私には息子が二人いて、二人とも小学校の高学年から、中学校のほとんどすべてを不登校で通してしまった。今は20代の好青年となり昔、自分が不登校していたことなど影も形もないようで助かっている。息子たちの真情は分からないが、一応元気に暮らしているのだから、それでよしと思っているだけだ。そういえば子どもに尋ねたこともない。どうして学校に行けないのだと、行きたいくない、学校に足が向かない、その理由というものを聞こうとしたことはない。だからいまだに、どうして長い間、不登校だったのかは、親の私にも分からないのである。上の息子の場合は、いささか自己主張が強く、小学校高学年のあたりから何度か教師とやりあったというようなことはあったらしい。ある日、授業の途中から家に舞い戻ってきてしまったということがあった。教師が、出て行けといったから、家に帰ってきたと言うのである。当時は私も勤めていたから夫婦共働き家庭ということで、昼間は家には誰もいない。息子は家に帰ってきたなり鍵をかけてしまった。あわてて追いかけてきた教師が何度ドアをたたいても息子はドアを開けなかった。
そんなことが幾度か重なって結局登校しなくなったように覚えている。教師にしても息子にしても、それはそれで元気いっぱいの健全な行為だと思っている。下の息子の場合は、上の息子とは性格がだいぶ異なっているようで教師とやりあったことも、クラスメイトから嫌がらせを受けたようなことも、まったく見られなかった。ある日、ランドセルを背負って玄関を出た。10分後、私が出勤の時間になり玄関を開けてみると、そこに息子が泣き顔で呆然とたたずんでいたのである。その日は学校は休ませた。だが以後、通学路の途中まで送っていったり等々と登校させようと何度か試してみたが、どうしてもうまくいかなかった。学校のすぐ近くまで行っても、そこで足が止まってしまう。仕方なく引き返してきたものである。
当時、私は職場へは毎日一時間程度、遅刻していた。だが、息子に対して登校しないことを叱ってみたり、理由を問いただすようなことはしなかった。それでもなお親の面子がつぶされたような本音がなかったといえばうそになる。その後、結局、学校には行かないというのが我が家の通弊になってしまったのも、息子がそうしたまでで、親はそれに従ったまでのことであり登校しないことを容認したとはいっても、息子の不埒を真から許せるというまでになるには、緩慢に流れる時間が必要だった。徐々に徐々に分かってきたのである。それは息子にしても同じことだったのではないのだろうか。最初からなにもかも分かっていたわけではないと思う。
一方、息子の不登校の話よりずっと以前のことだが、近所に住む母親が息子さんを自転車の荷台に乗せて小学校まで送り届けている光景を出勤途中によく見たのである。息子さんは母親の後ろで大声を上げて登校を嫌がっていた。母親は、それこそ髪の毛を振り乱して自転車のペダルをこいでいた。なんとしてでも、このごうつくばりの息子を学校に送り届けようと必死の面持ちだった。近所ではちょっとした話題にも上っていた。母子家庭とのことだった。
数年後のある休日に町内で小さな催し物が行われている最中に、その男の子が母親と一緒にやってきた。私は知り合いではないので言葉を交わすことはなかったが、ひさしぶりに見る息子さんは、以前の彼とは見間違えるほど体も大きくなっていて中学校の制服がよく似合っていた。イベントの間中、彼は小さな子どもたちの遊び相手になってくれていたのである。数年前、毎朝、母親のこぐ自転車の後ろに乗せられて半強制的に登校させられていた、あの子かと目を疑うばかりだった。思うのだが、この母親も、そこまでして登校させるべきではないという一種優しいイデオロギーが流行している昨今のことなら地域PTAなどから糾弾されていたのではないだろうか。
こんなこともあるのである。不登校がごとき美化するに値しない。いっそ「不登校」などという曖昧糢糊なる言葉は死語にしたいほどだ。学校といい教育といい、いずれの方法が子どもの幸いとなるか、などということは、いずれにしても個別子どもと、深くかかわってみなければわからないものなのだと思った次第である。
<1779字>
そんなことが幾度か重なって結局登校しなくなったように覚えている。教師にしても息子にしても、それはそれで元気いっぱいの健全な行為だと思っている。下の息子の場合は、上の息子とは性格がだいぶ異なっているようで教師とやりあったことも、クラスメイトから嫌がらせを受けたようなことも、まったく見られなかった。ある日、ランドセルを背負って玄関を出た。10分後、私が出勤の時間になり玄関を開けてみると、そこに息子が泣き顔で呆然とたたずんでいたのである。その日は学校は休ませた。だが以後、通学路の途中まで送っていったり等々と登校させようと何度か試してみたが、どうしてもうまくいかなかった。学校のすぐ近くまで行っても、そこで足が止まってしまう。仕方なく引き返してきたものである。
当時、私は職場へは毎日一時間程度、遅刻していた。だが、息子に対して登校しないことを叱ってみたり、理由を問いただすようなことはしなかった。それでもなお親の面子がつぶされたような本音がなかったといえばうそになる。その後、結局、学校には行かないというのが我が家の通弊になってしまったのも、息子がそうしたまでで、親はそれに従ったまでのことであり登校しないことを容認したとはいっても、息子の不埒を真から許せるというまでになるには、緩慢に流れる時間が必要だった。徐々に徐々に分かってきたのである。それは息子にしても同じことだったのではないのだろうか。最初からなにもかも分かっていたわけではないと思う。
一方、息子の不登校の話よりずっと以前のことだが、近所に住む母親が息子さんを自転車の荷台に乗せて小学校まで送り届けている光景を出勤途中によく見たのである。息子さんは母親の後ろで大声を上げて登校を嫌がっていた。母親は、それこそ髪の毛を振り乱して自転車のペダルをこいでいた。なんとしてでも、このごうつくばりの息子を学校に送り届けようと必死の面持ちだった。近所ではちょっとした話題にも上っていた。母子家庭とのことだった。
数年後のある休日に町内で小さな催し物が行われている最中に、その男の子が母親と一緒にやってきた。私は知り合いではないので言葉を交わすことはなかったが、ひさしぶりに見る息子さんは、以前の彼とは見間違えるほど体も大きくなっていて中学校の制服がよく似合っていた。イベントの間中、彼は小さな子どもたちの遊び相手になってくれていたのである。数年前、毎朝、母親のこぐ自転車の後ろに乗せられて半強制的に登校させられていた、あの子かと目を疑うばかりだった。思うのだが、この母親も、そこまでして登校させるべきではないという一種優しいイデオロギーが流行している昨今のことなら地域PTAなどから糾弾されていたのではないだろうか。
こんなこともあるのである。不登校がごとき美化するに値しない。いっそ「不登校」などという曖昧糢糊なる言葉は死語にしたいほどだ。学校といい教育といい、いずれの方法が子どもの幸いとなるか、などということは、いずれにしても個別子どもと、深くかかわってみなければわからないものなのだと思った次第である。
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