者でした。70近くまで来て、だいたいにおいて人に恵まれ、健康に恵まれて生きてこられたと思っています。そこそこ幸福だったような気がします。これ以上の、なにを自分に望めるというのでしょうか。

もちろん多少は自分に対する不満が無いとは言えません。それは、いまのところ一編のましな文芸作品すら書けないで、のうのうとしている、というあたりですね。その点が、不満と言えば不満なのですが、書かなければ作物が産まれないのは当たり前の話です。作物を産み出すには、苦しい作業が待っている。その苦しさを、どうも根が怠け者なので、さけて通ろうとしている現状に、いささか不満を持っている。ここに、よく言われる才能の限界というものが存在しているのでしょうね。

また行為という問題があるのだと思っている。行為もまた才能を裏打ちする重要な要素ですからね。行為しなければ、何事も始まらないのは、よく分かっているのです。まっ、もう少し生きられるでしょう。苦しい作業に自己を鞭打って向かわせることができるか。それとも、いつものように酒をかっくらって寝てしまうのか。考えればいつだって面白い自己省察の場にさらされてきたのです。わたしは、どちらの自分も、おそらく受け入れられると楽観しています。自分が、どうしても嫌いになることだけはできないのです。自分に甘いのでしょうね。これも才能のうちなのでしょう。楽なことばかり考えている。その代わり、かなりうぬぼれが激しい人間だと思っていますよ。何の価値も無い最低の男であるとは思ってみたこともありません。ほとんど何もしてこなかったことは確かですが、意外に、この年になっても、いつか見ていろなどと、まれに気張ってみたりすることもあるのです。

それに時代遅れの精神性でなにが、どうした。わたすは大江戸に住んでいるような気がしてならない。江戸ではないぞ。大江戸だぞ。「大江戸流行歌全集」でも読んでみろ。脳の足りない今井にも、芸能の本質というものがよく分かるだろう。

 

●今井政幸・・・亀目は言ってることがいつも欲求不満ばかりだから、わたすんとこの掲示板で別名を使って書き込みしても、記事を読めばすぐ亀目だとばれてしまう。よほど毎日くだらない日々を送っていることよの。あほらし老人だ。

 

●かもめ・・・図星にされてしもうたわい。さすが今井殿はするどい目を持っている。まっ許せ。間違いなく拙者のばやいは、欲求不満のかたまりだ。それに毎日くだらない日々を送っている。だが、よく考えてみたまえ。欲求不満のどこが悪い。くだらない日々以上の美しき日常があるとも思えないのである。くだらない日々の、どこに不満があるのだ。くだらない日々で、大満足しているのだから、他人に口を出してほしくはないものだ。どうやら今井君は、わたすのことを買いかぶっているようだね。拙者のばやいは、足の先から頭のてっぺんまで、何一つ取り柄のない、くだらない男なのであったのだったし、毎日がくだらなくて、ふんでこれ以上の満足はないと本人がそう思い込んでいるのだから、ようするに誰がなんと言っても、これでいいのだ!

 

●今井政幸・・・すでに保護者のいない鴨目は、会社がこいついらないと判断すれば簡単にクビとなる。クビとなって生活の糧を失う罰を受けるのは鴨目自身だ。亀目はいったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。これからどう亀目が人間的に劣化していくかがお楽しみだ。

 

 ●かもめ・・・保護者ってのが良く分からんが。半年ほどめぇに95才にして大往生を遂げた、おいらのかあちゃんのことではあるまい納豆。無理を言うなよ。かあちゃんは痴呆症だったんだぜ。痴呆症の年寄りに保護者もくそもあるまい。オイラの場合、自慢じゃないが保護者も財産も田舎もなにもねぇんだ。そうして、やっとこすっとこと、ここまで年をとってきたんじゃねぇか。これぞ、めでたいことだとは思わないのか。

