さきほど、ネットニュースで次のような二つの記事を見た。ともに、いわゆる地球温暖化現象の進み具合を説明している文面なのだが、これらの事実が意味するところの先行きのこととなると、わたしにはよくわからない。わからないながらに驚くばかりである。
●アンデス山中の湖に氷河崩落、高さ23mの津波発生
2010年 04月 13日 10:16 JST
南米ペルーの首都リマから北に約320キロ離れたアンデス山中にある湖で11日、巨大な氷河が崩落し、高さ23メートルの津波が発生した。この津波により、少なくとも3人が行方不明になっているほか、地元住民約6万人が使う水処理施設が破損するなどの被害が出た。政府当局者らが12日明らかにした。調査を行っている専門家によると、湖に落ちた氷塊の大きさは、全長500メートル、幅200メートルほどの巨大なもので、それによる津波は高さ23メートルの土手を越える大きさだったという。地球上の熱帯氷河の70%が存在すると言われるペルーだが、科学者らは、温暖化によって同国の氷河が向こう20年以内に消失すると予想している。
●カナダ極北の北極圏で降雨、「異常な現象」と関係者
4月28日13時52分配信 ロイター
[オタワ 27日 ロイター] カナダ極北の北極圏で先週末、雪ではなく降雨が記録されていたことが分かった。現地で活動する英国のチームが27日に明らかにした。雨が観測されたのは、首都オタワから北方約3900キロにあるエルフリングネース島の補給基地周辺。基地に滞在するペン・ハドー氏によると、雨は約3分間降り続き、同じころに約145キロ離れたカナダのキャンプ周辺でも雨が降ったという。極寒の地での降雨に、ハドー氏は「本当に驚いた。4月にこの場所で雨が降るのは異常な現象だと思う」とコメント。北極圏の気温上昇で、こうした体験が増えるとみる科学者もいるだろうと語った。北極圏の気温上昇は、ほかの地域に比べて3倍のスピードで進んでいるとされ、専門家は地球温暖化の原因といわれる温室効果ガスとの関連が指摘されている。
すでにどこかで、お話してきたかも知れないが、ひとつは小学生の頃、「米国」という文字を教科書なりで見つけ。以後長い間、文字と実態の矛盾が解明できず、小さな胸をときめかして、悩み続けていた。米国とはアメリカのことだとは教師から教わったのである。それはわかっていた。だからこそ、矛盾は深まっていった。わたしはアメリカの人々は、われわれ日本人のようにあけてもくれても米を食っているのではなく、パンを常食としていると教わった。ならばなぜ、その国をして「こめの国」と称するのか。これがわからなかった。私なりの納得の仕方は、おそらく「米国」という名前で使われている「米」と、私たちが食べている穀物種を表す「米」とは、非常によく似ているが、必ず、どこかに違いがあるはずだと。知らないのは私だけだと、そう納得させて、ある晩などは、小一時間、「米国」の「米」と、「米食」などと書かれている「米」の漢字を、見比べて、その違いを今夜こそ、見つけなければ学校で恥をかくとまで思い込んだほどだった。どちらかの「米」には、私には見えないほどの点があるのかもしれない。または書き順でも違うのか、いつまで眺めていても、その違いが見出せず。見つけることのできない自分の非才を、嘆いたものである。
それから、「サムライ」の実在ということがあった。私の子どものころは、まだテレビもなく、一時たりとも、家の中で、じっとしていることはなかった。学校が終われば、子供たちは、日が暮れるまで、屋外で遊ぶまわっていた。男の子はちゃんばらが大好きだった。義経、信長、秀吉、家康のことは、誰でもよく知っていた。映画も時代劇全盛だった。サムライになったつもりで、思い思いの棒っきれを振り回していた。
だが、過去同じ領土に「サムライ」というものが実在していたなどとは、露ほども信じられなかったのである。刀もサムライもちょんまげも、すべてお芝居上の道具だと思っていた。固く固く、そう思っていた。義経も秀吉も、すべて芝居の上の登場人物以上のものではなかったのである。
わたしの歴史は、それ以上のものでもなかった。おそらく学校の教師が、サムライが跋扈していた古い時代の話を、いくらまじめにしてくれても、やはり、芝居の話を前提に、話している以上には、真実味は伝わらなかった。話が、真剣であればあるほど、ますます芝居じみてきたのである。
