赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼吉野家のクルクルパー

2012年11月14日 | ■今丼政幸君との対話

2011.11.14

今日の党首討論で、野田首相は、解散総選挙を明言したわけだが、党内の反対論を振り切って、今日の良き日に、よくぞ断言したと誉めてやりたい。党内に反動いかさまの田吾作一派やら日教組上がりやら世捨て人同然のアンポンタンを多数、かかえこんで、政権運営といい党運営といい、常に難渋していたらしいが、この際野党の要求を呑んだ形ではあったが、いまやそれしかない窮地に陥っているのであり、これでよかったのである。

解散が決まったことで、もっとも打撃を受けているのが、当の民主党であることは、野田氏は百も承知であったのだろう。かつて「自民党をぶっこわす」とわめいて解散に打って出た小泉純一郎氏の勇姿が脳裏によみがえってきた。あのときの与党内の状況をよく似ている。あのときの選挙の結果は、小泉氏と小泉チルドレンの大勝利という結果に終わった。

思うに、旧来の自民党のよからぬ体質の大部分は、このときの小泉選挙で壊れたのである。自民党は小泉氏によって再生されたと、わたしは見ている。

さて、こたびの総選挙を迎えるにあたって、民主党は分裂するだろう。どこまで決定的に分裂するかは、知らぬ存ぜぬが、仮に分裂の憂き目を見なくても、世論調査を見る限り、当選者は現有議席の3分の1程度までに落ち込むはずだ。

こうして民主党は、根本的に再生されなければならない。保守政治を目指すのか、それとも反対のための反対を繰り出す、ただのスローガン政党に堕ちるのか。そこが問われているのである。

何度も言うが、わたしが国政に要求しているのは、健全なる保守である。国政を担当するのは、自民党であれ民主党であれ、連立連合、なんでもござれだ。

ただ、こたびの総選挙では、ひとつだけ、お願いしたいことがある。政治の表舞台から右も左もおかまいなしのヌエのような田吾作一派(小沢一郎と子分たち)を、この際、一匹残らず駆逐することだ。

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▼テレビ豚を相手に映画論

2010年04月17日 | ■今丼政幸君との対話
<2010.04.17 川崎市>

以下、「赤っ恥の田舎っ屁」掲示板より

>以前、塚原は、ワイダを語ったりしてたが、いまはすっかり映画を目の敵としてしまったな。おろかだ。

これタゴよ。そんなことはないのだよ。先日も重い腰を上げて「ボヴァリー夫人」を観てきたところだ。映画を映画館で観たのは、約6年ぶりの晴れ姿。よかったな、これタゴよ。ところで、君は「ボヴァリー夫人」は観てきたのかね。

>わたすが学生の時、共産党系の評論家が活躍してたものだ。いまでも赤旗には映画評が載ってるのじゃないだろか。

その映画評論家はよく知っていたはずなのだが、名は、のどまで出掛かっているところで、出てこない。おっつけ「戦争反対」「アメ帝は出て行け」「万国の労働者は団結せよ」のスローガンに基づく、よいか悪いかただすいかの二項対立黒白漫才に明け暮れていたのだろう。つなみに、この十五年ほどは、拙者のばやい共産党機関紙「アカハタ」は見たことも聞いたこともないので、紙面で最近の映画が、どのように評じられているのかは、知らぬ存ぜぬ。