それに会社を首になる、首になると、えらく意気込んでいるが、そん時は、そん時だろうっつーの。仕方もあるめぇ。性格の悪い会社だったとあきらめるより他には、なにがある。もつろん法に照らして会社側のやり口は理不尽だという確信があるなら、裁判でもなんでもやってみればよい。そうだ、そん時は拙者のばやい、大昔に知り合いになった滝本太郎さんという実に立派な弁護士さんがいる。首になったのが承服できないときは、滝本さんに依頼するのも手だわな。おっと、やめておこう、滝本さんには能力が足りてなさそうだ。別の弁護士さんにお願いしようと思っている。

今井君は首が落ちるとか首が回らないとか、他人の首がよほど気になるようだが、昨日も書いたように、そん時はそん時なりに対応するしか、ないのであって、雀の涙の年金でも、ないよりはましだ。これを元手に、拾ってでも食っていくぞという覚悟を表明したまでのことなりや。

とは申せ、対応策のひとつふたつは考えておかねばならない。70を越えて首になった暁には、まずは、今井君の芋に期待すること大なり。70になった翌日あたりから、以後、三日に一度は、芋を送っていただきたい。たまには、米も送っていただこうじゃないか。芋ばっかりじゃ栄養不足で、体が衰弱してしまう。それに、最低限の味付けは必要だ。味噌も醤油も頼むぞ。

このような対応策が、まず頭に浮かぶのも、今井君の人徳というものであろう。遠い親類より、近くの友達が大切だとは、拙者にとっては、今井君のことであったのだった。芋の心配も米の心配もしないで、晩年をすごし、そして無事往生できるとなれば、もうこれ以上の何か望むものなどなにもない。墓場は無用だ。このような実に、さっぱりとした人生を過ごすことができそうなのも、今日まで今井君との友情を大切に育ててきた結果に他ならない。

これからも、よろしくお願い申し上げる次第にござる。いずれにせよだ。そう案ずるな。死についても、おんなじだぜ。死ぬときは死ぬ。じたばたするなってことよ。今井君は、生活の糧を失ったらどうするのかと戦々恐々たるご心配のようだが、これまた、そのときはそのときさ。仕方もあるまい。そうなっちまったんだから。ま、食い物については、拾ってでも当分の間は命をつないで、いこうという意欲と根性だけはありそうな気がしている。そうしたときに試されるものこそ根性と精神だ。汚れ役も引き受ける懐の深い根性が必要だぜ。そうして初めて生きるってことが輝いてくるんじゃないのか。さすれば誰しもが輝くときは輝くのだよ。なにも地位が上だとか、金餅土地餅だけが偉いとは、全然思っておらんからな。拙者の場合。今井君のばやいはどうであろうか。「新潟出身 株の泥沼 ここに永眠する」なんぞと墓石に書かれて、それでよいなら、それでも、よかろうかい?

亀目はいったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。

そこだよ、本質の問題は。われながら若い頃から、自分自身にその問いを問ふてみたことは数知れないのであったのだった。だが一向に、この年になっても、うまい答えを見出すことができないのである。どうしたことであろうか。さきに拙者のばやい、耄碌がすすんでいると告白したが命の先は短いのであって、無理して難しい問いに答える必要は、皆目あるまいと断念したところなりけり。
問うことを止めたというのではない。たまに、問いてはのだ。だが、答えが出てこなければ出てこないで、それでよいのであると、わが身に観念を心したのであったのだった。よって、なにゆえに息をつきつき、心の臓が脈打っているのかは、何ぼ考えても知らぬ存ぜぬ。されば、おめは何のために生きているのか、という問い自体が、一種の念仏のようなものだ。深い念仏の意味は知らないでも、念仏を唱えると、一定程度気持ちが安らぐのは確かなのだから。さても、今井君はどうであろうか。今井君のばあいは、なにをしにこの世に存在しているのだと問われて、答えがあるなら、それに差し支えなければ、正々堂々と発表してもらいたいものである。もちろん無理は禁物だ。答えたくなければ、それでよい。

これからどう亀目が人間的に劣化していくかがお楽しみだ。

今井君もたまには本質的なことを言う。君は僕の、僕は君の、互いの劣化を、互いに笑いあい、嘲笑しあい、小ばかにしあい、これを楽しみながら生きていける幸せがある。これぞネットの醍醐味というものさ。