先のアメリカの話も同様だった。国名ばかりのことではなく、そもそも太平洋の荒波超えた果ての果てに、そんな大きな国があるはずがないと、そう思い込んでいたのである。あれはニュース用の、または新聞などの業界が、文字や話を続けるために物語る上で、でっちあげられた「国」であるとさえ。そんなことを考えていた。私の家はまずしかったから、伝統もへったれくもなかった。葬式も、不思議なセレモニーだった、大人が酒を飲んで酔っ払うもの、おかしな現象だった。おおくの事象は、私にとって、嘘っぱちだったのである。滅多に口にできないご馳走が、子供にも回ってくるというそれだけの理由で、また親類のどこかの家で葬式が出されることを願っていた。
自分のつながる、えんえんとした歴史が実在のものとして、まるで目に見えるように、目の前に現れてきだしたのは、そう昔のことではない。年をとればとるほど、昔のことが頭の中で、現実味をおびてくる。昔に帰るというけれど、昔のことをしるにつけ、自分を幸福にさせてくるのは、なぜだろう。2400年前も昔にソクラテスという老人がいた。さらに中国には孔子がいた。仏陀がいた。イエスがいた。彼らは書物など、一顧だにしなかった。後世に世界の四大賢人と誉めそやされる彼らは一様に、文章など一行も書いていない。偉人だとか、とりわけ天才で頭がよいと言えるような、根拠や証拠など何もないのである。
だが、私は信じている。以後、彼らを歌うために語り継がれ、多くの書物が書かれてきたが、それは間違っていないと思う。彼らは間違いなく、私たちの祖先だったのだ。
問題は、彼らが開発した知性、理性は、また人のあるべき姿は、そのものとして私たちに受け継がれているか、どうかだけが問題なのだ。宗教や学問という形だけとどまらせているのは、われわれが彼らに比べれば、実にこまっしゃくれた矮小な人間になってしまっているからだとは言えないだろうか。
科学も教育も、歴史的にはさびしいことなのである。歴史を知るなどとは、まだろっこしい。歴史は感じるものだ。先祖の姿や、人間を実在させせることである。ソクラテスを、自分の目の前に突っ立たせて、彼と対話することである。そこに歴史というものの幸福がある。昔は、さらに大昔は、自然界における人間は、真の王者だったとそんなことが、プラトンや古事記から、垣間見ることができる。年をとってみて、そうしたことが、だんだんとわかってくる。伝統や歴史がなかったら、人間は動物以下だ。
<2007.10.01記>
われわれには何の罪もない、のではなくて、われわれは日本の歩んだ歴史を背負っているのだ。背負っている歴史に個人で対峙しなければならない。
いい言葉だ。これぞ歴史感覚というものだろう。死んだおやじの借財は物心ともども子どもが返済しなければならない。やがて返済すべき相手は他でもない自分であることを知るだろう。歴史は理屈ではない。いうなれば道徳だ。過去の幸も不幸も、すべてが俺たちの全身に引き継がれ、それが生きる糧となっている。過去がなかったら俺たちは、この世に生まれてさえいない。俺たちは過去から命をもらい、いやがおうでも日本の歴史を生きている。決してインターナショナルに生きているのではない。誰の命にも「定め」というものがある。「定め」の範囲でわれわれは生きている。過去の責務とは、なにも「さきの大戦」のことばかりじゃないだろう。そんなものは昨日今日のことだ。もっと大昔から「定め」られたものがあるということを知らなければならない。そこに、心底で感じている幸不幸の源泉がある。それは本を読んだぐらいで分かる問題じゃない。心で歴史を感じることだ。まずは親の思いを知ることだ。知るより先に感じることだ。
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いつぞや、どなたかが、よく分からない明治の思想家だとして内村鑑三について触れられていた。そのときは、私もほとんど寡聞にして内村の文章をまともに読んだこともなかったので、口出しはしなかったのである。