>映画は、世の中、世界情勢をそのまま描くから、外国映画を見るのが、他国の事情を知るにいっとうてっとり早い。

なるほど、そりゃその通りかも知れないが、タゴの言うとおりであるならば、それは単純なプロパガンダの道具と言うことでもあるのだぞ。

>映画は、その国の国民性、道徳倫理を描いているから、他国の情感を教えて貰える。

これタゴよ。では映画では観ることのできない国のことは、どうして知ればよいのかね。地球上には映画なんてアホちんなものを、一本たりとも製作していない「国」というものもあるはずだ。反して、わたしはいつかタゴに聞いたが、タゴは、最近インド映画を観たことがあるのかね。インドでは年間数百本ほど製作されている映画王国だ。なにかインドの映画をタゴは観たのかい?観たこともないというなら、その理由を述べよ。このように、タゴの言うところは、実に狭隘に閉じ込められた自らの知的環境を前提としているに過ぎないのである。ジャーナリズムもそうだが、日本語に置き換えられた、図書を読むより、一般に、われわれ日本人は、他国の素性に、脳内だけで、触れることは不可能なのである。百聞は一見にしかずという。インドの事情を知るには、インドに行ってみるしか、他に方法はない。さらに一二度行ってみただけで、なにを知ることができるだろう。せいぜい年間に数十本ほどの映画を観たからといって、タゴの無知は、解消されまい。いずれにせよ、ネコの額ほどの脳しかないくせに、威張るんじゃない。この法政上がりのアンポンタン。

>映画を大事にしない国の文化はろくでもないのだ。

皮肉で言うのだが、映画を大事にしていたのは、かのヒトラーでありスターリンであり、今日では北朝鮮の王様だ。彼らは、まったくもってB級映画大好きのタゴの趣向に価値観も同一だ。北朝鮮の王様などは私設映画館まで作らせたという話だ。えらくタゴが褒めている映画と、当の王様が感動した映画が、ほぼ同じというのだが、笑い事ではすまされまい。やつもタゴと同じく、いまだに「ボヴァリー夫人」だけは、観ていないらしい。

>ニッポン映画を大事にしないニッポンなら、この国に明るい未来なんてない。

タゴのいう「ニッポン」とは、政府のことかい?それとも国民のことかい?だが、広義に映画を解釈すれば、それは動画のことだろう。テレビは動画の世界だし、インターネットで流されてた、最初の記号は文字によるテキストのみだったが、以後、スチール写真、音響、さらに動画へと代わりつつある。ニッポン人も動画が大好きだ。映画(テレビ・動画)が嫌いな奴なんて、拙者ぐらいなもんじゃないのか。

>知識人がどうあるべきかを知ってる本当の知識人なら、映画についてきちんと論評できる。

拙者の場合、一般に映画も嫌いだが、それ以上に知識人ってのが、大嫌いだ。知識人なんてのは、世間にとって、クソの役にもたたないものよ。

>映画について語れないお人って、愚者でしょ。爆

一応、そういうことにしておいても、よいのだが、さてタゴは映画について、何かましなことを語ったことがあるのかね。拙者から見るに、映画を語っているというよりは、チケットを語っているようにしか写らないのだが、拙者の錯覚であろうか。

>真理を語れない、レベルの低い塚原のいう、ましなこと、って何か?ってことが問題なんだよ。

で、おまえは真理とは、何かをわかっているのかね。おまえが語っているのは、真理なのかい。おまえは真理だけを、語っていると断言できるのかい。相当の馬鹿だね。この男は。

>塚原にとって、映画について考察するとか、文学について考察するとか、政治について考察するとか、まるで出来ていないことかや。

拙者のばやい、タゴの概念上にある「出来るか出来ないか」なんてのは、屁も同然の問題だと思っている。ましてや、タゴの言う「考察」なんてもんは、まったくもって個人的な問題なのであり、他人が知ろうと知るまいと、それが何なんだという話だ。ところで、タゴが使っている「考察」というものを、タゴ自身は、行為化したことがあるのかね。君は考察したことがあるのかね。タゴのような、脳の足りない川っかむり男に、それは無理な話だと思うばかりにござ候。

>なら、わたすにいっさい絡んでくるなよ。

おびえるな。たかがネットの上のことではないか。たかが言葉の上のことではないか。拙者としても、脳のたりない、おまえごときに、絡んでなんぼとは、思っても今井。実に、友好的に、お話をさせていただいている、ところなりけりや。

>塚原は、自分のばかたれさを、界わいに晒してることだ。

それがネットにおける、拙者の望みだ。拙者の真理だ。拙者の欲望だ。拙者の生活だ。これタゴよ。その他、何か問題でもあるのか?