いずれにしてもだ。まっそうつっけんどになるなよ。君と僕との仲ではないか。インターネットの確立時から始まっている。二十年越しだ。よくも、これほどまでの能タリンかつ算段バラのアホを相手に飽きもせずに付き合ってきたものだとは、一応のところは、思うのだ。察するに今井君も俺も脳タリンの同類だということは間違いない。同類は同類を呼ぶと言う。まっお互い、無理をしないでやっていこうではないか。アホ仲間として、これからもよろしく頼む。なにせ。今井君を見ると小馬鹿にしてみたり、からかってやりたくなって仕方ないのだよ。これは、例の有田ヨシフに対しても同じだ。どうも滑稽に見えてならない。黙ってやりすごすことが、出来かねるのだよ。

昔っからわたすは口が軽いので人様から信用されなかったのだった。性格は軽薄そのものだとガッコの先生から何度も指摘された。だがな。これはもって生まれた性格なのだから、いまさら、変えろと言われてはいそうですかというわけにも行かないだろう。無理は禁物だ。またスケベ根性たるや度が過ぎるとの指摘も何度となく耳にした。無学でスケベで口が軽くて読書嫌いの演歌好き。これで、金持ちになれるわけがない。

いずれ、これらのマイナス性向は、逆転の発想を生かして、趣味と念じる文章や写真撮影の表現活動の中で有効に生かすことはできないものかと、そのように考えているところなのである。それにオイラの耄碌は、ここにきてだいぶ進化したきたようだ。考えておかねばならないことは、誰にとっても間違いなくやってくる、もう一つの客観的真実とは、おっつけくたばってしまうという幸不幸である。よって、今井君にも、くれぐれとお願いしておくのだが、友人を自負するのなら、できるだけ甘えさせてはくれまいか。おいらも偏屈が高じて、どうやらだいぶ世間を狭くして、生き恥さらして日々をすごしているのである。今井君から、見放されたら、今度は、だれを相手に小馬鹿にしたり、嘲笑してやればよいのだろうか。

世間は広いとは申しても、今井君ほどの、こういっては誤解を招くかもしれないが、いわゆる面白い人は滅多にいない。その点だけは、自信をもってネット活動にまい進してもらいたい。ああ、それにしても、よくぞここまで年をとったものだ。自分で自分を笑ってしまう。一般に笑うことは精神衛生上よいことだ。今井君も一緒に笑おう。ばかばかばかばか馬鹿ばっか ばかばかばかばか馬鹿ばっか 

 

●今井政幸・・・馬鹿馬鹿言うな。いま、わたすは、叙々苑で焼肉ランチを食べて帰ってきたのだ。一人12,000円の焼肉ランチにみなは美味しいねと満足しておった。むろんカネはみなわたすが払ったのだがこの日、みんなの満足を引き出せたことだけでも、わたすがこの世に生まれて来た意味と価値はあったのだった。 かもめは頭を使え。わたすは金を使う。かもめに信用はない。ばもめは、自分がやってることに恥を感じないかね。で、貧乏人のかもめは、どうやればわたすのようにカネが儲かるかを知らない。

 

●かもめ・・・まさに、その通りなのだがね。今井君。どうやったらカネが儲かるか、すなわち金儲けの奥義だけは、学校教育の中でもそうだし、一般に誰からもまた誰しもが、誰にも教えたがらないものだと思いますよ。実際、一般に、「カネが儲かる」理屈というものは、個々人にとっては、埒外の話ではないのだろうか。カネが儲かるという次元と、勤労という次元は別のものだと思いますよ。一所懸命、働きさえすれば、カネが儲かるとは、誰もが思っていないのではないでしょうか。カネを儲けるというのは、大仕事のような気がしますね。

一世一代の大ばくちでも打たない限り、そうはやすやすとカネは儲かるものではありませんよ。今井君。つまり今日的に言えば、投資だ。もちろん競馬競輪でもよいだろう。だが、これらに手を出しても、必ずしもカネが儲かるとはかぎらない。一挙に、財布が空になるときもある。