大手の出版社などが明治以降の近代文学全集と銘打って浩瀚な書物を世に出すさい、その冒頭の第一巻を飾るべき文学者は誰であろう。漱石でも鴎外でもない。決まって福沢諭吉の「福翁自伝」か鑑三の「余はいかにして基督教徒になりしか」をもって第一巻とされている。双方ともに小説でも詩歌でもない。だが、まぎれもなくわが国の近代の第一歩を記した文学書である。
わたしは、最近気がついた。 わが国の文学関係者やジャーナリズムも捨てたものではないと。鑑三は札幌農学校の二期生として卒後、ただちに米国に自費留学を果たした。在学中に上級生より強引に洗礼させられていたという。鑑三の同級生には新渡戸稲造がいる。3年間の留学を終えて帰ってきた鑑三は、欧米の文化文明を唾棄すべき野蛮だと糾弾しているのである。鑑三は基督教徒だが、決して欧化主義者ではなかった。むしろ、過激な日本主義者であった。
近代文明によって堕落した欧米に宗教が根ずくはずもなく、わが日本にこそキリスト教が花開くことを願っていた。鑑三の心に宿った、この願望ははなはだしくさえもあって、多くの誤解を受け続けてきているのである。 今でもそうだ。仮に、鑑三の人生に真実というものがあるならば、それは近代文学全集の巻頭を開いてみればよい。そこに鑑三自身の肉声、すなわち鑑三の裸の文(あや)が伝わってくるはずだ。
彼がどれほどわが国の歴史にあこがれていたか。わが国の宗教と倫理に頭を下げていたか。高崎藩の江戸屋敷に藩士の子として生まれた鑑三は、後に名著「代表的日本人」のあとがきに次のように記している。
私は宗教とはなにかをキリスト教の宣教師によって学んだのではありませんでした。その前に日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が私の先祖と私とに、宗教の真髄を教えてくれたのです。 何人もの藤樹(中江)が私どもの教師であり、何人もの尊徳(二宮)が農業指導者であり、また何人もの西郷(隆盛)が私どもの政治指導者でありました・・・・私は、サムライの子のなかでももっとも卑小なる者・・・であります。それにもかかわらず、現在の自分のうちにあるサムライに由来するものを、無視したり等閑に付したりすることはできません。 まさに一人のサムライの子として、私にふさわしい精神は自尊と独立であり、狡猾な駆け引き、表裏のある不誠実は憎悪すべきものであります。キリスト教に比して勝るとも劣らないサムライの定めでは、「金銭に対する執着は諸悪の根源なり」であります。近代のキリスト教が公言してはばからない、もう一つの律法「金銭は力なり」に対してサムライの子であるからには毅然として異議を唱えるのは、私の当然の務めであります。
1899年、新渡戸博士が38歳のとき米国滞在中に英文で書き上げた一書である。日清戦争の4年後のことであり、欧州における日本の評判はうなぎ上りだったが、一方、その中身たるや誤解と誤謬、偏見が蔓延していたのである。「芸者、富士山、ちょんまげ、腹きり」などの言葉に象徴される野蛮で暴力的な印象以上には出なかった。新渡戸博士は、こうした欧米における風評を打破して日本を擁護し、さらに正しい日本の文化および今日に息づいている歴史的精神の姿を紹介せんとして英文によって『武士道』を書き上げた。内村鑑三の名著『余は如何にして基督教徒になりしか』も英文で書かれたが、その事情に通じている。矢内原忠雄氏の名訳によって、書中いたるところに強く美しい文章がちりばめられている。
過去の日本は武士の賜(たまもの)である。彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れでた。彼らは社会的に民衆より超然として構えていたけれども、これに対して道義の標準を立て、自己の模範によって、これを指導した。私は武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧(あんねい)幸福を求める福利主義的であり、前者は徳のため徳を行うことを強調する純粋道徳であった
新渡戸は武士道を称揚してやまないが、これを理想化したり絶対視しているわけではない。時は明治の真っ只中であった。