>塚原が、なぜ、わたすこと新潟県出身の法政上がりにして、なおかつ中途採用で倉庫会社でがんばっている還暦間近の今井政幸が川っかむりの脳の足りない男であることを暴露したいかというと、塚原が、社会の低階級に位置してて、絶えず、わたすのような百姓あがりの法政あがりでも、やりようによっては社会の高級階層に属することに嫉妬し、わたすや有田芳生さんのような一定の成功者に怨みすらもっているからだ。

ふーむ、図星だ。タゴもまんざら馬鹿ではないようだ。 ああ滅入った滅入った四月に雪ふる朝ぼらけ。寒さ暑さもくれないの春のよき日のワンカップ。
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▼ふりちん事務所訪問記

2009年11月15日 | ■今丼政幸君との対話
<田吾作>
かもめの持つ視野の狭窄さは、別の呼び方が「同時に」併存する二面性(二重性)を理解し得ない。だから、かもめの振りかざす正義は、同様・同量の、(かもめのいう)アンチ正義によって簡単に打ち消されてしまうのだった。作用・反作用の原理だ。かもめが力をいれて力説すればするだけ、同量の、反かもめ理論の証拠が出てくる。かもめがやっきになって悪口にはしればはしるだけ、かもめの悪事が顕わとなる。だから、かもめの漕ぐボートは、決して、一生懸命かもめが漕いでも、同量のアンチテーゼをくらい一歩も前に進まない。わたすがどゆ理由で事務所にいこうが、わたすが渋谷に行ったかどうかは、かもめの人生にいっさい関係ない(深い意味で)。すかす、かもめは、わたすが一人で事務所に行ってしまった能力や、わたすがいともたやすく知人さんとアポをとった才能に嫉妬する。かもめは、無能人間だから。嫉妬人間かもめの主張にまっとうな正論はなにもない。
爆なし。

<鴨目>
>鴨目が力をいれて力説すればするだけ、同量の、反かもめ理論の証拠が出てくる。

ふむふむ、それは望むところだ。退屈がしのげる。

<田吾作>
かもめは、わたすが書いたふりちゃん事務所訪問記などまるで信じていないウソだとこく。笑ってしまうのは、わざわざ、事実と違うとして登場するふりちゃん本人が、訪問記を否定しないことにかもめは頭がいかないことだわさ。当事者が否定しない事柄を、行きもしないかもめが否定出来る権利などないだろ。かもめは、わたすを卑劣扱いしたいがためにデマをでっちあげるのだ。いずれ、嘘こきでまこきかもめは、閻魔にその舌を抜かれることなのだ。爆なし。

<鴨目>
拙者が君のふりちん事務所訪問記を、否定しているとな。よく読んでごらん、むしろ肯定しているのだ。君は確かに訪問記とおりに、ふりちん事務所を脅しにいったのだ。アポはとったかとっていないかの箇所にいたれば、そりゃもう、大笑いだ。それからバケツの水を頭からかぶってきた話も上出来じゃないか。安心しろ。すべて、肯定済みだ。

<田吾作>
ん?かもめは二枚舌か?お前、わたすが書いた訪問記など信じていないと書いたじゃないか?都合が悪くなると次々にウソをこくのがかもめの本心かや。救いようがないな。

<鴨目>
そうか、最初は否定的立場だったのかい。どうも、寄る年波には勝てぬワイ。すでに10年も昔のことだ。自分で当時の自分のことが、一向に思い出せない。思い出すのは当日の夜、抜き足差し足忍び足で、泥棒猫のように、おそるおそるふりちん事務所に向かっている頬っかぶりをした田吾作の、こそ泥姿だ。そして、ついに黙ったまま挨拶もなしに玄関のドアを開けてしまった。で、待ち構えていたふりちんさんによって、バケツの水をぶっかけられ、田吾作は、ほうほうのていで逃げ出してきたのである。かように、一貫して、拙者は田吾作の当夜の行動を肯定しているのであったのだった。ま、たまに否定的な見方もあるやなしやだ。許せよ。

