赤いハンカチ

てぇへんだ てぇへんだ この秋はスズメがいねぇトンボもいねぇ・・・何か変だよ

▼わが信念もビール券には勝てなかったの巻

2024年08月06日 | ■かもめ文庫

 

以下、恥ずかしながら、20年以上も昔の記事にてござ候や。これまた落語っぽくて良い。

 

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家の者がみな出払ってしまい私一人の昼下がり。誰かが訪ねてきたようでインターホンに出てみると、案の定、新聞の勧誘だった。

わたしは失業し、このところ連日家に蟄居している。新聞の勧誘は昨日も先週も来たことだし、その際はインターホンだけで一言のもとにお帰り願った。朝日新聞の宅配購読は先月限りでやめている。ほとんど読みもしないで部屋の隅でみるみる散乱してくる状態は見るにしのびがたかった。なによりたまらなかったのは広告の量の多さがあった。新聞紙の間に差しはさまった広告は週末になるとずしりと感じる程で、これらの広告にこちらから金を払って廃棄処理させられているような案配だと、自分にあきれてきたのである。そこで、いっそ購読をやめてみることにしたのである。

だが考えてみれば、この広告を新聞紙の本体に差し挟む仕事こそ、ちょうど一年前の次男にとっては生まれて初めてのアルバイトだった。持ちつ持たれついろいろある。次男が販売店に通っていたその時ばかりは、宅配されてくる新聞に挿入されている広告も少々輝いて見えていたのだから、人というものは自分の都合や立場が変わるとモノの見方や感じ方まで簡単に正反対になることもあるのだから恐ろしい。いずれにしても新聞のない日も半月ほど経過しているが快適だった。しばらく、新聞はよまないままで過ごそうと固く決めていたのである。

ところがである。今日は、新品ゴミ袋から始まって、洗剤、最後はビール券まで出してきやがって、さすがの固い決心も、くじけてしまった。人の気持ちというものは危ういものである。いつもの通り断固たる態度を示そうと思って、ドアをあけたのだが、勧誘員殿も慣れたものである。ダメですダメですと何度念を押しても平気の平左。購読しなくて結構ですから、このゴミ袋だけは、今日の業務であまっちまったものだすさかいに、置いていきやすから、遠慮せずにもろといておくれやすと、きたものだ。それにしても、こたびの勧誘員殿は、なかなか人間が出来た方のようで、こちらが何を言おうと終始ニコニコ顔で応対してくる。購読しなくてもよいと言うので、そういうものなのかという案配で、ついつい心を許してしまう。まずは、ビニールのゴミ袋一束を受け取ってしまった。

だか、後によく考えてみれば、これがよくなかった。後のち考えてみれば、このゴミ袋こそ、悪の道への入り口だったのである。今に至ってその時の自分の、心の動きを思い返しているのだが、ゴミ袋を受け取ったのは、なにもゴミ袋がどうしても欲しかったというわけでもないのだ。やはり勧誘員の次の商品を臭わす言葉に、心が動かされてしまったと言うほかに説明もつかない。

つづけて勧誘員殿は言う。

「断られるのは百も承知。旦那には旦那の事情があるざんしょ。ああ、それにしても今日は仕事にならなかったにゃ。私も、もう引き上げるところだからね。旦那さんに、このゴミ袋はあげちゃうよ。使ってくださいよ。そうだ、ちょっと待っててね。余った洗剤ももらってちょうだいよ。すぐ、もってくるから、すぐね」と言い置いて、外に自転車でも置いてあるのだろう。こんどは、両手に洗剤を抱えて戻ってきたのである。

「これも置いていくよ。無理には頼めないけどね旦那さん、なんとか頼めないかにゃぁ。来年正月からでいいんだし。契約だけしてくれればね。それも半年間だけですよ。どうかにゃぁ。旦那。私も今日はほんとに一軒も契約できないままじゃね。まいったよ、辛いよね。今日は」。

ゴミ袋はすでに、私の手にあった。そこで、このまま相手の攻勢を許しておいたのでは、最後はきっと契約のハンコを押すはめになる予感がして、あわてて語気強く言い放った。

「ダメだよ。そんなことを言うなら、このゴミ袋を返すから、絶対ダメ。先月から決めたんだからね。しばらく新聞はいらないって思って。やめてから、まだ半月しかたってないじゃないの。わたすのことを、モノにつられるような男だと思ったら大間違いだ」

そしたら何を思ったのか勧誘員殿がニコニコしながら、内ポケットからビール券を出してきたのである。

「旦那。もう今日は私も帰るところだからね。半分、やけのやんぱちだよ。ビール券10枚。これでどう。普段はここまでサービスしないんだけどね。今日は、私も清水の舞台から飛び降りた気持ちで、もう今日は、出血サービスしちゃうからね。どうだろうね旦那。私を助けると思ってくれんかね。実際に新聞を取るのは、来年の1月からでいいんだから。ハンコ押してくれるだけでいいんだから」

ビール券が10枚あれば、二三日の酒代の代わりにはなるかにゃ、なんて想像が始まるとさすがの私も顔がほころびはじめてきちゃったようだ。自然と口元がゆるんでくる。言葉があいまいになり、語気もうせて小声になっているのが、自分でもよく分かった。

「困ったにゃ。オレ、本当に新聞なんか読まないんだけどにゃぁ」なんて、よく分からない悔やみが自然と口から出ている。

ちょうどその時だった。驚いたことに、口では断っているつもりに反して、手が伸びていき、ビール券を受け取ってしまったのである。家の者には、当分内緒にしておきたい。家の者らが帰宅してくる前に、さっそく贈収賄の証拠物を台所やら洗面所やらのあちこちに隠匿する作業にかかった。ビール券は財布にしまった。

先月末に及んで、あれほど我が家には新聞は不要だと宣言して後、ばっさりと購読をやめた以上、家の者に申し開きするのが面倒だ。それに実際に新聞が届き始めるのは来年正月からのことで、半年もさきのことだ。言い訳はその時に考えればよいだろう。吾輩も実にいい加減な男であると、改めて認識を深めた今日この頃である。

 

 

<2003.05.18 記>

 

 

 

 

 

 

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