日本人の心によって証せられ、かつ了解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべし、その十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。しかして吾人はあらゆる方向に向かって美と光明、力と慰謝のほかの源泉を求めているが、いまだにこれに代わるべきものを見出さないのである。功利主義者および唯物主義者の損得(そんとく)哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋の好むところとなった。功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない
武士道は一つの独立せる倫理の掟としては消えるかもしれない。しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀(こわ)れるかも知れない。しかしその光明の栄光は、これらの廃址を越えて長く活きるであろう。その象徴とする花(桜)のごとく、四方の風に散りたる後もなお、その香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう
敗戦まもなく、小林秀雄は「近代文学」派(本多秋五、小田切秀雄、平野謙、埴谷雄高、佐々木基一、荒 正人)の座談会に招請されて、終わったばかりの戦争について次のように喝破しておりました。
僕は政治的には無智な一国民として事変(戦争)に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ずかくかくしかじかだったら起こらなかったとか、こんな風にはならなかっただろうという、議論が起こる・・・この大戦争は一部の人たちの無智と野心とから起こったか、それさえなければ起こらなかったのか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なんぞしない。利巧なやつらは、たんと反省してみるがいいじゃないか
とくに最後の戦争について「自分は反省なんかしない。利巧な奴らは反省してみればよい」という文言は有名になり、なによりも小林秀雄の保守的思想を証明しているとして流布されました。だが、もう一度よく読んでみると、過去の歴史というものについて、もっと重要なことを言っている。それは「歴史の必然というものを、もっと恐ろしいものと考えている」という処です。悔やもうが反省しようが責任をとろうが、過去はやり直せるものでも、帰ってくるものではないという実に単純な真理のことです。誰だって、前を向いて生きていかなければ、生きることすらできようはずもない。生きるということはそういうことだ。後ろ向きに歩くことなど、できる相談ではないのです。
そうした絶対性というものが過去と歴史にはある。どれほど思念を膨らませても、死んだ子どもが生き返るわけではないのです。責任を問うのも、反省を深めるのも、まずは生きなければ、仕方がないではありませんか。いつまでもメソメソしているわけには行き候らわず。隣国に対しても、腰を低くし、ペコペコとおじぎばかりしているだけでは、一国が成り立ちません。一家の生活が成り立たないでしょう。小林が言うように、反省するヒマのあるヤツにでも反省させておけばいいのです。反省と生活は違う。生き残った敗者にも言い分はあるのです。反省ばかりさせたれていた日には、一向にこちとらの生活が成り立たないではありませんか。
尊大な態度と見られるかもしれない。だったら、そのように見られないように頑張ってみるしかないのです。なにからなにまで勝者の言うままに、ならなければならない理屈はないし、それと正義はまた別でしょう。戦勝国によっては、国土の全部をささげて賠償しろと言われたら、日本という国は、いまごろ沈没しておりますよ。敗者には敗者の最低限生きていく持分がなけれなりません。
国体の根幹(天皇制)や沖縄は限定的に犠牲になったが、かろうじて国土の大部分は守られた。そこから出発してきたのです。隣国や勝者には、感謝してもしきれません。その意味では、近代は世界によって承認された国しか、生きられないともいえましょう。隣国の承認があったこそ、今の日本があるのです。小林が言う、利巧な奴らとは、明確に不毛な感傷に明け暮れる知識人を指している。それは今日の論壇を見ても、よく分かります。彼らはいつまでたっても、歴史を回顧しては、泣き言ばかり垂れ流している。それが知識人というものでしょう。小林秀雄が最も嫌った人間種です。