<田吾作>
許されるわけないだろ。世の中を甘くみているよな。かもめは絶対許されない。そゆ絶望的状況を見通せないからかもめはダメなのだ。後悔先に立たず。後の祭り。覆水盆に返らず。一度の失敗は、もう二度と取り返せない。ばかたれ。
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▼題して「内心と暴言」

2009年11月15日 | ■今丼政幸君との対話
<今井政幸>
かもめの破綻は、悪の一味もそうであることだが、社会への反発心から、なにがなんでも屁理屈をこねて自己正当化をはかることだが、すると、普遍的・絶対的判断基準が必要となるにもかかわらず、ダブスタ、二重基準しか持ち出せ得ないことにある。かもめは、自分が卑劣なことなのに他人を卑劣として糾弾する。まともな感覚ではおよそ考えられないことだがかもめは平気でダブスタをやる。これは、普遍的・絶対的な正義(正しいこと)をまるで理解していない、かもめの特異な本質なことではある。

<鴨目>
実に田吾作らしいヨチヨチ歩きの文体が続いているが、上は、その典型的事例のひとつである。これらを称して、田吾の言語をつかさどる脳内状況と作文は、おおよそ小学四年生なみだと申している。

<今井政幸>
真理に年齢は関係ない。あほだらたわけ。 わたすのふんどしでしか相撲をとれないかもめさ。(爆)

<鴨目>
ふーむ、田吾作のふんどしには気がつかなかった。それほど、ふんどしが心地よいものなら、ちょっくら拙者にもレンタルして見ろ。いまや商店街のどこをほっつき歩いても、買うに買えない。売るにもわいせつ罪および軽犯罪法違反容疑が怖くて、保土ヶ谷署の監視下にある。政府は、ふんどしぐらい自由にしめさせろっつーのよね。あせ、あせ。

<今井政幸>
悪業のかもめは、むろん、天の監視下にあるのだ。かもめが何を言い、なにをやってきたかは、すべて、天が見ていることさ。爆なし。

<鴨目>
わたすのすべての言動は、当赤っ恥掲示板上のことなれば、天や神でなくても、田吾でも誰でも見ることができるのだ。田吾もすべて見ているはずだ。その田吾が率先して反論という行為化をせぬままに、なぜに「天」に申し送りしてしまうのかね。「天」にわたすへの反論その他、叙述の責任を押し付けて、自分の責務を放棄せんと計ってくる。まさに、ここに、いつもの田吾作の言動パターンが見えてくるのである。言い逃れこそ、田吾作の思想的柱となっている。こうして田吾は、事の次第を追求されると、いつでも相手に対して暴言を吐きつつ、本題から逃げていってしまう。脳の足りない馬鹿な男である。

<今井政幸>
かもめはアホだな。かもめの内心なんぞ天以外誰が知るのだ。だから言うのだ。天がすべてお見通しだと。かもめが口にすることどもは、すべてウソ。まやかし、誤魔化しにすぎない。嘘こきでまこきかもめはなんとでも弁明する。嘘こき、でまこきのかもめの言ってきたことなど信用出来るわけがない。すかす、かもめは、自分本人にはウソをつけない。自分の本音が何かはかもめだけが知っている。わたすは、優れているから、かもめの本音が何かは容易に想像はつくことだ。すかす、ネットで問い詰めてもかもめは決して本心を言わない。絶対言わない。そんなかもめを誰が相手なんかにするのだ。誰もが、劣等感でウソをこくかもめにうんざりして、匙を投げ、かもめを見捨てていった。かもめなんぞに関わっても時間と労力の無駄。なぜならかもめに真心がないから。かもめの主観的価値観なんぞ誰もかまっていない、つーの。かもめ、わたすがかもめなんぞをかまってあげているのは、わたすが優れた人物だからだよ。爆なし。