よって、カネが儲かる仕組みを知らないのが貧乏人だと決め付けるのは、いかがなものかと思いますよ。今井君。人々の多くは、少々の貯金を残して、その日暮らしのようなものではないのですか。月々の収入は、賃金の多寡によって決められている。定年退職が宣告されるまでは、ちゃんちゃんと会社なりに通って、給料をもらって、また次の月へと移っていく。これを繰り返しているのではないでしょうか。

盆と正月にはボーナスがでる企業もあれば、ない企業もあるでしょう。こうした収入の道を、黙々と歩んでいるのが、多くの人たちではないですか。そうした人たちは、さほどの金持ちとは言えないと思いますよ。金持ちでないから、貧乏人だと決め付けるのはまた、あまりにも幼稚な理屈だと思いますよ。

それにしても腹が減る。今井様 今井様。ここは一つ、よろしくおねげぇすます。なにしろ、学がないもので、この年になるまで、カネのことなど、何一つ考えてこなかったような按配で。いよいよ貧乏が身にしみてきたところだす。あんまし小難しい教育はごめんこうむりますが。そこは、学の無いわたすに合わせていただき適当に按配よく御願います。さても今井様、腹が減ってはいくさはできません。どうか、まずしいわたくしめに焼く肉を食わせてやっていただけないでしょうか。おねげぇします、今井様。どうか焼く肉を食わせてやってくだせぇ。焼く肉さえ食わせていただければあとは今井様の言うことならなんでも聞きますよ。わたすはウソはつきません。ああ、よだれがたれる。それに、生ビールも飲ませてくだせぇ。一杯だけで、ええんだす。あとは自腹を切って安い酎ハイでもかっくらうつもりだす。ああ、一生の思い出だ。


 

●今井政幸・・・ここなんだよね。貧乏人を再教育というか、カネが儲かるノウハウ、博打じなくて、ただひたすら真面目に働くそのノウハウ。これを教えないから定職につけない。6月は、株の配当金が入るからみんなに焼肉屋に行くかと問うたら、ぜひ行きたいという。んじゃ7月のいつにする?と聞いたら2日か30日というから2日ってことで焼肉屋に予約した。豪華セットというコースランチを。すかす、ばかもめなんかカネもないし、生活費を稼ぐのにひいこら言っている。

わたすなんか入ってきたカネはばかばか使ってる。ばかもめは相変わらず月収10万円。プラス年金ひと月あたり5万円。年収180万円じゃろか。ばかもめに貯えは全くないからこれはきついねぇ。
かもめは親からも誰からも教えてもらわないからますますアホだ。これが貧乏人が貧乏人を再生産する理由だわさ。その他、かもめに言いたいことはいろいろあるけど少しずつ教育していこう。幸福な意義ある一生を送ろうと願うなら、つまらん小説なんぞとは関わらない方が賢いわさ。



 

●かもめ・・・その「ひいこら」が、わたしの血肉となり真性の汗ならば、やがて歌になり道徳となり、ときには哲学にもなるのです。職業に貴賎のないことが、このことから分かるのです。貨幣の力をうやまうあまり勤労の悲喜こもごもを過小評価しては幸福が逃げていきますよ。今井君。

それに意義ある一生とな。ヒトにとっての意義なんてものは自分では判定できないものだよ。第一、何事を持って意義の有りなしを決められるのかね。拙者にはさっぱりわからんぞ。他人相手には、よい本を読んで意義のある人生を送れとか、知を得て幸福になりたまえなんぞと臆面もなく言うが、それらの真意たるやすべてが無責任な社交辞令でしょうや。

今井君の場合はどうかね。どのような意義を求めて日々を過ごしているのかね。一般に当人の価値は、当人が没して、だいぶたってから後世の他人様が故人の悪行をあげつらって玩弄するのが落ちだと思っている。多くの人々は死すと同時に悪も善もなく一気に忘れ去られる。生前も無名だったが死後はほぼ完全に無名となる。