それから、はたして一般的に戦争とは悲惨なものなのか、という疑問がある。敗戦国としては、確かにさんざんな目にあって、終わってしまった戦争をいまさら喜ぶわけにはいきますまい。確かに、悲惨な戦争だとも、戦争は悲惨だとも、そうした感想を持つのも分かる。
だが、例えば1970年代にはベトナム戦争というものがあった。彼らにとってあの戦争は悲惨だったでしょうか。あの戦争で、物量を誇る米軍に屈することなく戦い。結果、勝利したベトナムの人々は、あの戦争を、現在はどのように語っているでしょう。思い出すのも悲惨のあまり、避けられるものなら避けておきたかったとは言わないような気がするのです。ベトナムの学校では、あの戦争こそ民族の英雄性と不屈の精神をなにより証明している歴史上の事実として、子どもたちのよき教材になっているのではないでしょうか。彼らにとっては、アメリカと闘って勝利した、あの戦争は、決して悲惨なものではなく、英雄的な戦いだった。ベトナムの子どもたちは、こんごとも、必要があれば、いつだって祖先と同じように、銃を持って領土を守る勇敢な青少年として教育されているような気がいたすのでございます。
このように、戦争は悲惨なものだという感傷的発想も、その根は実に、一面的なものだと、言いたいのです。戦勝国と敗戦国では戦争に対いする見方も大違いになるのは当然ですが、戦争はこりごりだという感想は、敗戦国の一時の世論のように思います。だからと言って私は、もちろん戦争を待望しているわけでも平和主義が悪いとは申しておりません。言いたいのは、歴史を感傷的に回顧するばかりでは、誤認が出るだろうと申しているのです。<2420字>
子どもは学校などよりも、地域の大人たちのなにげない口ぶりなどから、心底から教わることもおおい。大人たちの話の大部分が何を言っているのか分からないのですが、教師のマンネリに陥った話などよりは、あるときある場合には、よほど印象が深く残ります。結婚式や葬式の夜に酒盛りしている男たちが歌いだすのは軍歌に決まっていました。アメリカに敗れはしたものの必ずや日本を往時のような一等国にするのだといきまいておりました。ナショナリズムというものは度し難いものです。こうなると戦争に負けようと勝とうと、富国強兵こそナショナリズムの精神的糧のような気がするほどです。戦後もまた産めよ増やせよで、復興を願ったのでしょう。そうした中で、この国に生まれてきたのが、わたしであり泥炭さんです。ナショナリズムがなかったら、私など生まれてこなかったかもしれませんよ。
さらに、戦後10年たってもとあきれる思いだが庶民の歴史認識は、あいもかわらず徳川がどうした封建主義はだめだ等々の話題。また鎖国というものに対する糾弾式の否定的言説などが日常茶飯事に流布されていた。子どもの世界でも家康は悪者の代表格でした。つまり文明開花の時から、ナショナリズムを左右する大方針のようなものは、あれほど戦争で痛い目にあっても、そうは変わっていなかったのですから驚くのです。こうした面は今にいたるも右も左も同じでしょう。私には、近代主義や生産主義という点では自民党も共産党もまったく同じに見えてくる。
誰も子どもを産むなと掛け声をかけてきたわけではない。ところがいつの間にか子どもを産まなくなった。産んでも二人がせいぜいとは、情けない話です。だから、なんとか威勢のよいところを見せるために、すなわちナショナリズムという観点からは、相変わらず埋めよ増やせよというスローガンが重用されているわけですよ。何も変わっていないではないですか。脱亜入欧、文明開化、富国強兵等々、われわれが天下国家を考えるとき、それらの志向から一歩も外れることはできないのです。国家を縮小させて、よろしいのですか。
国民という存在または国民の中に培われた政治的文化的良識は、決してイデオロギー的存在でも、歴史的に規定された存在ではないということですよ。悪く行けば目先のことから明日のことを判断している。よく言えば歴史認識から自分や自分の国の有るべき姿を観念的に規定したり、方向付けたりは、決してしないということを説明しているのです。過去の歴史とは、観念の中のことですよ。一種の科学ですよ。言説にしか過ぎませんよ。今や昔、大戦争があって、日本は負けたというのは、外から聞いて始めて知ることですよ。