<鴨目>
「かもめの内心なんぞ天以外誰が知る」とは、いかにも難儀な話だ。君は拙者の内心が知りたかったのか。それは失礼つかまつった。だが、茨城県出身にして、いまや齢60になっちまっただ拙者の徴は、やはり鳴かず飛ばずの男の人生。こうした男の内心の有様など、知ってみたとて何になる。拙者の内心に似たもの同士は、それこそ全国のゴミ箱というゴミ箱にはいて捨てるほど、ごろごろと転がっているに違いない。田吾も興味があるなら、拾ってきて、じっくりとこねくりまわして、確かめてみたまえ。誰にとっても、内心なんてもんは、ありがたいもんでも、珍しいもんではないのである。つなみに、拙者が興味を持つ内心といえば、ソクラテスのそれか、イエスのそれぐらいなものだろう。こればっかりは、いくらギリシャやイスラエルのゴミ箱をあさってみても、やすやすとは見つかるまい。

<今井政幸>
かもめは往生際が悪いな。かもめの内心、つまり本音は透けてみえる、つーの。わたすから見たら。わたすが見るのは、かもめの虚飾ではなく、本心だからな。

<鴨目>
見えたことがそれほど自慢なら人様にも伝わるように、たまには君の目に見えた、ありのままを描写してみろ。文章に起こしてみろ。小学四年生程度の抜け作男よ。

<今井政幸>
ん?
かもめの劣等感についてはすでに述べておる。
かもめの、人様への激しいいちゃんもつけは、
かもめの無能さに端を発した反発心だ。
かもめに能が少しでもあって、裕福に暮らしていたら、
社会に対する激しい憎悪はこれほどまでになかったことだ。
かもめの無能さが、かもめのビョーキの大元さーな。すっとぼけても無駄。

ん?
かもめはバカか?
わたすがなにを反省するというのだ?
なんでわたすが謝るのだ?
ぼけかす野郎!
ふざけたことを抜かすな!
おたんこなす。
わたすに向かってエラソーな口を叩くな、
糞野郎!
ふざけたアホだな。
かもめ、おまえ、なんの権利があって、反省や謝罪をいうか、馬鹿野郎!
どたま叩きのめされたいのか!
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▼ひとつの読書論

2009年11月14日 | ■今丼政幸君との対話

●(今井政幸)かもめのためと思えばこそ、かもめの教養の手ほどきにわたすは『イデーン』を写真に撮って、それを赤煉瓦掲示板に掲載したのだが、かもめには、わたすの親切、わたすの写真がすべからく、うさんくさく見えるのだろう。劣等感かもめは、自慢するがためにネットをやっていることなのだろう。かもめの勘違いは、書物を理解したものが自慢するとすることにある。教養あふれる人間は自慢はしない。だから、かもめは本質を見抜くことが出来ない。本質がなにかも知らない。その手ほどきにわたすは『イデーン』を写真にとって見せたわけだが、かもめには、わたすの親切、わたすの教養がすべからくうさんくさく見えるのだろう。こんなひがみ根性に二度と親切にしてあげねーよ。爆なし。かもめは、レベルの低い人間どまりさ。



●(かもめ)君の掲載してきた写真はカスだとは思わないのか。本を開いた写真のようだが、そこに何の意味がある。古本の写真など掲示板に載せてきても自慢にはなるまい。だからおまえはアンポンタンだと言われつづけ、会社から首を切られもせず、へらへらと小株取引にうつつをぬかして世渡りしているのだろう。よかったじゃないか。性格上、本などに近づかないほうが身のためかも知れないぞ。無理をするんじゃない。田吾に本を読ませるなど、もってのほかだ。背文字を見ただけでセンチメンタルに感が極まり、そのまま目を閉じ本を閉じ、明日こそ、会社の派遣さんに、わたすがもっとも感動した本であると告げた上、強引に貸し与えようとする。予定通りに恥をかく。先だってなど、読みもしないヘーゲル全集の一冊を派遣さんに貸し与えたところ、次の日から会社中で「ヘーゲル頭の田吾作さん」とうわさが絶えなかった。かようなことを考慮すれば、老い先短い田吾のばやいは、テレビをブルー何とか録画機械に録画して満足していればよいのだ。テレビにあきたら映画館に行ってみればよい。テレビと映画が老骨に鞭打ち、ヨダレたらして願わくば田吾作願望のなにもかもを満たしてくれるはずだ。