まれに、名のある芸術家が死しても彼の作品だけは永遠に残るはずだなどと主張するメルヘンチックな文学青年がいるが、それはヒト科に特有のうぬぼれた信仰にすぎまい。

とは申しても、ここまでヒト科が残してきた良き作物はヒト科が生存する限り延々と受け継ぎ残してほしいものではある。その第一にはイエスの奇跡を記した『聖書』。後世に残すべき文書は『聖書』だけで良いと断言しては、世界中から文句が殺到するに違いなく、この際第二第三と知ったかぶって列挙したくて仕方がないが、それをはじめては切りもないので止めておく。

 

 

●今井政幸・・・ばかもめの視野狭窄はブサヨのようなてめたちの地位低下防止策で、それは、ソフィストの持つプライドから来る他人を見下した尊大病理なのだ。この病理にかかると物事の本質が見えない。

所詮確固たる信念を持たずただ成り行きでなんとなく生きているばかもめは、取り敢えず眼前の生活費欠乏でなんとか便所掃除を見つけて、それでもいつまで職に把み続けられるか不安と将来を案じている内心をワンカップに紛らわせてる毎日を自らの手で隠蔽する。  だからますます横路に迷い込みとどのつまりがビンボの袋小路に入り込み抜け出せない。いちどきちんと自分は間抜けで才能がない凡人以下だと正しい現実を見据えたらまだ壁を越えられるのに。
 
都会に住むことがどれだけ田舎暮らしより優位なことかわたすは知らんが、都会暮らしに拘るばかもめは自縄自縛単にてめでてめをがんじがらめに縛りつけているだけだ。 普通都会暮らしが田舎暮らしより優位というか有利なのは容易に職を探せてあわよくば高級取りになれることにあるが、都会で貧乏暮らしをしてるばかもめは、だから都会暮らしの優位性を持たない。

ただ散歩するしかカネのないばかもめは、それなら田舎の一本道を歩いてるだけの方がカネもかからず安い年金でなんとかやりくりして生きていけることじゃろう。 見栄で生きてるだけの人生は味気ない。貧乏ながらも毎日労働に励んで、仕事を終えた夕暮れ時に、安酒をかっくらってる方がまだ人生充実してる。

おそらくかつてはあったはずのばかもめの人生設計が全て狂ったのは、どこぞでばかもめが身につけたちんけな詭弁自己誤魔化しテクニックで、それは正確な正しいありのままの自分の姿から目を逸らし、妄想に耽り、尊大に構えることで誇大肥大化する自己に陶酔だけの麻薬に溺れる法律違反者の姿と変わらない。 理想と現実のギャップが人々を麻薬に駆り立てるが、なんてことない、正しく自分が取るに足りない小人と知ってる賢者は麻薬にひたることはない。

本来は、人々を現実の苦しさから救い夢と希望を与える文学がばかもめに与えたのは現実逃避だけだった。これから20年。ばかもめが正しく経済知識を身につけたらばかもめは株でボロ儲けしてなに不自由なく都会暮らしが出来るやも知れない。すかす、視野狭窄のプライドの高すぎる尊大なばかもめは、貴重な時間を無駄にして、経済をなにも学ばず、せいぜいあと数年生きただけで人生を終える。すかす、それもひとつの生き方。誰もばかもめがどう生きるかなんて知ったこっちゃないのであったのだった、まる。

 

今井政幸・・・今日はガストでパンケーキをば。満足、満足。ばかもめには食わせてやらねぇよっと。

 

 

 

以下は十年ほどまえに書いた雑文だが、これをもって物欲俗物白物家電と異名をとる今井政幸君への返答といたす所存。

 


2009.05.06 世田谷区
 
我輩はいたって単純な猫である。しばしば町内の猫族各位から、のん気すぎると馬鹿にされる。思うに我輩の性質として、最初からたくらみや打算を持って猫と付き合うのは得手ではないらしい。その方面の頭が働かない。打算を弄して猫と付き合うというのは、自分の倫理観に差し障りがあるというよりも、いっそう計算能力が試されているようで、腰が引けてしまうのだ。