今や感覚上のことではない。戦争の実際を、知らないと罪になるのですか。戦争を知らなければ、平和に暮らす権利は剥奪されてしまうのですか。きちんと子どもたちに戦争の実際を教育しておかないと、子どもたちはみな長じて軍国主義者や国粋主義者になってしまうのですか。それらすべてが空想ですよ。幻想ですよ。不毛なアジテーションですよ。
国際的立場なんてものは、もちろんマスメディアを通じてしか、われわれ市井には伝わってこないはずです。「イラク戦争」しかり「ブッシュの政策」しかり。私は基本的に、よほどでなければ、マスメディアから日々大量に持ち込まれてくる報道を、受け付けないようにしています。新聞は取っておりません。TVのニュースは見ますが、アナウンサーの声は、できるだけ頭に残らないように、自動的に右から左に抜けていくように心を構えているのです。「日本の国際的立場」ですか。人のうわさなんぞ、安かろうと悪かろうと、気にしていたら、安眠もできなくなりますよ。そうした仕事をしたいという人が選挙で選ばれているのでしょう。その人たちの仕事です。イラクの現実を知っている人とは、見てきた人だけにして欲しい。それほど心配なら自分で見てくればよい。見てきもしないで、メディアを利用してアジッってくるような言説を、私は自分の中に入れないようにしているのです。このような二次的三次的にコピーにコピーされた言説は、聞き飽きたのです。その手のコピーこそ教育現場から排除しておきたいと思っております。正直な言説こそ、子どもたちに与えてほしいと、願わずにおられません。教育の質が問われるのは、教師の言説の質なのです。言葉の量ではありません。言葉は、ほんの少しでよいのです。
それは、昨今よく言われる「小泉劇場」などは違う話です。小泉政策については、あなたのようにきちんと嫌だと言っている人も、たくさんいますし、私が付き合っている人の多くは左翼系ですから、小泉に一票入れたなどと自慢げに公言してはばからないのは私ぐらいなものですよ。みなさん、きちんと、それも大きな声でいろいろと反対意見を表明できているではありませんか。それと民主主義とどう関係があるのかは知りませんが、少なくてもあなたのいうような「民主政治」のことなら、こうして立派に生きていることの証拠でしょうや。そうも、ないものねだりをしたり、高望みをしても始まりますまい。中には、先般の総選挙で小泉氏の一方的勝利をもたらしたのは、国民の民度が低いからだと申していた左翼系の方もいましたが、それはぎ改正民主主義の否定で、後は、テロや過激派に走る以外になくなりますよね。
「エースに命運を任せ」ては、何か不都合でしょうか。それも選挙で選ばれたエースですよ。私ら国民は生活に忙しい。国民を代表して、あちこちの外国様と交渉したり、法律を作ったりしておられるのでしょうや。それが彼らの仕事でしょう。彼らに不信があるなら、ひとつ、どうですか。泥炭さんも出馬されては。それ以外にあなたの不満を解消する道はない。あなたがやってみればよいのです。自分でやろうとしないで、一方的に人を責められますか。一面、命運を任せているということは事実でしょう。だが、昔とは違いますよ。国民のコントロールのもとにあることは、エースも庶民もよく知っておりますよ。戦地からの情報など、その多くが操作されていると、あなたはいつか申していたが、それも、それほど報道に不信で、心配でならないというなら、戦地の様子なりをあなた自身で見てくるより、あなたの確信は誰にも伝わらない。それをしないまま、言葉を発しているのは、聞くに堪えない、ないものねだりの不平不満ですよ。大人らしくないではありませんか。<2980字>
新橋に出たついでに夕方の芝公園を散策する。御成門側の公園入り口に一つの石碑があって、次のような碑文が刻まれていた。
開拓使仮学校跡
北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。生徒は、官費生、私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。仮学校は明治8年7月(陰暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。