●(今井政幸)かもめよ、かもめ。上のものは写真ではない。スキャナーをかけたものだ。これをクリックすれば、大きくなって、文章を読むことができる。文章の内容をかもめが理解できるかどうかわたすはしらん。が、読んでみろ。



●(かもめ)スキャナーをかければ写真ではないのか。だから、おまえはアンポンタンだと言われる。スキャナーもカメラの一種だ。コピー機もカメラだ。わきまえろ。で、その写真については先にも言ったとおり、暇ができたら読んでやらないこともない。わたしより、先に君がよくよく読んでみたらどうなのだ。おまえがおまえ自身のために読む本に、拙者が、いちいち付き合う必要がどこにあるのだ。この馬鹿が。

 

 

 

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▼田吾作によるポピュリズムの検証

2009年08月05日 | ■今丼政幸君との対話
陪審員制度は民主主義の基本だす。裁判にプロ感覚もシロウト感覚もありまへん。あるのは、裁判が正しく行われたかどうかだけだす。心臓手術のように、プロでないとやりこなせない作業はたすかにありまする。んが、プロの裁判官にだけ裁判がやりこなせるという根拠はなんだすか?んなものありまへんがな。シロウトが理解出来ないのは、一般常識とかけ離れた法律の決められ方でやんす。「誹謗」「中傷」「名誉毀損」とかとか、それらの罪がはっきり定められている範囲をシロウトは分かっていまへん。すかす、そゆのは、枝葉末節で、いっとう大事な、相手の尊厳を傷つけることがいかに悪いことであるかという根源のことには誰しも同じような価値観を持っていることでありまする。

ややもすると(というより、プロだからという驕りが)見誤る判定に、シロウトがサジェスチョン出来る(というより介入出来る、介入しなければならない)アドバイスは山ほどありまする。だから、判決をくだす裁判官は、裁判員の意見に耳を貸さなければなりまへん。プロの裁判官が犯す冤罪が許されてる現状のいったいどこが法のもとの平等であり、公平なのかということでやんす。警察、検察、裁判官の犯す過ちにチェックがかけられない現状ってとってもゆゆしきことでんがな。裁判官の下す判決って正当でも正義でもなんでもありまへん。市民参加の裁判って、すべての裁判で行う必要はありまへん。要は、まっとうな裁判の模範となる裁判が一つでも出来たらそれでいいのだす。その事実は、他の、市民が参加しない裁判にも必ず波及しますけに。

肝腎なのは、いっとうまっとうな裁判を一つだけでも実現出来たらええのだす。こ明治以来、これまでのわが国における裁判は、すべてプロが行ってきた。ここに傲慢な誤りがあったのだっただす。その結果、すべての判決が、実は冤罪だったのだっただす。小林多喜二が、どうして官憲の手によって殺されたかをみれば、誰にでも良く分かる話だす。このたび、ランダムに選ばれた裁判に市民が参加するだけならそんなに費用はかかりまへん。つーか、市民が参加しない裁判でまっとうな裁判が出来てるかどうかが問われてるわけよね。政治や司法、財界への、トーシロといわれるアマチュアの参加こそ、わが国を救う最善の方法なのだったのだった。

ほんで、わたす的には、早く、総理大臣は、国民の直接選挙で選びたいなっつーの。直接選挙ならば、かならずただすい総理が選ばれるのだったのだったす。有無を言わせません。これが実現すれば、民主主義の大きな前進になることでしょう。
後は、おいおいと。がははっはのはっひ。