野良の関係は思うに一期一会でよいと思っている。どこの猫であれ中国の故事にあるように「君子の交わりは、その淡きこと水の如し」のようにありたいものである。相手の心にできるだけ深入りしないですませるのが処世の術だ。用も無いのに立ち入らない。関係性が出来たとしても感情のしこりを残さないように、その場その時で終わりにする。関係の深浅の程度は、もちろん相手にもよるし一概には言えないができるだけ簡便に済ませたいと思っている。

それに我輩は会社や学校などに特徴とされる集団行動や集会というものが苦手だ。とことん苦手だ。だから学校や会社や、また活発に運動している野良猫の各種団体などには、できるだけ関わりをもたないようにしている。協調精神を発揮して集団的意図のもとで上手に立ち回ったり共同で作業したり、誰かから命令されたり誰かを命令したり指導することが、拙者の場合ほとんどできないのである。

その方面の能がからきしゼロだと言われても二言はない。いまや、それが拙者の持ち味だと心得たところなり。ぜんたい他の野良と一緒になにかめぼしい事を行うということについて能力全般が欠如しているようだ。困った猫であることは確かだが、いまや自分で自分にあきらめがついた。結局、付き合いづらい猫ということで収入も乏しくなる一方である。 だが、そのことで取り立てて悩んだり、悔やんだりしているわけではない。それが良くも悪くも我輩という猫のすべてなのだと思っている。それ以上でも以下でもない。たかが猫だが、されど野良というわけだ。 かといって、かならずしも猫嫌いではない。

ネットで知り合った他の猫たちと飲むのは楽しい。また利害関係のない、ほんの少数の会合はいつも楽しい。年末には若い頃に加入し30年近くも毎月ミニコミ紙を出し続けてきた文芸サークル「ふみの会」の集まりがあった。二年ぶりのことで、このときも楽しかった。それから二ヶ月に一度ぐらいの割りで、三年前になくなった妹の、今は一人暮らしをしている連れ合いの家に行く。飲みながら話す。彼も野良型で、とくのほか話が好きである。それにしても、これほどよく話をすようになったのは妹が亡くなってからのことで、不思議な縁だと自分でも驚いている。


特別に長生きをしたいとは思わないし、これ以上たくさんの友達がほしいとも思わない。たくさんの猫たちに、自分の素性や本意、また我輩自身のなにもかもを、理解していただきたいとは露ほどにも願っていない。ときどき拙者の貧しさを見ていられないと、よくモノをいただくことがある。 そこでこの際、野良にはきってもきれない贈与問題について少し考えてみたい。ま、誰でもわかることは、一方通行的に物を与えるといい、与えられるといい決して自慢できるようなことではないと思っている。

 


野良の沽券にかかわる問題だ。モノについてばかりではなく、よくよく考えてみれば、他の猫との関係というものは、その原理からしてみれば、恥ずかしいことではないか。どこかのお偉い猫さんと、このたび晴れて知り合いになったと自慢できるだろうか。これも邪推してみれば将来のエサその他における贈与関係が期待され、自分の懐具合や立場が有利に進捗する予想が立つからである。貧乏な猫と友達になったことを自慢する野良はいない。善行はエサが不足して困っている猫とどう付き合うのかに、かかっている。

むかしポルトガルから流れ着いた中年の野良君といろいろと暮らし向きのことなどについて議論を交わしたことがあるが、討論会の最後にいたり、思い出したように、ポルトガルに古くからある格言を教えてくれた。



富める野良のところには招かれたときに行き、貧しき野良のところには招かれなくとも行けという野良の先祖が残した家訓がある。

善行は黙ってやれとは人間のことばかりではないだろう。これらの道理は猫も同じだ。どこの猫と知り合いになろうが、なるまいが、義理も猫情もへったくれもない。猫倫理にはまったく関係がない話だ。誰からモノをもらおうと、誰にモノを与えようと、私事の範囲のことであり、なんの甲斐にもなりはしない。終始言葉は不要である。物が介在している場合、猫どうしの関係が後日いかような形態をとるにせよ、野良と野良のかかわりなどというものは、一般に自慢できることではないと思っている。