ちなみに内村鑑三が二期生としてこの学校に入ったのは次の明治10年のことである。鑑三は17歳だった。新渡戸稲造、宮部金吾らと同級だった。
東京オリンピックのマラソン競技では、円谷(つむらや)幸吉選手が銅メダルを獲得した。国民から賞賛された彼は、さらに上位を狙うべく、4年後の1968年秋に行われるメキシコオリンピックを目指して艱難刻苦の日々を送っていたという。だが、オリンピックイヤーが明けてすぐ、彼は下のような遺書を残した自死してしまった。私は円谷幸吉氏については、ほめられこそすれ何一つ非難されるいわれはないと思っている。なにもかも遺書を持って、彼の心境とその真実を理解できるからである。円谷幸吉氏は立派だったと思うばかりにござ候。円谷氏の遺書は、まぎれもない文学にござ候や。
父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございま>した。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
陸上自衛隊 三等陸尉 円谷幸吉 1968/01/09
<1092字>
今日はお前との一生のお別れのはずなのに逢えなくて心残りです。本当に疲れ果てた一生でしたね。人生のほとんどを病気と闘いながらよく頑張ってくれました。安らかな眠りについて下さい。まだ十二、三歳の頃だったと思います。小学校を終えて上京する時、カスリの着物の裾(すそ)を引きづり、ゴム長靴だけはやっと父母に新調してもらって、家を振り返り振り返り、姿の見えなくなるのを見送ったものでした。あの時のお前の姿が目に焼き付いてはなれません
父が生まれたのは大正14年。昭和の年次と父の履歴年齢が同じなので、思い出すにはなにかと便利なのである。父は尋常高等小学校を終えたと聞いていた。当時の学制を調べてみると、尋常小学校が6年間。その上に二年間の高等小学校というものがあったらしい。すると学校を終えて12,3歳という叔父の覚えは間違っているのではないだろうか。14歳になっていたはずである。14歳であったとしても、と思うのだ。着物の裾を引きずるように、本人からすれば納得ずくで上京するという事情ではなかったはずだ。父母から引き離される寂しさはいかばかりであっただろう。二年後はいよいよ真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の勃発ということになる。汽車に乗って連れていかれた先は東京蒲田にあったという大きな軍需工場だった。同じ村の幾人かの同級生と一緒であった。戦後高度経済成長の象徴である集団就職の先駆けとも言える。それにしても、まだまだ幼い。父母恋しさに堪えられなくて、つぎつぎと帰省してしまったという。最後まで東京に留まったのは父だけだった。昭和19年には東京は空襲によって大変なことになっていたと聞くから同じ工場にずっといたのかどうかは知らないが田舎には帰らなかった。
私の祖父は、ごうつくばりの一辺倒で死ぬまで自分の思い通りに家を支配した人だった。したがって終戦の年(または前年)まで東京にいたことは必ずしも父の独立心が強かったということを説明しているわけではないと思う。むしろ帰りたくても親が許してくれなかった。父親が怖くて帰れなかったと私は読んでいる。さて、二十歳になった(なる前?)父は徴兵検査のために帰省した。そのまま上京することなく、そこで終戦を迎え同じ村に疎開していた母と知り合った。私が生まれたのが昭和23年。父が23歳のときだった。父が発病したのは私が小学校に入る直前だったと覚えている。以後、母の苦労は並大抵のものではなかった。
今日は憲法記念日。
戦争を否定して、人権を立てようと真正面から歌って世界に冠たるわが憲法も、ここに来て一挙に形骸化がすすんできた。あっという間だったという気もするが、私には戦後半世紀かけて着々と、ここに至ってきたという感じがしてならない。我々こそたいした疑問も抱かず、そのレールに乗せられてきてしまったというのが実際のところのようだ。人は自分が食べるに忙しいから、よほど倫理につながる思想をしっかりしておかなければ、他人に「人権」があることすら容易に忘れる。