結果がどうなるかは、教養人のいうことではありまへんがな。ほっとけば、ええのだす。教養人は、裁判の正しいあり方はどうあるべきかを述べたらええんだす。正しい裁判のあり方に、市民不参加の裁判はありまへん。実務問題とかをあれこれ議論する無意味な行為に教養人は関わりあう必要はありまへん。考えるべきは、裁判のあり方がどうあるべきか、だけでんがな。いまは実現不可能でも、後世、わたすたちの子孫は間違いなく正しい裁判を実現してくれることでしょう。こうなればレーニンの言うように、税のない、官吏や警察のいない、軍隊も権力もあり得ない、理想郷が実現できるのだったのだっただす。

それが出来るのは、いつかは知らねどそう遠くない社会でまっとうな裁判が実現できればそれでええのだす。いっそ、すべての国民が裁判官になれば、もう、こうなったら、悪は根絶できるに違いあるません。わたすたちが考え、やらねばならないことは、理想的な裁判のあり方とはどうゆうものかを思考すること、わたすが言いたいのは、ただそれだけだす。この崇高な思考を、どんな体制も、どんな権力も邪魔することはできまへんがな。


こうした机上の空論じみた俗論がまかり通っていたのが古代ギリシャであった。哲人ソクラテスは、圧倒的な大衆参加による多数決原理によって、彼の生が、否定されたのである。今日の民主主義も大差はないだろう。言っておくが、馬鹿が何人集まっても、秀逸な結論が導かれるわけがない。ゼロをいくら積み重ねてもゼロはゼロだ。古今東西、政治とは、終始、そういうものなのである。

ふんじゃ、馬鹿に殺されたソクラテスは馬鹿以下つーことだがや。ま、裁判というものが、いかに、無視できない、大事なものだと塚原君が認識出来れば、それだけでも、今回の裁判員制度は大成功だわさ。たとえ裁判員制度が中止となっても、ひとたび動き出した、このたびのバカを集めた民主化の歩みは止まらないっつーの。これで、このところ底値を打っていた、わたすの買った株も、少しは値上がりするのだったのだった。実は、これまで黙っていますたが、わたすの持っている株はローリスクローリターンで、そこそこの配当(予想年間6万円以上)を数年間もらい続けることが主目的なのだが、昨日の評価損益評価額はプラス32,259円。今日で、3万4千円になったか納豆。配当金で、映画館や美術館に行けたらそれでわたすはなんも文句ありまへんです。はい。年に6万円もらえたら、それでクラシックコンサートもいけまっせ。フルちゃんも買えるものなら株を買ってみれっつーのか納豆。

ん?良家のフルちゃんの実家は大株主か納豆。わたすが、小耳にはさんだところによると、フルちゃんのおとちゃんが持っている株の時価総額は億単位だったか納豆?知らぬは家出してきた放蕩息子ばかりなり。やっぱフルちゃんは、おとちゃんのもとに帰るべきよね。すでにフルちゃんも40代もなかば。いつまでも、そんな調子だから青二才の童貞おっさんなどと、界隈のばあさん連中からバカにされてしまうのだった。無知よね。馬鹿たれよね。頭が高いっつーの。もっと謙虚になって、界隈のばあさん連中と付き合わねば納豆。おとちゃんのもとに帰る前に、わたすが10年前に貸し与えておきますた、10万円を返してもらう弁当。がははははは。さって寝よ。
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▼人間は考える葦である

2007年07月11日 | ■今丼政幸君との対話


パスカル(1623~1662 享年39 フランス)

 

今井政幸君が禅問答のようなことを言っている。そこでパスカルの事例を引いて考察してみよう。

さて、今井君は次のように書いている。

>いまは、夜だろ。
>これは事実だろ。
>事実は紙に書いても事実のままだろ。
>仮に、わたすの知らない御仁が紙に、「今は夜。」と書いたとする。
>さて、この紙を、明日になって、わたすが目覚めて、開いて読んだらどうだろう?
>紙に書いてある、今は夜、という事実はどこにもない。窓を開ければ朝だったのだ。
>では、夜という事実はいったいどこにいってしまったのだ?