物が介在すれば、なおのこと、それは私的な事柄となる。二匹だけの秘密として最後まで口外されることなく、ひそかに守られたというなら、これ以上の幸いはないだろう。 恋のための恋、友情のための友情などという抽象的な行為が、野良にとっては、あり得ないように、われら野良の感情は、なにもかも暮らしや伝統や世間のまなざしなどに左右されている。「恋」の道行より明日食うエサの心配が先になる。これが野良の伝統と常識である。エサはもらったほうがよいのか、自分で探してきたほうがよいのか。その場その時に、自分で考えてみるよりしかたがなのである。ほしいなら堂々ともらえばよい。もらっても食えないようなものなら、もらう必要がどこにある。

 


2015.12.15 川崎市

我輩も、よく人からエサをいただくが、みなさんよい人で我輩の好みもよく知っていてくれるのか、おいしそうなものを運んできてくれる。一般に我輩はエサをいただいた場合は喜ぶ。相手にもよく見えるように、思いっきり尻尾を振って素直に喜びをあらわにする。そしていただいた物は、相手が見ているその場で食ってしまう。それが人にも裏表の無い、よい性格をした猫だと思われ喜ばれているようだ。我輩の感情はそれだけだ。いただいても食えないようなものだったり、我輩を喜ばせるためではなく別の目的があるような贈与行為が予見されたときは、ただちに、その場を立ち去る。または丁重にお断りする。

これまでも何度かあったことだが顔見知りでもない人間や他の猫から理由も無いのに贈与をほのめかされたりするときは、もちろんすべて断っている。甘言に乗せられると、命を失う羽目になる。後日言い逃れもできないようなえらい目にあう。またタダより高くつくことはないと言う。そもそも我輩は金品は持っていない裸一貫だから、他の猫にエサを与えるということはめったにない。またオゴるよりオゴられる場合のほうがずっと多い。エサをいただいたり、おごられたりした時は素直に喜びたい。

人間様や他の猫のあたたかな気持ちが、我輩にも、よく伝わり嬉しい気持ちになる。嬉しい感情を表すに遠慮は無用だ。尻尾を何度も振ってみれば、それが全身で狂喜している信号となる。ようするにその場その時に率直に喜びを表す。これにつきている。このような率直な態度こそ、なにより相手に対する十全たる返礼になっていると信じている。 いずれにしても野良の人生とは楽しいものである。かといって自慢したり、はしゃぎ回るほどのことはないが、こんな調子で静かに余生を楽しみたいと思っている。できもしないことを考えたり能もないのに無理に背伸びをするから泣きを見るのだ。


繰り返しになるが、我輩、自分がまったく能のない猫であることは先刻承知である。だが野良の中でも全天候型の最強と呼び名も高き団塊野良である。よくぞここまで生きてきた。自慢ではないが団塊野良こそ、今日の野良全盛時代の礎を築いたことは定説である。小さなことにいちいちくよくよしていたのでは、栄えある団塊野良の誇りが許さない。何事もくよくよせず感傷を廃して墓場に向かって前進あるのみだ。空威張りでもよいだろう。そうでもしなければ野良は一日たりとやっていけないのである。野良には野良の誇りと、どこの飼い猫にも負けない生活と哲学がある。

 

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1 コメント

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Unknown (今井政幸)
2020-08-05 05:41:27
トが見に来てくれた。

その後も、「高校のうちから木のバットで打っておけ」と、いろいろなプロの選手のバットを30本くらい送っていただきました。よく折れる木製バットはカネがかかって高校生は何本も買えないので、ありがたかったです。

玉造 でも、引退後、解説者になってからも、すぐ怒る性格は変わってなかったよなあ。「水戸っぽ」だから(笑)。

大久保 僕が選手時代、二軍にいたころ、フジテレビの『プロ野球ニュース』で、豊田さんがわざわざインタビューに来てくれたことがあったんです。ところが「おめぇ、サボってやっているんじゃねぇぞ」って怒られて。普通は30歳以上も年が離れていると甘えられるじゃないですか。全然、甘えさせてくれないんですよ。
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