「食べる論理」から言えば、他者の存在も自分の都合勝手の範囲でしか理解できなくなる。自分の「食べる論理」を上手に客体化されているものとして国家が幻想されてくる。それにもうひとつ重要なのは、国家に匹敵して普遍化される「科学技術」というものがありそうだ。食べる論理を証明する「テクニック」とも言えるだろう。
このテクニックの享受こそ最大の価値観となり、倫理は後方に追いやられてしまう。食べる論理のテクニック=生きる方法論のふるまいこそ「国家」の価値であり「社会」の存在証明であるというのも、ひとつの思想には違いないだろう。「豊かさ」は個別人間の中にあるのではなく、外在しているものなのか。国家と社会の方に「豊かさ」はあるものなのか。
いずれにしても我々はそのように「社会」から「教育」されてきてしまっている。「人に迷惑かけずに自立せよ」・・・・これが倫理のすべてとなるなら、人と人の関係は先細りである。それに福沢諭吉翁をはじめ、この国では「愛」については誰もまともに話をしてこなかった。テクニックこそ至上のものとなる。食べるに能力のない人間は「社会」にとっても家族にとっても余計者となる。「働かざるもの、食うべからず」は聞こえはよいが、働くことも食うことも各自によって実に千差万別であり相対的な現象なのである。
あたかもここに一律基準があるかのように宣伝している者こそ、世を不要に騒がす真犯人であると、私は見なしている。月数万円で暮らしている人もいれば、100万なければ暮らした気にならないという欲望満載に腹つきだした御仁もいるだろう。どっちが人間的に正当かは言うまでもない。かように働くことも食うことも、人との関係を抜きに語ることができない。近代ニッポンはこれを社会的役割に基づく個人能力だけで説明しようとしてきた。
「人に迷惑かけるな」のかけ声は個人から、信仰と慈善を奪い、他者への想像力を奪ってきた。他人を思いやる気持ちを無化することこそ教育の目標であったかのようではないか。能力が実力ならまだしも弁解も立つ。だが多くの場合、所属集団や出自から個人の食べる分を与えようとする傾向は旧社会からたいして進展はしていないように見えてくる。
問題は、こうした「働く」理屈と個人能力だけが大手を振ってまかり通ってくるならば「勉強しない子ども」「出来ない子ども」は、それだけで「食う分」を与えたくなくなるのも人情となってくる。そればかりでない、腹つきだした御仁どもは相対的に貧しい人々を差別をもって蔑視する、その仕組みをあからさまに作り出そうとさえしてくる。
彼らはいつも偉そうに、収入の多い自分たちこそ「社会のためによく働いているのであり、人のために尽くしている」と主張する。かくして自分たちこそ「正しい人間」であると、手前勝手なテクニックを唯一の教義として子どもたちに押しつけようとする。これが「公教育」である。
親の分に応じて、無条件に子どもを「愛する=食べさせる」だけでは、まだ不足なのだと言う。これでは、本来備(そな)わっている生き物たる自己完結性を説明することができなくなる。我々はいつのまにか「野生」などというものは、すっかりどこかに置き忘れてきてしまったらしい。
誰しもが永遠に一人前にはなれない社会。死ぬまで人格上の不足感にあえぎ苦しむ。「少子化」の加速は、こうした社会意識がすでに現実化してきており、その予感の反映なのである。早晩この国では、子どもの姿は見たくても見られなくなる日がやってくる。それとも何か、子どもを可愛がるに国家公認のテクニックが、どこかに用意されているとでも言うのか。それがガッコであり教育だとでも言うのかな。笑止。
最後に・・・憲法記念日ということで強調しておくのだが、早い話ガッコの果てにあるものは「経済」の効率のことであり。教育の果てには、意外なことに戦争が想起されてくる。学校教育が、表面的には誰にとっても不平不満がなく、ほぼ完璧に施行運営されているように見えている時期というのは、驚くなかれ戦時体制のことだろう。どこの国でも歴史的には見事なほど一致しているのだ。このことが何を意味するか、一度じっくり考えてみるだけの価値はある