「今は夜」という言辞は、かならずしも今井君に血肉化された「事実」ではない。今は夜と確認し、それを文章に書き付けておいた筆者に肉体化された「事実」なのである。筆者の心には、永遠に「今は夜」は事実であるに相違ない。そこを確信することが可能かどうか、そこに評者の資格が芽生えるのである。筆者とは、そもそも無関係の今井君に、筆者が書いた「今は夜」という言辞にこめられた内実が読めるはずはないのである。読もうとさえしていないではないか。

>事実はいったいどこにいってしまったのだ?

そもそも最初から、メモを残した筆者以外の御仁には「事実」なんてなかったのだ。メモに対して悪意をもってしか望めない今井君に、言辞の裏にある筆者の気持ち、すなわち筆者の事実を読み取れるはずはない。それより、なぜ、筆者にかかわる事実を、無関係の今井君が気にするのかね?

筆者と今井君の関係性こそ、今井君自身で吟味すべきなのである。他人の心を邪推するのが今井君の常套手段であるとは天下周知の漫談だが、それでは筆者の残した紙片から、その深い意味は、今井君には永遠に読み取れまい。どこまで行っても「事実」とは個人のものだ。個人の「心映え」のありようだ。今井君にとって「今は」昼であろうと夜であろうと、他者の認識は関係ない。自分で昼だと思ったら、堂々と、昼だと書き記しておけばよい。筆者の書き付けた文は、筆者の「事実」である。たとえ、今が昼であったとしても、筆者は「今は夜」だと書き付けてしまったのだ。なにゆえに、そう書き付けたのかは、好意をもって推し量る以外に方法はない。筆者には、夜だと見えたのかもしれない。または、ある必要があって昼を夜だと言い換えたのかもしれない。そこには必ず必然性がある。心の中で逆説を叫ばずにおられなかった筆者の苦悩が潜んでいるのかも知れない。

筆者の心、すなわち筆者の事実に関係を持とうしない今井君には、これが読めないだけだ。または見落としているだけだ。幸い筆者は日本語で、それを書き付けた。「今は夜」と記された日本語による記号が書き残された。仮にアラビア語で書かれていたとしたら、今井君は筆者の書き付けた意味を読めたであろうか。意味が読めなかった場合、おそらく今井君は、たんなる落書きだと断定し、そのメモを紙くずなりに即座に捨ててしまったに違いない。この場合、問題にもなりようがない。

言葉とは綱渡りをしているような同調性というものが前提となって、二人の人間の間を行ったり来たり交通している。意味という存在は、有るか無しかだ。空気のようなものである。有ると思えば、それがなくては生きてはいけないほどの価値がわいてくる。意味など有ろうとなかろうと知ったことではないと思えば、それは紙クズだ。即座に捨てられ忘れられてしまう。拾われるのも、捨てられるのも、人の心である。メモ一枚にも、そこに記されているのは、人の心であることに違いはない。

パスカルの『パンセ』は、パスカルの死後、弟を理解していた実姉が、断片を整理して一冊にしたものである。原稿といえるようなものはなかった。生前のパスカルが部屋のあちこちに書き記しては散らかしておいた紙っぺらを拾い集めたものである。それらの断片はベッドの下にもあり、暖炉の上にもあり、パスカルが着古したコートのポケットにもあった。もちろん「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」という書き付けも、そうした断片の一つなのである。パスカルを愛する実姉が、仮に異常な掃除好きか、あるいは、パスカルの魂が目に入らず見逃していたら、『パンセ』は生まれなかった。この姉に「編者」としての意思と行動がなかったら、弟パスカルの存在は歴史から忘れられていたに違いない。

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